歴史好き
私自身の経歴――これを私誌という――については、これまでさまざまなところで語ってきたし、いささか興味をもってくださる方もあって、あちこちに書きもしたので、繰り返して語るのはあまり気のりがしない。しかし、今回は、わが生命誌研究館の刊行する雑誌『生命誌』のサイエンティストライブラリーのためのもので、いわば私にとっての「本命的」なものである。だから、ここでは、私が生物学の世界で生きてきた半世紀の私個人とその周辺との人間的なかかわりと、そのなかでの私の時代への感受性の変化といったことを中心として、かなりホンネで語ることで、私個人の自己紹介を、改めてこの機会にやってみたい。
科学は、生産物の表現方法と質においては芸術や文学とはまったく別のものではあるが、いずれも人間の創造性の表現であり、そこには共通のフレーバーがあり、いずれも時代の歴史、思想と無縁ではあり得ない。歴史は、それぞれの国や地域、また、人(民族)にまさしく固有のものである。だから、科学といえども、その場所の、その時代であったればこそ、そういう発見があり、そういう学説の提唱があったのである。私にこのことを実感させたのは、すぐあとで語るように、私が若者として多少は時代への感性をもつことになった時代が、イデオロギー過剰であり、生物学においてもルイセンコ説というとんでもないものが席巻していたのと無縁ではないことを告白しておこう。生物学は人間の歴史のなかにある。この私の想いを私自身の私誌と並行させながら語ってみたい。
甲南高等学校時代 ―― 日本の純粋科学の黄金時代
19世紀は、生物学は博物学のなかにあった。というのは、ここでは行為としては、収集と整理と記述だけが主体であった。しかし、20世紀に入ると知識の集積でなく、生物の現象の因果的な解析とその実証への要求が強く出てきた。遺伝学と発生学、それに生理学がその動向の3本柱であったといえる。最初は観察によって因果関係を求めたが、生理学において、多少、生きものの機能を物質の働きや、物理学の法則で語るようになった。私が生物学の勉強を、いわば将来の職として始めたのは、こういう時代であった。
そもそも当時の日本人は、新しい学問を取り入れることに強い感受性があったと思う。進化論を、博物学的色彩のみの過去の遺産として絶縁したところから新しい生物学を求めようという動きはすでに1930年代には確実に日本にも伝わっていて、これは私の関心を大いに刺激したと思う。私が後に、イギリスに留学した時、かの国の友人が、いささかシニカルに、わざわざ遠くから勉強にきてもらうほど新しい生物学はここにはない、と言ったが、あながち謙遜でもうそでもなかった。かの国は、ダーウィンを生んだがために、あまりにもその大きな影響のもとにあって近代化は遅れていたというのだった。
ドイツのウィルヘルム・ルー(1850 ~1924 、動物の器官形成の仕組みを実験によって研究し、前成説を唱えた)が行なった実験発生学が日本に到来するのはかなり早い。京都大学では、ほかに先んじての岡田要(1891 ~1973 )という動物学の教授がこの方向への学流を日本に定着させた。
彼は、多彩を極めた研究関心のなかで、胚のオルガナイザー(形成体)と胚誘導の問題も扱った。動物の胚には、発生初期の未分化な部分を一定の組織や器官に分化させる部分があり、それを形成体、その作用を誘導と呼ぶ。これは、当時華々しいもっとも前衛的なテーマだった。岡田要は、炭酸カルシウムの結晶とかシリカゲルとかいった無機物をイモリの胚の中に入れただけで、2つめの神経が作られてくることを示した。彼が実験発生学の本を日本語で出版したのが1936 年。続いて新しい実験発生学への関心がさかんとなった。カイコガで実験して、遺伝子の働きとは物質の合成を指令しているのだということを報告した遺伝学者の吉川秀男もいた。当時の日本の世は国粋主義と軍国主義の時代だったが、その反動として若い科学研究者の情熱が顕現した時代であった。湯川秀樹や朝永振一郎の理論物理学の全盛時代もこのころである。日本の純粋科学の黄金時代ともいうべきで、これは終戦まで続いた。
甲南高等学校で私はこの時代の恩恵を受けた。当時全国で七つしかない七年制高校(中学と高校が一貫している)の一つで、京都大学などから新進の学者が教官として来ており、生物学を教わったのが、岡田要の門下の高谷博(たかやひろし)だった。
もっとも、少年期から青年期に差しかかろうとしていた私は、自然や科学よりも、人間の感性のほうに関心をもち、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』などをドイツ語の原文で読むことに喜びを覚える、ませた高校生だった。高谷が良いテキストだと言って貸してくれたアルフレッド・キューン(1885 ~1968 )の『一般動物学の基礎』をドイツ語の原文のまま強引に読破し、とくにキューンの専門でもあり、高谷の専攻分野でもあった動物の発生学に関心をもつようになった。ここで私のドイツ文学へのあこがれと、発生学への好奇心は結びつく。
発生学は、生きものに操作を加えるという当時としては他にはないユニークな実験手法を開いていて、たとえば、1 個のカエルの卵を2つに分けるとそれぞれがちゃんと1 匹になるということを示す。ここで、卵は2 匹になる可能性をもちながら、なぜ1 匹に育つのかというような哲学的な問いが出てくることになる。それまで自然科学はつまらないと思っていたが、発生学のもつ神秘さと奥深さは、人文指向の人間である私を魅了した。
京都大学時代 ―― イデオロギーの時代
京都大学に入学し、やがて大学院でいわゆる研究らしきことを始めた時代(1949 ~ 50 )を歴史的に特徴づけると、まさにイデオロギーの時代だった。科学は、政治や歴史などの人文的な学問や芸術などと違って完全に客観的なものであり、イデオロギーなど無関係というのが原則だろうけれど、この時代では、科学も確かにイデオロギーのもとにあるらしい様相を呈していた。
ソ連のイデオロギーに基づく社会主義の体制のもとで、獲得形質が遺伝すると唱え、力づくで科学を動かしたのがルイセンコルイセンコ(1898 ~1976 )1935年、コムギの遺伝的性質を人工的に変え、耐寒性のコムギを作り出した(春処理)と発表、獲得形質の遺伝を提唱し、遺伝子説を批判した。38、ソ連農業科学アカデミー総裁となり、反ルイセンコ派の生物学者を追放するなど、ソ連では、政治を巻き込んだ深刻な論争を引き起こした。
だった。メンデルの法則はこのイデオロギーのもとでは認可されないというのだから、これが近々半世紀前のことだったのが、まったく信じられない。日本の大学でも、遺伝学から植物生理学まで、ルイセンコ派の教官が数多くはないにしろ存在していて、彼らはいわゆる若者たちにもてていた。京大の徳田御稔(みとし)の書いた『2つの遺伝学』という本はバイブル並みにもてはやされた。後年に分子生物学で名をなす山岸秀夫などは、若いころルイセンコに惚れこみ、当時社会的には花形だった工学部をやめて植物学に転科して実験したほどだ。しかし、直ちにこのルイセンコ噺(ばなし)のいかがわしさに気付いてしまったのはさすがであった。
私がもっとも関心をもっていたのは実験発生学、つまり動物の発生や形態形成がどのような因果関係で生じるかを分析することだった。実験発生学というのは、のらりくらりしており、どちらにも言い抜けられる学問なので、ルイセンコだと明言する人は皆無であったにせよ、あえてこのイデオロギーによってきたる“流行”に刃向かうこともないので、私は静かに身を処することはできた。もっともこれは私の臆病さを告白していることでもある。
当時までの京大の実験発生学の学流では、学生にテーマを与えるのに、お前は目、お前は鼻、お前は尾っぽという調子で分配していき、私には消化管が当たった。それより一時代以前の動物学であると、先生方は、お前は鳥、お前はアリ、お前はアリマキというようにテーマを出したという。これは分類学全盛時代を象徴しているともいえるし、一面では――今日風にいうと――生物の多様性を評価していたともいえる。それはともかく、当時の実験発生学では、実験動物はイモリ、今風にいうモデル動物だった。
イモリやカスミサンショウウオは京都に数多くいたが、今と違うのは、実験動物は、購入するものでも一年中研究室で飼育するのでもなく、自ら野外へ捕りにいくというところだ。
すでに1930年代には世界的に黄金時代にあった発生学も、50年代には物質に還元して説明されなければならないという傾向が盛んとなった。そのためには、発生中の胚は直ちにすりつぶしてタンパク量なり酵素の活性なり、なんなりを測定することが大勢を占めてきた。このやり方は、理屈抜きにして何よりもまずは、私の美学に反した。生きた胚そのものに手術を施して、まるで豆腐に細工を施すようなデリケートな操作にすでに充分に魅せられていた、ということである今日、広く読まれている現代の発生生物学の教科書の著者あるS.F.ギルバートは、1996年に「胚を見つめて―育ちゆく形の美学」という題の論説を著している。。こうした実験は、すぐに結果が出るものでなく、堪忍の一語だった。ホルトフレーター(1901 ~ 92 )が言ったように、初めから部分の発生の予定は決まっていないということだった。周りの組織の影響で、前ができたり後ろができたりすることがわかって、そこには一定のルールのあることが結論できたところで、私の研究の第一期は終了した。この成果は、イモリの胚に魅せられたおかげで古風なやり方に固執したが故だったと思う。このころ立て続けに論文を書き、実験発生学の分野では、当時すでにしてアナクロニズムの傾向はあったが、当時までは古典的伝統に輝いていた外国の雑誌に出した。大いに好評であった。こうした行為は、鎖国的な京都大学の動物学関係では革新的なことだった。
周囲では、あれほどルイセンコ、ルイセンコと言っていた人たちも、間違っていたと明言もせず、いつの間にかゾローッと新しい生物学のほうへ変わっていった。世の中とはそんなものかもしれない。60年代に至っても、生きものの見方としては唯物弁証法にのっとったルイセンコ風の考えが正しいと書いていた物理学者が少しはいたが、生物学者にはそんな根性はなかった。京大の農学部には、木原均(1893 ~1986 )という遺伝学の大権威がいたおかげもあってルイセンコによる汚染も大したことはなく、そのころから少なからぬ数の若者たちはDNA に関心を示していき、日本でのルイセンコの時代は終わった。
イギリスへ ―― 科学のフレーバー
57年、神戸港から船上の45日間を経て、イギリス(正しくはスコットランドである)へ留学した。エジンバラ大学の遺伝学研究所のウォディントン所長(1905 ~75 )から招聘され、イモリ胚の美学から脱皮するためだった。到着して驚いたことには、すべてがまったくの自由に任されていたことだ。
私はそこでの2 年間何を学んだか?ゆったりとティーをすする風景であり、個々の研究結果などよりも、ウォディントンの語る『源氏物語』と『失われし時を求めて』の比較をいかに面白い話題として楽しむかということであった。これは科学の歴史の古い国に許される贅沢だったのだろう。
ルイセンコ論争など影も形もなかったはずだったが、それでもイギリスにはアメリカと違って、イデオロギー的なものがあるということを、私は嗅ぎとることもできた。発生学を遺伝学と統合させることを夢想していたボスのウォディントンがまさにそうだった。彼の言わんとすることは、もちろん獲得形質は遺伝するということではないが、環境との関連を頭から捨て去るのとはちょっと違う。生物を全体として捉えて、発生学と遺伝学の合一の立場から見ているわけで、イデオロギーというのではなく、哲学として、遺伝子決定論に対して奇妙に謎かけ的に反発していた。彼の考えは、“遺伝的同化”(genetic assimilation )とでも訳すべきか、死後四半世紀を経た現在、一部に強い共鳴者を獲得しているのは注目される。
哲学があると必然的に社会的なフレーバーも少しは出るものである。イギリス、とくにそのエリート校、オックスブリッジにも、戦争中はコミュニズムが深く浸透していたらしいし、国の政治の中枢に入っている人間にも、科学の畠の人にも左翼的フレーバーをもったインテリはその当時まではいたようだ。終わったばかりの第二次世界大戦の最大の戦友として、ソ連に対して好感をもっていたということもある。直線的な思考だけでは満足できない人間は、何か個性を求めていたということでもあろう。これは、日本でのイデオロギー論争とはまったく別の世界だ。もっとも翻って今は世の中ではフレーバーの違いなんてものまで吹っ飛んでしまっていて、つまらなくなった。
アメリカへ ―― 細胞分化転換と細胞接着
64年、今度は、カーネギー発生学研究所長のジェームズ・エバートに招かれて、アメリカの研究現場を体験することになった。当時気鋭の発生学者であったエバート所長は、イギリス風インテリとはまったく正反対の、フットボールとプロ野球大好きのヤンキー気質の人物だ。それでいて、私をまったく自由にさせたという点で、ウォディントンと同じだった。
アメリカ滞在中に考えたことは、いったん分化して特徴をもった細胞でも、ときには別のタイプの細胞へと分化を変更すること、つまり、細胞の分化転換が起こるはずであり、これを培養という手段で証明してみたいということだった。帰国して京大理学部に新設の生物物理学科に新しいグループを作るにあたり、この細胞分化転換というテーマを中心のひとつに据えた。67~68 年ごろだった。分化転換を証明する一番よいシステムはレンズだとねらいをつけ、シュペーマン(1869 ~1941 )のもとでイモリのレンズ再生を学んだ佐藤忠雄の門下で、すでに見事な研究成果をあげていた江口吾朗(現熊本大学学長)に名古屋大学から来てもらった。イモリのレンズを取り除くと、ひとみの上側の黒い色素細胞が変化してレンズに変わることが古くから知られていたからである。
私自身はその直前の、イモリに魅せられた消化管の発生の研究から分化転換のテーマへの“転換”に移る時期では、ちょっと立ち止まった状態だった。人間だれしも、灰色の季節をもっているものだ。その間は、私の美学的に魅せられた従来の発生学的思考にどう立脚して、しかもそれから離脱して転換していくべきかということをしきりに考え、流行に埋没することのない自我を求めていたのである。
網膜の黒い色素細胞のレンズへの変化を一つの細胞の培養で確かめる実験は、72 年に最初の成功があった。ニワトリ胚を使って100日間かかる連続観察の成果だった。論文を投稿すると、レフェリーは「かくなる仕事ができたことはうらやむべきことで、おめでとうという言葉あるのみだ」と言ってきた。当時は、まだ研究同業者の間には、競争のみでなく、連帯感のあった“古くも美しき”時代であったということだろうか。それがついこの間の70年代であったことが今ではお伽話のような気持ちがする。
細胞分化転換の話は、当時のソ連で気に入られた。ひょっとしたらレーニン賞!を貰っていたかもしれなかったが、推薦してくれていた男が失脚してしまった。政治とイデオロギーの過剰な国では、科学の世界でも何が起きるかわからない。
こういうローカリズムの面白さと味わいのある時代はたちまち消えてしまい、研究の流れは、遺伝子へ、客観性の確立へと急速に走り、個々の研究者のフレーバーなどは吹っ飛んだ。細胞の分化転換を起こすキーとなる遺伝子は何か。世紀末近くになって旧岡田研究室の安田国雄(現奈良先端大学院大学教授)や近藤寿人(現大阪大学細胞生体工学センター教授)が探し、レンズを作るクリスタリンのマスタースイッチの遺伝子をそれぞれ見つけた。めでたいことだ。
レンズのほかにもう一つテーマがあった。文学青年だった私が、ゲーテの『親和力』をドイツ語で読み、さらにホルトフレーターの「形態形成の基本的原理としての組織親和力」という論文に出会ってテーマとしたのが、細胞を識別し似た者同士が接着する仕組みの解明だった。これは京大岡田研究室で研究を始めた竹市雅俊(現京都大学教授)という優れた協力者に受け継がれ、分子の働きとして解明されるなど素晴らしい進展をみせた。
これらは、かつての京大岡田研で過ごした、私より若年の優れた連中(弟子とか師とかいう言葉は、私は毛嫌いしているので)の功績であるが、私の個性、フレーバーらしきものが、多少はあったらしい。実験だけでなく、研究をどう見るかということも含めたものであろう。より最近、発生学のあるテーマの歴史についての論文をインドアカデミーの雑誌に依頼で書いた際には、レフェリーは、「これは類いまれなる傑作である、著者の名を見なくてもだれが書いたか、書けるやつは世界に一人しかいない」と言ってくれたのは本当にありがたかった。これらは、まったく自己満足であり、当今はやりの論文とはまったく絶縁した世界のお話だが、だからといって個人のフレーバーはこれからも完全には抹殺されまい。
これからの「科学」
科学、それも生物学といったような分野で過ごしてきた、どこからみてもいわゆる地味でしかないはずの存在である私も、その間、人間的好奇心を大いに満足させる人間付き合いのあったことは、私の何よりも喜びであった。それを機として名だけ知っている歴史的人物が直接でなくても身近になるのが面白い。奇妙なことに、そういう機縁になる私の知人がロシアに関係して多いことに気がつく。私が国際発生生物学会の総裁だった時代のロシア(ソ連である)からの委員は、かの偉大なる作曲家ショスタコーヴィッチの甥だった。私の国際生物科学連合の副総裁であった時の同僚の夫人は、かつてのソ連(ゴルバチョフより以前)のヴォーシロフ国家主席の娘だった。レンズのクリスタリンを研究していて研究上私のもっとも身近だったピアティゴルスキーの父親は、あのロシアからアメリカにわたった世界最高のチェロ弾きだ。
私は、それぞれの国にそれぞれの時代の科学があると思うし、その複雑怪奇な広大無辺さを愛しているのだが、現代は、遺伝子で生きものを見る時代になり、それによって生物学もすぐれて客観性と普遍性を獲得してしまったようだ。それにともなって、私がかつて、エジンバラやアメリカで体験し、旧ソ連やインドの知人と触れた科学のなかでの人間的体験に比べて、世界中の科学に関わる姿勢がはるかに画一的になっている。とくに、技術と結びついて、社会全体のなかで、生物の学問もスタイル的には企業家のそれとほとんど変わらないものとなっている。こうしてかつての生物学のなかで、研究者各自のもっていたフレーバーが失われることを、少なからずつまらなく思う。
今、「科学」に代わる言葉がないだろうかと思う。科学という語感が個性の消失を一般に印象づけてしまったからである。