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Talk

年間テーマ「愛づる」

生を写す視点

佐々木丞平京都大学大学院文学研究科 美学美術史学研究室 教授
中村桂子JT生命誌研究館館長

研究者は、学問という海の羅針盤をもつことが大事とおっしゃる佐々木先生の姿勢に、生命誌との共通性を感じた。小学校で習い当りまえと思っていた写生の陰に、生きものへの愛情と当時の先端技術であるレンズまで用いて良く見つめる眼を持った円山応挙の理念と才能があったのだ。生命誌のこれからを考えるうえで大事な人だ。(中村桂子)

1. 現代生物学への疑問から

中村

『堤中納言物語』の中の「蟲愛づる姫君」から学ぶことが多く、生きものの研究の方向を間違えないようにするための基本の考え方と言いますか、気持ちといいますか、それは「愛づる」だと気づきました。

「愛づる」とは、単に綺麗だから可愛がるという事ではなくて、本質を見つめて知ろうとする行為。生命誌も、生きものの本質を見つめれば、生きものの面白さもわかってくる、生きものの一つである人間の暮らし方にも繋がるという考え方でやってきましたので、基本を「愛づる」に置くことにしたのです。ゲノムとかDNAと申しますと、専門外の方にはわけがわからないと思われることもありますが、私達はそこを理解すれば、生きものの本質が見えてくると思い、蟲愛づる姫君は私達のご先祖だ、という気がしますし、そこに科学の原点があると思っているのです。

生きものというのは「早く芽を出せ柿の種」といってもなかなかそうはいかない。時間が紡ぎだしていくものですから、時間をかけてじっくり見つめたい。役に立つか立たないかという視点で機械のようにいじりまわすのではなく、生きもののありようを見つめたいと思って、今年は「愛づる」と「時間」をテーマにしています。

佐々木

私も美術を対象に研究して参りましたが、「愛づる」という言葉は、単に美しいものを愛する事だけでなく、慈しむとか思いやるとか親しむとか、そういう広い意味に理解すべきだと思っています。そしてそういう意識の重要さを、科学をご専門にされている先生からお聞きして、今非常に嬉しく思っております。

私の研究対象である芸術家というのは、ある意味「愛づる」に集中し、突き詰めていく人間だと思います。そして、私が好きで主な研究対象にしている円山応挙(註1)という画家は、まさしくその一人です。そもそも「愛づる」が内包する意味、その手段というのは、「意識を向ける」事だと思っていまして、人間の持つ五感、見る・聞く・触れる・味わう・匂う、という感覚全てを作動して、対象物に意識を収斂させていくことだろうと思います。先生がおっしゃる「愛づる」とはそういうことだなと理解しました。そしてそれは芸術家に限らず、人間が本能的に持っているはずのものですが、時代によってその使われ方や評価が変わります。時には変な方向に行ったり、なくなったりする。私もこのキーワードをもう1度芸術分野で考え直す必要があると思い、今日の話し合いで非常にいい勉強をさせていただけると期待しております。

中村

まさに五感を通して意識を向けた結果、自分がその対象に対してとるアプローチが、文学であったり絵画であったり、科学だったりするわけですね。そこから出発すれば、芸術家、科学者と分けることはできないわけです。この頃はよく「学際」と申しますが、むしろ「愛づる」というところを出発点にすれば、自ずと共通点が出てくる。対象が生きものの場合には、特にそれが可能だと思います。私はそのような見方をしているものですから、先生が芸術について、とくに円山応挙についてお書きになった文章を拝読して「同じだ」と思うところを見つけてしまったわけです。まずは応挙の魅力といったところから、お話いただけませんか。

(註1)円山応挙 まるやまおうきょ

(1733~1795) 江戸中期の画家。円山派の祖。通称、主水もんど。丹波の人。狩野派の石田幽汀に学んだが、外来の写実画法の影響を受け、精細な自然観察にもとづく新画風をひらき、山水・花鳥・人物など多方面に活動、写生画の機運を興し、日本画の近代化に貢献した。作「藤図屏風」「雪松図屏風」など。 <『広辞苑』より>

2. 発想の転換 内から外へ

佐々木

江戸時代、18世紀という時代はいろいろな芸術家が活動する時期ですが、写生画の祖となる応挙は、当時のいわゆる知識人からは批判される対象でもありました。その頃の絵画は、形態や色の正確さは問題でなく、自分の心の内を表現する事が主流で、応挙の描く絵は、芸術ではなく、単に図に過ぎないとよく言われました。国学者や儒学者を中心とした文人達には、外界の物をどう正確にキャッチするかということより、内なる世界に重点を置く事が伝統的に継承されていたのです。しかしそこで応挙は、心の中を本当に表現するためには、自分が見つめた対象のかたちを正確に表せなければ、そのものが持つ精神性なんて描けっこない。外界の部分がきちんと描けて初めて、精神を乗せる乗り物ができるんだと、考え方を逆転させるわけです。そこが非常に面白いと思うのです。

中村

心を描くことももちろん重要だけれど、伝統になると初めの精神は忘れられて形式的になりますね。応挙は人間を正確に描くために、「解剖」にも関心を持ったそうですね。

佐々木

山脇東洋(註2)(1705-1762)が解剖を始めた時と応挙(1733-1795)の青年時代は重なります。当時、解剖そのものがまだ特殊視されていたわけで、ましてやそこに絵の世界の人間が関わるのはタブーだったと思いますが、実は、解剖の記録を残すために画家の手が必要という事があって、応挙もそれに関わった可能性があります。絵描きですから、医学者の視点ではなく、解剖の成果をどう自分の絵作りに活かすかという、そこにもちろん一番の重点があったでしょう。

人間を描く際には、東洋画の一番の基本であるシルエット、輪郭を書いてしまうやり方から、どうしても離れられないところがある。それで、応挙は、立体物を描こうとする時に、輪郭を描いた途端に平面化してしまう絵画の宿命、そこをどうすれば打破できるかということに非常に苦労するんです。ですから、人体という立体を正確に理解しようとしていたわけで、解剖の知識は役立ちました。

山脇東洋の解剖の記録『蔵志』は、実に単純な絵ですが、人体には確かに脊髄が通っていて、肋骨があり、中に臓器があって、その表面を筋肉がつつみ、さらに皮膚があって、その上に人間は着物を着ているんだと。この認識が、単純なようでなかなかできる人は少なかったはずです。  ところで、解剖というのは人体をまず開いて、イメージとしてはどんどん剥ぎ取って中を覗いていくものだろうと思いますが、応挙はおそらく、解剖書を意識しながら解剖とは逆のプロセスで、体の中心から外へ外へと構成を膨らませ、最終的に人体とはこういう構造なんだと、生きた人体として理解しただろうと思いますね。

中村

その考え方が私の関心をひくのです。生物学も最初は博物学として始まり、さまざまなものを集めていたのですが、対象をただ外から眺めていてもわからないことが多いので、解剖して細かく見て行った結果、生物全般に共通なものとしての細胞、そしてその中にDNAがあるというように、どんどん中へ入ってきたわけです。しかし、そこまで入っていって、それで生きものがわかったという事がいえるの?という事なんです。まさにもう1回組み立てることが必要で、おそらくそれがこれからの科学になるだろうと思うのです。

今のお話を伺って、応挙の視線に重なり合うものを感じますね。科学はヨーロッパで誕生したものですから、芸術についてもヨーロッパに目を向けてきたので、応挙のお話を伺いながら、レオナルド・ダ・ビンチ(註3)を連想しました。彼は沢山の解剖図を描いて勉強していますし、興味深いのは鏡文字ですね。応挙も単に自分の目で見るだけでなく、当時新しく入ってきたレンズや望遠鏡も利用しているそうで、まるでダビンチのような。

佐々木

考え方や発想がダビンチ的である事は確かにそうだと思いますね。

中村

日本にもそういう人がいたのですね。応挙には、科学の世界から見た時にも、ある種の近しさを感じます。

(註2)山脇東洋 やまわきとうよう

(1705~1762) 江戸中期の医家。本名、清水尚徳。実験医学の先駆者。刑死体を解剖、その結果を「蔵志」に記述し、旧説の誤謬を指摘。 <『広辞苑』より>
 

(註3)レオナルド・ダ・ビンチ
【Leonardo da Vinci】

(1452~1519) イタリア、ルネサンス期の画家・建築家・彫刻家。トスカーナ地方のヴィンチ村生れ。フィレンツェ・ミラノで修業・制作。晩年フランスに赴きアンボワーズで没。絵画に「モナ‐リザ」「最後の晩餐」「聖アンナ」など、きびしい写実と深い精神性をそなえた不朽の作品を遺す。詩人・思想家としても傑出し、自然科学に関しても多くの業績がある。遺稿「アトランティコ手稿」「マドリード手稿」など。 <『広辞苑』より>

3. 応挙の絵作りと研究館でのものづくり

佐々木

応挙が対象物に意識を向ける際に非常に関心を持ったこととして、「相学」もあります。相学の元々の発生は中国で、途方もなく繊細な観察をベースにした一種の統計学です。例えば、人の顔の微細な部分を隈無く観察する。顔を百いくつかの面に分けて認識し、それぞれの気色、気と色を見る。それを分析して、その人の病気や精神状態や、悩みまで判断する。そういう事をやるのが相学の中心テーマで、だいたい宋時代に体系化され、皆が利用できるよう百科全書的に流布させるのが『三才図会』(註4)。それが日本に入って相学が広まり、応挙はそれに非常に興味を持ちました。

相学を学び、実際に絵に活かそうというわけです。そこで、応挙が写生の人ならば、実際の人間をみて描けばいいじゃないか、相学のような一種のパターンを利用して写生と言えるのか、そういう意見が当然出てくるわけです。しかし、そこが大事なところで、応挙が単に外界のものを写せばいいというだけでなく、その奥に潜んでいる何かを引き出したい、人に訴えたい、ということを突き詰めた人だからこそ、その手段として相学を使ったと思うのです。

相学の根本は人間観察で、その結果、例えば「高貴さ」というものを持った顔の表情とはどういうものなのか。こういう眉の形が高貴だ。目の形はこう、鼻、耳、前歯は…と、統計的に表した相学の書、相書というものが、知識として流布していきますと、一般の人も人間の形態に対して、これは悪人の顔、これは心良き人間の顔、というイメージ構成がなされますから、応挙も一般大衆が、なるほどと納得する絵を描こうという時には、そういう相学の知識を使って人間を描いたのです。相書と外科書は、応挙が人物を描く際の大きな柱だったと思います。

結局、応挙が絵つくりをしようという時、まず自分の絵を理解してくれる人がいなければいけないと考える。人が理解するとはどういう事か。皆が納得するには、普遍的な何かがあるはずだ。その普遍性は何か、というところで相学に結び着く。絵画制作における画家の在り方、絵作りの一番の基本原理である写生、自分から鑑賞者までを満足させる絵作り、という非常に大きな流れを、応挙自身は認識して絵画制作に取り組んだ。そういう規模壮大なところがあります。

中村

なんと。びっくりしました。それは生命誌研究館の狙いです。まず、生きものの世界は多様。しかしその底には普遍性があります。普遍と多様を基本に世界を見ていき、次いで、そこから自分が見い出したものを表現した時、そこに誰もがわかる普遍があるはずだと思い、そのような活動をしています。前半が「生命誌」でして、その精神で研究をする。後半が「研究館」。前館長の造語で「サイエンス・コミュニケーション&プロダクション」という名前に致しまして、コミュニケーションをするための作品を作り出して科学をために、展示やその他を工夫しています。研究館の構成は、生物研究の実験室と、表現スペースである展示室を一体としまして、生きものの研究を伝える、ということをやっているのですが、なんだか応挙は生命誌研究館の先祖みたいです(笑)。そこまで1人で、しかもその時代に考えたというのはすごいですね。

(註4)和漢三才図会

大坂の医師寺島良安が中国・明の王圻(おうき)の『三才図会』にならって編んだ,わが国初の図入り百科事典。1712年(正徳2)頃完成した。万物のあらゆる事象を、天部、人倫類、地部など、80余りの部類に分けて考証している。105巻81冊。

4. 人と時代

中村

応挙という人が、その時、日本絵画史の中で突出したのには、個性はもちろんですが、時代も影響したのでしょうか。

佐々木

時代の影響は絶対にあると思いますね。ちょうど17世紀後半から18世紀というのは、今で言う百科事典的なものが編纂される時期です。物事の理解に向かう「分類」が始まった時代だと理解しています。それまで漠然と理解していたものを、もう少しはっきり系統立てたい。そのために、ある共通性のもとに分類されていき、それに命名がなされる。分類と命名、そういう段階に入った時代です。

具体的には先程の解剖図もそうですが、当時、本草学も流行します。日本全国の生物を記録せよという幕府の指導があり、その影響を受けて、大名達が絵描きに標本や図譜を作らせました。ものを写す事に対して、時代の大きな流れと要請があったのです。

応挙には芸術表現はいかにあるべきかという理念が明晰にありましたから、そういう社会的ベースを自分の芸術と何とか結びつけられないかと考えたと思うのです。そのチャンネルを結びつけるところが、実際には難しいのだろうと思うのですが、そこが応挙の才能です。うまく結びつけたのだと思います。

中村

その時、絵画の世界としてはそういう動きを受けとめて、応挙に倣う流れとなったのですか?

佐々木

そこが応挙の個性というか、特異性だと思いますが、普通そういう大先生が出ますと、直系の弟子達が後を追随し継承していくのですが、応挙の場合は、ものを描く一番の理論、絵とは何ぞやという基礎さえきちんとわかっていれば、後は自由におやりなさい、という極めて自由放任形だったのです。

中村

細かな規則や流派は作らない。

佐々木

一応、円山四条派(註5)というのができますが、その中からは、いろいろな個性を持った画家が出てくるのです。ものを写すことついては弟子に盛んに言っていますから、それ以前の絵画の作風とは大きく違った集団ではありますが、応挙の表現を引き継いだ人は意外に少ない。伝統的な流派と同じような集団の形成を応挙はむしろ嫌って、展開していったところがあるのでしょう。写生とは何かという理論さえ踏まえれば、後はどんな味付けをしようと自由でした。

中村

凄い人ですね。でも、それって日本人的じゃありませんね。

佐々木

珍しいと思いますね。

中村

もともと絵心のある応挙がいて、時代背景に本草学などの流行があり、実際に自然をそのまま描いているうちに、そのものにこそ本質があると、自分の中から自然に沸き起こってきたと考えていいのですか。

佐々木

何より応挙は、自然や生きものに対して、まさに愛情といいますか、想いの豊かな人だったと思いますね。いくら技術があっても、草花の美しさであるとか、子犬の愛らしさであるとか、そういったものに愛情を注げる精神の持ち主じゃないことにはできないことですね。

中村

時代と同時に、やはりその人がいなければ始まらないということですね。科学の発見は客観的な事ですから、その人がいなくてもいずれ誰かが発見しただろうと言われますが、やはり、時代とその人がいてこその発見で、ピカソの絵もアインシュタインの発見も同じように、その人あってのものだと思うのです。お話のあったような百科事典的時代と言っても、写生画を始めたのは、「応挙」という人だけだったという事ですからね。

佐々木

そうですね。ですから、やはり後がなかなか続かないんですよ。

中村

新しい時代、大きな流れを作る傑出した人は結局そうですね。アインシュタインの後、続々そういう人が出るかというと、そうではない。しかし、学問全体のレベルとしては、皆で新しいステップに行けるわけですから、そこからまた新しい人が出ます。DNAの場合も、非常にユニークなワトソンという人が二重らせん構造を明らかにし、それがあって今の研究が発展してきたわけですが、個人と、それに続いて大勢でやっていくという大きな流れとがあってこそ、学問が進んでいくとわけですね。

佐々木

まさに同じ傾向だと思いますね。応挙以前にも生きものを写すことはあったのですが、それを芸術にまで高めようという意識が希薄だった。梅の花を写生してみる、しかし、それはあくまで絵描きの覚え書きで、生きた姿としての生命性、生命感をどれだけ表現できるかということを考えながらの写生ではなかった。メモや記録が、なかなか生きたものの姿の表現にまで結びつかなかったわけです。ところが、応挙が結び付けると、その後は皆で展開しているのです。

(註5)円山四条派 まるやましじょうは

日本画の流派の一。円山派と呉春にはじまる四条派を合せていう。 <『広辞苑』より>

5. 実存と精神の融合

中村

標本から絵画への変化というのは、具体的にはどんなふうになされたのですか。

佐々木

応挙の場合、標本のような動植物の写生図も書きましたが、そこから芸術にしたいと、それらを元にいろいろ描きました。標本を描く絵描きは、当時もうたくさんいたと思います。

中村

標本描きに徹する人、伝統的にイメージを描く絵描きもいる中で、両者を結びつけるのが芸術じゃないかと目をつけたのが応挙なんですね。

佐々木

そうです。本草学のような標本を作る世界と、精神性を非常に重要視する精神主体主義、表現主義の世界と、それをアウフヘーベンしたものが、つまり標本的に見えるんだけどそうじゃなく、そこに生きものの命というものを描き込み、さらに描く人間の思いとか、あるいはそれを見る人間の思いも乗っけたい。そこにあるわけです。それを可能にしたのは、対象物を、まさにおっしゃるように、愛づることによって、きっとその中に精神も表現できると、そういうことだと思います。

だから、応挙も一番注意したのは、生きものなんだから、生きているっていうことを写しなさい。これがまさに生を写す、写生なんだということ。そこだけは絶対に揺るがせにしない、という事をずっと続けていきまして、現在の写生につながってきたわけです。

中村

学校で初めに習うのは、写生ですものね。

佐々木

写生というと、我々も空気か水のように、当然のように思っていますが、元をたどれば応挙が、写生のあり方を理論的にきちんと弟子達に教えていたからです。それがなければ、今の日本画は変わっていたという程に大きな影響ですね。これはおそらくコロンブスの卵で、写生とは何なのか、なぜやらなければならないのか。そのところの発想が当時なかなか簡単にできるものじゃなかったと思います。

6. 普遍と多様の両側で

佐々木

まとめますと、応挙以前の絵画は、自分の中のイメージを描くという事に対しまして、応挙は、実際に目の前にあるものを正確に描く。「生き写し」と言いますが、生きたものを生きたものとして写しなさいということです。その普遍性を一番の絵画理念として、繊細な観察力と幅広い研究心で様々な試みをし、独自の写生画を展開していきました。

中村

西洋美術でも、宗教画のようなものから、ルネッサンスにおいて、本当のものを描こうということになり、同時にサイエンスも生まれ、それが明治に日本に入って、今私達が臨んでいる現代科学がある。しかし私は最近、芸術性の中にこそ、ある意味本当に自然を知ろうという姿勢があるのではないか。今までとにかく分解して理解してきましたが、これからの科学は、もっと全体的に知る方法論を探してやっていく、やっていかなくてはいけないと思っていて。そうすると応挙的な流れが、それとつながると思うのです。そして、日本には科学が生まれず皆輸入したのだと言うけれど、『蟲愛づる姫君』や応挙のお話を伺うと、むしろ日本の芸術の中に、精神的に自然に対する、ある種、私が今「科学的」と称したい、多様であり普遍という事を意識して生きものを見るという、真の科学があったのではないかという気がするんです。

自然を見ると、カラスがいる、スズメもいるという多様性が見えてきます。カラスはカラス、スズメはスズメですが、鳥という共通性がある。それは何だろう。鳥がいて猫もいて、鳥と猫は違うけれど同じ所もある。常に多様と普遍があるわけです。現代科学は普遍性を突き進みました。DNAというのは普遍の権化みたいなものですが、それをゲノムという形で見ますと、スズメのゲノム、カラスのゲノム、ネコのゲノムで、多様性が浮かび上がります。共通の権化こそ科学と思ってDNAまで突き詰めてみたものの、実際にはDNA はゲノムとして存在し、それは生きものそれぞれの方言であるわけです。科学者は具体的なものが目の前にあると安心しますが、普遍と多様を具現化したものというのは、今まで手にした事がなかった。私がBRHの研究の中心にゲノムを置くのは、ゲノムがその両面を持ち込めるからなのです。多様に関心を持つ学問と普遍を追及する学問は、いつも両側から探りながらきたように思うのです。

さらに、今ここにいるスズメのゲノムには、卵からどうやってスズメになってきたか、またその卵はどうやって生まれたか、という事まで情報として入っているのです。そうすると、今あるものだけでなく、過去の歴史、これから先どうなるかという、生きものの未来はわかりませんが、どんな可能性を持っているかということは考えられるのです。そういう意味でゲノムとは、私達が自然について考える時の根拠にしたい事を全て含んだ存在で、それを理解していきたいのですが、そこでまさに、スズメやカラスがいるねというよう、誰でもわかる事として楽しみたい、その試みというのがここでやっている事なんです。

7. 応挙的流れ、その後

中村

平安のお姫様に始まり、江戸の応挙、西洋の科学があって、現代に至りましたが、21世紀はこの延長ではいけなくて、西洋の個々をしっかり見る事も大事にしながら、日本独自の全体や多様性をとらえる視点があれば、その流れも活かしていきたいというのが今やりたい事なんです。現代に繋がる応挙の流れとは、誰に見つけられるのでしょうか。

佐々木

…非常に難しい話ですね。応挙の仕事を高く評価し、その視点から日本文化を理解し、世界の中に日本文化を位置付けようとしたという点で、岡倉天心(註6)でしょうか。天心は、美術史の分野で応挙研究をした初めての人で、天心自身が中心になって出版した日本の美術の専門雑誌『国華』(註7)の創刊号巻頭に、応挙の論文を載せています。天心自身は、日本の絵画集団を自分が引っ張って行くという大きな責任もあったので、応挙の考えをできるだけ周囲の人に伝えようとしました。日本にまだ定着していなかった写生という姿勢に対する評価も非常に高く、明治以降、いろいろな日本画のスタイルができますが、生命感をきちんと表現しなければいけない、という指導をした人だと思います。

中村

その天心の指導を受け継いだ人というのは?

佐々木

非常に残念に思うところですが、応挙の絵画理論もある意味完成し、天心が一端を受け継いだのですが、それ以降いつとはなしに立ち消えてしまったという気がします。完全に西洋に偏ってきた。天心は応挙だけでなく、日本の伝統文化をいかに守っていくかという事を熱心に考えた人ですが、それがその後の日本独自の表現活動の中でどれだけ生かされてきたかというと、なかなかこれは悲観的にならざるを得ない。

中村

ちょうど科学もそういう状況にありますね。欧米の科学で日本が近代化した事は、悪かったとは思いませんが、やはりもうそろそろ別の展開しないといけません。美しく生きようと思うと、経済優先社会で伝統も緑も壊してしまうような方向は違うのではないかと思いますし、仕切り直しの時期に、応挙や天心を見直しますと、いい流れがあるという事が今日の先生のお話でわかりましたので。

佐々木

必ず復活可能だと思いますし、そうしないといけないですね。いつも思っているんですが、私のやっております美術史なんて、およそ世の中の学問の中で一番弱い学問で、例えば戦争が起こればまず存在しえない。目に見えた形、金銭的な形で、効率を生むような学問でもない。真っ先に取り壊しを受けるような学問じゃないかと恐れる一面、だからこそ非常に重要で、これがなくなってしまえば、人間の本当に大切な、小さなものに優しい目を向けるというような心をなくするのと同じです。社会全体がそういうことに目をふさいでしまう事になってしまいますと、やはり、社会全体の人格の存在を疑いたくなってきます。

(註6)岡倉天心 おかくらてんしん

(1862~1913) 明治時代、美術界の指導者。本名、覚三。横浜の人。東京美術学校長。日本美術院を創設。米国ボストン美術館東洋部長。著(英文)、「東洋の理想」「日本の目覚め」「茶の本」など。 <『広辞苑』より>
 

(註7)『国華』 こっか

明治22(1889)年創刊の美術雑誌。

8. 応挙が写す4つのこと

佐々木

応挙の芸術を考えた時、いかに写生が重要であるか、それが一番の基本概念です。ところで写生とは、生を写すわけなんですが、実際どういう事なのか。形だけ写せばいいのか。そうじゃないんですね。

応挙の作品を、何をどう描いているかによって4つに分類することができます。1つは実際に存在する「実」を写す事。2つ目は、例えば龍という画題がありますが、龍は現実に存在しない。ところが、人は絵を見て「あ、龍だ」と言いますね。いかにも実であるように見える「虚」を描いているという事があります。3つ目は、例えば竹が頭を垂れて、いかにも雨に打たれた様子を描いている。しかし雨や風が描かれているわけではない。そこではそういう自然現象そのものを的確に描いていて、実でも虚でもなく、それを感じさせる大気、いわゆる「気」を描いている。虎の獰猛性や迫力というのも「気」、エネルギーですね。という具合に、応挙は一口にものを写すといっても、実に深い、多様で厚みをもった考えを示しています。

最後に4つ目は、絵の構成上の特徴ですが、絵画は2次元ですが、3次元のように描く。しかも、絵の中だけで完結するのではなく、例えば私が部屋にいたとすると、部屋からすーっとその絵の中に入っていけるような、現実の空間と絵の空間が、まったく違和感なく連続した一体感、整合性を感じる。応挙はそういう構成が得意中の得意だったのです。

中村

襖絵に囲まれますと、自分がそこにいるという感じがしますが、そういうことですか。

佐々木

襖絵は、例えば狩野派の雄大な松など、それはもちろん圧倒されるものですが、それはあくまでも部屋を装飾するインテリアで、一体感という意識は少なかっただろうと思います。そこを明らかに意識して描き始めたのは応挙だと思います。実際のものを、生命を持っているように描いてみたいというのは、つまり個体からそれを取り巻く空間意識まで大きく膨らませて表現しよう、という事になるわけです。応挙が小鳥を描きますと、鳥の体の立体感や質感から出発して、今にも動きそうな生命感、愛らしさまで描いたところで、その表現が途端に空間化する。紙に張り付いた鳥のシルエットではなく、絵を空間化していくという考え方を持ち、それをもう1つ超えて、見ているこちら側の立場も考えて、この現実感と連続させようというところまで応挙は意図していたのです。

中村

凄いですね。私はすぐに科学の方に持ってきますけれど(笑)、見えないものを描くという事を伺いまして、科学に近いと思いました。科学は、結局見えないもので見えるものを説明することなのですね。コップがここにちゃんとあるのは、ここに重力というものがあるからだとか、私がこうやって生きて動いているのは、私の細胞の中にDNAというものがあって、それがいろいろ働いているからなんだとか。コップがあるのは見たらわかるんですが、どうしてそこにあるのかという事を、見えないないもので説明しようとするのが科学です。そうすることで本質がわかったような気になるんだとも言えます。それで結局何がわかるかというと、これがなぜここにあるかという、全体の関係が見えてくるのではないか。目に見えて存在しているものの関係を、見えないもので理解する。今のお話を伺うと、応挙はそういう点で科学者です。きっとそういう面を持っていたでしょうね。ただ細部に分け入るタイプではなく、さっきおっしゃったような組み立てて表現する方法をとったのですね。

生きているという事を知るために、生きものを分解して調べていくのが科学。生きてるという事を組み立てて表現する応挙。そうすると、先程の4つの分類はとても面白いですね。「実」をきちっと描きなさいとか、その背後には見えないものがあるんだとか、全体の関係も見るとか。まさに私が、なぜ生物学に興味があるのかと聞かれたら、それを知りたいからだと言うであろうことばかりです。DNAなんか調べてないで、絵で表現してみんなに伝えなさいよと言われているような気がしました。日本人には科学が欠けていると言われますが、そうではありませんね。

9. 見えないものを写すために

中村

先日、建仁寺に行って小泉淳作(註8)の双龍図を見たのですが、天井に阿吽の形相の龍がいて、阿の龍の視線が、移動してもずーっと追っかけてくるんです。

佐々木

それは応挙も時々意識しますが、人間は視線を定めますよね。方向を定めたらそれが固定されるわけです。固定されるという事は、これは伝統的なんでしょうけど、日本の絵でもわりと避けるんです。それで真ん中に持っていくと、どちらも見ているようで、どちらも見ていない。距離を置いて移動すると、どこでも自分を見ている視線に見えてくるわけなんです。絵描きさんが最後に目を入れる、「画竜点睛」といいますね。目を入れると生きものは生きるわけですが、目的として、龍が虎に飛びかからんとしているとして、その虎の方を向かせるのであれば、その角度を考えて入れるのですが、全体的に見ているような効果を出したい時には、あえて視線の方向を設定せずに、真ん中に入れます。

中村

なるほど。そういう眼だったんですね。彫刻家の舟越桂(註9)さんが、人物像はちょっと斜視にして、視線の定まらない遠くを見つめる目をつくるとおっしゃり、結局それは自分を見ているんだ。自分から一番遠くて一番わからないものが自分で、それを見つめているものを作りたいという気持ちは、とってもよくわかりますね。

佐々木

わかりますね。

中村

科学でも、結局一番扱い難いのが人間で、一番知りたいものでありながら、多分一番遠くにあり、最後までわからないかもしれない。そういう意味でも、芸術と科学の求めているものは同じだと感じます。

佐々木

それは必ず共通性があると思います。私は科学の方は全く不案内ですが、科学者が新しい何かを発見された時の発言に、意外に「美」という言葉がよく出てくるんですよね。それで私やはり「美」というのは、普遍性のある自然科学にしろ人文科学にしろ、共通に何か原点があって、それが美という言葉で表現されるような1つの構造、真理のようなものを表しているのかなと、なんとなくそんな気がするんですけどね。

中村

「真善美」で言うと、科学は「真」を求めているとされます。もちろん最終的には、自分自身も含めて、世界の全てを知りたいということかもしれませんが、この学問の面白さは、今すぐに真が明らかになるかどうかわからないけれど、今解き明かせることを解くことが許されることです。生命とはなにかと考える時、タンパク質を調べることが最も重要なことではないということになりますが、ある一つのタンパク質の働きに一生をかける人がいてもよい。というより、そのような研究を評価するのが科学です。その場合、どんな成果に惹かれるかとなると、一番信用できるものは「美」かなと思うのです。皆が美しいと思う成果。数式なども美しさで判断されますよね。「美」って何?って言われるとわかりませんが、皆で共有できるものとして「美」があるこの頃思うんです。

最近は、生きものに対する様々な操作実験があります。そこで、こんな事やっていいのだろうかという議論が出てきます。その時、例えば美しくない事はやらないという判断があると思うのです。正しいとか、真実だという事で判断できない時、あまり美しくない事はやめようというのが、もしかしたら基準ではないかという気がし始めています。

佐々木

わかりますね。「美」の定義は非常に難しいというか、永遠に回答はないのかもしれませんが、やはり人間の感性に対して、非常にいい形で働きかけてくれるものである事は事実ですから。応挙も、自然の美というものを自分がまさに慈しんで、それを人に伝えたいという、究極はそこなんです。自然を分解して理解し、正確な描写をしたということで、応挙の芸術を「リアリズム」だという人もいますが、リアリズムというのは私はあまり好きな言葉ではないのです。特に応挙に関しては。リアリズムは、現実性を出すための一つのアーティフィシャルなもので、人工的に手を加えてそれらしく見せていこうという意図を強く感じるのに対して、応挙は「ナチュラリズム」、自然主義的でして、自然のあるがままをどう表すか、自然の中から美を堀り出して、どう感性に訴えるかということですから。「見て」「感じる」ことですから。

中村

リアリズムは人工的な意図があるというのは興味深いことです。科学の場合、真実を明らかにすると言っても、先程申しましたように究極を知ることは難しいので、一部を解明していくのですが、その時に、ここが大事という思い込みがあるものです。

科学はこれまで、できれば1つの法則で成り立つほうがよくて、シンプルなものが「美しい」としてきました。物理学はその典型で、宇宙の全てを説明するような統一理論を求めている。それはそれで気持ちは非常によくわかります。しかし多分、その複雑なものを、複雑なものとしてそのまま理解することも大切になってきているのが今だと思うのです。自然や人間、生きもの、みんな非常に複雑ですよね。しかし、花がどんな物質でできていて、いつどういう刺激があれば咲くのかとか、そんな事いちいち知らなくても、花を見れば、あ、きれいだねって、小さな子どもでもわかる。複雑なものを複雑なまま受け入れるという、そういうわかり方が日常にはあるわけです。ところがそれではわかったことにならないと、片っ端から分析し要素が全部わかった上で、できれば統一的に数字で表したいというのがこれまでの科学でした。特に20世紀は、そのような考え方が日常にまで影響しすぎたように思うんです。複雑さを複雑なままわかるという捉え方を、「わかる」という言葉の意味の中に入れた方がいい。要素が全部わかった時にわかるのではなくて、あ、美しいねってみんなが思えたら、それをわかったとするわかり方。そうでなければ、生きものがわかるなんて事自体がおかしくなってしまうのじゃないかと思うのです。応挙の絵は、複雑なものを複雑なままわからせてくれる表現だと受けとめたのですが。

佐々木

おっしゃる通りだと思います。今思い付いたのですが、図鑑の絵は、あらゆる部分を正確に描くことが必要ですね。生きものの形態、色、非常に正確に描いてありますでしょうけれど、それが美しく感動を与えるかというと、それは別問題なわけですよね。多視点であらゆる部分を描くのではなく、そこで1つの視点を自分で定めて、その視点から理解していけば、かえってそのものの本質、総体が実感できるじゃないか、というのが応挙ですね。

中村

私もよく切り口を持とうって、皆に言うんですが、まさにそれですね。自分の切り口を持って仕事をしないと、自分らしい事はできない。視点を定めよということですね。

佐々木

視点が定まれば、例えば脚の先が少々曲がっていようが、正確でなかろうが、全体が持つ迫力が違います。それがあらゆる所に視点が分散していますと、それは水玉模様であって、水玉はそれぞれはっきりしているが、全体がなんだかわからないということになるのです。

(註8)小泉淳作

1924年、鎌倉生まれ。東京美術学校卒業 山本丘人に師事。日本画家。
 

(註9)舟越桂

1951年、岩手県生まれ。 東京芸術大学大学院美術 研究科彫刻専攻修了。彫刻家。

10. 世界を表す3つのこと

佐々木

中国の古代の人が「人間が表現するということには3つの種類がある」と言っています。1つは天地万物宇宙の根源を理解させる数式のようなもの。もう1つは人間の深い意味の世界を形として表出した書、つまり言語。もう一つは、数式でも言葉でも表現できないものを表す絵画である。

中村

それは中国の古代の人が言ってるんですか。

佐々木

はい。数式、言語、絵画が総体として存在することによって、初めて人間の意識の根源が十分に表現できる。それぞれが補い合っていて、どれも無視してはいけない。そういう事を言っています。

中村

そうですか…。私も今一生懸命そういう事を考えているのです。ガリレオが言うように科学は自然を数式で表してきました。しかし生物学は、数式で書けるわけがないと思い、生命科学をやめて生命誌(バイオヒストリー)にしましたのは、数式で書けないものを語ろうという意味を入れたのです。「誌」は物語り、ヒストリーですから。ところが、言語でも語りきれない、例えば「暗黙知」とか、誰も文字にしなくても伝わっていく職人の「技」とか、そういうものはどうやって表現しよう、まだ何かあるなと思い始めています。『愛づる』をキーワードに考え始めたのは、まさにそういうものを束ねるところいそれを置いてみたいということなのです。うまく表現できないけれど、そのまま見つめ素直に表現しわかるという「気持ち」です。

佐々木

その構想にはまさに、人間の意識の根源の総体を把握する要素が全部詰まっている、と言っていいでしょうね。

中村

生きものや人間、生命や自然という存在を、ある一面だけから攻めていって太刀打ちできるものではない。花が咲き、鳥が飛ぶ、それに対して、この頃の生物学はあまりにも一面的な見方しかしていません。21世紀にしては野蛮なアプローチじゃないかという気がするんです。

佐々木

おっしゃる意味はとてもわかります。

中村

もっとソフィストケートしたアプローチはないのかと。突然飛びますが、アメリカのイラクに対する戦争は、さまざまな要素を全て検討し、これ以外に答がないということで行われたものではありませんね。とても一面的。ですから野蛮で理不尽に思えるのです。今、社会が一刀両断みたいに動いている中で、生きものの研究までそうなってはいけない。

佐々木

わかりますね。

中村

応挙がすばらしい表現法を考えた経緯を伺い、中国の昔の人の考えを教えていただき、人間なにも進んでいないどころか、おかしな方向に進んでいるかもしれない。

佐々木

私も、こういう事をやってますと、つくづくそう思います。

中村

私も十年も考えたのになんだか少しも考えきれていないという気がしますけれど、でもきっと今のような忙しい世の中じゃない方が、本質を見つめる時間はあったのかもしれませんね。大学の制度改革とかたくさんの会議とかやめたら、皆がもっと考える時間を持てるかもしれませんね。

佐々木

昔、中国で、私は文人(ぶんじん)と呼んでいますが、士大夫(したいふ)というステータスがありました。平たく言えば高級官僚ですが、その士大夫は、まず一番にどうしたら人々の生活が幸せになるかを考えるって言うんですね。

中村

そうでなければ困りますよね。

佐々木

それを大前提として、理想を持って突き進んでいくのですが、人間社会ですからどうしても葛藤がある。そうすると、この今の軋轢、自分の思いの達せられない世界から、一時自分は身を引こうと隠遁するのです。隠遁というのは、仙人になるようなイメージがありますが、もともと士大夫の世界で起ることなのです。彼らは政治的ですから、一時、山にこもってじっくりと政治を考え反省してみようと。自然と一体になって、自然の英気をもらってですね、そこでもう1度自分をリフレッシュしてみようと。隠遁とはそういう考え方なんです。

中村

それで、ゆっくり考えてからまた出てくるのですね。

佐々木

実にうらやましい話ですが、それが中国の士大夫の世界だったわけです。だからそういう世界では、彼らは有能な政治家であると同時に、非常に優れた詩人であるとか、画家であるとか、全部兼ねているわけです。

中村

地位のある人はそれが一緒にできなければいけないわけですね。現在の世の中で、一番欠けているのが品格ですしね。

佐々木

そうです。そういう事が、非常に訓練された世界だったのです。品格という言葉が出ましたので言いますと、士大夫が絵画に対して一番問題にするのも、表現そのものの品格です。今でこそ、品格を問題にすると何かちょっとやりにくいところがあるんですが。

中村

でも品格を大事にすべきだと思いますね。これだけ経済的にも余裕が出来てきた時代に、何をやらなければいけないかというと、そこではありませんか。どこをどう考えていっても昔の人にはかなわないという気持ちになってしまいますが。21世紀の品格ある生き方を探りたいですね。

佐々木

確かに生活は便利になり、多くの面で俗に言う文明は進歩しているかもしれませんが、無くするものも大きいでしょう。

中村

大学も、学問の場としては堕落の一途をたどっているような気がしますし、法人化も全く逆の路線ですよね。

佐々木

全く、同じ思いをしております。でも物事には、善循環というのがあるでしょうから、今は悪循環かもしれませんが、どこかで切り替われば逆転して、善循環で全部がもとに戻っていくことになるはずだと。

中村

そうですね。現代文明によってこれだけのポテンシャルができた事はいいことです。このままじゃいけないと思ってる人も少しずつ増えていますから。私は幸い研究館という場を持たせていただいて、感謝しています。

佐々木

全てが数式だった科学の世界に言語の世界を導入してみようとか、それでも表現できないものの要素を導入してみようとか、そういう構想は、人間の本性を考える本質的な、基礎的な事だろうと思いますね。たまたま中国の話をしましたが、研究館に伺って、人間の根源的な意味の世界を表現する3つの要素をこういう形で実現化されようとしているんだなと思いました。科学者がこんなことをお考えになっていることを知り、私の研究と共通するものも感じました。生きものを見るという点で繋がっていることもわかりましたし。

中村

芸術は、人間の本性の表現として根本的なところですし、日本の知として、特に生きものに関する知として、今日伺った応挙を中心に、もっと広くお教えいただきたいと思いました。そういうところから、人間も含めた生きものに関する知を少しづつ作っていきたいと思いますので、これからもいろいろお教えください。

佐々木丞平(ささき・じょうへい)

1941年兵庫県生まれ。京都大学文学部卒業。文化庁文部技官、調査官を経て、現在、京都大学大学院文学研究科教授、同大学附属図書館長。 美学、美術史学(日本近世絵画史)専攻。

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