RESEARCH
ニッチ
- 時を越える細胞の“ゆりかご”
私たちの体の組織は、さまざまな周期で新陳代謝する細胞集団が連携して一つの時間を紡ぎ出す。さらにその組織は束ねられ、個体の時間をつくり出していく。このしなやかさの源は、私たちの体の中で、いろいろな細胞に分化する能力を保ちながら自己複製を繰り返す幹細胞にある。そして時を越え、この幹細胞を保ち続けるしくみをニッチ(註1)と呼ぶ。ニッチについては、今もそれがどんな細胞からなるかすらわかっていない。我々はマウスの毛根組織をモデルに、この幹細胞ニッチのしくみを明らかにしようとしている。
(註1) ニッチ(niche)
生態的地位。
C.Darwin(1859)が「自然の経済における位置」と呼んだものをさらに具体化した概念で、J.Grinnel(1917)や、C.S.Elton(1927)らがそれぞれ提唱したのが始まり。生物的環境、食物や競争者などの関係により、種(または亜種)に特有の生息場所が成立したとき、その最も小さな分布単位をいう。ここでは、ある細胞集団(または細胞)の成立を支える時間的、空間的に限られた領域を意味する。
新陳代謝を行う幹細胞システム
都市を生命現象になぞらえて構想することは古くから行われていたと思うが、磯崎新(註2)の近著によると1960年代「メタボリズム」(註3)グループは、器官(機能)や形態(静的構造)に手がかりを求めた前の世代に対して、細胞の動き(動的構造)に視点を移した社会の姿を提案したとのことだ。たとえば動物の脊椎になぞらえた長期に存続する巨大機構としての基本部分が、取り替え可能で大量生産される住居ユニットのような新陳代謝する短期更新システムに乗った構造を提案したという。建築家とは建築物の永続性に価値を置くとの先入観を持っていた私にとって、建築物自体の新陳代謝を最初から組み込んだこの提案は新鮮だった。よく考えてみると、実際は建築物にとどまらず、都市ですら新陳代謝している。もちろん何の制約もなく新陳代謝が行われれば都市はカオスへ進むだろうが、実際には道路などの基幹構造に従いつつ、建築物が新陳代謝するのを私たちは知っており、景観保存法のようなさらに強い構造制約が課せられると、新陳代謝が進んでも都市形態は維持される。
もう一つの驚きは、私たちの身体で言えば細胞に対応するユニットを、大量生産可能なものとして構想している事で、建築家の構想が、我々が研究している幹細胞システムの構築に極めて近いことである。多分この構想は、どのようにすれば都市は風化することなくダイナミックな生命を継続できるかと言う問いに対する回答であろう。残念ながらこれを現実化した例はないわけだが、幹細胞システムの研究も全く同じ問いを共有しており、しかもこちらはまさにメタボリズムを実現している。それが生きものの面白さだ。生命の根底には、物質とエネルギーの不断の代謝が存在しており、その意味で今日の身体は、昨日の身体と全く異なっているといってよい。しかしこれはあくまでも物質レベルの話で、では細胞の新陳代謝は多細胞生物にとって必要かと問われると、約1,000個の細胞からなる線虫についての研究は、細胞の新陳代謝がなくても多細胞生物が一定の期間であれば成立できることを示している。しかし、物質の新陳代謝が維持できても、残酷な時間作用としての個体の風化は進む。これに対する抵抗の一つが、細胞レベルでの新陳代謝、すなわち幹細胞システムである。
(註2)磯崎新(いそざき・あらた)
建築家。1931年大分市生まれ。1954年東京大学工学部建築学科卒業。1963年磯崎新アトリエを設立。国内(大分、京都、奈良、秋吉台など)、海外(バルセロナ、ラ・コルーニャ、ベルリンなど)の多くの建築を手掛ける。独自の建築哲学に基づいた活動は思想、美術、映画などさまざまな領域にわたる。
(註3) メタボリズム(Metabolism)
黒川紀章、粟津潔らの創設メンバーにより1960年代に展開された建築運動。「新陳代謝」を意味する。「建築や都市は閉じた機械であってはならず、新陳代謝を通じて成長する有機体であらねばならない」という理念に基づく「塔上都市」「海上都市」「新宿ターミナル再開発計画」などのプロジェクトを提唱した。日本最初の国際的建築運動として近年、再評価されている。
幹細胞システムを支えるニッチ
幹細胞システムは新陳代謝する細胞集団と、それを周りから支える細胞集団とから構成されている。これまでの研究で、ほぼ全ての幹細胞システムで、新陳代謝する側の細胞集団は、ゆっくりしか分裂しない段階(SC)、活発に分裂し細胞を生産する段階(TA)、そして分化しながら分裂能を失っていく段階(DC)の3つに分けられることがわかっている(図「幹細胞システムの3つの段階」)。
図「幹細胞システムの3つの段階」
体の中で増殖している細胞を見つけ出す技術や、試験管内で分裂能力を調べる技術を用いてこの3段階が明らかにされてきた。こうした技術により、試験管内で細胞を生産する道が開かれたので、それを用いた細胞治療、つまり再生治療に熱い視線が向けられているのが現状だ。ところで、ここではこの注目を集めている側の細胞ではなく、さきほどあげた3つの段階を周りから支える側の細胞集団に注目したいのだ。実はこちらの細胞も、相手の細胞がどの段階にあるかによって、それぞれ異なる構成をとっていると思われる。なかでも、ゆっくり分裂するSC段階を保持する細胞集団(幹細胞ニッチと呼ぶ)が取り分けて他と区別されておりここに注目したい。生体内で、ほとんど分裂しない静止期にある幹細胞を維持するニッチについては、それがどんな細胞から構成されているかすらわかっていない。私たちは、マウスの毛根組織をモデルに、この幹細胞ニッチのしくみを明らかにしようとしている。骨髄や小腸など、幹細胞システムの存在が知られている他の生体組織に比べて、毛根組織は非常に小さく、ニッチ部分となるとさらに少ないので、これを使うとニッチの本態を解明できると考えたのだ。
色素幹細胞システムが浮きぼりにする毛根組織
毛は一定の周期で生え代わり、この動きを支える毛根組織は2つの幹細胞システムがダイナミックに連動することで成り立っている。毛根をつくる上皮幹細胞システムと、毛根に色素を供給する色素幹細胞システムだ。毛根組織は、上部の恒常部と、下部の代謝部の2つに大きく分けられる(図「毛根の周期と色素細胞の回復の過程」)。毛が生え代わる時には、下部の代謝部が一旦失われ、恒常部から新しい毛根が発生する。毛根の上皮幹細胞は恒常部の下端にあるバルジ領域と呼ばれる場所に存在し、通常はほとんど分裂しないが、新しい毛を作るときには活性化する。活性化した細胞の増殖と分化は恒常部下端から新しい代謝部を形成していく基質部と呼ばれる場所で進む。
図「毛根の周期と色素細胞の回復の過程」
一方、毛に色素を供給する色素幹細胞システムは、この毛根組織の新陳代謝にきちんと連動している。私たちは、毛根内の色素細胞のみを染め出すという方法で、色素幹細胞システムを詳しく追跡した。成長期を通して、色素細胞はバルジ領域と基質部の2ヶ所で観察され、基質部の色素細胞はさかんに分裂している。これは最初に紹介した3段階の2つ目TA(活発に分裂し細胞を生産する段階)にあたる。もう一方のバルジ領域にある細胞は、最初の段階SC(ゆっくりしか分裂しない段階)にあり、これが幹細胞と考えられる。その数はとても少なく、一本の毛根あたり1~数個しかない。この事実から、幹細胞を支える細胞集団をニッチと呼ぶのは理にかなっていると実感した。ニッチは、建造物に彫像等を飾るために設けられた数少ない窪みを指しており、幹細胞を静かに支える少数の細胞というイメージとよく合致している。我々が調べた毛根は小さな組織だが、血液システムのように日々大量の細胞を生産する組織でも、幹細胞を保持するニッチの数はそれほど多くないのではないだろうか。
私たちの観察では、毛が生え代わる時の代謝部の消失と共に基質部の色素細胞は一旦すべて失われ、次の毛根が再生する時、この幹細胞から新しい色素細胞が生まれてくる(写真「恒常部下端で分裂する色素細胞」)ことがわかった。面白いことに、分裂を始めた色素細胞は基質部とともに下方へと移動していく。これは毛根組織の成長につれて、増殖因子を出している細胞が降下するためであり、この時基質部とともに移動せず取り残された色素細胞は増殖しなくなる。そして最終的には、ニッチが備わったバルジ領域にほんの少しだけの色素細胞が残るのである(上図)。この観察結果から、ニッチは、増殖因子の存在しない場所で細胞を維持するためのしくみといえる。増殖、分化しながら今はたらくための組織を形づくっていく細胞に対して、次の周期のために、元になる細胞、つまり幹細胞をしっかりと保存しておくのが幹細胞ニッチの役割といえよう。
幹細胞は、ニッチによって幹細胞たらしめられると言ってよかろう。実験の詳細は省くが、ニッチを外れた色素細胞が、幹細胞がなくなった隣の毛根へ移動できる状況をつくると、一旦、活性化された細胞(TA)でも、再びニッチの座に収まることでSCの特質を獲得することが確認できた。この実験からも、一見何も活動しておらずただの支えのように見えるニッチこそが、細胞の状態を能動的に決める存在なのだとわかる。
写真「恒常部下端で分裂する色素細胞」
しなやかさの分子機構の解明に向けて
様々な原因で、若いのに白髪になった後、また黒髪が戻ったという話をよく聞くが、これは大量生産する工場つまり、次々増殖し、分化していく方の細胞が壊れても、ニッチに幹細胞が保存される限り再び細胞を大量生産できることを示している。一方、老化に伴う白髪では、このニッチで保存される色素細胞が失われるので元には戻らないのだろう。もちろん幹細胞にも寿命があり、その結果が白髪であると考えるのが普通だろうが、幹細胞を保持するニッチが失われた結果、幹細胞が維持できなくなったと考えることもできる。これを区別するには、まずニッチの作用を分子の働きとして認識する必要がある。それがわかれば、白髪の原因が幹細胞自体の寿命によるのか、ニッチが失われることによるのかを知ることができるだろう。
これまで見てきたように、異なる時間の流れに乗ったいくつかの細胞集団が、相互に作用し合い、一つの時間を紡ぎだすものが組織と呼ばれるものなのだ。このしなやかな形を支える大切なしくみの一つであるニッチの分子機構を明らかにするため、1個の細胞から採取したDNAを増幅したライブラリー(Single Cell PCR Library)を 構築する準備を整えたところだ。次の機会には、時間に乗ってしなやかに、ダイナミックに動いている細胞の顔を見せてくれると思う。
西川伸一(にしかわ・しんいち)
1948年滋賀県生まれ。1973年京都大学医学部卒業。Alexander von Humboldt財団奨学生としてドイツ連邦共和国ケルン大学遺伝学研究所に留学。帰国後は、京都大学結核胸部疾患研究所助教授、熊本大学医学部教授、京都大学医学部分子遺伝学教授を歴任。現在、理化学研究所発生・再生科学総合研究センター副センター長と同研究所幹細胞研究グループ・ディレクターを兼任。