タンパク質を始める
戦争が終わった1945年のある日、水島三一郎先生(当時東京大学理学部)が、「これからはタンパク質を研究しよう」とおっしゃった。
タンパク質はアミノ酸がペプチド結合した高分子であることを、フィッシャー(ドイツ、ノーベル化学賞受賞)が発見したのが、20世紀の初め。その後、物理化学の研究者の興味を引くようになってはいたけれど、当時は具体的なことは何もわかっていませんでした。サンガー(イギリス)がタンパク質として初めてインシュリンのアミノ酸配列を決定するのが、51年ですから。分子構造を赤外線やラマンなど物理化学的手法で決めるのが当時の水島研究室のテーマでしたから、タンパク質なんて大きな分子が扱えるものかどうか。
助手をしていた私は、「タンパク質なんて泥沼に入るだけ。やめたほうがいい」と真っ先に反対しました。しかし、「泥沼だからやる価値がある」という意見もあって、渡辺格さん(現慶応義塾大学名誉教授)、野田春彦さん(現創価大学教授)や私たちが、タンパク質の研究を始めることになったのです。結局、タンパク質が、形を変えながらも生涯の研究対象となるのですから、運命的出会いのはずですが、最初は正直、何をやっていいのかわからない状態でした。でも、核酸全盛の時代にもタンパク質を貫いたのだから、何かあったのでしょう。後年、三菱化成生命科学研究所の披露パーティーで、水島先生が、「今堀は泥沼だからやめたほうがいいと忠告してくれたが、結局自分でタンパク質にどっぷりと首までつかった。りっぱなものだ」と話されました。私の悪戦苦闘をずっと見ていてくださったのだと、うれしかったですね。
修業時代
子供時代は勉強嫌いの泣き虫坊主でした。乞食になるのがいやなら勉強しろと母に叱られ、じゃあ勉強するか、てなもんです。先生運に恵まれたんですね。中学時代の先生のおかげで、化学に進みたいと思うようになりました。兄に薦められてしぶしぶ受けた第一高等学校に入学しましたが、1年生を終わって成績が張り出されてみたら、58人中56番。不器用で新しい環境に適応するのに時間がかかるのですね。それが、よくも研究場所と研究テーマを次々と変えたものだと思います。
生化学の勉強のためには、理学部を卒業後、医学部に学士入学しようかとも考えていたのですが、3年生になった時、骨を全部暗記するなどということがばからしくなって、医学部への進学は止めました。生来勉強嫌いなんですね。友人の熱心な誘いでなんとなく入った研究室ですが、水島先生は当時、物理化学、量子化学の分野でもっとも輝いていた方です。入隊していく学生が大勢いた、そんな時代に、幸いにも水島先生のもとで物理化学の訓練を受けたのです。
しかし、物理化学で一生飯を食ってゆく自信がなく、50年、東大の教養学部に移りました。新制大学の教養学部は、研究の場としては惨憺たるものでした。最初の1年間で買えたものは、暖房用のコンロだけという始末。講義の合間に1人で少しずつ実験していましたが、失敗すると機嫌が悪くなって学生に当たる。自分でも怖い先生だったと思います。そんな状況では実験もうまくいかず、水島研から東大教養にかけては、自信喪失の時代でした。
学者廃業かなとすっかり打ちしおれていた時に、ハーバード大学に留学中の友人が薦めてくれたので、56年、アメリカへ渡りました。これまでと違って、研究費も手伝ってくれる人も、時間もある環境になるのです。これでできなかったらおしまい、言い訳はきかないぞと自分に言い聞かせながらの渡米でした。これまでのところでお気づきでしょう。いつも誰かに薦められての人生。積極的にというタイプではなかったなあと思い返します。
アメリカへ
ハーバードでは、当時タンパク質の立体構造の研究で目覚ましい成果をあげていたドーティ教授につきました。研究室には、核酸の研究グループもあって、みな一線級の仕事をしており、とても勢いがありました。その様子に興奮しましたね。当時、タンパク質のペプチド鎖の立体構造としては、ポーリングが提唱した、らせん状のαへリックス構造が最有力でしたが、ドーティは、ポリペプチド鎖は溶液中でもαへリックス構造をとることを証明するとともに、溶液のPHを変えることで、αへリックス構造がランダムコイルになることを見つけていたのです。
さらに、研究室のヤン(後にカリフォルニア大学教授)は、旋光分散という新しい方法で、αへリックスとランダムコイルの転換を見ていました。旋光分散は、タンパク質などの溶液に種々の波長の光を当ててその偏光面の回転を測定し、その値から内部構造を推測する方法です。ヤンに旋光分散の手ほどきを受け、それを利用して私もいくつかの発見をしました。
私は、何種類ものポリペプチドについて、さまざまな条件下で旋光分散を測定しました。ある時、X線結晶学者でヘモグロビンの三次元構造を解明していたペルツ(イギリス、ノーベル化学賞受賞)が研究室にやってきました。彼の結果と私の旋光分散の結果とがよく一致したのでとても喜んでいたのを覚えています。旋光分散の測定によって、αへリックスが右巻きか左巻きかを決定できるのですが、これもペルツの結果と一致していました。
こうして2年間の在米中に、徐々に私は自信を取り戻していきました。私と生年月日のまったく同じドーティに研究の進め方を学びました。モデルとしての物質の測定から、仮説を立て、それを実証するという起承転結の法則で構造を決める。これが彼の方法です。学生の教育法も学びました。アメリカ留学で180度の転換をしたのです。
αへリックスとβシート
旋光分散はエキシントン理論という難しい理論に基づいているのですが、実験と理論の勉強から、私は、ポリペプチド鎖がαへリックスを形成すると、吸光度が減少するという結論を導き出しました。
すぐにドーティのところへ行って「これを証明する実験をしたい」と言うと、彼の返事は「ハハン?」。あまり乗り気でないらしいのでそのままにしていたところ、帰国の間際に「あの実験はどうなった?」と聞かれました。「あなたがあまり乗り気でないのでやめたのだ」と言うと、「そんなことはない。今すぐやれ」と言うのです。もう帰国を決めていたので、「日本で」と言って帰ってきました。
日本では、旋光分散はほとんど知られていませんでしたが、新しい知識に多くの人が興味を示しました。私は、田仲二朗君(当時東京大学理工学研究所)と、理工研に入ったばかりの分光機を使って、αへリックスの形成と吸光度の関係を実証しました。高分子が規則構造をとると吸光度が減少する「淡色効果」の、世界で最初の発見でした。私の論文が出ると、すぐにドーティはコピーを研究室中に回し、次の実験を指示したということです。
タンパク質の立体構造については、αへリックスとβシート構造とがポーリングによって提唱されていたのですが、当時はαへリックス全盛で、βシート構造のことは、あまり興味をもたれていませんでした。旋光分散を用いた私のもう一つの仕事は、タンパク質中にはαへリックス以外に、クロスβ構造をも含むことを明らかにしたことです。たとえば、リゾチームという酵素分子についてはβ構造の存在部位まで推定しました。後にフィリップス(オックスフォード大学)がリゾチームの立体構造をX線結晶学で解明した結果、私の予測したとおりの位置にβシート構造が確認されたのです。飛び上がるほどうれしかった。これぞ研究者のダイゴ味です。
農学部そして医学部で実学を目指す
68年、他大学からのいくつかの誘いのなかで東大の農学部に移ることを決めたのは、バナールの書いた“SCIENCE FOR SCIENCE”の影響で、「実学」と「虚学」について真剣に考えたうえのことです。科学には本来、ブフナー(1907年ノーベル化学賞受賞)が不老長寿の薬で大もうけしようとして酵素を発見したように、実学の伝統がある。そこで実学的な農学部で、実学と虚学の壁を取り払い、統合してみたいと思ったのです。
私はすでに、タンパク質の構造だけでなく、機能にも興味をもつようになっていたので、その関心のなかで実学にふさわしいテーマとして、耐熱性酵素をとりあげ、その機能と構造を研究することにしました。酵素はとても有用な触媒ですが、熱に弱いのが欠点。常温ではすぐに活性を失いますし、高温では使えない。耐熱性の細胞のもつ酵素なら、工業的利用の道が開けるかもしれない。優秀な人材が集まり、黄金時代といえる充実した時代でした。
現在のDNA研究ではPCR法という遺伝子増幅の技術が不可欠ですが、この時、耐熱酵素が必要です。私たちの発見した酵素が発展的に役立っているのはうれしい限りです。
75年、東大の医学部で第二生化学教室をつくることになり、裸一貫という気持ちで招聘に応じることにしました。農学部での仕事は順調にいっていたのですから移る理由は何もなかったのですが、どうも誘われると断れない性質は消えませんね。行くからには医学の仕事をしたいと思っていたところ、筋ジストロフィーの治療薬研究の依頼がありました。筋ジストロフィーは、幼稚園の頃に発病し、歩行困難になり、20~30歳の若さで亡くなる悲惨な病気です。ぜひやろうと決めました。
酵素屋の発想として、この病気は筋肉のタンパク質を酵素が分解することによると考えました。さまざまな状況証拠から、その酵素はカルシウムで活性化されるプロテアーゼだろうと予測し、その阻害物質を見つける方針を立てたのです。大きな研究班をつくって格闘し、分解酵素の精製に成功。さらに、条件を満たす阻害剤を徹底的に調べ上げ、最終的に残った化合物は、ニワトリの実験である程度の効果を示しました。残念ながら治療薬開発まではいかなかったのですが、この研究は、タンパク質分解酵素の研究の中で画期的なものだったと思います。細胞質の中で制御の効く分解酵素を明らかにしたのは、これが初めてですから。
東大時代まがりなりにも仕事ができたのは、非常に優秀なスタッフと大学院生に恵まれたからだと思います。これらの人たちの中から東大教授4名をはじめ、全国の大学教授として活躍している人を多数輩出したことからもおわかりでしょう。
老人総合研究所から三菱化成生命科学研究所へ
東大退官後、都立老人総合研究所所長となって、今度は老人問題を考えました。新しい職場に移る時の私のやり方は、それまでやっていた研究を持ち込むのでなく、その新しい場に適した問題に、タンパク質という自分の武器で切り込むというやり方です。ここでは、アルツハイマー病研究の重大さを認識し、数年かけて勉強しましたが、強い勧誘を受けて三菱化成生命科学研究所に所長として移ってから、アルツハイマー研究のプロジェクトを立ち上げました。
人間は、時間とともに必ず老いていきます。120歳まで生きたら全員がアルツハイマーになる。それを異常に早めている因子を明らかにすれば、その因子を除くことにより、アルツハイマーの発現を遅らせることができるはずです。アルツハイマー患者の脳では、PHFと呼ばれる不溶性の物質が神経細胞内にたまります。これが促進因子ではないかと考えたわけです。PHFの構成成分は、異常にリン酸化されたタウというタンパク質であることが明らかになっていました。私は、このタンパク質をリン酸化する酵素があるに違いないと考え、苦労の末、その精製に成功しました。タウプロテインキナーゼです。これを用いてのアルツハイマーの研究は現在も進行中ですが、最近ではこの酵素とアルツハイマーとの関係が世界的にも注目されるようになっています。
老人研にいる間に、私は、老人問題に対して日本はいかに無策であるかを痛感しました。65歳以上の人口が7%以上の社会を高齢化社会と言いますが、それが14%に倍増するのに、日本は26年しかたっていない。スウェーデンは85年、フランスで115年かかったのです。日本がいかに急激な変化をしているかがわかりますが、そのあまりの早さに意識がついていってない。対策の遅れを何とかしたいと地団駄踏む思いをしています。科学研究をしながら、いつも社会のことも考えてきた。研究は研究だけのためではないと思ってきた者としては、老化は最大のテーマですね。
高等学校受験の時、試験の間の時間を利用して、映画『未完成交響楽』を見た。オーケストラがすばらしく、それ以来、音楽にのめり込み、大学の頃は音楽評論を書くほどでした。私の研究テーマは、自分でも驚くほど多様です。その時その時、環境と興味に応じて選んできました。ただ研究のスタイルとしては、好きなバッハの緻密で正確な構成、モーツァルトの天衣無縫さと想像力を目指してきました。モデルを立て、予想し、実証するというやり方で、可能なかぎり正確に想像力をはたらかせました。
研究の場所も理学部、教養学部、農学部、医学部、老人研、生命研と移りました。これを飛び石みたいだと言った人もいます。でも、そういう節目はいつも外から与えられました。私はそれに対応しただけのことです。前にも言ったように私は勉強嫌いです。しかし、その節目に当たっては、専門書が一冊書けるほどに勉強した。大きな流れの中でせいいっぱいやったという、ある種の清涼感はあります。