自然科学と社会科学
自然科学の論文を読んで書いてきた者から見ると、実地調査に基づく論文などは別として、社会科学の論文(著作)では概して定量的なデータに乏しい。特に、歴史的、世界的な事象においてはデータを集めること自体が難しい。そこで、社会科学者は資料(エピソード)から主観(仮説、学説、歴史観、世界観)を形成し、さらにそれに合う資料(エピソード)を収集し、主観を洗練し肉づけし、論文(著作)を書く。それはそれで、説得力がある場合も多いのだが、内容がある程度、物語のようになってしまうのはやむを得ない。また、主観は人それぞれなので、なかなか決着はつかず論議は尽きない。

データに基づく社会科学
と、思っていたが近年、データをそろえた上で議論してゆく社会科学の研究成果が発表されるようになった。その中でもほとんど自然科学なみなのはトマ・ピケティの「21世紀の資本」(2014年みすず書房)および「平等についての小さな歴史」(2024年9月みすず書房)である。ページをめくるたびにグラフがある。膨大な資料と定量的なデータで示される不平等の事実は、どんな立場の者も認めざるを得ない。これからは、不平等をめぐるどんな議論もここから出発する。

生活に直結している経済学は市民の常識であるべき
自然科学論文は、introduction, methods, results, discussionから構成される。それにならって、ピケティの論文(上記の2書)から欧米と日本における経済的不平等に関する部分を抜きだして要約してみた。図はことわりの無い限りピケティたちのデータベースから引用した。ピケティは「経済問題は非常に重要で一握りの専門家や指導者たちに任せてはおけない。(平等を求める運動で)力関係を変えるには、市民が経済に関する知識を得ることが一つの重要なステップなのだ」と言う。たしかに、近現代の富の分配の歴史と実情のデータは政治的立場に関係なく客観的なものであり、たとえば、高校の歴史や社会の授業で教える価値があるし、現代市民の常識とする必要があると思う。以下、紹介するが、青字は私のコメントである。

Introduction
1850年以来 マルクスは「資本主義が進めば、労働者は窮乏し格差は拡大する」と主張した。しかし、米国を見ると1940年、富裕層の所得シェアーは突然、大きく減少し、社会の格差は減少した。これを見て、米国の経済学者クズネッツは「資本主義が進めば格差は解消してゆく」と主張した(1950年)。この考えは広く受け入れられ、クズネッツはノーベル経済学賞を受賞した。資本主義の未来は万人にとってバラ色に見えた。経済学者は、社会における富の分配に関心を失った。しかし、クズネッツの死後(1985年)、富裕層の所得はずんずん上昇した。何が起きたのだろうか。

と、思っていたが近年、データをそろえた上で議論してゆく社会科学の研究成果が発表されるようになった。その中でもほとんど自然科学なみなのはトマ・ピケティの「21世紀の資本」(2014年みすず書房)および「平等についての小さな歴史」(2024年9月みすず書房)である。ページをめくるたびにグラフがある。膨大な資料と定量的なデータで示される不平等の事実は、どんな立場の者も認めざるを得ない。これからは、不平等をめぐるどんな議論もここから出発する。

Methods
1800年以降の世界各国の経済データをできるかぎり収集して統一した座標にのるように標準化した。およそ100人の経済学者が協力し、20年以上かけてデータベースができた(URL:WID world (world inequality database、現在も更新中)。格差を表すのにジニ係数などを使わず、もっと直截に、成人の国民を富裕の順に上から並べて、トップ10%の富裕層(the richest)あるいはトップ1%の超富裕層、中位40%の中間層、下位50%の庶民(the poorest)にわけて、その間の富の分配(シェアー)を比較した。

Results
所得の不平等
ヨーロッパ(下図青線)は第1次大戦後、米国(下図赤線)は第2次大戦後に不平等が減少して平等化へ近づいた。しかし、1980年以降、世界的な大きな反動が起きて、10%富裕者の所得分配は増加に転じてそれは現在も続いている。特に、米国では顕著に増加していて、100年前のレベルに近づきつつある。これと鏡像的に、50%の貧困庶民の所得分配は1940-1980年の間に増えたが、それ以後減少している(特に米国がひどい)。

財産(資産、富)の不平等
財産の不平等は所得よりもさらに激しい。1930年以前、10%の富裕層は、実に国富の90%(ヨーロッパ 青線)、83%(米国 赤線)を所有していた。ヨーロッパは植民地経営と貴族的な土地所有などの不平等により、米国よりも格差がひどかった。しかし、1930-1985年の間に、10%富裕層は財産シェアーを25%(米国)、35%(ヨーロッパ)減らし、減らした分は、40%を占める中間層に流れ込み、中流階層が生まれた。人口の半分50%を占める庶民に流れ込んだ富はわずか数%(ヨーロッパ)あるいはほぼゼロ(米国)だった。1985年を過ぎると、富裕層は財産シェアーを増やしはじめ、それは現在まで続いている。中流階層のシェアーは減少しつつある。50%を占める庶民は、過去も現在も(特に米国)一貫して財産と言えるものをほとんど持っていない。富裕層はスイスの銀行など国外に資産を秘匿しているので、実際はさらに不平等は大きいだろう。

富裕層は庶民の何十倍の財産を持っている
人口の10%の富裕者1人と50%の庶民1人の財産を比べてみる。1913年のヨーロッパでは、1人の富裕者は庶民450人分の財産をもっていた。富裕者は貴族と産業資本家であろう。
現在のヨーロッパでは、人口の10%の富裕者1人は庶民55人分の財産をもっている。富裕層の中でも格差は大きく、トップ1%の超富裕者1人は庶民250人分の財産を持っている(フランスの例)。40%の中流階層はむしろ10%の富裕者に近い財産(庶民40人分)を持つようになった。米国では、人口の10%の富裕者1人は実に庶民180人分の財産をもっているし、さらに富裕になりつつある。

日本
日本はどうか。財産のデータは最近のものだけだが、人口の10%の富裕者1人は、人口の50%を占める貧困庶民の70人分の財産を持っている。庶民の財産を100万円とすると、富裕者は7000万円の財産を持っていることになり、大きな不平等がある。
所得は不完全ながら明治以来のデータがあるようで(点線)、かつて国の総所得の60%超を得ていた富裕層は、欧米と同じく、1920年ころから所得シェアーを減らし、1950年にはかつての半分ほどになった。しかし、1980年ころからまた所得シェアーを増やしていて、現在は、庶民15人分の所得を得ている。

2度の世界大戦で没収に近い累進課税
20世紀初めまで、どの国でも所得税も相続税も、ほとんどゼロか、あるいは存在しなかった。しかし、日本では日露戦争を契機に(下図 所得税と相続税の最高税率 赤線が日本)、世界では第1次世界大戦を契機に、組合運動や政治運動が盛んになり、また戦費調達の必要もあり、富裕者に累進性の所得税と相続税が課されるようになった。第2次世界大戦では、さらに累進が強化され、超富裕層の所得税率は
英国 98%
米国 90%
ドイツ 90%
日本 85%
に達した。ほとんど所得の没収である。こんなことが可能だったのだ。
相続税はどうかというと、1940-1985年ころ、英国、日本、米国では70%を超す最高税率が超富裕層に適用された。ただ、フランス、ドイツはこの期間、最高税率は15-40%程度だった。


1980年以降、累進税率が下げられて不平等が拡大
高い累進課税は戦後もしばらく維持されたが、1980年あたりを境に累進税率はどんどん低くなった。そのために、日本の場合、超富裕者の手取り所得は1980-1990年の10年で2倍となった(上記所得税図の赤点線)。手取りの相続額は1987-2003年の15年でやはり2倍になった(相続税図の赤点線)。庶民の手取りはほとんど変化しない間に、超富裕者の高額の手取りは倍加しているのである。

超富裕者と庶民の実効税率は同じになった
一般に富裕層は大きな金融資産を持ち、そこから得る金融所得の税金は安い(米国では、株の取引あるいは配当で何億ドル儲けようとも長期キャピタルゲイン税率は20%、日本も同じ)。そのうえ上記のように所得税が富裕層優遇に変えられたために、トップ0.01% - 1% の超富裕者と50%の庶民の実効税率はほとんど同じ、約30%になってしまった。さらに、超富裕者は損失の繰越控除などの合法的な脱税術を駆使しており、イーロンマスクやトランプなどはほとんど税金を払っていないという(公開を拒否している)。企業幹部は、ほとんどそのまま手元に入ってくる所得を喜んで、自分の給料を自分で上げるようになった。
富裕者に高率の税金をかけると、富裕者は働く意欲を失い経済は停滞してしまう、と主張する人もいる。しかし利潤最大化を追及する資本家の意欲は衰えないだろう。事実、高い累進性の時の方が経済成長率が高い。

政府・自治体の資産は減り、民間資産(多くは富裕層のもの)は増えている
1980年以降、税の累進性緩和などにより富裕層の資産が増えることで民間資産は増え続けている。日本の場合、1980年に国民所得の4倍だった民間所得は2010年には国民所得の6倍に増えている。富裕層からの税収が減るので、政府の税収は不足し借金(国債発行)を重ねる。その結果、公的資産は減少し続けている。日本の場合、1980年に国民所得の8割程度あった公的資産は2010年には1割程度になっている。これだけ見ても、税制の機能不全は明らかと思える。

富む者はますます富む・・政治が何もしなければ・・
その収益率(r)が国の経済成長率(g)を上まわるならば(ピケティによれば特殊な状況でない限りr>g は成立するという)、不可避的に富む者はますます富んで社会の格差は増大する。また、大学進学など、形式的には平等だが実質は富裕者の子供が恵まれており、世代を越えて格差は固定されていく。データのそろっている米国の例では、親が裕福であるほど大学進学率が高い。トップ10%以上の富裕者を親に持つ子供のおよそ90%は大学に進学するが、底辺20%以下の貧困な親の子供の進学率は40%以下である。これは日本でも同様だろう。たとえば東京大学の入学者はあきらかに富裕者が優先している。



夜警国家 vs 社会国家
富の再分配には、収入や資産の他に、政府による福祉などの非営利公共事業が含まれる。19世紀、政府予算は国民所得のたったの7%だった。そのころの国家は、「夜警国家」、つまり政府は夜警のように治安さえやってくれればいい、という国家だった。しかし政府予算は1910年から増加し始めて1980年には国民所得の45%になっている。増加した予算はおもに「社会国家」に使われた(右図 ヨーロッパの政府予算の使途)。社会国家とはピケティの用語で、非営利非資本主義的な社会福祉や公共事業を行う社会である。社会国家で恩恵を受けるのは主として庶民である。未だ不十分とはいえ、夜警国家から社会国家への歩み、これは20世紀最大の進歩のひとつといってもいいだろう。庶民・労働者による運動がこれを実現した。
社会国家のレベルは、目に見えないが、庶民と富裕層・資本家の間の力関係で決まっている。富裕層・資本家の理想は夜警国家である。富裕層の人たちにとって社会福祉など必要ないし、そもそも、資本主義的な利潤目的の経営を否定する非営利の社会事業に対して敵意をもっている。そして、「規制緩和」とか「行政改革」とか「官から民へ」などと社会国家への攻撃は常に続けられている。現在、米国のイーロンマスクとトランプ大統領がやろうとしているのは、社会国家への支出を極限まで削ることである。

Discussion
以上は、欧米と日本の国内における経済格差の拡大のデータである。自然科学論文と同じく、格差についていろいろ異なる立場の者も、このデータを前にして議論しなければならない。ピケティは、この不平等は是正が必要である、と考え、そのための議論を展開する。資本主義がほとんど自動的に不平等を拡大するものならば、資本主義以外の社会的な方策や契機によってのみ、不平等拡大を抑え平等への道を開くことができる。すなわち、政治である。政治を変えるにはどうしたらいいか。今までの歴史をふりかえるならば、
①平等化の歩みは、平等化への強力な運動・叛乱・闘争があった時のみ、前進した。庶民・労働者の運動が必要である。
②しかし、運動だけでは不十分である。代替の制度について民主的、集団的な議論を重ね、合意を形成することが必要である。不平等・抑圧を告発することはたやすい。一方、民主的な合意形成ははるかにむずかしい。しかし、闘争だけでは全く違った政治が出現する危険性があるのだ(ロシア革命はスターリンの恐怖政治に帰着した)。
ピケティは、②のために、いろいろな政策を検討している。具体的な施策のはピケティの本を読んでいただくとして、項目だけあげれば、累進課税の強化、不動産だけでなく金融資産への毎年課税、相続の社会的再分配、富の国外逃避の制限、諸制度の実質平等化、ベイシックインカムと雇用保障、企業における権限の共有、教育の平等化、社会国家の拡大、など、どれをとっても大変な社会変革となる。さらに、国際的な不平等の是正も検討している。とにかく、市民が経済の知識を自分のものとすることが、これからの闘いに欠かせない。

付論・・以下、ピケティを読んで考えたこと
「小さな政府」志向を越えて
社会国家への歩みは1980年代以降になると停滞してい社会国家への歩みは1980年代以降になると停滞しているように見える。新自由主義が力を得て、全世界的な富裕層の巻き返しが始まったのである。サッチャー、レーガン、中曽根政権・・。現在でも社会国家の前進と後退をめぐって、富裕層と庶民・労働者の運動が絶え間なく衝突している。そこでは、庶民の間にひろがる2つの思い込みが富裕層を利している。
社会国家は必然的に大きな政府になる。夜警国家は小さな政府となる。小さな政府でいい、と考えるなら、社会国家は実現しない。右の図はOECD発表の各国の(公務員の数/全労働者の数)の比較である。日本は一番右、各国中最低で6%、社会福祉の進んでいる北欧は25-30%である。これを見て、これでいい、公務員は最少でいい、政府は小さくていい、その方が税金が安くていい、と思う庶民は多いのではなかろうか。しかし、介護や福祉や年金や雇用保障や生活保障、病院や保健所など健康保障行政、教育・学校・図書館などにもっと予算を使いその部署で働く人を増やすことは、結局、格差を実質的に大きく是正することになり、庶民にとっていいことなのだ。政府を小さくすることを目標にしていてはだめで、税制を1980年以前に戻し政府にはもっともっとたくさんのいいことをやってもらう必要がある。

「能力主義」「自己責任」を越えて
もう一つ、格差是正を阻む強力な資本主義イデオロギーがある。すなわち金持ちは有能勤勉な成功者であり、富は当然の報酬だ、なぜ成功者にペナルティ(累進課税)を与えるのか、貧困者は能力と努力に欠ける者であり自己責任で貧困となったのだ、なぜ失敗者に報奨(福祉)を与えるのか。そして、金持ちは自分が金を持つに値する人間だと思い込んでいる。自分たちの豊かさが 誰かから奪った結果かもしれない、などと決して思わない。貧乏人の中にも、貧乏は自己責任で仕方ないと思い込んでいる人も多い。自分たちの貧困が どこかに奪われた結果かもしれない、とは思わない。
そうだろうか。
富はいろいろな形態をとるが、その究極の源泉は労働である。自分の労働で生産している農家や漁師や自営業を考えれば、1人がなしうる労働は何十人分もあるわけではない。大きな組織になれば役割分担があるが、その役割も全体の一部として初めて意味を持つもので、1人で何十人分の働きをしているわけではない。では、イーロンマスクはなぜ、働く庶民200万人分(京都市の労働力人口の約3倍!)の年収を得ることができるのか。それは、多数の働く庶民の本来の所得の相当部分をかすめとっているからである。したがって、労働者・庶民がいなければ富裕者は存在しえない(逆は真ならず、富裕者がいなくても労働者・庶民は存在しうる)。
富裕者は言う。労働の量は同じだが、質が高い、大事な役割を果たしているから、高給なのだと。たとえそうだとしても、現実の格差は大きすぎる。日本で一番の最高幹部の首相職でも年収4030万円、日本人平均(460万円)の 10倍に及ばない。ギリシャのプラトンは『法律』の中で共同体の人々の間の所得格差は最大でも4倍以内とするべきだ、と述べているそうだが、確かにそれ以上の格差は共同体の中に対立と分裂を生じさせ、いづれは共同体の変質・・権力支配の構造に・・をもたらすだろう。

不平等が進行すれば何が起きるか
ピケティは「資本主義は自動的に恣意的に持続不可能な格差を生み出す」と述べるが、持続不可能となった時に何が起こるのか、何も説明していない。それを考えてみる。
トランプ大統領を生み出した米国の政治のありさまがその症状なのではなかろうか。トランプは少数の富裕層の支持で大統領に選ばれたわけではなく、50%の庶民が彼を選んだのだ。
米国民の間の経済的な格差は世界でもっともひどくて今でも格差は拡大し続けている。米国は民主主義の国と思われてきた。しかし、経済格差の底辺にいる人々にとってはどうだろう。インテリでエリートの政治指導者は民主主義といいながら長く政治を行ってきたが、自分たちはこの社会の中で疎外されみじめなままだ、という感情が広がっていたと思う。
エリートたちは言う、「この民主主義社会において機会は均等なはずだ、大学に入り勤勉に努力すれば成功できるはずだ」。これは経済格差の底辺の人々に向かって「君たちは能力と努力に欠ける者だ」と言うにひとしい。こういう「暗黙の侮辱」を受けている人々の間に、エリートと現在の不平等社会に対するはっきりと意識されないが隠然たる怒りが蓄積する。そこに、扇動政治家が出現し、敵を作り出し、攻撃し、再び偉大な国家を作るのだ、と声高に唱えると庶民の間に支持がひろがる。デマか真実か、は検討されることなく、彼らをみじめにしている現状を打破するという主張が気分よく受け入れられる。富裕層も自分たちの特権を侵す平等主義的左翼よりもこういう扇動政治家を支持する。拡大する不平等こそがトランプ大統領を生み出した。これが米国で起きていることではないだろうか。
別の言い方をしてみる。経済(所得と財産)の大きな格差は社会の歪(ひずみ)であり、格差の底辺に大きな歪エネルギーがたまる。そのエネルギーが臨界値を越えれば、今までの支配の継続は不可能となる。そこで、格差を大幅に是正してゆく経済民主主義の実現への大胆な方向転換を約束する党派がなければ、格差から目をそらして敵を作り出し攻撃する扇動と欺瞞の政治家が出現する。2016年にヒラリーと民主党大統領候補をあらそったサンダースは社会国家をめざしていた(「民主党は労働者の側に立って、ウォールストリート、従業員を搾取する大企業、製薬業界、医療保険業界、化石燃料業界、軍産複合体、などの既得権者と戦う党でなければならない」と説く)。しかし、今までの継続を唱えるヒラリーが民主党の大統領候補となり、トランプに敗北した。次の選挙でアメリカ国民は民主党にもう一度チャンスを与えたが、バイデン大統領の政治は、オバマ(“change”と呼びかけ、オバマケア--医療保険制度の大改善--など推進した)と比べてもはるかに無気力な継続だった。この間、大改革を唱えるトランプによって共和党は劇的に右翼的となった。対抗して民主党も左翼的に変わらなければならかった。しかし、民主党はその自覚無く、バイデンを踏襲するハリスはトランプに大差で敗れた。
不平等の上に成立する扇動政治家は不平等を解消できない。かわりに国内と国外に攻撃すべき敵を作り出し、攻撃をくりかえす。そこにナショナリズム・偉大な国家信奉・大国覇権主義が結び付けば国際関係は荒々しく敵対的になり、戦争の危機が迫る。
追記:ピケティは「資本とイデオロギー」(みすず書房、原著2019年、訳書2023年 1128頁の大著)で格差と政治について膨大な歴史的現状分析をおこなっている。「バラモン左翼」vs「商人右翼」など示唆に富む。
