RESEARCH
始まりは巨大噴火
変転する大地が生み出す新しい文化
気候の温暖化とともに始まり一万年以上続いた縄文時代の成熟期に東北から北海道南部に栄えた二つの文化があり、その一つ円筒土器文化はある時突然出現した。生態系分析から巨大噴火がその発端とわかった。考古学と花粉分析の組合せから生態系と文化の関係を明らかにしていく。
1.人類の活動も含む生態系の全体像を
人類が活動を始めた時代に特徴的なこととして、10万年周期での氷期・間氷期の繰り返しがある。少なくともこの80万年間に地球規模でこれが8回繰り返されたことが知られている(図1)。そのうち直近の氷期から現在を含む後氷期(間氷期)にかけて起きた急激な気候の温暖化は、人類が地球全域に展開する契機になった。人間の活動は、当然のことながらこの気候の温暖化、それに伴う生態系の変化の影響を受ける。日本ではこれが約1万5千年前頃始まる縄文文化の形成にかかわったと考えられている。
生態系全体の変化と人類の活動との関わりを描き出すには、考古学と自然科学との総合が不可欠と考えて、新しい学問のかたちを模索しているのだが、最近その成果として引き出せた一つの実例が三内丸山遺跡である。
(図1)
上:いくつかの大西洋のコアの測定結果をつなぎ合わせてつくった標準的な古氷河量曲線。
10万年周期の鋸歯状の変動がよくみえる。Emiliani (1978) による。
下:氷期・間氷期変動を通じての植生と環境のサイクル・モデル(辻、1993)
(『火山灰考古学』古今書院)
2.三内丸山の生活文化の移り変わり
青森平野の南西部に位置する三内丸山遺跡は、約1万年以上続いた縄文時代の中でも成熟期とされる前期の中頃から中期の終り、つまり約5,900年前から約4,000年前までの1,900年という長期にわたって営まれた大規模集落である。ここの発掘調査で出土した土器の量は、なんと青森県内で過去20年間にわたって蓄積されてきた量に匹敵する。しかも、ふつう一つの遺跡から出土する土器型式は、多くても2, 3型式であるのに、ここでは円筒土器とそれに連なるすべての土器型式が10型式以上出土した。ここが長期間存続した拠点集落であったことがわかる。
写真提供:青森県史編纂室
三内丸山遺跡から出土した10型式以上の円筒土器。円筒の形に作られた土器型式に代表される文化を「円筒土器文化」と呼ぶ。
実は、この地域には点在する遺跡が多くあり、すでにそれごとに整理され蓄積されてきた考古学的知見があった(図2)。三内丸山で得た厖大な情報をそれらと総合することによって、歴史のつながりと文化の広がりを捉える手掛かりを得ることができたのである。
発掘された土器型式から歴史を辿ると、この集落は、まず縄文時代前期中頃の円筒下層式土器に始まり、中期の円筒上層式土器まで、10土器型式が途切れることなく続いている。つまり、「円筒土器文化」がこの集落の前半期を支えているのである。その後、榎林(えのきばやし)式、最花(さいばな)式へと引き継がれたあと、大木(だいぎ)10式という土器型式で終焉を迎えたことがわかる。
(図2)
円筒下層式土器が出土した遺跡の分布。( ● )
遺跡内には、そこでの暮らしを伝える魚骨や木炭などの生活廃棄物が堆積していたので、ブドウの種子1粒ほどの微量の炭素化合物から高精度年代測定のできる加速器質量分析(AMS)法 (註1)を駆使して、集落(ムラ)の始まりから終焉まで、すべての土器型式に細かな年代を与えることができた。10年以上かけての調査・分析から得た年代が、先にあげた約5,900年前(3,950 B.C.)から約4,000年前(2,050 B.C.)までとなったわけである(図3)。
(図3) 三内丸山集落の文化の変遷
円筒土器文化が終り、大木式土器への変化の兆しがみられるのは約5,000年前(3,050 B.C.)で、集落1,900年の歴史は、円筒土器文化の前半期と、大木式土器文化の影響を強く受けた後半期とに分けられ、この二つはほぼ同じ長さの時間になる。これまで三内丸山遺跡の象徴とされてきた巨木6本柱の大型建物やその後のストーンサークルの原型とされる環状配石などの遺構は、実は、大木式土器文化の影響を受けた後半期に属するものである。そして最後の円筒上層式土器に続いて大木式へとつながる、榎林式、最花式の両土器型式は、円筒土器文化圏の南側にあたる東北地方中南部に展開した広大な大木式土器の影響を強く受けたものである。すなわち後半期の三内丸山集落は、南方からの影響を強く受けて文化が急速に変質していったと考えられるのである。
(註1) 加速器質量分析(AMS)法 Accelerator Mass Spectrometry
放射性炭素年代測定法の一つ。生物や炭素化合物中に含まれる質量数の大きい 放射性炭素(14C)が一定の時間(半減期5,568年)をかけて窒素に変わるという放射壊変の法則を利用した測定法。放出する放射能を測定する間接法に対して、放射性炭素自体を直接検出して計数するAMS法は、直接法とも呼ばれる。
3.円筒土器文化と人為生態系の関わり
土器型式や施設遺構などの考古学的な研究に、高精度年代測定を組み合わせて詳細な年代を解明したことはすでに述べたが、これに加えて廃棄物中に保存されていた動物・植物遺体群の分類から、花粉分析などによる自然科学的な周囲の生態系の調査を進めた。このようにさまざまな角度から光をあてることで、三内丸山の集落での生活文化と周辺域の生態系の移り変わりが浮かび上がり、そこから円筒土器文化の中での変質や周辺文化との関わりが読み解けるようになったのである。
さらに三内丸山での集落の歴史と文化を復元する作業の過程で新しい事実が浮かび上がり、これまでの考えを改めざるを得ない特筆すべきことが出てきた。それは、考古学で対象とする居住域や、墓域、盛土域などの遺構がまったく見られない空間が、円筒土器文化の頃に、クリ林の育成に利用されていたことである。地層内に残された花粉の分析から、そこには、広大な空き地ではなく、人々が手間ひま掛けて作り上げた生産と収穫の場が、長期にわたり維持されていた様子が見えてきた。私はこのような空間を<人為生態系>と呼び、私たちがどのように自然と関わり続けたかを読み解く非常に重要な切り口になると考え、注目している(図4)。
(図4) 円筒土器文化と人為生態系の関わり
三内丸山集落の暮らしについて、さらに花粉が語るところによれば、後半期の大木式土器文化圏の影響が色濃くなるに従い、円筒土器文化の人々が主な生活資源としていたクリやクルミにかわって、トチノキが主な生活資源とされるようになっている。クリやクルミは温暖な気候に適するのに対し、トチノキは冷涼な気候でも育成することから、この間に気候が冷涼化したことがわかる。さらに興味深いことに、これまで不可解とされてきた円筒土器文化の突然の出現が、どうやら東北地方のカルデラ火山である十和田火山の巨大噴火に端を発していることも見えてきたのである。
4.巨大噴火がひき起こした円筒土器文化
ここで扱っているような数万年から数百年という時間解像度で歴史を捉える場合、そのような周期で地球表層部で突発的に起こる<巨大噴火>は分析のためのよい切り口となる。噴火を実験することはできないが、実際に自然界で起きた噴火を巧みに捉えることで、人間の社会も含む生態系にどのような影響を与えたかの全体像を描き出すことができる。
三内丸山からの大量の土器発掘で明らかになった円筒土器文化は、縄文前期の中頃、突然現れ、東北地方北部から北海道南西部に広がった。津軽海峡による分断もものともしない広がりである。円筒土器に先行してその地域に存在したのは、表館(おもてだて)式や早稲田6類、大木1式など、それぞれ互いに関連性をもちながらもまとまりのない土器群であり、どれも円筒土器へ直結するような形跡は認められていない。円筒土器の不可解な出現は、長い間問題にされずにきたが、三内丸山遺跡の発見も一つのきっかけとなり、円筒土器と大木式土器が並存する岩手県を中心に、これまでに集積された考古学の資料が見直された。その結果、最初の円筒土器である円筒下層a式土器が大木2a式土器の直後に現れること、二つの土器型式の間に十和田火山の巨大噴火による火山灰(十和田中せりテフラ)が挟まっていることが確かめられた(図5)。
(図5) 巨大噴火の火山灰と土器文化の変遷
この火山灰はプリニー式 (註2)と呼ばれる噴火様式によって放出されたもので、この時の噴火は、東北地方北部の森林を壊滅させる規模のものであったことがわかっている。
三内丸山の東側の青森平野南西部にある大矢沢野田遺跡でも、この火山灰の直上に円筒下層式土器が現れ、続いて地層内のクリ花粉の割合が増加するという三内丸山と同じ傾向が読み取れる。火山灰が確認できない岩手県南部以南では大木式土器が連綿と続き、円筒土器への変化は見られない。これらの事実は何を意味するのか。北部の各地域に固有であったいくつかの小さな文化は、十和田火山の巨大噴火後に円筒土器文化として統一され、噴火の影響を受けなかった南部では変化が見られなかったと考えるほかないだろう。この噴火はもちろん自然生態系にも影響を与えている。八甲田山中の自然林である田代平の地層を同じ火山灰を手掛かりに読むと、被災したブナ林で一時的にナラ類が増加した後、500年以上をかけてブナ林へと回復していく様子がわかる(図6)。
(図6) 十和田カルデラ周辺の三点の植生の変遷
噴火によって広域におよんだ山林火災が、周囲の生態系を壊滅状態に追いやり人間社会に甚大な影響を与えたことは間違いない。一次生産者である植物に依存する動物社会にとってもその存続を脅かす大事件だったろう。いわば東北北部の広大な地域の生態系の構成員であるさまざまな生物の様相が災害で変化し、それが人間の暮らしに影響を与えていく状況が読み取れる興味深い事例である。北海道についてはここまで噴火の影響があったのか、文化が統一され力を持ったためにそこまで広がって行ったのか。ここにも面白い課題がある。
(註2) プリニー式噴火 plinian eruption
西暦79年、古代ローマの都市ポンペイを埋没したヴェスヴィオ火山の噴火様式。この噴火を観察・記録したプリニウスに因みプリニー式と呼ばれる。成層圏に達する噴煙柱が崩壊すると火山灰や軽石などからなる火砕流が発生し、広域に被害を及ぼす。
5.非日常が生態系の変化を促進する
三内丸山の例で述べたように、噴火は、自然の変化、自然と人間との関係など過去の暮らしを探る自然界の実験である。そこで私は、日本列島で人類の居住が確認されているおよそ3万年前、後期旧石器時代以降の噴火に注目してきた。なかでも突出しているのが九州地方の二つの巨大噴火である。その一つ、約2万8千年前の地層に見られる姶良(あいら)Tn火山灰は、氷期の気候に起きた寒冷化に伴い植生が広葉樹林から針葉樹林へと変化しつつある時期に起きたものであり、日本列島全域に火山灰を降らせ、九州南部をシラス台地と化した。噴火後は、針葉樹林化が一気に進んだことがわかる。 もう一つが、縄文前期の温暖な時期にあたる約7千5百年前、九州から関東地方にかけて照葉樹林が次第に拡大しつつあった時期に噴火した鬼界(きかい)アカホヤ火山灰である。この巨大噴火は、衰退しつつあった落葉広葉樹林を消滅させ、カシ林など照葉樹林を一気に拡大させた。二つの巨大噴火は、寒冷な時期と温暖な時期という対称的な傾向の中で発生し、共に変化を促進するきっかけになったのである。私は、このような事実から、「巨大噴火が、生態系の平衡状態をかく乱し、長期的変動において衰退しつつあるものや増大しつつあるものの変化の方向性をいっそう促進する役割を果たしている。」という仮説を立てた。衰えつつあるものにとってはかく乱は致命的であり、それが増大しつつあるものをより有利にするのだろうと思うのである。
一瞬にして広域を襲う巨大噴火は、ゆっくりと変動する生態系の観測では捉えられない非日常的な現象を引き出す大変に有効な切り口になる。時にそれが生態系の一員である人類が、生態系に内在する未知の生存戦略を見つけ出すきっかけとなるということも見えてきており、ここから、人間も含む自然界のすべてが関わり合って作っていく総合的な歴史を読みとって行けるだろうと思っている。
辻 誠一郎(つじ・せいいちろう)
1952年滋賀県生まれ。日本大学文理学部卒業。理学博士。大阪市立大学理学部講師、国立歴史民俗博物館助教授・教授を経て現在、東京大学大学院新領域創成科学研究科教授。国立歴史民俗博物館客員教授。