中村桂子のちょっと一言
館長の中村桂子が、その時思うことを書き込むページです。月二回のペースで、1998年5月から更新を続けています。
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2003.2.1 

【「自然」について考えたこと】
 
中村桂子館長
 もう一月たってしまいました。今年も“生きもの”を基本にして考えることを続けていくこと。それだけに絞っていても ─もしかしたら絞っているからこそかもしれないのですが─ さまざまなテーマが生れ、他との関連もできてきます。「ちょっと一言」ではその中で、その時その時に考えることを書いているのですが、短い文では読んで下さる方には伝わりにくいかもしれません。話題があちこちにとんでいるように見えるだろうなとも思います。そこで、これから時々、少しまとまって書いたものを紹介していこうと思います。今回は、「Webマガジンen」に書いたもので、「自然」について考えたことです。


【中村桂子】

Webマガジンen 2003年2月号
自然とはなにか
 自然農法、自然食品などと聞くとそれだけで安心する。誰にもそういうところがある。自然はすばらしい、自然は美しい・・・・自然賛歌はいくらでも続けられる。この時日本人であれば、誰もが、春には桜が咲き、チョウが舞い、夏には森の緑の間を流れてくる風が肌に心地よく通り抜けていくというような、四季折々の風情を思い浮べている。もしこれが沙漠の中に住む人々だったら自然はすばらしいより先に自然は厳しいという言葉が頭に浮ぶのではないだろうか。もちろん日本に暮らしていても、火山の噴火や地震など自然の恐ろしさを思い知らされる体験は少なくない。


 このような、日常的、体験的、感覚的な自然像を誰もが持っている。そして日本の中での自然像は、四季の変化を持つ美しいものとして受けとめられている。


 ところで、今私たちの日常は、自然と直接接することが少なくなっている。とくに都会では、高層マンションに住み、一日のほとんどの時間をテレビ、携帯電話、コンピュータなどの人工物と向き合い、土の上を歩くことなどない人が大半だ。このような生活をよしとするようになった基本には、まず、自然は面倒なものであり、克服しなければならない制約とみなすという考え方がある。暑さ寒さはエアコンディショニングで乗り越え、山にはトンネルを掘ってそこに鉄道や高速道路を走らせて新幹線や自動車で通る・・・・などなど、現代社会は、自然をできるだけ遠ざけて暮らす方向へと進み、それを私たちは進歩と呼んできた。進歩の基準は、経済効率、機能性、利便性である。


 このような人工物を作るには、自然から多くのものを得なければならない。資源である。自然の利用は農業革命という形で始まり、そこでは作物を育てて食し、木材を用いて住居を作り、綿・麻・絹などのせん維で衣服を作るなど、現在の言葉を使うなら循環型の資源を用いて暮らしていた。しかし徐々に地下資源を活用するようになり、工業革命、別の言葉を使うならエネルギー革命が起きると共に、石炭・石油などを大量に発掘して用いるようになった。つまり、自然は利用しながら、その制約を乗り越えるものとされてきたのであり、これを具体化し、進歩を支えてきたのが科学技術である。確かに自然は面倒なものであり、科学技術が整備してくれた自然離れの生活は、ある快適さを保証してくれた。


 そこで私たちは、二つの自然を巧みに使い分けて暮らしてきたのだ。まずは自然を克服し、利用しての日常を人工的に作りあげて便利に過し、息抜きのためには自動車や新幹線で遠出をして美しい自然を眺め、時にはその懐に抱かれて豊かな気持になる。この二つの自然との関係の組合せで現代を生きる私たちは、かつての王侯貴族にも等しい快適な生活を手にし、未来に向けては更なる快適さを求めようとしてきた。
二つの自然は両立しない
 ところが、21世紀の暮らしを描こうとする今、私たちはこの二つの自然の使い分けが難しいことに気づいている。気づきは、1970年頃から始まった。「成長の限界」「宇宙船地球号」という言葉が生れ、地球の有限性、したがってそこにある資源の有限性が指摘されたのだ。次いで登場したのが「地球環境問題」であり、私たち人間の自然の克服、活用という活動が、もう一方で求めている美しい自然を破壊しているという事実も明らかになった。このままの考え方、暮らし方は許されないことがわかったのである。ではどうするか。それへの答を求めなければならない。
人間が生きものであることの再認識
 成長の限界、宇宙船地球号という言葉を聞くと閉じ込められた感じを免れえない。しかし、よく考えて見ると、地球は決して閉じた存在ではない。太陽から大量のエネルギーを受けとり、それを生かして豊かな星として46億年も存在し続けてきたのである。そこで主役をつとめたのは、やはり生命系と言ってよかろう。太陽からのエネルギーを用いて、地球上の資源を循環させながら存続し多様化してきた生物たちは、今地球上のあらゆる場所に生態系を作りあげており、これは今後も続いていくであろう。それは生物が開放系だからである。外部と物質・エネルギー・情報のやりとりをすることでこのような系を作ってきたのだ。人間ももちろん生きものの一つ、この開放系である生命系に注目して自然を見直し、次の暮らしを考えてみることができるはずである。


 最初に述べた二つの自然という見方を離れ、一つの自然、しかもその中に人間自身も組み込まれた自然を基本に暮らしを組み立てていく方法を考えることが必要になってきたと同時に、その可能性も見えてきたといえる。今、私たちが自然との関係の中で行なわなければならないのはこの可能性を現実に変えることだ。
ただし人間は特殊な生きものである
 いわゆるディープ・エコロジストは自然の中にどっぷりつかり、すべてを自然の営みにゆだねて暮らすという選択を主張する。しかし、地球上に暮らす多様な生物は、それぞれ自らのもつ能力をフルに生かしているのであり、その点人間は、大きな脳(とくに前頭葉)、自由な手、言葉を活用して生きることが自然の中での賢い生き方なのだ。つまり他の生物にはない、文化・文明は人間という生きものにとって不可欠のものと考えられるわけで、他の生きものと同じような形で自然に入り込むのでは、ヒトという生きものとしても思いきり生きたことにはならない。


 一つの自然として自然を見る時に私たちは、自然の一部でありながら自然に入り込めないという条件に合う暮らし方を探さなければならないわけで、これは難問である。しかし、21世紀はこれを基本に社会を組み立てていくという挑戦の時であり、発想を変えれば、大脳を思い切りはたらかせることを求められている面白い時代ともいえる。
自然−とくに生きもの−をよく知る
 この難問にどう答えるか。さまざまな立場で考えるべきことだが、私個人の答えはかなり単純で、「人間をも含めた生物をよく知り、そこで得た知(知識と知恵)を踏まえて新しい自然観を作り、その中で文化・文明を育てていくこと」に尽きると思っている。そのために始めたのが「生命誌」である。そこでこれから後は、生命誌という切り口から自然を見ていくことにしよう。


 まず確認しておかなければならないのが「知る」ということの内容だ。これには、理性での理解と感性による感知とが含まれる。実は最初に述べた二つの自然を見てきた近代化は、理性と感性を分けてしまい、理性による科学的理解が産み出す科学技術文明を急速に進歩させた。感性による自然との結びつきを捨てたこの文明は、結局自然の破壊につながってしまったわけだ。


 実はここでもう一つ指摘しておかなければならないことがある。理性による理解といっても、従来の科学は自然の中から数式で表現できるわかり易いところだけを取り出して理解し、それをもとに技術を作ってきた。それは、生命体や地球(つまり自然)というような複雑な対象を全体として理解する方法にはなっていない。理性による理解としてもかなり偏りがあったことになる。それなのに、わかり易い部分だけしか知らないのだという意識をもたず、あたかもすべてを知ったかのような気持で技術を進めてきてしまったために、環境問題が起きたのであり、現在の技術への批判は決して理性による理解の否定ではないことは確認しておかなければならない。たとえば生命体がこの有限な地球上で絶えることなく続いてくるには、有限なものをあたかも無限であるかのように使う必要があった。具体的には、循環させること、組合せをすること、可塑性をもたせて限られたものにさまざまな対応をさせることである。ところが現代科学技術はこれらをほとんどやって来なかった。生産一筋で廃棄物を産み出し、その処理法すら考えずに来たわけだ。近年やっと循環型社会という発想が出てきたが、それもまだリサイクル、廃棄物を再利用するという意識が強い。本来すべてのものは循環しているのであり、廃棄物という概念はそもそも自然の中にはない。循環型社会はそこまで行く必要があるだろう。


 このように考えてくると、自然を知るとは自然の中の都合のよいところだけを取り出して理解したつもりになってきたこれまでの知のありようを見直して、「複雑な自然を全体として理解するという新しい知」を産み出さなければならないことがわかる。それは恐らく「感性に裏打ちされた理性」による理解をもとに技術を開発し、文明を作りあげていくことだと思う。このように言うと面倒だが、別の表現をするなら、すべての専門家が生活感覚、日常感覚を持つ人であればよいのだ。理性と感性の分離は、具体的には専門家が専門家として行動する時には、生活者としての眼を失なうという形で現われているからだ。
生命誌という切り口
 専門家の眼と日常の生活者としての眼を合体させて自然そのものに取り組むにはどうするか。生きものについてそれを考えた時、これまでの科学は生物を「機械」とみなしてその構造と機能を理解すればよいと考えてきたことに気づく。これは生物を、自分たちが設計し組み立てることが可能なものという前提で見ていることになる。しかし、現実に私たちは生物を創り出すことはできないわけで、この前提は正しくない。もう少し素直に生物をありのままに見つめるなら、これは全体的存在として人間がこの世に登場するはるか以前から存在し続けてきたものであり、少なくとも私たちが作り出す機械にはない性質を持っていることに気づく。それは、「自己創出系」と呼ぶべきもので、個体として誕生・成長・老化・死を経過すると共に、個体が次の個体を産んで継続し、その間に進化をするというものだ。この中に生きものの特徴があり、これをそのまま理解しなければ生きものの理解にはならない。


 幸い、専門家としての私たちは今、「ゲノム」というこの系を理解する切り口を持っており(ゲノムとはなにかを解説する余裕はないので割愛させていただく)、ゲノムを読み解いていくことにより、地球上の生きものたちが、それぞれどのようにして今のような存在になってきたのかという歴史とお互いがどこが似ていてどこが違うのかという関係とが見られるようになった。このような知識は、その中での人間の位置づけを教えてくれる。こうして理性による生物の理解は、生物を機械と捉えるのではなく、長い歴史の中で生れお互いに関係し合っているのだという日常的な捉え方と重なってくる。


 生きものである人間を機械として見た場合、たとえば医療は壊れた部品を取り替えるという方向へだけ進むだろう。現在の科学技術が最も重要視している遺伝子操作や再生医療に対して、人々が期待を抱く一方、ある種の不安を感じているのはそのためだ。しかし、歴史的存在として見るなら、全体を全体としていかにうまく働かせるかという見方になるはずだ。そのような見方の中で技術を活用して欲しいとは多くの人の願うことだろうし、これからはその気にさえなればそれが可能なのである。
一つの自然の中で重視されること
 このように専門的知識と日常とが一体化し、一つの自然を見ていくようになる社会を作る基礎は、食・健康・環境・教育の四つにあり、これらすべてを支える産業は農業である。経済効率・利便性を求めてきた現代社会は、農業を軽んじてきた。日本は、農業生産に適した国であり、歴史的にも農耕を基本に暮らしてきた民族であるにもかかわらず、20世紀後半脱農業の道を歩んだ。まさに、二つの自然に分けてしまったのである。その結果、食の安全性に不安が生れ、健康も環境もよしとは言えない状況になった。遠い国から大量のエネルギーをかけて運んでくる食べものは、地球環境を悪化させるだけでなく、長期保存のための処置を必要とするなど健康面からみても好ましくない。しかもそれは、生産国の環境破壊につながっている例も少なくない。地産地消、その土地でとれた旬のものを食することが、味、栄養、安全性、エネルギーなどすべての面でよいことは明らかだ。農業は子どもたちの自然教育としてもこれに優るものはない。私は農業高校が大好きなのだが、それはそこにいる先生と生徒、そしてそこで作られた作物や花などが素晴らしいからだ。作物や花と接していることがどれだけ人間を育てるかを実感している。21世紀の日本を明るい国にするには、農林水産業を基本にした再生計画をもつことだと私は考えている。それはまさに、二つに分断してきた自然を一つにすることである。


 ここで指摘しておきたいことがある。農・食などについて、自然という言葉を使う時、何も手を加えないとか、少しも変えないとかいう意味がこめられて、自然農業・自然食品を支持する人が科学などの理性によって得られた知識の活用を否定する場合が少なくないことだ。これは、ここで考えてきた一つの自然という考え方には合わない。科学が作物・家畜・人間をあたかも機械のように見て技術を持ち込んできたこれまでの流れの中では、技術に対して疑義をはさむ気持になるのはわかるが、ここで述べてきたような新しい知に基づく技術は積極的に使っていくのがよい。自然界だって変化するものなのだ。自然をよく見たうえで、品種改良、土壌の改善、栽培法などに新しい科学技術を持ち込むことは重要だ。


 くり返そう。ただ自然をよしとする感性と、自然をただ利用することだけを考えた理性とを対立させる時代は終っている。すべての人が感性と理性を合わせ持ち、その両者をはたらかせて、自然を生かし、自然の中で心地よく暮らす社会づくりが、今求められている。そして私たち人間にはそれを行なう能力が与えられているのだ。


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