かの大科学者アインシュタインが音楽を愛し、自らヴァイオリンを相当に弾いたことは、よく知られている。友人のフランスの大ピアニスト、ロベール・カサドシュ(1)がお相手をつとめることがあった、というのだから大変な話である。しかし、ことはこれだけで留まらない。20世紀の大作曲家の中にあって、極めつきに私の愛して止まないバースラフ・マルチヌー(2)がこの二人のデュオのために作曲した作品があるのだ。その存在をかねてから知っていて、なんとしてでも聴いてみたいと切望していたのだが、わずか一種類のLPは八方探しても、手に入らなかった。それが、ごく最近CDとして発表され、私の希望は実現して、このスーパー大天才三者の協力の成果を耳で確かめることができた。
マルチヌーはチェコに生まれて、1941年には祖国を離れ、パリを経てアメリカヘ亡命する。彼の時代と軌跡はかのバルトークとまったく同じだ。しかし、少なくとも日本における彼の知名度がバルトークよりはるかに劣るのは、察するにおよそバルトークとは際立った対照をなす、じつに一点のかげりもない、陽性な音楽を作り続けたことによるだろう。日本人は、とりわけて深刻好み、悲劇好みだから。私などは、マルチヌーがあのような陽性そのものの音楽を、世界的悲劇の時代に、亡命後も作り続けた根性を感動的に受け止めているのだが。
人格的にもこの二人は対照的であったらしく、バルト一クはかなり狷狭(けんきょう)で、人付き合いのよくない人物だったのはよく知られている。これに対してマルチヌーはまことに誰にも好まれる人物だったらしく、異境アメリカにおいてもすぐよい友人を数多く作った。それが証拠に、彼のシンフォニーの初演の如きも、亡命の地アメリカでの超一流の指揮者とオーケストラが初演を買って出ている。この異境の友人たちの中に、アインシュタインまで入っていたというわけである。
この曲は、『五つの連作マドリガル』と題したヴァイオリンとピアノのための小品集である。アインシュタインのヴァイオリンの腕前は、モーツァルトのソナタぐらいは十分弾けるという程度だった。マルチヌーはこのことを十二分に意識して、じつに心やさしく「これでアインシュタイン先生弾けるかな」と思いつつ作曲していることが聴きとれる。それでも、彼の音楽をつねに特徴づけるボヘミア舞曲と、また彼のもっとも愛していた彼は大いにモダンボーイであったラグ・タイムが奇妙に結婚したような、マルチヌーならではの雰囲気は大いにある。
大曲でもなく、傑作と呼べるものでもないが、20世紀のスーパー大天才たちが私たちに落とした、一滴の愛すべきしずく、といった感がある。この音楽、二人のデュオによって1943年にプリンストン(当時アインシュタインはプリンストン大学高等研究所にいた)で初演された。この年代に注意しよう。第二次世界大戦はなお激しく続き、アインシュタイン自ら口火を切った一人である原爆の製造が、今やアメリカで軌道に乗っていた時代の話である。
アインシュタインはお礼に、大作曲家に相対性原理を説明しようと試みたが、これは実を結ばなかった由。
[参考]
マルチヌー:チェンバー・ミュージック、ダーティントン・アンサンブル
(Hyperion-dyad、CDD 22039)
1)ロベール・カサドシュ(1899-1972)
フランスを代表する大ピアニスト。第二次大戦中は主としてアメリカで活躍。カサドシュのファミリーは、指揮者、音楽学者などを輩出した名門。
2)バースラフ・マルチヌー(1890-1959)
この作曲家については、『生命誌」通巻7号で紹介した。戦後、ヨーロッパヘ帰るが、愛する祖国への帰還は、当時の政治的情勢のためにかなえられず、スイスで死去。
目次
1. オペラの中の蝶 | 1993年2号 |
2. 北欧の人の心と鳥たち | 1993年3号 |
3. シュトラウスの昆虫 | 1994年4号 |
4. ハイドンの『天地創造』に生命誌を聴く | 1994年6号 |
5. マルチヌーの『胡蝶と極楽鳥』 | 1995年7号 |
6. シベリウス『樹の組曲』 | 1995年9号 |
7. かげろうの哀れ—ルーセルの『クモの宴』 | 1995年10号 |
番外編 音楽のなかの昆虫たち | 1996年11号 |
8. ラヴェル『マダガスカル島民の歌』 | 1996年12号 |
9. 琥珀のしじまの音 | 1996年13号 |
10. ダーウィンの時代精神 ヴォーン・ウィリアムス『海の交響曲』 | 1996年14号 |
拡大版 音楽の架け橋で科学へ | 1997年15号 |
11. ハイドンのシンフォ二一 | 1997年16号 |
12. 鴎の死に生命自然の霊を聴く—ラウタヴァーラの「至福の島」 | 1997年17号 |
13. 女性作曲家の作品を聴く | 1998年18号 |
番外編 音楽に聴く生命誌 | 1998年19号 |
14. 発掘された音楽—ブラウンフェルスのオペラ『鳥たち』 | 1998年20号 |
15. 科学者と音楽家の幸福なデュオ マルチヌー『五つの連作マドリガル』 | 1998年21号 |
16. 春の寿歌—ブリテンの『春の交響曲』 | 1999年23号 |