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身体をとりもどす
思想も文学も身体から発生したと考え,ダンスを切り口に生や死,人間や社会を考える三浦雅士さん。科学が方法として切り離した精神と身体を,歴史と関係の中でもう一度一緒に見ようとする中村副館長,実感のある未来を語ります。
舞踊の根源
中村
『ユリイカ』や『現代思想』の編集長だった三浦さんが,ダンスにのめり込み,雑誌まで出している。その転換のきっかけは何だったのですか?現代の捉え方や,生命誌とも関わるのではないかと思っているのですが。
三浦
1980年代の半ば,2年ほどニューヨークに滞在したとき,オペラや演劇をよく観たんですが,ダンスが一番刺激的だったんですよ。ダンスは婦女子のお稽古事か発表会くらいにしか思われていませんでしたでしょう。
中村
私もクリスマスに子どもと「くるみ割り」を観に行くという程度でした。楽しいですけど。
三浦
当時はダンスの中心がニューヨークからヨーロッパに移る直前で,アメリカでのダンスが最後の輝きを放っていた時期なんです。だから感動するのは当然と言えば当然なんですけれども。でも,何より考えさせられたのは,ダンスというのは思想的な問題でもあるんだということでした。
中村
身体による表現というところに意味があると。
三浦
ええ。ダンスの根源に改めて気づかされた。ダンスは婦女子のものじゃないんです。たとえばウォー・ダンス(戦闘舞踊)がそうですが,むしろ男性のものだった。日本でも,お能にはその要素があった。織田信長が桶狭間の戦の前に舞うでしょう。
中村
戦闘の前の元気づけだけでなく,生と死,人生五十年を考えるわけですね。
三浦
生きているということは,いずれ死ぬということでもあるわけですが,そういうことは頭では理解できない。全身で腑に落ちるしかない。そのために人間は踊ったわけです。たとえば,冬が終わって春が来て,少しずつ暖かくなってきて,野や山の生命が復活してくる,そういう変化の自覚は,踊りによってしか表現できなかったんですよ。
中村
でも,生と死がどんどん身体的なところから遠くなり,頭のものになっているのが現代ですね。
三浦
そうなんです。頭で考える以前に,じつは身体そのものが宇宙に反応しているということ。それが再生の儀式としての舞踊だったんです。身体を介して宇宙と照応し共振するのが舞踊ですが,それこそ精神の始まりだったんじゃないでしょうか。ですから,近代に始まった芸術という考え方なんかよりはるかに古い,いっそう根源的なものが舞踊なんですね。そのことに気づいてみると,思想や文学もむしろそこから発生したと考えたほうがいいということになった。思想や文学もじつはすごく身体的なものなんです。
三浦雅士さん
中村
舞踊という切り口ですべてがつながり,根源に近づけるという感覚ですね。私の場合それが生命誌なんです。
身体と脳
三浦
生命誌という視点に立つと,心や思想はどうなりますか?
中村
生物研究の主流の一つが脳に向かっているのは,心を脳の機能として理解しようということでしょう。でも,身体の一部としての脳であり,外からの刺激への反応器は全身に散らばっているわけで,脳にあるわけではない。身体感覚を溜め込み,それを使って表現する機能は脳にありますが。進化や発生の過程で脳ができていくところを見ると,身体の一部としての脳が見えてきます。
(中央・右)「春の祭典」(二十世紀バレエ団)振付=モーリス・ベジャール(撮影=瀬戸秀美)
三浦
僕が舞踊を通して感じたことと同じですね。
中村
脳研究は確かにおもしろいけれど,心を考えるには身体を見ないと。
三浦
そういう見方がこれからもっと重要視されてくると思いますね。しかし,今はコンピュータやインターネットのような頭脳の延長上のものだけが肥大化して,身体の要素は稀薄になってきている。地球全体が脳化していくイメージをみんなもっていますね。
中村
近代,とくに20世紀は科学技術を進歩させてそういう文明を作ってきましたからね。
三浦
たとえば,戦争一つをとっても頭脳化してきたわけですね。テレビゲームのようになってきた。だけど考えてみると,本当は戦争ほど身体的なものはなかったんですね。そこで生死が決定されるわけですから,根源的にコスモロジカルなものだった。つまり,舞踊に近いものだった。実際,戦闘には儀式的な要素が多かった。
中村
身体を使った戦争の頃は,それほど人は死んでいませんでしょう。今はスイッチ一つで大量殺人になる。
三浦
ええ。もちろん死はあったわけですけど,たとえば『平家物語』に描かれているように,何か宇宙的な感慨をもよおさせるものだったと思います。それが近代になり,20世紀になると,死そのものが軽量化され,頭脳化された。それに対する最大の抵抗が舞踊なんだと思います。舞踊は生命誌という考え方と根本的なところで通じていますね。
中村
生命科学の危うさは,どこか身体性が消えているところなので,生命誌として歴史と関係を組み込んだのです。
三浦
精神を身体から切り離したのはデカルトに始まる西洋近代だということになっていますが,それ以前はそうではない考え方のほうが強かったわけでしょう。
中村
切り離すというデカルトの切り口が科学的アプローチには必要だったわけで,今は科学を踏まえて次のステップヘいくときになっているわけですね。
三浦
ダーウィンにもそういうところがありますね。それまでは生物の形態は空間的にしか比較されていなかったわけですが,それが時間的な発展を物語るものだということになった。進化論ですが,社会や文化に応用されて物議をかもすことになった。
中村
デカルトもダーウィンも時代の中で見なければいけない。そのうえで,今というときに心身や進化を考えるとしたらどんな切り口があるかと見直すと,改めて全体が見えてくるわけです。
三浦
もともと,精神と身体はとても微妙な統一体としてあったわけですから。
中村
もともと一つのものだからそう見ましょうと考えると,日常に結びついてくるし,そこには身体が浮かび上がります。そこで,生命科学でギリギリやっていたときより,ゆったりした気持ちになるのです。
身体で考える
三浦
生命科学を頭ではなく身体で捉え直す方向ですね。舞踊は日常の身体所作のエッセンスですからとても参考になると思います。たとえば,農耕民と遊牧民の舞踊はまったく違う。農耕民の踊りは飛んだり跳ねたりしない。摺り足で腰を落としゆっくりと踊る。水田ではばしゃばしゃできないからですね。東南アジアの踊りは腰から上の表現がとても豊かです。ところがヨーロッパに発展したバレエは,飛んだり跳ねたりしなければ踊りにならない。もともと遊牧民の踊りだったからです。摺り足では馬に乗れない(笑)。
中村
身体で考えるというと,たとえばキーボードではどんな文字を書くときも同じ行為ですね。書くときは,手の動きと現れる文字が連動します。今さらワープロやコンピュータを追い出そうとは思いませんけれども,初めからキーボードしか使わない場合はどうなんでしょう。何かが違ってくるのではないかと思うのですが。
三浦
アメリカ人は今や筆記体が書けないですよね。タイプライターを使うようになって筆記体の意味がなくなってしまった。そしてワープロ,パソコンでしょう。何か大きな問題があるかもしれないと僕も思います。ただ,手の役割は消えないでしょうね。
中村
日本語は漢字仮名まじりという視覚的な文字をもっている。これがわれわれの思考に大きな影響を与えている気がするのです。文字を書くことは,頭と身体とが一致する典型的な行為でしょう。文学,思想もときにその延長上にあるかも。
三浦
その通りだと思います。漢字仮名まじりというのはアナログとデジタルが一緒になったようなものでしょ。同じ黙読にしても,洋の東西では意味が違っていたかもしれない。でも,いずれにしても言語から身体的な要素はなくならないと思います。ただ,キーボードが人間の思考にどのような影響を与えるかというのは,印刷術の影響と同じで,時間をおかないとわからないでしょうね。でも,とても大きいことは確かだと思います。
写真:田中耕二
三浦雅士(みうら・まさし)
1946年生まれ。70年代に『ユリイカ』『現代思想』編集長として活動。80年代に評論活動に入り,舞踏への関心を深めていく。現在,『ダンスマガジン』『大航海』編集長。主要著書に『私という現象』『主体の変容』『メランコリーの水脈』『身体の零度』『小説という植民地』『考える身体』などがある。