RESEARCH
ことばはどのように生まれたのだろうか?
テナガザルの歌からことばの起源を探る
化石として残らないことばの誕生の手がかりを示してくれるのは、類人猿の中で最も起源が古いテナガザルかもしれません。ヒトとテナガザル、進化の道筋では遠く離れた生きものですが、両者には共通したことばの萌芽が見られます。
1.テナガザルを手がかりに
人間は疑いもなく、霊長類に分類されるほ乳動物の一種である。しかし、他の動物とは大きく異なるさまざまな特徴を持っている。言語もその一つであり、しかもことばなしには、私たちの祖先は文化・歴史・思索を築き上げることなど、とうてい出来なかっただろう。ことばのもつ大きな意味を感じる。だが一方で、言語の習得は人間に与えられた、いわば「宿命」であることも事実である。日常生活の中で、私たちはいやおうなしに話すことを学習するようにできている。人間には、そういう本能が遺伝的に備わっているのだ。
では進化の過程で、いつどのようにしてことばは誕生したのだろう。この問いに、実証科学で解答を出すのは、たいへん難しい。なぜなら化石は、行動の進化に関してはほとんど何も語ってくれないからだ。そこで現生の霊長類の行動に、モデルを求めることが重要となってくる。さらに具体的にどの種のどういう行動が問題を解く鍵になるのかという問いが立つ。私たちは、テナガザルのデュエットと、その種分化に伴なう変容にその答があると考えて研究を進めている。実はここからは、人間は音の組み合わせによってではなく、一連の音の流れを分割することによってことばを話すようになったのだという仮説が見えてきている。
2.テナガザルの進化を辿る
霊長類のなかで、人間にもっとも近いとされる類人猿は、大別してチンパンジー、ゴリラ、オランウータン、テナガザルの4グループから構成されており、テナガザルは最も古い系統にあたる。
テナガザルは、類人猿のなかでは最もその種類が多く、現在4亜属に分類されており、マレー半島、スマトラ島、ボルネオ島など赤道に近い東南アジアの熱帯雨林に生息している(図1)。
(図1) テナガザル亜属の分布
各テナガザル亜属は、東南アジアの熱帯雨林に生息している。
同じ場所に異なる亜属が暮らしている場合もある。
各テナガザルの系統関係は、あいまいな部分が多く、現在も様々な系統樹が提案されているものの、4亜属の中でもっとも多様性に富んでいるテナガザル亜属の分岐は、比較的最近であると考えられている(図2)。
(図2) テナガザルの進化系統樹
本稿では、Geissmann(2001年)の論文にある系統樹を参考にして話を進めることとする。
テナガザルの発する声は、種によって実に多様であるため、音声コミュニケーションの進化、さらにはことばの誕生を探る鍵になると私たちは考えている。現在、インドネシア・マレーシアでのフィールドを中心にテナガザルの音声の比較解析を行なっている(註1)。
東南アジアの熱帯雨林
テナガザル生息地
(註1) テナガザルの音声の比較解析
京都大学21世紀COEプログラム「生物多様性研究の統合のための拠点形成」の一環として、調査・研究。
3.オスとメスがおりなすデュエットのしくみ
樹上生活を送るテナガザルは、おとなのオスとメスそれぞれ一頭から成るペアと子どもたちとによる家族を基本的集団とし、非常になわ張り性が強い。
なわ張り宣言にはもっぱら音声を用いる。これが有名なテナガザルのグレート・コール(great call)である。複雑な発声の組み合わせで数十分にわたり、毎日ほぼ決まった時間帯に繰り返される。数キロ離れた場所でも容易に聞きとれるほどの大音響だ。ペアを組んでいるオスとメスが、それぞれの決まったレパートリーを受け持ち、非常に規則的に自らのパートを声に出し、精巧なデュエットを聞かせてくれる。デュエットは、ノート(note)(註2)と呼ばれる単位から構成されており、決まりきったメロディーパターンであると言っていいようだ。
ノートのレパートリーとその組み合わせの様式は、種特異的であり、おおむね遺伝情報によって規定されていると考えられている。同種のテナガザルの場合、野生で育ったものであれ、人工的に飼育されたものであれ、同じデュエットを歌うことが知られている。
最近の調査から、デュエットのパターンが、種分化の過程でより複雑なものに変化してきたことが分かってきた。しかもそこに人間が言語を獲得した経緯の萌芽が見てとれると、私たちは考えている。というのも、彼らのなわ張り宣言には、人間の口ずさむ歌にきわめて類似した点が認められ、しかも歌がやがて「ことば」へ移行していったことを示唆する事実が浮かび上がってきたからである。
シロテテナガザルの親子
(註2) テナガザルのデュエット
テナガザルは種特異的に複雑にノートを組み合わせて歌を歌う。
4.見事に歌いつなげるオスとメス
一口にデュエットと言っても、種によって歌い方はさまざまであり、A→B→C→D→と違うノートが順次展開していく。系統的に古いフ-ロックテナガザルは、オスとメスが全く同じに発声し、最初から最後まで唱和する原初的な歌を歌う(図3)。ところが、それよりも後に分かれたとされるアジルテナガザルを調べてみると、オスとメスがそれぞれ互いのパートを重複せずに、別々に発声していることが判明した。
(図3)
(上)フーロックテナガザルのデュエット:一つの歌をメスとオスが最初から最後まで唱和する。
(下)アジルテナガザルのデュエット:一つの歌をメスとオスとが歌いわける。
例えばメスがまず、Aのパートを発声するとしよう。するとそれが終わったのちにオスがBのパートを発する。その間、メスは沈黙を守る。オスがBを終えると、再びメスがCを発声する・・・という流れでデュエットが進行する。進化の過程で、より複雑な歌い方が出来るようになったように見える。しかもAからB、BからCへのバトンタッチは、絶妙なタイミングで行なわれる。私たち人間が聞いている限り、複数の個体が別々に声を出しているとはとうてい思えないほどである。このように一つの歌のまとまりを、部分ごとに分割してオスとメスが個々にその一部だけをレパートリーにしてしまう発声を、歌の分割(song splitting)と呼ぶことにしている。
ここでちょっと自分が歌を歌うシーンを思い出していただきたい。全体を仲間と唱和するのと、一部だけを自分のパートとして歌わなくてはならないのとでは、どちらが容易だろう。明らかに前者の方が、たやすいはずである。いったん歌の分割が起こると、歌い手は成り行き任せで歌うことができなくなる。全体のパターンを心の中の記憶に留めた上で、自分が歌うパートをしっかり認識しなければならず、自分が歌わない部分にも、気を配らなければならない。相手が歌っている時に、相手のパートと自分のそれとの時間的な関係を常に頭の中に刻み込んでおく必要があるのだ。このような複雑な情報処理をこなしている脳の部位としては、今のところ人間の感覚性言語中枢しか報告がない。歌の分割では、このような情報処理が必要なのである。
5.言語を認識する領域-感覚性言語中枢-
私たちの脳には、ことばを話す行為に関わっている二つの独立した領域が存在することが、古くから知られている。例えば、脳に損傷が生じた際におきる、失語症という障害には二通りある。一つは、他者の発話は理解できるけれど、自分は話せないもの。もう一つは、自分が話をする限りでは不自由はしないのに、相手の言っている内容がわからなくなってしまうもの。前者は運動性失語症、後者は感覚性失語症と呼ばれている。二種類の失語症があるのは、ことばの産出と認識とが脳内の異なる箇所で担われているからである(図4)。感覚性失語症を担当しているのが、先に述べた感覚性言語中枢なのである。
(図4) ことばを認識する領域と産出する領域は異なる。
ここでの作業は、時系列に沿って入ってくる音を高低や長さにもとづいてパターン認識し、いくつかのまとまりに分類することであり、すでにその基本がテナガザルのデュエットに見られるのである。テナガザルでは、感覚性言語中枢が他の類人猿よりも発達している可能性が考えられる。これは今後の研究課題である。
6.全体から部分をとりだして話す
しかも話はこれで終わらない。さらに、アジルテナガザルと同じテナガザル亜属に分類されるクロステナガザルでは、デュエットのレパートリー中の一パートを切り出した形で、オスないしメスが単独で発声する行動が見られるのである(図5)。いわば、「ソロ」による歌唱が観察されるわけで、これをデュエットの分割(duet splitting)と呼ぶことにした。
(図5) クロステナガザルのソロ
クロステナガザルは、デュエットを行なわない。この場合ではメスのみが歌っている。
人間の耳に美しく聞こえる旋律を奏でる動物は、決して少なくない。カナリヤをはじめとした小鳥たちのさえずりを知らない人はいないだろう。しかしそれは、次の点で人間が口ずさむ歌と決定的に異なる。彼らは、一連のメロディーの流れの一部分だけを気ままに音にしてみせているだけなのである。いったんオンになったら動き出す旋律生成のための運動プログラムがもともと組み込まれていて、スイッチが入るとあとは機械的な自動演奏が実行されるだけなのだ。だが、ソロのできるテナガザルは、もはやそうではなくなっている!音の記憶という形で、脳の中に貯蔵した時系列パターン情報の中から、ある部分だけを取り出し、発声しようと思って発声してみせているとしか考えられない。
ソロで歌うことがテナガザルにとって、どういう機能をもつかはまだわからない。しかし、その音の組み合わせが外界の事物や出来事に対応して発せられているのであれば、つまり外からの刺激との依存関係があるのならば、それは必ず何らかの意味を指示するものであり、私たちが日常的に使用している語彙と大差ないはずである。
実はこの現象は、人間が歌を歌うこと以外に、発達の過程での赤ちゃんの言語習得パターンにも認められる。赤ちゃんは、単語から文章へと組み立てていくのではなく、大人が発した文章を、まずメロディーに載せて聞きとる。その中から自分のお気に入りの単語を切り離して適当に話す。この地点では単語の意味は理解していないが、やがて単語からメロディーが取り除かれ、ことばとして習得する。メロディーにのせた音声によってコミュニケーションをするテナガザルと非常に良く似ているのである(図6)。
(図6) 発達と進化の側面からことばの誕生を考える
テナガザルは、オスとメスによる唱和から一つの歌を分割し、おのおののパートを受けもつようになり、さらにはデュエットの相手がいなくても自分のレパートリーだけ歌うようになった(図7)。つまり人間は、音を組み合わせることで言語を獲得したのではなく、一連の流れを分割することで話すようになったのだろうと私たちは考えている。
(図7) 種分化に伴うテナガザルの歌の変容
テナガザルのデュエットは、言語誕生の寸前の行動であり、その音のやりとりは太古の昔の人間のコミュニケーションをかいまみせてくれているのだと考えている。言語の研究は、進化上人間に最も近いチンパンジーを対象として行なわれることが多い。しかし類人猿の中で最も起源が古いテナガザルの日常に見られる行動を手がかりに言語誕生が解明できたら面白いと考え、私たちは東南アジアの森に思いをはせ、彼らと向き合っている。
図版提供:香田啓貴(京都大学霊長類研究所)
正高信男(まさたか・のぶお)
1954年大阪生まれ。大阪大学院人間科学研究科修了。学術博士。アメリカ国立衛生研究所客員研究員、マックスプランク精神医学研究所研究員などを経て現在、京都大学霊長類研究所教授。NTTコミュニケーション科学基礎研究所リサーチプロフェッサーを併任。