TALK
徳川日本の文明に学ぶ
1.「もってのほか」
中村
年末に書棚の片付けをしていて見つけた『現代思想』1985年2月号が「博物学」特集で、芳賀先生は「平和の中の博物学」、私は「生物学は本質的に博物学」として生命誌研究館を始めるにあたっての意気込みを書いていました。三十年以上前で今日の語り合いの原点です。
芳賀
僕は1960年代半ばから徳川の平和を唱えていますから。ところで生命誌は、喜ばしいことにやまと言葉で、しかも「編む」「愛づる」とやまと言葉の動詞で語りますね。これは我が意を得たり。
中村
名詞で「生命」と言うとそこで思考停止しますので。
芳賀
「生命」「生物」と言うよりは「いのち」「生きもの」と言うほうが親近感を持てる。江戸時代までは動物を生きものと言ったけど、植物を生きものとは言わなかった。何と言いました?
中村
先生に教えていただきたい。(笑)
芳賀
花木か。本草という言葉も使いましたね。
中村
本草学は中国から来た学問ですね。
芳賀
本草は薬草。そうでない花木を何と言ったか。園芸は盛んでしたから。
中村
江戸時代は変わり朝顔なども見事ですね。
芳賀
ええ。千変万化。
中村
品種改良して珍品を競い合う。熊本城の「肥後銘花園」での肥後菊を見ましたが、並べ方が色、花弁、大きさなどで決まっていて、本来門外不出だったとか。
芳賀
細川の殿様以来の伝統ですね。熊本の人は菊のお浸しを食べていませんでしたか?
中村
食用菊はまた別ですね。山形で召し上がりますでしょ。
芳賀
僕はその食用菊の親元の山形の知り合いから貰うので今もよく食べています。歯応えもあって酢物や和え物で頂くと実に美味しい。菊花は天皇の御紋でしょ。それをお浸しで食べるのだし、殿様が食べてとんでもなく上等な味だと言ったので、「もってのほか」という名前がついたそうです。能の「菊慈童」という曲目にありますが、中国では昔から菊に溜まった露を飲むと不老長寿になると言われていた。でも菊を食べ始めたのは恐らく日本人で、たくさん菊を栽培するようになってからでしょうね。
中村
日本人は小さな工夫がとても上手ですから。
芳賀
とろろ芋もいったい誰があんな風にして食べることを思いついたのか不思議です。生命誌でそういう研究はありませんか? 是非やってください。
中村
確かに、小さな一つ一つを知ることは大事です。
芳賀
僕は、生命誌の「誌」という言葉。気に入っています。
中村
ありがとうございます。
芳賀
ヒストリーでなく風俗誌や博物誌という時の「誌」にはイマジネーションが入っています。蝶々、蜻蛉、菊、桜…。ことに小さな生きものは「誌」が相応しい。
中村
生命誌は、小さな生きものたちに眼を向けて、すべてを考えるという広がりを思っての命名です。「史」は勝ち組の歴史という印象で。
芳賀
「史」は連続性だけで広がりがなくなります。生命誌は博物学的な発想ですね。
中村
昔の博物学は、とにかく世界中の色々を集めて分類しましたが、現代の私たちは分子生物学としてDNAを調べます。するとやはり基本は共通。そのうえで多様な全体を見渡す。そこが昔と違うところです。
芳賀
博物誌は網羅主義。役に立ちそう、面白そう、綺麗だなあというものをとにかく集めた。僕が大好きな貝原益軒(註1)の『大和本草』は、日本で最初に編まれた博物学の本草書です。分類法はまだ中国風ですが雑多な物事が入っていて面白い。例えば、女の人の髪の毛を水に浸けて何日か経つとそれはヒルになると書いてある。いかにもありそうでしょ。貝原益軒は懐が広く寛容で何事も拒まない。元禄時代にいちばん活躍した人です。
中村
今年の生命誌で考える動詞は「容れる」です。益軒は正に「容れる」の人ですね。今日先生に伺いたいのは。
芳賀
徳川の平和ですね。
中村
はい。とにかく250年も平和で過ごした徳川日本に学びたい。今「明治150年」が話題ですが、その前の基盤を考えておきたいのです。
芳賀
明治以降は西洋主義でね。「もってのほか」だ。
中村
徳川の250年を今にどうつなぐかということです。生命誌の視点で貝原益軒や渡辺崋山を考えたいと思うのです。
芳賀
貝原益軒、平賀源内、それに熊本の殿様だった細川重賢とかね。
(註1) 貝原益軒【かいばら・えきけん】
江戸前期の儒学者・教育家・本草学者。筑前国福岡藩藩士。独自の哲学を持ち、『慎思録』『楽訓』『大和本草』『養生訓』など多くの名著がある。
2.蒲鉾、干物、煎餅、饅頭
中村
明治時代に欧州留学をして新しい日本を考えた文学者として漱石を思いますが、藤村がフランスでとても大事なことを考えているんですね。
芳賀
島崎藤村の『夜明け前』と言う題は、キャッチフレーズとしては非常にうまい。国学も蘭学も詳しかった彼が、徳川の夜に開国以来ようやく光が差して、夜明けの明治が訪れたという進歩史観をその題名は示唆し、向上する一本線で歴史を捉える誤ちを導いたところがあります。 ただ藤村はフランス滞在中に日本の歴史の面白さ、切実さに目覚めた。日本は、遅れて歪んだ弱い国だと思っていたけれど、外国で日本を振り返ると、春夏秋冬の自然のうつろい、社会の安定、それに合わせた各地の風習、年中行事や各地の物産の豊かさが思い起こされる。僕もパリ留学中に、ある時、日本列島のヴィジョンが遠く鮮やかに浮かんできて「いいなあ」と思った。そこで日本に目覚め、帰って比較文学ということで明治の研究から始めてみると、気がついたのは、明治維新の指導者たち、西郷、大久保、木戸、伊藤、福沢らは皆、徳川時代の生まれ、徳川に育ち、徳川に訓練された徳川人です。
中村
なるほど。
芳賀
森鴎外、夏目漱石、正岡子規、岡倉天心、黒田清輝、上田敏など明治人の大秀才たちが活躍し出すのは明治15年頃。幕末に生まれて明治の新制度で教育され、海外に留学し帰国。そこからは明治人の明治です。でもその始まりを創り上げて後に伝えたのは古い人。つまり明治は徳川の所産。だから古い人は大事なんです。僕もね。(笑)
中村
明治の人たちの考えには徳川250年の平和が入っているのですね。ところで、戦に勝てば出世して領地をもらえる。それが武士の世界ですね。
芳賀
戦国時代は関ヶ原の合戦あたりまで。その後、武士たちは、もうチャンバラしないでひたすら学問と物産の勉強をしているんです。
中村
徳川の時代に入って戦が無くなった時、武士たちがこれからは戦でなく学問芸術だという風によく変われましたね。
芳賀
武士は知的エリートとして自らの責任を強く自覚していました。第一の使命は藩の領民の生活を平和に安定させること。だから戦で勢力を拡張するのでなく領内のあらゆるものの生産力を上げ、交通を便利にし、商業を栄えさせ、学問芸術を奨励する。
中村
そこがすごい。今の時代も世界中がそれをやればいいと思うのです。
芳賀
それには諍いや争いを押さえ込もうとする家康の平和政策も効果があった。大中小の三百近い藩を、コンピュータもない時代によくあんなにうまく配置できたと思う。外様の隣に徳川親藩、小さな旗本や譜代を置いて。皆が互いの動向を探り合って戦にならない。じゃあ何で競うかといったら、その国の土地の石高をあげる。石高をあげるには稲作だけでは足らず麦や綿、桑や菜種や砂糖黍を育て、梅干しや団子を拵え、藺草を工夫したりする。
中村
それぞれの土地に適した工夫をするわけですね。
芳賀
それには学問も必要で、それをまた武士が指導してやった。
中村
あの時代にそれぞれの藩でつくられた文化は、未だ日本中に残っていて私たちの生活を支えていると感じます。愛知県といっても尾張と三河は違いますでしょう。
芳賀
今でも各地の名産品はだいたいあの頃に工夫したものでしょ。蒲鉾、干物、煎餅、饅頭、団子、それから織物、お茶ね。
中村
今の行政単位は県ですが、私は、廃県置藩もありかなと。そのほうがうまくおさまるんじゃないかと思うくらい藩というしくみが生活文化に浸み込んでいます。
3.綿、菜種、鮭、豆腐
中村
学問芸術も盛んだった徳川の長い平和の間には魅力的な文人もたくさん活躍しました。その一人として与謝蕪村(註2)って興味深いですね。
芳賀
僕あれ昔から大好きで。
中村
「春の海ひねもすのたりのたりかな」。誰でも知っている俳句ですが、先生の『文明としての徳川日本』(註3)の中で読むと徳川の平和をうたっているとわかります。
芳賀
長い平和は退屈でもあった。昔、お祭りで売っていた綿飴みたいにね。ふわっと甘くて喉にも顔にも絡みつくようで。更に蕪村は「高麗舟のよらで過ぎゆく霞かな」とも詠んでいますよ。
中村
寄らでですね。
芳賀
高麗舟は外国船。綺麗に塗装して旗を立てた大きな船がこの港へ寄ってくれるかと待って眺めていたら、また沖の春霞の中へ消えてしまった。その変化への期待はずれ、もとのアンニュイへの退行、喪失感をみごとに詠みとりました。
中村
残念という気持ちですね。
芳賀
それから「菜の花や鯨もよらで海暮れぬ」なんて鯨さえ来てくれない。
中村
250年の平和。女性は大歓迎ですが男性は退屈したのではないかと。そのもてあます知恵や力を民衆の暮らしや学問芸術を高めることに向けた舵とりは素晴らしいですね。
芳賀
平和は本筋ですなあ。今の我々は1945年の終戦から70年余り、まだそれしか経っていないのか。徳川ではあと170年、完全平和が列島を満たしたのですね。
中村
戦後70年でもう退屈し始めた人がいる。それはダメだと言いたいのです。
芳賀
徳川の日本人は平和を創り上げ、壊れないように工夫して維持し、また士・農・工・商、四民みな十分にその平和を享受して更にそれを伝えようとした。
中村
蕪村の他にも、俳句は時代をよく捉えていますね。
芳賀
俳句とはそれぞれの時代を意外によく映すものだと思います。芭蕉(註4)も「名月や花かと見えて綿畠」なんてね。木綿の栽培は元禄頃から各地に広がった。すると木綿の白い花で、月明かりまで反射して辺りがいっそう白々と明るく照らし出される。
中村
観察眼がすぐれているということですか。
芳賀
観察というより感じている。鋭敏でしょう。蕪村の時代は「菜の花や月は東に日は西に」。もう辺り一面が菜の花畠。菜の花栽培は河内が先進国。それが西から東に伝わって蕪村の頃には関東でも見られたはず。菜種油が採れて家々の行燈が明るくなり、櫨の実からの蝋燭の生産も盛んになって歌舞伎の舞台が明るくなった。
中村
滋賀県が湖国菜の花エコプロジェクトをやっています。自然の油をもう一度と言って。毎年一定量の収穫が見込めるという意味では安定した資源ですね。
芳賀
安全だし、てんぷらにもいい。
中村
菜種油のてんぷら美味しいですね。日本列島は、北海道から沖縄まで気候風土もずいぶん違って、それぞれの土地に適切な美味しいものがとれます。
芳賀
鮭は何といっても北海道。アイヌ旧居の村で食べた鮭の燻製なんてほんとに美味しかったなあ。
中村
鮭といえば高橋由一(註5)。最初の油絵の代表作が新巻鮭というのも面白い。
芳賀
由一の『鮭』は迫力のあるすごくいい絵です。近代日本の大傑作。あれは余程ありがたかったから描いたのかな。由一の画題は、擂り粉木と擂り鉢といった薄汚れた台所道具や、畳の上の反物、それから、たくさん包丁跡のついたまな板に豆腐がのっていて、油揚げから出た水がそのまな板に沁み込んでいる様子なんかを克明に描く。由一の油絵はオランダの静物画等を見て工夫したのかな。でもオランダの食卓画みたいに贅沢じゃないですね。大体、西南戦争の明治10年ぐらいまでに描かれている。
中村
描き方は西洋から学んだものですが、素材には独特の日本文化を感じますね。
芳賀
俳句の発想かなあと思ってね。浅井忠(註6)も農家ばかり描いてます。武蔵野や房総の農村、農家。農民が大きな籠や藁を背負って、頭に手ぬぐい被って働いている。その様子を彼らに寄り添うようにして描いた。
中村
そうですね。
芳賀
昔、僕の先生だった人(寺田透氏)に、明治前期の油絵画家というのはとくに目線が低く、民衆の生活の細部を描いていると指摘されて、気づきました。中野重治(註7)は、斎藤茂吉を論じた本の中で高橋由一に触れて、あのリアリズムは「迫真に物狂いのようになっている」と言った。
中村
新しい描き方で目線を低くできるというのはよいですね。
芳賀
つやつやと光った台所の陶器や細やかな織物の質感を描き分けるなんて、ことにまた難しいわけね。由一にとって油絵とは、対象を油絵の具の重厚さによって、光と影の細部まで把えつくして表現するという一種唯物主義のイデオロギーの実践だった。
中村
イデオロギーですか。
芳賀
そこがまた面白い。恐らく由一を正面から扱った研究は僕が最初。由一も生活は貧しいのですがやはり武士で、剣道師範の孫でよく訓練されていましたが身体が弱くて学問芸術の道を選んだ。幕末のうちに入った蕃書調所画学局(註8)で助手の頃に博物学の図譜も描いており、今も上野の博物館で見ることができます。
中村
その武士が鮭やお豆腐を描くことになるのが徳川では。
芳賀
彼の油絵には博物図譜の経験も生かされている。浅井忠もやっぱり貧乏侍だから農民の暮らしを見て生活に密着して描いている。
(註2) 与謝蕪村【よさ・ぶそん】
江戸中期の俳人・画家。摂津国生まれ。幼時から絵画に長じ文人画で大成する。早野巴人に俳諧を学び、正風の中興を唱える。『新花摘』『玉藻集』などを著す。
(註3) 『文明としての徳川日本 1603-1853』
芳賀徹著。筑摩選書0149(2017)。
(註4) 松尾芭蕉【まつお・ばしょう】[1644-1694]
江戸前期の俳人。伊賀国上野生まれ。京都で北村季吟に師事の後、深川の芭蕉庵に移り、蕉風を創始。主な日記、紀行に『更科紀行』『奥の細道』『嵯峨日記』ほか。
(註5) 高橋由一【たかはし・ゆいち】[1828-1894]
明治初期の代表的洋画家。下野国佐野藩藩士の出身。江戸生まれ。川上冬崖に師事、ワーグマンの指導を受け、私塾の天絵楼を創立。代表作に『花魁』『栗子山隧道図(西洞門)』ほか。
(註6) 浅井忠【あさい・ちゅう】[1856-1907]
洋画家。江戸生まれ。工部美術学校でフォンタネージに学ぶ。フランスに留学し、印象派とアール・ヌーヴォーを摂取。代表作に『グレーの秋』『春畝』ほか。
(註7) 中野重治【なかの・しげはる】[1902-1979]
小説家・評論家・詩人。福井県生まれ。プロレタリア文学、戦後民主主義文学の代表的作家。『村の家』『歌のわかれ』『斎藤茂吉ノオト』などを著す。
(註8) 蕃書調所画学局【ばんしょしらべしょががくきょく】
蕃書調所は1856年に江戸幕府が九段下に創立した洋学研究機関。画学局は西洋画研究機関で、明治期の画学校の前身とみることができる。
4.集める、崩れる、横たふ
芳賀
孔子や孟子をわかるには日本語で読んでいたのでは間に合わない。日本語は日本的な曲解を招く、だから直接に中国語を学び、中国語で発音して読めと言ったのは荻生徂徠。だから徂徠とその弟子たちは中国語がかなり達者だったらしい。本居宣長もその古典原書主義を受けついで自分の日本古典研究のために古いやまと言葉を学んで自ら和歌を詠みました。あまり上手くなかったけれど、なるほどそうやれば理解は深まる。
中村
ヨーロッパ文化との関係を考えていますが、その前に中国があるということですね。
芳賀
近代で我々のようにフランス語で古典を読んでも、それで詩を書くまでの人はいないでしょ。やはり徂来や宣長は偉い。その言葉のニュアンスが深くわかるまで徹底して勉強する。
中村
「容れる」というテーマはそこです。平和に暮らすには外から容れてそれを自分たちのものにする。日本はそれが得意なのではありませんか。荻生徂徠の容れた中国の次に西洋が来たわけです。
芳賀
新井白石に杉田玄白。
中村
西洋を容れ、展開して行きますね。ごちゃ混ぜのようで文化として一つのまとまりをつくっていくところが面白い。平和の基本は「容」でしょう。
芳賀
寛容ということ。
中村
徳川日本は鎖国をしているわけですが、その中でできる限り寛容であったということでしょうか。
芳賀
農村にも篤農家というような人たちがいて、技術改良に実に熱心でしたしね。面白いのは、旅回りしながら農民たちに助言する大蔵永常(註9)のような農林技師達もいて、その助言を農民たちも積極的に容れ、臆せず実験的な試みをした。それで収穫が上がり、品種もふえると検地に来た藩の侍もそれを奨励し、認める。上った分そっくり税として取り上げたのはフランスの貴族。
中村
日本はとらないのですか。
芳賀
フランスの貴族は、自分の支配する領民の生活なんて考えたこともない。農民も自分たちを支配する貴族たちの姿なんかめったに見たことがない。貴族は朝からベルサイユに集まって美味いもん食って酒飲んで踊っている。徳川日本の大名たちも藩士たちも実によく農民や商人たちとつき合いましたよ。
中村
日本は皆が中くらいという意識がどこかにあって、下は志が高く上は威張らない。現代もこれを活かせば日本は強いと思うのに。
芳賀
西洋で、寛容/トレランスと盛んに言ったのは18世紀頃。
中村
ヴォルテールに『寛容論』がありますね。
芳賀
寛容じゃなかったから。とくに宗教上、そして階級間でね。
中村
寛容でないので『寛容論』が待たれた。
芳賀
自由・平等・博愛と言ったのもフランスにはそれが不足していたか、なかったからじゃないですか。
中村
何が欠けているかを言わなくてはならなかったということですね。
芳賀
日本ではちゃんとしないと武士も落ちぶれて傘貼りをやる。
中村
基本的には平等な国ですね。
芳賀
蕪村は農民の出であることはわかっていても、その氏素性が今もわからない。一茶は小農の出で、いじめられて家出しましたしね。上田秋成は大阪の遊郭の仲居さんのテテナシゴ。
中村
いろいろな出自の人が活躍しているわけですね。
芳賀
芭蕉もどうしてあんなにするどい国語力を身につけたか。ことに彼は、生命誌研究館と同じく動詞の使い方がうまい。
中村
芭蕉と動詞。気がつきませんでした。
芳賀
「五月雨を集めて早し最上川」。集めるという言葉は動詞。
中村
俳句ではあまり使いませんね。
芳賀
和歌にもない。最上川は、山形と福島の境にある吾妻山の辺りに始まって米沢に抜け、月山や朝日岳の雨水と奥羽山脈の雨水を集めて新庄盆地で曲ると北から鳥海山の水を容れて流れて行く。まさに「集める」ですね。
中村
地理をよく知っていたのですね。
芳賀
わかっていたようですね。地形学的に文字通り「五月雨を集め」て。僕もある時これに気づいた。それから「雲の峰いくつ崩れて月の山」。
中村
確かに動詞です。
芳賀
崩れるなんて何でもない動詞。でも言われてみると、夏空に白くくっきりとしていた入道雲の形がしだいにこわれ、崩れて行く様をみごとに把えていますね。「雲の峰」は、夏の季語で、陽で、男性、活発、生、昼を表し、それが崩れていくと「月の山」。季節は秋で、陰、女性、静寂、死、夜。
中村
動き、時の流れが入っているのですね。
芳賀
「崩れる」という動詞一つで宇宙を容れる。驚くべきだ。「崩れる」は芭蕉の好んだ動詞。もう一つ感心した動詞は「横たふ」。「ほととぎす声横たふや水の上」。
中村
声が横たふですか。面白い。
芳賀
ほととぎすが一方の岬からキッキッーと鳴きながら、水の上を飛んで行ったけれどその姿は見えない。声だけが水の上にゆるやかに線を一本描くような感じで残っている。それから「荒海や佐渡に横たふ天の川」は鎮魂の句。佐渡は荒海で隔たれた悲劇の島。遠く暗く見える島影の上に天の川が真白に横たわる。
中村
順徳天皇も日蓮上人もみんな流された島として見えているのですね。
芳賀
横たふも芭蕉の好む動詞。今度、生命誌でどうですか。
中村
横たふ、崩れる、集める、大変です。
芳賀
皆何でもない動詞。「蛙飛び込む」もボチャンと蛙が池に入ったなんて野暮でしょ。あんなことで詩になるとはそれまで誰も思わなかった。でも言われてみると「飛び込む」で、春たけなわの感じがちゃんと出ている。
中村
そうですねえ。
芳賀
「暑き日を海にいれたり最上川」。「容れる」だ。一日中暑かったのは今の暦で七月末頃、芭蕉と曾良と鶴岡から連れだってようやく夕方に酒田に着く。一日中、暑かった太陽が最上川の水の勢いに押されてジュッと日本海へ落ちて、金色の波が広がる。するとサアッーと涼しい風が酒田の港に吹き始める。うまいんだなあ。僕は親元の土地だから山形贔屓なんですが、実際、芭蕉は出羽の国へ入ったとたん俳句が雄渾になる。
中村
五七五で雄渾さを出すのは大変ですね。
芳賀
そこに一つだけ入った動詞は効率的。『奥の細道』ではとくに動詞の腰が強く、柔道の腰技で投げ飛ばすような勢いがあり、万事を容れて跳ね返す力を持つ。芭蕉は動詞の詩人。生命誌が動詞でやっていらっしゃるのは芭蕉の伝統を引いているんだ。
中村
ありがとうございます。今、初めて知りました。紹介してくださったのは、どれも昔から知っている俳句ですのにそう考えたことがありませんでした。
(註9) 大蔵永常【おおくら・ながつね】[1768-]
江戸後期の農学者。豊後国日田の町家生まれ。諸国の農事を見聞し、農業技術の解説書を著す。『広益国産考』『老農茶話』『農具便利論』ほか。
5.小田野直武、佐竹曙山
中村
江戸時代と聞けば江戸の町の賑わいを思い浮かべますが、徳川日本の文化は江戸だけでなくむしろ日本中にありましたね。
芳賀
社会的な流行は江戸や大坂が始まりでも、江戸だけが突出していたわけではなくてね。『奥の細道』でも、芭蕉は既に有名人で「江戸の前衛詩人、芭蕉先生がやってくる」と、どこへ行っても大歓迎。中でも芭蕉が長く逗留した那須野が原の黒羽という城下町では、いわば「歓迎芭蕉先生」と幟旗まで立てて出迎えた。宿には町中のそれこそ乞食から、武士、町人、坊さんまで大勢集まって芭蕉に俳句の指導を受ける。じゃあ歌仙巻きましょうと言って句会が始まる。その連句は今も残っていて、どこでやったのもなかなかうまいですよ。
中村
暮らしの中に文化が根を下ろしている。お話を伺うと当時の人々の生き生きした暮らしが眼に浮かぶようです。
芳賀
以前生命誌で対談された今橋理子さんお得意の秋田蘭画(註10)も面白い。角館なんて本当に田舎です。そこに小田野直武という秀才がいて、江戸から来た平賀源内に大きな刺激を受けて蘭画に目覚めた。
中村
先生がお好きだという『不忍池図』には小さなアリがいるんですよ。
芳賀
知っていますよ。芍薬の蕾に止まった黒いアリ。秋田の県立美術館では地元のおばちゃんたちも「アリはどごさいるべ」って見ていましたよ。(笑) 『不忍池図』の空には、高いところを、ヘの字、逆さハの字形に鳥が飛んでいます。鳥があんな風に空を飛ぶのを描いたのは中国・日本を通じて小田野直武で初めて。
中村
自然に飛んでいる様子を描いたということですね。
芳賀
それまで鳥といえば、鶴やうぐいすやおしどりなどの綺麗な鳥が松や梅に止まったり、水際を歩いたり、水面を泳いでいた。僕は不忍の池の空に描かれた鳥は、オランダから飛んできた鳥だと言っています。
中村
どういうことですか。
芳賀
小田野直武が持っていたオランダの版画が今も二、三点残っていますが、その版画を虫眼鏡で覗くと空に鳥がいます。これを知って改めて十六、十七世紀のオランダ絵画を見渡すと、その空にはいつも鳥が飛んでいる。オランダは海際の国だから土地も平坦で池や川もあちこちにあってブリューゲルもレンブラントも大空に群れる鳥を描きました。
中村
レンブラントの絵に鳥が飛んでいましたっけ。
芳賀
彼の『三本の木』というすてきな銅版画がありますが、その夕空には鳥の群れが小さく飛んでいます。同じ頃でもイタリア絵画には飛んでない。真っ青できれいな地中海の空。
中村
なるほど。
芳賀
鳥は空を飛び、ハの字形や、への字形に見えたりするということは小田野直武がわずかな数枚のオランダの版画をつぶさに観察して発見した。するとすぐに司馬江漢の絵の品川沖でも、富士山でも鳥が出てくるようになる。江漢は、平賀源内の世話で小田野直武のところへも出入りしていた。それから小田野直武の殿様で蘭画仲間の佐竹曙山の絵にもかならず出てくる。
中村
殿様から庶民まで身分の差なくとり容れる。鳥いれるですね。(笑)
芳賀
知的好奇心旺盛で、これは俺の発明だって面白がる。やっぱり世の中が平和だったからでしょうね。
中村
本当に平和だから面白がって。お殿様が博物画を描いていらっしゃる。
芳賀
殿様同士で博物学の交流もあった。秋田の殿様の絵の中に熊本の殿様の描いた毛虫の模写が何十種と出てきますから。
中村
博物画を自慢して見せ合ったのでしょうか。
芳賀
調べてみたら、二人は参勤交代で江戸城に出勤した折に同じ広間に並んでいた。佐竹候は「細川さん。これはいいい絵ですね。ちょっと貸してくれませんか」とか言ってそれを一生懸命写して描いた。
中村
お殿様がそれをやっている社会がいいですねえ。
芳賀
ほんとにね。江戸城は学士院でもあった。熊本の細川様は参勤交代の帰りも蓼科などへ遠回りして、道中、蝶々の卵や毛虫を採って食草と一緒に熊本まで持ち帰ってね。
中村
見てきたようにおっしゃるけれど。
芳賀
熊本に着いたら虫籠へ入れキンカンの葉を食わせたりして芋虫を養いそれを観察して絵と文字で記録した。何の木につく虫でその芋虫が蛹になって何月何日に「カイワレタ」と。背中がばっと割れてね。
中村
蛹から蝶が出てくる羽化をカイワレルと言ったのですね。
芳賀
カイワレルなんて、もともと菜っぱの芽が「貝割れる」ことですよね。うまい動詞だねえ。あの頃の分類はユズノムシとかキンカンノムシとか言って食草で蝶を見分けた。
中村
蝶は種類によって食べものが違いますからね。今、研究館に食草園という蝶の食草を植えたお庭があります。細川さんには及びませんが。
芳賀
斎藤茂吉も子供の頃よく学校の帰り道に高い木から天蚕(やままゆ)をとって飼ったり、すぐに踏みつぶしてみたりしていたらしい。小学生の頃に蝶々や芋虫を飼ったりして親しむのはいい事ですね。蝶だと思っていたら蛾になったとかね。
(註10) 秋田蘭画【あきたらんが】
生命誌ジャーナル66号 TALK「絵と言葉で自然を描き出す」今橋理子×中村桂子
6.渡辺崋山
芳賀
長きに渡った徳川の平和が脅かされ始めるのは、渡辺崋山(註11)の生きた時代。中国でアヘン戦争が始まる1840年前後の頃。あの頃は大変だったと思うなあ。
中村
渡辺崋山は魅力的ですね。
芳賀
崋山は十九世紀日本のもっとも立派な武人でした。『翎毛虫魚冊(れつもうちゅうぎょさつ)』は博物図譜の究極だと思う。
中村
崋山の書いた本でこれまで知らずにいたのが『鴃舌或問(げきぜつわくもん)』。
芳賀
あれは崋山が、長崎出島の商館長だったニーマンというオランダ人に江戸で面会して海外の諸事情を聞き出した問答の記録です。オランダ語は、日本人には何を言っているのかわからない。それをもずがつっかかるように喋る様になぞらえて「鴃舌」(もずの言葉)と言った。 崋山はシーボルトの一番弟子の高野長英(註12)や小関三英(註13)を助手に従えて世界情勢を広く学んだ。オランダ語ができる二人のスペシャリストに原典を翻訳させて研究し、自分はジェネラリストとして洋学を究めた人です。西洋各国の事情から、アジアでの西洋列強による植民地政策の状況、とくに中国沿岸部でのイギリスの侵略に敏感でした。『鴃舌或問』は質問の仕方も見事でしょ。
中村
世界情勢をよく勉強していますよね。
芳賀
崋山は三河国田原藩の藩士。二万石に届かない小さな藩で、小さい時から貧しい一家の暮らしぶりは江戸の庶民と同じ。だから崋山の江戸市井の日常生活写生集『一掃百態』に描かれた江戸市民の生態は見事です。北斎漫画みたいな実に面白い絵でね。
中村
渡辺崋山に漫画があるのですか。
芳賀
北斎は絵のプロだから、民衆の生活を描くのでもそこに皮肉を入れていっそう面白く見せている。崋山は、庶民と同じ目線から彼らに親密に共感して描いていることが筆の線に滲み出ています。
中村
低い目線で日常を描くという意味でさきほどの高橋由一に通じるものを感じますね。
芳賀
もっと目線を下げた『翎毛虫魚冊』に出てくる虫や魚なんてほんとに見事で生き生きとしていて、これはまさに生命誌の究極ですよ。シオカラトンボでもショウリョウバッタでも今にも写生帳から飛び出して、ふうっと飛んで行きそうな感じでね。
中村
本当にこの渡辺崋山という人はもったいなかったですね。先が見えすぎていたのでしょうか。この時、幕府が『鴃舌或問』にあるような彼の言葉をよく聞き容れて少しずつ世の中を変えて行ったとしたら、日本は今よりもっと面白い国になったでしょうにと思うのです。幕府には250年の蓄積があった。世界に互して展開していく実力はあったと思うので。
芳賀
崋山は「もののあはれ」がわかる繊細な感覚と心の持ち主で、幕府から蟄居を命じられた後も絵を描いて金を稼いでいるなどと噂する人たちがいて、これではいずれ自分の藩の殿様に迷惑が掛かる、申し訳ないと自刃を遂げてしまいました。そもそも蛮社の獄の咎めは彼の真っ向からの幕政批判が原因でしたから、本来であれば伝馬町の獄で切腹、打ち首を命じられるところでした。そこを仲間たちの助命活動で救われて田原藩に戻されて蟄居を命じられた。『翎毛虫魚冊』は、彼の死の一年ほど前から蟄居中の静かな暮らしの中で描いた写生帳です。あまりに惨めな暮らしをしているので土地の百姓や漁師が差し入れしてくれた野菜や魚、子供たちが捕まえてきた虫なんかを墨と淡彩で描いて心を晴らしたのですね。絵筆を運びながら、小さな生きものたちが、小さいはかないものであるがゆえに一層、懸命に生きている姿を喜び、彼自身の「魂のうるほひ」をその生きる姿に注いで、そこに自分の運命をも重ねて捉えていたのかもしれません。
中村
明治維新は1868年で、渡辺崋山は1841年没ですから、あと二十年生きていてくれたらなって思う。
芳賀
崋山が弟子の椿椿山(註14)に宛てた遺書が残っていて、そこに「もしも一変、何か変化があったならば、私のことを悲しんでくれる人もあるかもしれない」と悲痛な言葉を書いています。何を予感して「一変」と言っていたのか、結局はよくわかりませんが、そういう体制の変化への自覚はあったのですね。隣の清朝帝国ではアヘン戦争がすでに進行中でしたからね。椿山が生前の師を描いた「渡辺崋山四十五歳像」は、今も田原の町に伝わっています。
中村
小さな蝶や花にもののあはれを感じる。日本人は元々得意なはずです。崋山や蕪村から徳川の平和を学びたいと思います。
芳賀
蕪村には「蚊の声す忍冬(にんどう)の花の散るたびに」なんていう、この世のもっともかすかな小さな世界を把えた句があります。芭蕉の「あけぼのや白魚白きこと一寸」もかよわいものの生命の美しさそのものを詠んでいますね。さらに万葉集までさかのぼれば、志貴皇子の「石ばしる垂水の上の早蕨の萌え出づる春になりにけるかも」。「わらび」なんていう春の七草でもない野草に生命の躍動を感じ、春の喜びをわらびと分かちあった。世界最初の、世界一の詩ではありませんか。こういうところに日本人の「魂のうるほひ」が発露されていると言ったのは、フランスの駐日大使で大詩人だったポール・クローデル(註15)です。魂の潤いがあるからこそ日本人は自然・人文の世界についても共鳴力が高く、いろいろなものを容れることができた。是非、文学と絵画に読む生命誌をやってくださいよ。
中村
今、日本人がその気持ちを失いつつありますから、とても大事なところですね。
(註11) 渡辺崋山【わたなべ・かざん】[1793-1841]
幕末の文人画家・洋学者。三河国田原藩の家老。儒学を佐藤一斎に学び、蘭学にも通じた。画を谷文晁の門下に学んだ後に西洋画法を取り入れ独自の様式を完成。『慎機論』を著したことで蛮社の獄に連座、蟄居中に自刃。『四州真景図巻』『游相日記』『訪瓺録』などを著す。
(註12) 高野長英【たかの・ちょうえい】[1804-1850]
江戸後期の蘭学者。陸奥国水沢生まれ。長崎でオランダ商館医師シーボルトの鳴滝塾に学び、江戸で町医者を開業。蛮社の獄に連座し永牢となるが放火して脱獄。諸国に潜伏の後、江戸に戻り医療と訳述に専念するが、幕吏に襲われて、自刃。
(註13) 小関三英【こせき・さんえい】[1787-1839]
江戸後期の蘭学者・医学者。出羽国庄内藩鶴岡生まれ。江戸で蘭学、医学を学ぶ。和泉国岸和田藩医を経て、幕府天文台翻訳掛となる。蛮社の獄に連座し自刃。『西医原病略』『那波列翁(ナポレオン)伝』などを著す。
(註14) 椿椿山【つばき・ちんざん】[1801-1854]
江戸後期の文人画家。江戸生まれ。幕府の槍組同心。金子金陵、渡辺崋山に学ぶ。穏やかな画風で草虫・花鳥画や肖像画を得意とした。
(註15) ポール・クローデル【Paul・Claudel】[ 1868-1955]
フランスの詩人・劇作家・外交官。1921年から1927まで駐日フランス大使として在日。日本滞在中に数々の伝統芸能や絵画に接して記した見聞録は日本文化論集『朝日の中の黒い鳥』として編纂された。日仏文化の交流に貢献。著作に詩劇『女と影』『真昼に分かつ』『繻子の靴』ほか多数。
7.歴史を学ぶ
中村
崋山のような人を知れば知るほど、明治維新が、徳川日本の250年の平和を否定する形で進んだことを残念に思います。
芳賀
革命政府は旧体制がいかに邪悪であったか、そして新政府はいかに悪を克服し明るい社会を切り拓くかを、いつも声高に叫ぶ。革命とはそう言うものだとトクヴィルも『アンシャン・レジーム(旧政体)とフランス革命』で書いています。福沢諭吉もレーニンも毛沢東もそうだった。僕はね、明治は、徳川の平和の中からカイワレたんだと思う。文明開化、殖産興業へ向かって羽ばたけたのはそれ以前の250年の平和と文明の蓄積があったからですよ。
中村
なるほど。
芳賀
長い平和の中で、交通も都市も発達し手工業も進み武士というエリート官僚が養成された。教育水準も高く識字率も高かった。そのすべては近代化の基礎になった。しかし、だからといって、徳川の平和の中から都合のいいところだけを摘み出して評価するのは近代人の思い上がりです。
中村
徳川文明にまるごと向き合わなくてはいけませんね。
芳賀
そう。歴史「に」学ぶというのはだめ。歴史「を」学ぶ。そうすると初めて自分の中に伝わってくるものがある。歴史「に」学ぶのは今の自分に都合のいいところだけの摘み食いをすることで、近代人の驕り、傲慢、過去に対する不遜の至りです。
中村
それではいけない。
芳賀
「学問は歴史に極まり候ことに御座候」。いい言葉でしょ。そう諭した荻生徂徠は日本でいちばん偉い哲学者だと僕は思っています。歴史を学べ、歴史こそ人間の真実が詰まっている。社会の動きが、人間の思考と感情が、よきも悪しきもその中を満たしている。その総体が人間の知恵というものだ。長い眼で遠くを見よ。鋭い耳で遠い人の言葉を聞け、とね。
中村
歴史を学ぶんですね。
芳賀
それからやっぱり徳川の民衆の暮らしの知恵は「知足安分」、足るを知り分に安んずの教えだった。自分の能力を超えるようなこと、人間は人間を超えるようなことをしないという何千年の歴史を背負った知恵ですね。近代はその正反対。いつも何か足らず、分に安んじず、不安に忙しく動きまわり、もっと向上しなくてはと焦り続けて死ぬ。
中村
足るを知り、そして歴史を学ぶ。今大切なことですね。小さな生きものを見つめ生きものの歴史をまるごと学ぶ生命誌は平和につながると思うのです。
エピローグ.『ミタコトキイタコト』
芳賀
僕の博物学は随分古くからありますよ。今日、中村先生にご覧に容れようと思ったのは、これです。
中村
山形県女子師範学校附属小学校、尋常一年、芳賀徹、『ミタコトキイタコト』。えっー、すごい。先生が小学1年の時のノートですか。
芳賀
うん。僕らのクラスの担任の先生は理科が得意でね。僕の父親は鶴岡の中学校の教師でしたが東京文理大の日本史に入り直して、母と東京暮らしを続けていました。その三年間、僕と妹は山形の母方の祖父母の家に育てられてね。その頃、僕は昆虫少年で、夏休みともなれば朝から晩までトンボやセミを追っていた。叔母が手ぬぐいで作ってくれたお手製の捕虫網で、そこにオニヤンマなんかが入った時のバサバサッっていう感触は今も忘れられないなあ。
中村
これ「スイッチョ」「アシ六ッポン、ヒゲ二ホン」って書いてあります。キリギリスですね。
芳賀
この絵日記も、当時まだ女学生だった僕の叔母がよく手伝ってくれたから絵がなかなかうまいでしょう。
中村
「ムギワラトンボ」「テフ」「コスモス」「キク」それに「ユキノケッショウ」。まるで熊本の殿様じゃないですか。
芳賀
担任の先生の授業ももっぱら観察と作文の両方で、それを先生は、理科と言わず「直観」と言っていた。
中村
だから、ミタコトキイタコトなんですね。小学1年生にしては絵も上手だし、言葉も随分と立派なことが書いてありますよ。
芳賀
お、これはお月見だ。
中村
「月ハ、タイヘンヨロコンデ、セカイヲテラシテクレマス、アンナニキレイナオツキサマハ、シンダセカイデ、ソコニハ、タクサンノカザンガアリ、キモハエテイナイ、サビシイトコロデス」って、見てきたように書いてます。(笑)
芳賀
お月見なんて少女趣味でしょ。それに小学一年生にしては生意気なことを書いている。これは教育熱心だった祖母と叔母が口述しながら書かせてくれたんですよ、きっと。
中村
この絵は豚の赤ちゃんが生まれています。
芳賀
祖父母の家は山形市の外れにあった二千坪程の農園で、豚や山羊を飼っていたし、鶏も二百羽くらいいた。屋敷はぐるっとサクランボの木に囲まれ、敷地には栗林や桃、すもも、竹の林があり、牡丹、芍薬、それにチューリップやヒヤシンスを栽培して、祖父は桔梗畑の向こう側にお茶室を構えて一人で過ごしていました。
中村
まるで桃源郷ですね。
芳賀
今、まさにその陶淵明の「桃花源」研究の本を仕上げているところです。サクランボの木に登って食べ放題にサクランボを食べていると、桑畑の向こうでよくカッコウなんかが鳴いてたなあ。 ある時、学校の授業で先生が「今日は芳賀君の家に行こう」と言って。一学年ひとクラスで男女合わせても三十人程ですが、僕は大喜びでみんなを案内してね。ぞろぞろと家へやって来て、豚を見たり、花を見たり、鶏に餌をやったりしましたね。あれも忘れられないなあ。
中村
素晴らしい教育ですね。今必要なことです。『ミタコトキイタコト』には、今の日本人が失いつつある、「もののあはれ」や、「魂のうるほひ」が入っていますね。ここに誌された気持ちを大事にしたいと今改めて思います。今日は本当にありがとうございました。
写真:大西成明
対談を終えて
中村 桂子
生命誌は、生きることを大切にする文化の基本を創ろうと考えてきました。それが近代文明の見直しにつながることを願って。しかし現実は経済と利便性を求めていのちへの配慮を欠く方向へと進んでいます。直接文明も考えなければならない。そこで、芳賀先生の250年の平和の中での徳川文明という捉え方に眼が向きました。各地が自然と歴史を生かして生産物はもちろん工芸、園芸などや教育に独自性を出して競争と交流をし、新しい文化を生み出しています。これを21世紀に生かすことを考えたいと思います。
芳賀 徹
中村桂子館長の導きのもとに、近年の『生命誌』は毎号「編む」「ゆらぐ」「和(やわらぐ、なごむ、あえる)」などと古来のやまと言葉で研究主題をあらわしている。こんどは「容れる」だという。まことにすてきで嬉しいことだ。これらを漢語熟語に言い換えようとすると、たちまち何十種もの語彙となり、精密に偉そうになるだろうが、そのかわり硬直し、かえって「生命(いのち)」のすがたから遠ざかる。そこを深く切に把えている桂子先生はまさに歌人だ。ゆたかな詩の心の持主だ。久しぶりに二時間近く対談しているうちに、桂子先生はいつのまにか昔の高等女学校の才媛そして美少女に見えてきた。
芳賀 徹(はが・とおる)
1931年生まれ。東京大学教養学部教養学科卒、同大学大学院人文科学研究科比較文学比較文化専攻博士課程修了。文学博士(東京大学)。東京大学教養学部教授、プリンストン大学客員研究員、国際日本文化研究センター教授、京都造形芸術大学学長などを経て、現在は国際日本文化研究センター名誉教授、東京大学名誉教授。主な著書に『渡辺崋山・優しい旅人』、『みだれ髪の系譜』、『平賀源内』(サントリー学芸賞)、『絵画の領分 - 近代日本比較文化史研究』(大佛次郎賞)、『詩歌の森へ - 日本詩へのいざない』、『藝術の国日本 - 画文交響』(蓮如賞)など多数。