BRH Scope
オサムシと生物研究、そして社会
虫好きの趣味にも見られていたオサムシ研究が、当初の目的以上の成果を生み出し、驚くほど多方面に刺激を与えることになった。
オサムシ研究が、生物・自然の研究に、そして社会にもたらしたものは大きい。
CHAPTER
オサムシ研究の凄さ
いくつもの研究成果を次々と生み出した、生命誌研究館のオサムシプロジェクトが終了した。
研究館で研究に携ったスタッフは常時数人だったが、大勢のアマチュア研究家たちと一緒に研究を進めることで、35ヵ国、2000個体以上ものオサムシのDNAが分析できた。一つの生物グループを徹底的にDNA分析した例としては、おそらく世界でも最大の個体数と分布範囲だろう。
何といっても世界中から生きた材料を集める(多くの昆虫が乾燥標本ではDNA分析できない)のは簡単なことではない。米国のスミソニアン博物館や、大英自然史博物館といった伝統ある欧米の研究機関でも、今回のオサムシ・ネットワークのような強力な体制は簡単には作れないだろうし、実際にこれに匹敵する規模の研究は行なわれていない。
もちろん、オサムシ研究の特徴は、試料収集の規模だけではない。DNA解析に基づく世界規模の系統樹を構築することで、生物の進化と地史との関係を明らかにし、生物進化のメカニズムに関する仮説を提出、さらには昆虫研究者のDNA解析に対する理解を飛躍的に高めた。ユニークな研究の進め方と成果が、アマチュアにもプロにも、そして、昆虫の世界から地質学、進化生物学に至るまで、驚くほど多方面に影響を与えることになったのである。こうした専門の枠を超えた広がりの大きさが、他の研究には見られないオサムシ研究の「凄さ」だ。
研究へのインパクト
今年2月、高槻で行なわれたシンポジウム「DNAで辿る昆虫の系統と進化」は、オサムシ研究の広がりを象徴する会だった。全国から200人が集まり、熱気溢れる会となった当日は、大澤省三顧問や蘇智慧(スーズィフィ)研究員たちオサムシ研究グループの発表に加え、チョウやトンボ、クワガタムシなど、オサムシ研究に触発されて始まったDNA解析の結果が報告された。チョウについては、基礎生物学研究所の毛利秀雄所長と東京大学名誉教授の尾本恵市氏が中心になってオサムシと同様の体制を作り、ニュースレターを発行して研究を始めている。面白いのは、これまで研究者としては別のことを専門にしていた「隠れチョウ屋」たちが、オサムシの成功のおかげで堂々とチョウの研究を始めたことだ。
クワガタムシの発表をしたのは、京都大学大学院人間・環境学研究科の荒谷邦雄氏。もともとは生態学と形態に基づく分類に携わっていたが、1996年夏に生命誌研究館で行なわれたサマースクールに参加したのがきっかけで、DNAの実験を始めた。参加する前はDNAを使った方法に懐疑的で、「敵を理解したうえで批判してやろう」と意気込んでいたそうだ。
それが今では、「DNAによる系統樹を重視しながら、形態による分類や生態の研究など、すべてを総合して進めるのが理想の研究方法だ。DNAは万能ではないが、系統や進化を考える出発点になり、欠かせない武器の一つ」と言い、クワガタムシのオスとメスの形の違い(性的二型)が進化の過程でどう変化してきたかを探る研究を進めている。「オサムシ研究がなければ日本の昆虫系統分類学は10年遅れていた。大澤先生は学問を進めるうえで非常に大きな影響を受けた人」とまで言い切った。
クワガタムシの系統をDNAで見る
(左) 16SリボソームDNAを使ってクワガタムシの系統樹を作ってみると、大アゴの大きさの雌雄差が大きいもの(赤字)は、雌雄間で差がない、または差が小さいもの(青字)から独立に別々の系統で(オオクワガタ+ノコギリクワガタのグループ、ネブトクワガタ、ミヤマクワガタの3つの系統で)生まれたことが予想される。
(右上) オオクワガタ
(右中) ミヤマクワガタとアオカナブン
(右下) ネブトクワガタ
(写真=山口進、原図=京都大学人間・環境学研究科・荒谷邦雄)
影響を受けたのは昆虫研究者だけではない。東京工業大学の岡田典弘教授は、独自のDNA解析により、クジラがカバに近縁だということを証明し、世界的に注目されている。さらに最近、クジラ目全体の系統樹を明らかにし、ヒゲクジラやハクジラなどの主要なグループが、今から約3500万~3000万年前に一斉に多様化したという結論を得た。「インド亜大陸が北へ移動、冷たい水が南極のほうからインド洋に入り込み、環境が大きく変化した。それでクジラたちは一斉に多様化したのではないか。オサムシの一斉放散のすぐ後のことだが、環境の変化と多様化が結びつく点はそっくり。オサムシ研究から学ぶことはじつに多い」と語っている。
オサムシからヒト、そして学問のあり方へ
オサムシ研究のリーダー・大澤顧問は、オサムシ研究について「単なる分子系統学ではない」と言い続けてきた。DNA解析でオサムシのより客観的な系統関係がわかること自体重要だが、それ以上に重要なのは、そこから生物進化の一般原理が見えてくることだ。
これまでは、進化の歴史の中で生物は徐々に変化するという考え方が主流を占めていた。ところが、オサムシの進化はそうではなかった。一斉放散やタイプスイッチングと名付けられた現象でわかるように、形態は、変わる時には急激に変わり、それ以外の時は長期間変化しない(静の進化)。このように形態が変化する時期と変化しない時期が交互にやってくる進化様式を、研究グループは「不連続モデル」と名付け、進化の原理として提唱している。このモデルが、どこまで一般的に通用するか、他の生物での研究が待たれる。
連続モデルと不連続モデル
オサムシの研究から見えてきたのは、これまでのイメージ(連続モデル、左)とは異なる進化の様式(不連続モデル、右)だ。
(原図=大澤省三)
そんななかで、ヒトとその近縁種であるチンパンジーの進化は、じつはこの「不連続モデル」で説明できるのではないか、という推論も可能だ。すなわち、約500万年前にヒトとチンパンジーが共通の祖先から分かれてから、チンパンジーの系統では形態があまり変化しなかった(静の時期がずっと続いた)が、ヒトに至る系統では、(はっきりしないがおそらく数回の)形態が大きく変わる時期とその前後のあまり変わらない時期を経て、現在のホモ・サピエンスに至ったのではないかという考えだ。
不連続モデルが正しいかどうかを検証するには、形づくりの研究である発生生物学が進み、ゲノムの変化と形態の変化の関連を系統的に解明する必要がある。その意味で、オサムシ研究が提起するのは、最近日本でも盛り上がってきた「発生と進化」を関連づけた研究(「エボ・デボ」ともいう)そのものであり、多くの発生生物学者が関心をもってよいテーマではないかと思う。
最後に、オサムシ研究は、学問のあり方についても大きなメッセージを投げかけたことを記しておきたい。なぜこれが大学ではできなかったのかということだ。実用性のないオサムシという昆虫、アマチュアとの共同研究など、硬直したアカデミズムからは出てこないテーマとやり方だ。ところが今では、オサムシ研究こそが真のアカデミックな研究と呼ぶにふさわしいと、何人もの学者が言っている。
何をやるかをじっくり考える暇もなく、お金が先で、とにかく論文が書ける研究をという昨今の風潮の中で、オサムシプロジェクトのような研究がなぜ大学でできないのかは、一度深く分析すべきテーマかもしれない。
だが、もっと重要なのは「人」だ。大澤顧問は、江上不二夫博士の「他人が面白いと言うことや、今面白いことはやるな、自分で考えたテーマを面白くせよ」という言葉をしばしば引用する。次なる「オサムシ研究」が生まれるかどうかは、他人と違ってもやがて面白くなるはずと信じることをやる勇気のある人 — 大学院生でも、アマチュア研究家でも、退官した大学教授でも — がいるかどうかにかかっている。
ヒトの進化も不連続?
ヒトとチンパンジーは、約500万年前に共通の祖先から分かれたと考えられている。その後、ヒトに至る系統では、猿人(アウストラロピテクス)、そしてホモ属(Homo)の段階(ホモ・エレクトスなど)を経て、ようやく現代人(ホモ・サピエンス)が生まれたと考えられている。500万年間に起こった形態変化は、もしかすると何回かの不連続変化のくり返しで説明できるかもしれない。
(かとう・かずと/本誌)
※所属などはすべて季刊「生命誌」掲載当時の情報です。