BRH Scope
生物はどこまでわかったか?
20世紀後半,飛躍的な発展を遂げた生物学。
ゲノムプロジェクトをはじめ,大量の情報が驚くべき速さで蓄積しています。
その勢いで,生物はすべて理解できてしまうのでしょうか。「21世紀は生命科学の時代」と盛んに言われますが,その中味はいったいどんなもの?
現代の生物学は,いわゆる分子レベルのメカニズムを調べることで大きな成功をおさめてきました。DNAの働きから人間の行動まで,およそ思いつくすべての生命現象について,そこで働く遺伝子やタンパク質がいくつも見つかっています。
生物のもつゲノムの全塩基配列を解読しようというゲノムプロジェクトも,予想以上のスピードで進んでいます1)。これまでに数十種類の微生物と,線虫やショウジョウバエといった動物のゲノムの配列が解読され,ヒトゲノムについてもまもなく終了するという状況です。
いったい,これからの生物学はどうなるのでしょうか。「21世紀は生命科学の時代だ」といった派手なキャッチフレーズを新聞・雑誌などで盛んに目にするのですが,その実態はどんなものなのでしょう。
おそらく,多くの読者がマスメディアを通して目にしているのは,医療技術や薬の開発,農産物の改良などの,いわゆる応用技術としての生命科学の発展でしょう。急速に実用化されるようになった新しい技術は,我々が上手に使う限り,環境,医療,福祉といった,人類が抱える諸問題に立ち向かうのに,大きな力を発揮することは間違いありません。その意味で,「21世紀は,生命科学を基礎にした技術が社会に根付く時代になる」と,多くの人が期待しているわけです。
生きたままの細胞の中を見る
細胞の中の生体分子を見るためには,これまでは細胞を固定する必要があったが,観察技術の進歩により,生きたまま見ることができるようになってきた。鍵となったのは,ごく弱い光でも撮影できる顕微鏡と画像処理の技術の進歩,および生体分子を染める新しい技術の開発などである。
写真は,分裂中の培養細胞で染色体(青)とその中のセントロメア(赤),紡錘体を作る微小管(緑)を同時に見たもの。生きた細胞を観察するためのコンピュータ制御の顕微鏡システムをいち早く開発した郵政省通信総合研究所の原口徳子・平岡泰らによるもの。一番上を観察開始0分とすると,以下5分,10分,15分,20分後の画像。
さて,その一方で,基礎科学としての生命科学,つまり「生物の理解」のほうはどうでしょうか。さまざまな研究の話を聞いていると,じつにたくさんのことが明らかになったように思えます。「ヒトゲノムの全配列がわかると人間についてすべてがわかる」などといった極端な論調も見られます。
これに対し,「本当に重要な問題が解けるまでには,もうしばらく時間がかかるのではないか」「今は予想できないブレイクスルー(飛躍的な大発見)が,いくつも必要なのではないか」という考え方もあります。そしてそれが,今の私がもっている見方なのです。
生物は,「分子―細胞―器官―個体―生態系」という異なるレベルのシステムが入れ子になってできています(図参照。単細胞生物の場合には「細胞=個体」ですが,その場合にも「分子―細胞―生態系」というレベルの違いは存在します)。20世紀後半,爆発的に発展した生物研究は,それぞれのレベル,とくに分子レベルの知識を深めるのには,大いに力を発揮しました。ところが,異なるレベルの間をつなぐ論理はまだよくわかっていない。それが現在の生物学の現状だと思います。
たとえば,生物の体や細胞がどのような分子でできているかについては,かなり詳しい情報が得られています。極端な例はゲノムプロジェクト。特定の生物がもつ遺伝子の構造をすべて明らかにしようというもので,そこから,その生物がもつタンパク質についても,ほとんどが明らかになります。ところが,そうした研究は,それだけでは「分子のカタログ作り」に近いものです。遺伝子やタンパク質などの「生体分子」が,どのようにして「細胞」を作り上げているのか。全貌はとてもわかったとは言えない状態です。
もちろん,個々の現象,たとえば細胞の接着や分裂・増殖などについては多くの研究が行なわれており,カタログ作りを超えてより深い理解が進んでいます。しかし,一個の細胞は,それだけで「生きている」と呼べる複雑な存在。一つの「生命システム」としての細胞が,全体としてどのような論理でできているのか。エネルギーの生産,物質の合成・分解,細胞の接着・分裂・分化などの多様な活動をどう統合しているのか。そしてそれは,人間が作る機械とどう違うのか。こうした問いにすぐに答えを出すには,細胞はあまりにも複雑すぎるように思えます。
個体の形成(体づくり),免疫機構,神経の働きなど,主に器官や個体という細胞よりも上位のレベルの現象についても,基本的には同じことが起こっています。たとえば,最近,アメリカの研究者たちによって記憶のメカニズムに関与する遺伝子が発見され,その遺伝子からできるタンパク質をネズミの脳でたくさん作られるようにすると記憶力が良くなったという報告がありました2)。この例に限らず,記憶や行動,視覚の機能といった脳の諸活動に関与する遺伝子やタンパク質は,多数見つかっています。
多細胞というシステム
1個の細胞でさえ複雑な存在なのだから,それが集まってできた多細胞のシステムは,非常に複雑だ。マウスの2細胞期(左上),4細胞期(右上),桑実胚(左下),8.5日胚(右下。脳や脊髄,内臓などができ始めている)の走査顕微鏡写真。2細胞や4細胞の頃は単純に見えるが,やがて複雑な動物の体ができていく。(撮影=三菱化学生命科学研究所・近藤俊三)
しかしながら,あえて単純化して言い切るなら,これらはすべて分子レベルの情報です。それが,動物や人間の個体レベルの記憶や知能とどうつながるかは,とてもわかっているとは言えない。いったいどのような研究を進めれば,「記憶とは何か」「知能とは何か」という本質的な理解に到達することができるのか。まだ誰にも見えていないのではないか。少なくとも私にはそう思えます。
ところで,ここで一つ指摘しておきたいのは,そうした本質的な理解が得られない今の段階でも,ネズミで遺伝子の働きを変化させ,行動のパターンを変えることはできたということです。つまり,生物学的な全体像の理解はなくても,分子レベルの情報を利用して,病気を治したり,薬を作ったりといった応用技術を発展させることはできる。それが現在のバイオテクノロジーの現状です。けれども,技術を本当に上手に使っていくためには,「生物の理解」がもっと進むことが必要なのではないでしょうか。
生物のシステムがもつ階層性
生物は分子から生態系まで,いくつもの階層が入れ子になった複雑な存在だ。
そのためには,何をすればよいでしょうか。それについては,やはり,「現時点ではわからない」と言わざるを得ません。細胞にしても,記憶や行動にしても,今は予想できない新しい発見,つまりブレイクスルーが,一つ,あるいは複数生まれ,ようやく生命のシステムの全体像が見えてくるのだと思います。もちろん,本誌14~15ページの冨田勝氏の研究は,そうした新しい方向を開拓しようという一つの試みです。また,細胞の研究分野では,生きたままの状態で個々の分子を観察しようという研究が盛んになってきており,まるごとの細胞,システムとしての細胞を理解しようという流れは,次第に大きなものになってきています。そうした新しい研究の中から,いつ,どのようにブレイクスルーが生まれてくるか。21世紀の生物学からは,ますます目が離せないのです。
参考文献
1) 季刊『生命誌』通巻21号(1998)18-21ページ「ゲノム研究の今を探る」
2) Y-P Tang et al., “Genetic enhancement of learning and memory in mice” Nature, 401:63-69(1999)
(かとう・かずと/本誌)
※所属などはすべて季刊「生命誌」掲載当時の情報です。