山本大二郎先生に出会う
小学校4年生の時、『子どもの科学』の「竹筒に巣を作るハチの話」という記事を見て面白いなあと思い、編集部に手紙を書いたら、思いがけず筆者から返事がきました。しかも、遊びにいらっしゃい、と書いてある。嬉しくて一人で、1時間電車に乗って横浜のお宅に行きました。小学生にとっては大旅行です。なんと筆者は坊主頭の東京高等師範学校の学生さん。ナチュラルヒストリーに広い興味をおもちで、後に分析化学を専攻され、明治大学の農学部教授になられた山本大二郎先生です。
先生に詳しく教わって、竹竿を節の近くで切って竹筒を作り、軒のひさしに置いておくと、東京のど真ん中、四谷でしたが、ハチがやってきて巣を作りました。ハチの生活の観察に夢中になり、仲間を誘って、「少年蜂の会」を作り、『はち』というガリ版刷りの同人誌まで発行しました。その間山本先生がいろいろ教えてくださり、私は将来は昆虫学者になろうと夢をふくらませました。雑誌を通して先生と生徒の素晴らしい関係を味わった体験から、今は先生の立場にある私はこのような人間関係がたいそう大事だと思っています。
ところが、昆虫の生態を本格的に研究しようと張り切って東大の動物学科に進学したのに、そんな研究をしている先生はいないし、そういう授業もない。幻滅でした。後に鳥類の生態学者になった浦本昌紀君(和光大学教授)、チョウが好きな日高敏隆さん(滋賀県立大学学長)など、動物好きで、動物学科に来た人たちとぼやいたものです。動物好きをがっかりさせる動物学科って何なんでしょうね。
すっかりばかばかしくなり、身の置き所がない気持ちで、ドイツ文学の授業ばかり聞いていました。ヘルマン・ヘッセ、トーマス・マン、ハンス・カロッサなどに感動しましたね。自然を見る目がそこにあったからだと思います。後輩には動物学科から転学部して、ドイツ文学やフラン文学の専門家になった人もいました。もし一冊の本に出会わなかったら私もそうなっていたと思います。
セント=ジェルジとの出会い
『筋収縮の化学』という英文の本を本郷の洋書屋で見つけたのは1951年(大学2年生)の春でした。その前年に出版されたセント=ジェルジという有名な生化学者の本です。ウサギの筋肉からアクチンとミオシンという2種類の収縮性タンパク質を抽出して、両者を混ぜ合わせて紐を作り、エネルギー物質であるATPをかければ、みるみる縮んでいく。興奮しましたね。体の中で起きていることが眼の前で見えるわけですから。
昆虫はどうなっているのだろうか?それを調べたくなりました。
卒業研究として与えられたテーマは、ヒキガエルの胚の酸素消費がどんな薬剤でどういう影響を受けるかというものでした。幸いヒキガエルが卵を生むのは5月までなので、次の年の2月までは実験できない。そこで、5月が過ぎたところで筋収縮の実験をやってみました。当時は、与えられたテーマをきちんとやりさえすれば後は何をしようと学生の自由だったのです。おおらかな時代でした。
アクチンとミオシンの結合物であるアクトミオシンをイエバエの幼虫とサナギと成虫から抽出し、ATP分解能を比較しました。あまり動かないサナギや幼虫に比べて、成虫はATPの分解能力が高いのではないかなと予想してやったのですが、結果はピタリ。サナギの初期はほとんどゼロ、羽化して飛ぶようになると急速に分解作用が高くなることがわかりました。あまりにも思い通りの結果にすっかり面白くなり、ドイツ文学も昆虫の生活もすっ飛んでしまい、筋収縮の研究にのめり込みました。
白状すると、この結果は、30年後に自ら訂正することになったのです。成虫の筋肉からの抽出はやさしいのですが、幼虫には筋肉が少量しかないので、まるごと潰して実験するしかなく、どうしても有効成分が不純になります。幼虫やサナギの活性が低かったのはそのためで、新しい技術で純粋なミオシンをとって調べてみると、じつは成虫と違いはなかったのです。でもあの時、正しい結果が出ていたらあんなに興奮して筋肉研究に入らなかったかもしれないので、こういうのをケガの功名というのかもしれませんね。時には間違いもあっていいのですよ。
その後も、ウサギで調べられた収縮タンパク質が昆虫にもあるが、脊椎動物の組織でわかったことが他の生き物ではどうなっているかに興味をもって調べました。今日の言葉でいえば、多様性生物学ですが、いろいろな動物で調べ、基本的には同じ筋収縮のしくみが生物運動系に存在していることがわかってきました。
当時の筋収縮の研究
57年、日本で初めて、筋収縮についての国際シンポジウムが開かれたのです。当時は国際学会を日本で開くのは大変なことでした。熊谷洋先生(元東京大学医学部教授)が主催し、名取禮二先生(元東京慈恵医科大学学長)、殿村雄治先生(元大阪大学教授)、江橋節郎(元東京大学教授)、大沢文夫先生(元名古屋大学教授)が中心になったものです。この分野にはこれだけのそうそうたる先生がすでに日本にいらしたのだと思うと、今考えてもたいしたものだと思います。
名取先生は、ナトリファイバーで知られています。それまでは細胞膜を通して刺激が伝わると考えられていたのですが、膜をはがしたカエルの筋繊維が電気刺激で収縮することを実験で示して世界を驚かせました。江橋先生は医学部薬理学、大沢先生は高分子物理学、殿村先生は理学部植物学と専門はまったく違いますが、いずれも私より8歳上、やはりセント=ジェルジの本を読んで、筋収縮の仕組みの研究を始めたとのことです。私は名取先生を筋研究の親分、他の3人を御三家と呼んでいました。このシンポジウムで、意気盛んな彼らの独創性溢れた研究が世界に知られたのです。
私は、江橋先生を通じて熊谷教授が組織する筋収縮の研究グループに、大学院生の時から加えてもらっていました。学会が開かれた時は、東大教養部の助手になっており、昆虫のアクトミオシンについて発表しました。アメリカ留学から帰国したばかりの渡辺静雄先生(元カリフォルニア大学教授)に通訳してもらわなければならない程度の英語力でしたが、外国の研究者の活発な議論にずいぶん驚かされました。そして59年、ここで知りあったジョン・ガーグリー(マサチューセッツ総合病院)のもとに留学しました。
アメリカの研究は、流行の話題があると、寄ってたかって、誰が一番うまくその問題を解決するかという競争社会でした。だから、人を出し抜いて、俺が一番になるぞという努力に研究費が与えられるのです。
私もアメリカでそういう競争的な仕事に入り込み、それに伴って喧嘩もするし、仲良くもするという人間関係を経験しました。でもどうもそれは性に合わない。もういやだ、自分は自分の道を行くと決心しました。研究者にとっていちばん大切なのは自分で問題を探し、その解決に努力すること。結果として駄目になるか、新しい分野を切り開くことになるかはわからないところに自分を賭けたいと思ったのです。
大きさをコントロールするものは何?
そこで62年にアメリカから帰国して、俺はこの問題をやるぞと覚悟を決め、以来15年かかわった仕事は、アクチンフィラメントの長さが1ミクロンと決まっているのはなぜかということです。アクチンはミオシンと共に、筋肉細胞の中にあって、収縮にたずさわっているタンパク質ですが、細いフィラメントでしかも長さは必ず1ミクロン。いろいろな情報が複雑に絡み合って大きさが決まる場合の調整、制御はどうなっているかというテーマで、今から考えると、よくもまあそんな大それたことをと思います。生物の基本的な形と大きさを決める因子のうち、形を決める遺伝子は現在猛烈な勢いで見つかっていますね。でも、大きさについては今でもほとんどわかっていない難しい問題です。
生体内では、直径5ナノメータのアクチンタンパク分子が375個数珠つなぎに並んで1ミクロンのフィラメントを作っています。純粋なアクチンタンパクは筋肉から精製して取り出せることをセント=ジェルジが示したわけですが、これに金属イオンを入れると、重合してフィラメントができます。こうして精製したフィラメントは、短いものほど多く、長いものほど少ない。1ミクロンには揃いません。化学反応でポリビニールなどの人工繊維を作る場合と同じで、物理化学の法則で説明できます。
体内では1ミクロンぴったりに揃っているのですから、何か特別な仕組みが必要だということになります。生体内から取り出した1ミクロンのアクチンの中には、アクチンフィラメントの長さを揃えるような調節因子があるにちがいない。
そこで、この1ミクロンのアクチンをえっさえっさ筋肉から取り、いくつかの成分に分けて、それらを純粋なアクチンに加え、いくつかの成分に分けて、それらを純粋なアクチンに加え、1ミクロンに揃える成分を見つけるという方法をとりました。65年、実験を始めてから3年たって、1ミクロンらしくするようなものが見つかったのです。アミノ酸組成を調べるとアクチンによく似ていたのでベータアクチニンと名付けました。アクチンフィラメントの性質を調節し制御するタンパク質因子の発見第1号でした。もっとも、ベータアクチニンはアクチンフィラメントの長さを短くするだけで、1ミクロンにするわけではありませんでした。また、江橋先生が収縮促進因子として発見したタンパク質はアクチンをゲル化することがわかり、アルファアクチニンと名づけました。
77年にはベータアクチニンを精製することができました。アクチンフィラメントには方向性があって、一方の端を矢尻、もう一方を反矢尻というのですが、このタンパク質は矢尻端に付くという結果を得て発表しました。アクチンフィラメントは重合するときに両方から伸びるのですが、その時ベータアクチニンが切片を抑えて長さを調節するのだと考えました。
ところが、87年になって、カセラ(アメリカ)が、これは反矢尻端につくと報告し、Z線にあるからというので、ギャップZと名づけてしまった。私が先に見つけてベータアクチニンと言っていたのに!残念ながら反や尻のほうにつくのが正しく、今はギャップZと呼ばれています。もう一息で失敗をしたという体験です。
アクチンの長さについては、1分子でちょうど1ミクロンというタンパク分子があって、アクチンフィラメントにぺタっとくっついている。つまり生体内に分子の物差しがあることがわかったのです。この分子は、80年にアメリカで発見されたトロポモジュリンが矢尻端にくっついて安定化している。二重の装置で生体内の一次元の長さは決まっているということで一件落着というわけです。
コネクチンを取り出す。
筋収縮については、54年以来、ミオシンフィラメントの中央に向かってアクチンフィラメントが両側から引きずり込まれるという、滑り説で説明されています。それでは伸びるときはどうなのか。ミオシンとアクチンの重なった状態から、ぱっと元へ戻るのですが、そこにバネ構造があると考えると説明ができます。54年に名取先生が、こういうものがあるはずだと予言したのですが、誰も確かめることはできませんでした。
72年、私は岡田節人先生(現JT生命誌研究館館長)の好意で京都大学に移りました。そこで、フィラメント構造を顕微鏡で眺めているうちに、名取先生の予想したバネ構造があるという確信をもちました。何かがフィラメント間を繋いでいる。第三のフィラメントを取り出そうと実験を始めました。毎日、朝から晩まで、ウサギの筋肉からミオシンとアクチンを抜き出し、その残りかすから、未知のタンパク質を探すのです。やっている時は夢中でしたが、今思うとぞっとします。75年、ようやく弾性タンパク質の集合体と思われるものをつかまえ、名取先生にお願いして、確かめていただきました。ミオシンもアクチンも抜いたナトリファイバーは、引き伸ばされたあと、パッと元の長さに収縮したのです。これこそバネだと確信がもてたので、コネクチンと名づけて、発表しました。分子量が非常に大きいこともわかってきました。
しかし、とても純粋な分子といえるものではなく、伸び縮みの仕組みもわからない。いくらやってもきれいな結果が出ません。この冬の時代は77年に千葉大に移ってからも続き、通算14年間、幻のタンパク質を追いかけました。取り出したものが変性した人口物質ではないかと言われたこともありますし、自分でもそう思ったことさえありました。14年と一言で言いますが長いですよ。
純粋な形で取り出せたのは89年。精も根も尽きていましたから、その瞬間はうれしいなどという気持ちとは違う感じでしたね。結局、バネのように、Z線から始まってミオシンのフィラメント上を覆っていて、1分子が1ミクロン以上、アミノ酸2万5000個分からなり、分子量300万という今まで知られているタンパク質の中でいちばん巨大なものだったのです。大きいからタンパク分解酵素によって分解されやすい。それで単離が技術的に非常に難しかったのです。
私は繋げるという意味で、コネクチンという名前を付けたのですが、少し後に、ワン(アメリカ)が巨大なという意味のタイチンという名で発表し、先取り権をめぐって、激しい闘争をしました。今は、アメリカのほうが宣伝力が高いので、タイチンという名前のほうがよく使われます。キャップZの場合もそうですが、名前を上手につけてPRをうまくやることはとても大事なことだと思います。
伝記を書く
駒場で助教授をしていた頃、大学紛争が起き、研究ができなくなってしまったので、しかたなく自分の尊敬する生化学者の伝記を調べて本を書きました。その後、それが癖になって、科学史の一端を研究することになりました。私が筋収縮の世界に入るきっかけとなったセント=ジェルジにも会い、その伝記の翻訳もしました。こうして尊敬する研究者の生涯を調べてみると、そうたくさん研究上のホームランは打てないということが実感できます。江橋先生のトロポニンの発見はまさにホームランと言えましょう。科学者としてホームランを打てた人は非常に幸せで、私の研究は冷静に見て二塁打くらいだと思います。独自のものに取り組み、時に15年も苦労したのですから、周りの人は変わり者と思って見ていたと思いますけれど。それでいいんです。
科学者は、いい意味でも悪い意味でも、目隠ししたようなところがあって、がむしゃらに進む。初めからこれをやれば絶対成功するとわかってやるのとは違います。新しいことを生み出そうと思ったら、どうしても勇気と努力は必要です。流行を追うのではなく、その元を見つけることです。それにフロック(タナボタ)は、ほとんどありえないと思った方がいいのでしょうね。
30代半ばくらいまでに、小さいことでも自分が考えたことが当たって、どうやらうまくいきそうだし、しめしめと思う体験をする。他の人が誰も認めてくれなくても自分でにっこり微笑むということがあると、またやってみようと努力をすることができる。それが研究を支えている力だ、そう思いますね。