1.古事記と科学
中村
震災のあと、宮沢賢治がとても読みたくなるなど、今、東北に学ぶものが多いという気持ちが強いのです。赤坂さんの東北学とそこからの広がりを、是非、伺いたいと思ったのです。
赤坂
僕のほうは今、中村先生の『生命誌とは何か』(註1)を読み直していますが、本の冒頭に「神話」という言葉が出てきて、すごく響くものがありました。僕は学習院大学で神話学を教えていますが、それは前任の先生から引き継いだというだけで神話学については知らないので、おずおずと授業を組み立てているところです。神話って、実はゲームや小説の中に道具立てとして入っているから、現代の若者たちにとって、ある意味では身近なんですよ。
例えば、海の底の土を取りにいくよう神様に命じられた話では、皆息が続かなくて死んでしまうけれど、三匹目は爪に土を少しだけ残して息も絶え絶えで浮かんでくる。それを神様が蘇生させ、持ち帰った土からいろいろなものが生まれたという神話があって、どこか生命の起源を思わせます。昔の人たちは、知覚では決して捉えられないものを、どうしてそのように語っていたのか。神話は、「想像力って何だろう?」という問いかけをしてきますね。
中村
私が賢治や東北に感じたものもそれです。民俗学や神話に関心はあるのですが、学生時代に科学の考え方を訓練されたので、まず目の前にある実体を知ることにこだわり、自由に想像力が羽ばたかないのです。ですから、生命誌でも神話を語りたいと思いながら地面をうろうろしています。どなたかに引き出していただきたいと思い、赤坂さんをつかまえたというわけです。確立したディシプリンを学ぶことは制約になりますが、基礎無しで学問をすることは難しいので、科学を忘れず、しかし広がりたい。
赤坂
僕はたぶん中村先生とは対極で、カッチリした学問の鋳型の中で育った人間ではなく、編集者のような面もあります。だからこそ『生命誌とは何か』を読んでいると詩的なイメージがあふれてきて、神話学と生命誌が豊かに重なり合うのが面白い。
『古事記』(註2)の始まりの天地が分かれた風景は、湿地帯というか、どろどろした火山のようなイメージで、そこから一人神が生まれてきて、隠れます。「死ぬ」わけではないのです。やがて、イザナギとイザナミという対を成す男女神が現れる。有性の存在なんですね。柱の周りを回って成婚儀礼をして、神々を産み落としていく。そして、イザナミが火の神を産んで、ほとを焼かれて死ぬんです。つまり、性と死というものが、二という数字の傍らから産まれてくる。イザナミは葬られて、恐らく葬送儀礼もそこで始まり、そして、黄泉の国というあの世の観念が生まれる。そこへ追いかけていったイザナギとの対話で、人間の死というものが生まれた。
一日に千五百人生まれたら、イザナミは千人を殺してやるという。千人を殺してやると言われたら、イザナギは千五百人を産む。つまり、性と死というものは、人間を巡って生まれてくる。古事記の中には、性と死というものが対になって一緒に現れる。生きものも、単細胞のときには死は無いのですよね。
中村
そうなのです。最初に誕生した生命体、原核細胞は単細胞で、原則、性も死もありません。真核細胞になると性が誕生して個体の死が生まれる。生と死ではなく、エロスとタナトスが対というのが科学的事実なのです。『古事記』以外の神話にも、科学と重なることが語られていますでしょう。
赤坂
DNAに書き込まれている生きものの記憶が、古事記では神話として語られているのではないかと思いたくなりますね。
中村
海中の泥をすくうというお話がありましたが、三八億年ほど前には細胞が存在したと言っても、その誕生はまだわかっていません。海中に細胞をつくる材料があったとは考えられていますが、生命体というシステムにまとまるには触媒が必要です。一九五〇年代にオパーリン(註3)に刺激されて日本でも粘土がある種の触媒作用をしたという考え方が出ました。最近も、海中の粘土がある場所での生命誕生を考える説が出ています。神話と通じるものがありますね。
赤坂
そう、深い海に懸命にもぐって、ようやく爪の中に残っていた、まさに粘土からあらゆる生命が生まれてくるというイメージって…。
中村
物語を読んでいると、時々ドキっとします。想像力というか、直感力というか。科学は理性で解明していくものですが、データから何かを引き出すときには、直感力や想像力が必要です。生きているとはどういうことかという全体像を知るには、物語が必要と思っています。
(註1) 『生命誌とは何か』
中村桂子著。講談社学術文庫(2014年)。『生命誌の世界』NHKブックス(2000年)の文庫化にあたり解題した。
(註2)『古事記』【こじき】
現存する日本最古の歴史書。稗田阿礼が天武天皇の勅により誦習した帝紀および先代の旧辞を、太安万侶が元明天皇の勅により撰録して712年献上。
(註3)オパーリン【Aleksandr Ivanivich Oparin】
[1894 - 1980]ソ連の生化学者。化学進化説の提唱者。主著に『生命の起源』。
2.いのちを巡る思想
赤坂
当たり前に自然と関わり合いながら暮らしている人の感性から、われわれはだいぶ遠くなってしまったけれど、フィールドで聞き書きをしていると、至るところに不思議な感覚があります。
中村
震災後、東北の方たちが「海は恐ろしいけれど、豊かなものだ」とおっしゃるのを聞いて、自然の中にいるという感覚があるからこその言葉だと思いました。これからの日本はそれを大事にしなければいけないと感じました。
赤坂
僕がフィールドにしてきた東北には、「いのちを巡る思想」が強固にあります。震災の直後に海辺を歩いたときには、魚を食べたくないという人が多かった。遺体が上がらないということは、どういうことかを皆知っているわけです。捕れた魚の内臓、あるいはタコの頭を割いたら、そこから爪や髪の毛が出てくるというのは、都市伝説じゃないのです。けれど、一人の漁師が「いや、そんなことは当たり前だ。だから俺は食べる」と言い切った、その言葉を聞いたときに、命に対する感覚、つまり自分が生態系の外ではなく中にいるという感覚を持っていると思いました。海辺の村で聞き書きをしていると、家族を海で失ったという人は多い。海の幸をいただいている人たちは、時には自分の体を海の生きものたちに差し出しているという感覚が、間違いなくあると思います。
中村
津波のような大災害でなくとも、日常の中で海で親しい人を亡くすことがあるでしょうし。
赤坂
日常的にありますね。震災後の五月の末に南三陸町の水戸部という、津波で壊滅した小さな漁村を訪れると、鹿(しし)踊りを復活させていたのです。食うや食わずやの状態からようやく抜け出して、避難所暮らしを始めた人たちが、真っ先にがれきの中から探し出したのが鹿踊りの衣装や太鼓です。僕ら民俗学者は、民俗芸能はいずれ消えていくと語っていたのですが、生きるか死ぬかを越えたときに、その人たちが求めたものが鹿踊りだったというのには驚くと同時に教えられました。
中村
生きることの基本だったのですね。
赤坂
そうだと思います。そこに何があるんだろうと考えちゃいました。三陸という地域は、背後に山が迫って、下りるとわずかな平地の向こうはもう海です。そこで暮らす人は、海だけでなく山にも入って樹を切り、炭を焼き、山菜や茸を採って、獣を仕留めて、食べている。
津波の届かなかった高台に鹿踊り供養塔というのがあり、そこには「生きとし生けるもの全てのいのちのために、この踊りを奉納する。」と刻まれている。鹿踊りが演じられるのは大抵お盆の頃で、死者供養と同時に、人間が生きるために糧としてきた鹿をはじめ、野生の生きものたち、それだけじゃない、生きとし生けるもの全ての命への供養が意識されているのですね。人と自然をつなぐ、ある種のモラルを暮らしの中に組み込んで生きている人たちは、死と向き合って耐える思想や哲学を持っている。東北を歩きながら、芸能ということの意味が少しづつ見えてきたという気がしました。
中村
東北の方たちは、自然をしなやかに受け止めているから、耐えることができるのだと思いました。現代社会は○か×かで判断して、ふところ深く受け止めることをしません。糾弾する風潮があります。耐えるというのは、考えずに我慢することではなく、しなやかに対応することですよね。
生きものはそれが上手です。機械はきまりきった反応をします。人間も生きものですから、本来はしなやかに受け止めることができるはずなのに、○と×のどちらかにきめて、すぐ諦めたり、争ったりしてしまう。鹿踊りのように生きとし生けるものを含んだ視点で辛い体験を乗り越えていく力は本当に大事ですね。
赤坂
そうですね。河合隼雄(註4)さんは「中空構造の日本」と言われましたが、われわれ日本人の持っている感性にしろ、価値観にしろ、ある意味では実にいい加減で、白黒はっきりさせて対立構造の中で勝つか負けるかを決めることはせずに、ある落としどころを見つけながらやってきたわけです。今の社会はそれを捨てようとしています。河合さんが言う曖昧なものを中心に抱え込んでいることの、しなやかな強さをきちんと言葉にしたいと思っています。
中村
そこで大事なのは、中にいるという感覚です。生命科学と生命誌の違いはまさにそれで、生命科学は外側から眺めている。原発事故のときに「想定外」と言った人は外側からものを考えてますでしょ。自然の中にいながら、科学的な知識を用いてあらゆる可能性を考えていきたい。赤坂さんの見てらっしゃる東北、宮沢賢治の物語はもちろん、岡本太郎の縄文の発見も、そうした観点がありますね。
(註4) 河合隼雄【かわい・はやお】
[1928 - 2007] 兵庫県生まれ。臨床心理学者。京都大学名誉教授。ユング派心理学を日本に定着させた。
3.縄文の発見と生命の樹
中村
私は岡本太郎に会ったことはないのですが、没後に岡本敏子(註5)さんが、「あなたと一緒にいると太郎と話しているよう」とおっしゃって、敏子さんとお話するようになりました。そこで岡本太郎の著作を読み、共感しました。とくに縄文の発見は興味深いですね。
赤坂
かつて日本の考古学はガラパゴスで、縄文時代の土器を集めては形式や文様を比較するだけで、新石器時代の文化として世界の土器の中に位置づけることはしませんでした。いわば縄文の中に閉じていたのです。ですから、岡本太郎が一九五〇年前後に「縄文土器論」(註6)を発表し、土器のかけらの中に縄文人の心が宿っていると語ったことに考古学者は驚いたと思います。そんなことを誰も考えていなかった。それが、岡本太郎による縄文の発見です。彼の提示した解釈が、間違っているか正しいかは二の次であって、単なる「もの」ではなく、心が宿っているはずだと言った太郎の直感は、素晴らしいし、大きな影響を与えたと思います。
太郎という人は一九三〇年代のパリに十年間滞在しそこで徹底した人類学的な思考をたたき込まれています。例えば、マルセル・モース(註7)の講義では、教壇に仮面を置いて、その仮面にどんなシンボリックな思いが託されているかが語られていた。そういう講義を受けて、同じ目で縄文土器や土偶を見た。だから、彼の発見は単なる直感でも偶然でもないのです。
中村
なるほど。それだけの知識があった上で、単に土器をある時代のものとして片付けるのではなく、そこに生きていた人たちがどのように生きていたかを語ってくれるものとして捉えたから発見があったのですね。縄文の人たちの営みの魅力は、先ほどおっしゃった東北の方たちの、自然の中にいるという生き方に通じるのではないでしょうか。
赤坂
そう思いますね。鹿踊りの、生きとし生けるもの全ての命のためにという感覚は、たぶん東北の普通の村に生きる人たちの中に、縄文以来ずっとつながってきたものだろうと思います。
中村
日本人というと、稲作のように植物との関わりに目が行きがちですが、山の動物との関わりもあったわけで、東北にはマタギのような文化もありますでしょう。
赤坂
岡本太郎が拒否したのは、わびさびのような植物的な日本だったと思います。なぜ四畳半よりも狭い空間で小さくせせこましくしなければいけないのか。動物的なエネルギーというか、カオスのようなものが、われわれの文化の中にも確実に流れているということを、必死に問いかけたのだと思います。
だから、太陽の塔なんて、ばかばかしいほどに意味のわからない、途方もない。屋根を突き破って。
中村
突き破ったことが大事ですね。それに塔の中も重要ですね。当時の最先端の科学的知見を取り入れて生命の樹を表現しています。
赤坂
大阪万博のテーマは進歩と調和でしたが、太郎さんは人類の進歩という概念に反旗を翻すように、あの生命の樹を作った。アメーバから人間まで、そこに進歩という感覚はなく、まるで中村先生の「生命誌絵巻」を形にしていますよね。
中村
そうなんです。一九七〇年という時代に、縄文の発見を経て、人間を考える為に生命の起源から考えたということは、日本の近代史の中で、大事にしなければいけない事柄だと思います。
赤坂
僕は、太郎の書いたものにくり返し出てくる、生活という言葉が好きで、それは生命と分ちがたい意味だと思います。
中村
なるほど。Vieにはあらゆる意味が含まれていますね。中学一年生のときに英語を教えてくださった先生が、Lifeという語で、生という字を真ん中に、周りに活、命、一、人と書かれて、「Lifeという言葉の中に生活、生命、一生、人生が入っている」とおっしゃったのを今でも覚えています。
赤坂
いい先生でしたね。
中村
ええ。生命誌での、生きているということがわかるのは、生活を見ているときです。三八億年という歴史と同時に、一生という時間も大切です。生きものにとっては、体がどんなもので出来ているか以上に、どう生まれ、どう暮らしてきたかということが、大事ですよね。一生、人間なら人生になるわけです。
赤坂
われわれがやっているのは、まさに生活誌です。
中村
だから、生命誌は生活誌と重ならなければいけない。今、急に思い出したのですが、後藤新平(註8)も「生活」と言っていますね。何が一番大事かといったら、夕飯をみんなで食べて談笑することだと、明治時代の男性が書いているんです。当時、公衆衛生の重要性を説いていましたが、それは一人一人の生活の重要性だと。そういえば、後藤新平も東北出身ですね。
赤坂
後藤新平って不思議な人で、思考の時間の射程が深いですね。衛生というのも、今何かをやったからといって、すぐに効果が出るわけでなく、十年、二十年という時間が必要です。かつての東京という街作りにも、五十年、百年先を見て、広がっていく都市の基盤を作るという発想がありました。
中村
今、それがないのが問題です。生きものは先へと続きます。堤防を作ると経年劣化していきますが、樹を植えたら、自然に十年、二十年、三十年と育っていく。生命誌研究館はちょうど二十年目ですが、開館のときに植えた桜並木が、春には見事な花を咲かせて、近所の方がいらして、研究館にも寄って下さります。
生きものの生きる力を生かす。そういう感覚を持つ社会になるのが、生命誌の願いです。宮沢賢治、後藤新平、岡本太郎など、先を見ていましたね。
(註5)岡本敏子【おかもと・としこ】
[1926 - 2005] 千葉県生まれ。岡本太郎に秘書として支えた後に養女となり、生涯、製作・執筆活動をたすける。岡本太郎記念館館長。
(註6) 縄文土器論
美術誌『みずゑ』(1952年)に掲載した論文。
(註7) マルセル・モース【Marcel Mauss】
[1872 - 1950]フランスの社会学者、文化人類学者。主著に『贈与論』ほか。
(註8) 後藤新平【ごとう・しんぺい】
[1857 - 1929] 岩手県生まれ。政治家。伯爵。医師より官界に転じ、後に、台湾総督府民政局長、満鉄総裁。さらに内相、外相、東京市長等を歴任。関東大震災復興や対ソ外交に努力した。
4.謙虚に暮らす、見えないものを想像する
赤坂
僕は震災後に海辺を一年半くらい歩き続けて幾つか興味深い例を見ました。津波によって大地がえぐり取られて生態系が撹乱された後に、絶滅危惧種や絶滅したと考えられていた植物が、突然群落をつくって復活した例。あるいは、堤防が突き破られて一面の潟になってしまったところでアサリが大繁殖した例。また、人間が湾で養殖をしたくても、ヘドロのようなものがたまって手をつけられなかったのが、津波によって丸ごと掃除された例。明治以降に震災が起きる度に常に言われているのは、大きな津波のあとには、豊漁がやってくるということ。
実際歩いていてもワカメがすごく捕れるとか、カキの養殖がすごくいいとか、たくさん聞きました。人間の側からは途方もない災厄でしかないけれど、自然というのは、生きものたちの周りに堆積している排せつ物のようなものを、時々きれいにしているという側面は、間違いなくあるのだなと感じました。
中村
自然のサイクルなんですね。
赤坂
そうですね。とくに興味深かったのは、海辺にある縄文の貝塚には津波が届かず、四八〇数箇所の全てが無事だったのです。
中村
え! そんなにたくさんあるのですか。そして、そこに津波がこないとわかっていたということですか。
赤坂
わかっていたと思いますね。それを否定する考古学者も大勢いますし、縄文海進の結果として海に沈んだ貝塚もあるからわからないという人もいます。しかし、松島湾の傍らの小さな島のある貝塚は、湾の内側なので縄文海進はほとんどなく、縄文時代とほぼ同じ風景をとどめています。貝塚は湾から七、八メートルの高台にあって、傍らには今も村があり、おそらく縄文人たちもそこに村をつくっていた。立ってみるとわかるのですが、そこは海からはかなり遠いのです。海辺に暮らせば楽でしょうが、そうはせずに、海で捕ったものを担いで上がってきたわけです。他の縄文の貝塚に立ってみても、やはり海から遠い。やっぱり縄文人は津波や高潮の被害を避けて命を守るために、ある高さを選んで謙虚に暮らしていたと考えざるを得ない。
中村
そこは山と海の間になるんですね。
赤坂
その貝塚からは、破壊された人家がたくさん見えます。近代は渚や浜辺のすがたを大きく変えてきましたね。堤防を建てて、山の方から次男、三男を呼び寄せて作った街は壊滅状態です。
中村
東京の海辺も昔とまったく変わってしまいました。
赤坂
わずかな干潟がまだ残っていますね。羽田空港ができる前は漁業が盛んで干潟環境が当たり前に広がって生物多様性の宝庫でした。江戸という都市は江戸湾の干潟によって支えられましたが、東京はその干潟環境を全てつぶして破壊することで大都市を作り上げてきた。だからこそ、今作られつつある巨大な防潮堤が、愚かだなと思います。
水について語るとき、忘れてはいけないのが地下の水です。僕は湧水の町である大槌町を訪れた際、地表を流れている水というのは、ほんのわずかな量で、実は地下深く流れている水があることを実感しました。原発事故でも、地表の水は見ても、地底を流れている水の流れは誰も意識していなかったのではないか。原発事故の問題はきちんと語られていませんが、地下水が一日に何百トンも流されているという事実があります。
中村
今、東京でも緑を守ると言って、建築物を地下深くへ持っていく傾向がありますが、地下へ入って水の流れを切るほど怖いことはありませんね。私の家の湧水も、この二十年ぐらいの間に減っていますし、ちょっと先にあるお不動様の滝は、最近湧水が足りなくなって、動力で回し始めました。地上の建物なら見えますが、地下の見えないところで建設が進められているので、水を切り、命を切っているような気がして恐いですね。
赤坂
僕は今日、成城学園前の駅から歩いてきて、近代の分譲地だと思うんですけども、野川が流れていて、竹があって、雑木林が点在していて、まさに『武蔵野』(註9)なんですよね。
中村
ええ。ここは国分寺崖線なんです。ちょっとだけ雑木林が残っています。
赤坂
今、国木田独歩の『武蔵野』を読んでいます。独歩は今のNHKのある辺りに暮らしていて、日記を見ると、そう遠くまで歩かずに、成城学園を含めた渋谷から世田谷辺りを数時間歩いて『武蔵野』を書いているんです。
中村
以前に地震予知の委員長をやっていた浅田先生が、「君の所は古墳時代の人が住んでいたから大丈夫」と言ってくださいましたけれど。水、緑、安全などについては昔の人のほうがよくわかっていたと言えるかもしれません。
赤坂
日本列島の湧水地図というのを見せてもらったんですけれども、ちょっと感動的ですね。江戸時代に現在の利根川の流れが現在と同じに作られると、それまであった流れが太い湧水となって全て東京湾に流れ込んでいる。
中村
そうなんです。だから、地下の水については、真剣に考えなければいけない。
赤坂
結局われわれは見えやすいものしか見ていないんじゃないか。だから、巨大な防潮堤も、それが何をもたらすのかということへの想像力が無い。
中村
無いですね。
(註9) 『武蔵野』
雑誌『図書』(岩波書店)に「武蔵野を読む — 赤坂憲雄」を連載中(2014年5月号から)。
5.野生化する東北
赤坂
僕、若者は反乱を起こしたほうがいいと思いますね。一部の人はこれだけ若い人たちにつけ回しをして、特権にしがみついている。
中村
本当におとなしいですね。福島のこれからを考えても、被災した方に対して出来ていないことがたくさんあるのに。
赤坂
なかなか語られない問題に、動物の問題があります。例えば、岩手の遠野辺りに行くと、狩人が仕留めても汚染されているために食べられない野生生物、とくに鹿が非常に増えている。イノシシは福島辺りが北限だったのが、今は岩手の北上市辺りまで出没し始めているそうです。野生動物は福島の警戒域の外へものすごい勢いで広がっていくでしょう。マタギたちは、熊を打ったって食えねえしなと言っています。
中村
食べられないのに命を奪うだけというのは、嫌なのですね。
赤坂
それ絶対嫌なんです。ハンターじゃないですから。岩手の方では、鹿を打っても、穴を掘って埋めるのも嫌だからと放られて、それを漁る野犬が現れたりと、自然生態系がすごい勢いで崩壊している。そこのバランスを保ってきた東北の狩猟文化が、高齢化の問題もあって、五年、十年後にほとんど無くなってしまったときには、すごい勢いで野生の王国が広がると思います。それは東北だけじゃなくて…。
中村
人間の生活に大きな影響を与えますね。
赤坂
関東圏にもどんどん広がっている。十年ほど前に、中国地方のある村が電気柵で囲まれているのを見て、未来予想図かと思って衝撃を受けましたが、この風景が東北にも生まれ始めている。
人口が減っていく一方で、震災以降の野生の王国化が進む中、電気柵で田んぼや畑、あるいは村全体を囲むような防御措置を取らなければ、農業は成り立たなくなるでしょう。
中村
自然は大事と簡単に言いますが、野生に戻るということの意味を考えないといけませんね。板門店を訪れたとき、三八度線の南北二キロメートルは六〇年程誰も立ち入っていないので、野生そのものになっているのを見て不思議な気持ちになったことを思い出しました。
赤坂
野生の王国の問題は、チェルノブイリでも体験されていますが、そちらはエリアが広大で手を付けられない。動物たちは、二〇キロ、三〇キロラインなんて関係なくどんどん溢れ出す。僕も震災のあと、たまたま三八度線の近くまで行ったとき、「ここは野生の王国です」と聞かされて、「これが福島でも始まるんだ」と思った。この話はエッセーでも書きましたが、不気味で見たくないからでしょう、見事に無反応でした。
中村
でも、現実は現実だから、どうにかしないと。
赤坂
原発事故の、自然と社会への暴力的な破壊については、ほとんど議論がされていません。
中村
日本人として本当につらい体験だったけれど、社会が変わるきっかけにはなるかなと思いましたが、すでに忘れて都会での経済成長ばかり言っている。
赤坂
僕も半分は東京の人間なので、きっと元に戻ってしまうだろうと、冷めた見方をしています。でも、福島だけは変わらざるを得ないんですよ。変わらなきゃ生き延びられない土地になってしまった。だから、僕は福島でいろいろなことを始めています。
例えば、会津の方で再生可能エネルギーの問題に取り組むために、太陽光や風力の電力化や、森林からバイオマスを得ようと提案すると、会津の仲間たちは里山をどう再生するかを考える。エネルギーや資源の前に、まず里山から整えなければ、水の流れも森の更新もできないわけです。
中村
再生エネルギーを考えたときに、大規模な施設をつくるのではなく、それぞれの地域で森や川や海などの場所を生かしていく方法が大事ですね。それを電力化して東京に送るのは再生エネルギーの本質ではありません。多くの人が地域に入っていく必要がある。
赤坂
僕も福島というフィールドが自分の中にあるが故に、東京の人が忘れてしまっても、忘れることはできない。福島が今、産みの苦しみで変わっていくことは、人類の将来への一つのモデルとして提示できると思っています。
中村
そうですね。先進の場所になってもらわないと。
赤坂
われわれはそういうことを徹底して議論してきましたし、筋金入りでやっています。
中村
それに期待します。この間、会津へ伺わせていただいたときに、山の神様を考えるところからはじめていらして、「いいな」と思いました。今日の話は、神話ではじまりましたが、エネルギーも神様や自然からいただくという感覚ですね。科学技術を否定するつもりはありませんが、神話をベースにした新しい生き方があってよいと思うのです。
赤坂
公の議論の場で再生可能エネルギーの話をすると、経済界の人たちは「そういう反文明的な妄想には付き合えない」と言いますが、僕は風土とテクノロジーの結婚だと思うのです。最先端のテクノロジーを使って、人と自然をつなぐモラルが生まれてくる現場でしょう。
中村
そうだと思います。新しい文明ですよね。再生エネルギーは。例えば、小水力と言うと、皆さん水車で電気を起こすことを考えますが、動力を生かして粉を挽いたほうが効率がよいと思います。現代文明は石油や原子力を使ったエネルギーをすべて電力化してきましたが、熱なら熱、動力なら動力として地産地消で使えばよい。生きものと同じで、簡単にはいかない、面倒さを組み込んでやっていく決心が必要なのではないでしょうか。地域の方たちの力を信じて、微力ながら応援していきたいと思います。
対談は国分寺崖線の斜面にある中村宅で行った。成城3丁目の「小さな森」として庭の公開もする。
写真:大西成明
対談を終えて
中村桂子
東日本大震災以降、生命誌を基盤とし東北に学ぶ新しい知を考えてきました。赤坂さんが民俗学を踏まえ、徹底的に現場に依り、分野にこだわらず展開されてきた東北学が、宮沢賢治や岡本太郎から武蔵野まで広がるところに関心の重なりを感じ、お話をしたいと思いました。今回の対談で共通性は神話にも広がり、伺いたいこと、教えていただきたいことが増えました。
赤坂憲雄
中村先生の『生命誌とは何か』という本を読み返し、豊かで詩的な世界を感じました。最先端の科学が辿り着いた風景が、今、僕がとても気になっている、昔の人たちが物語っていた神話と奇妙に響き合うのです。対談でも、『古事記』を生命誌という場から読み直した時、見えてくるものを感じました。最先端の生命誌と日本古来の神話が、つながり響き合う中でつくられていく世界観は、今の若い人たちに届くと感じます。若い人に必要で共有できる世界観です。そういう意味で、生命誌って面白いですよ。とっても魅力的ですね。
著赤坂憲雄(あかさか・のりお)
1953年東京都生まれ。東京大学文学部卒業。東北芸術工科大学教授、同大学東北文化研究センター所長を経て、現在、学習院大学教授。福島県立博物館館長。遠野文化研究センター所長。専門は民俗学、日本文化論。主著に『異人論序説』、『東北学/忘れられた東北』、『岡本太郎という思想』、『震災考』ほか多数。