原点は「楽しい」と「嬉しい」

東京生まれの東京育ち、五人兄弟の上から二番目です。兄は六つ上で、すぐ下の弟は五つ下ですから、小学校へ通うまでは女の子の一人っ子同然。母と二人の時が多く一番影響を受けていると思います。もちろん家事で忙しく子供の相手をしてばかりもいられません。本を読んだり、一人でボードゲームをして遊んでいました。最初のジャンケンは母とやって、後はサイコロを振って「これはお母様の分、次は私の番よ」と交互に駒を進めて、手の掛からない子だったと思います。

「かもめの水兵さん」「赤い帽子白い帽子」などを作曲した河村光陽先生が主催する合唱団「小鳩会」に通って、お嬢様で童謡歌手の河村順子さんと一緒に歌ったのも楽しい思い出です。手廻しの蓄音機で、童謡はもちろん、大人と一緒にウインナ・ワルツなどのレコードを聴くのも好きでした。父は新しいことが大好きな人で、家族の写真を撮ったり、スキーや乗馬を楽しんだり、当時としてはのびのびした家でした。私は新しがり屋ではありませんが、新しいことをやってみるという雰囲気は身体に染み込んでいるかもしれません。

のんびりと育ったので私の中には競争という言葉がありません。何でも一所懸命にはやります。そのほうが楽しいし上手にできれば嬉しいですから。でも、競う、争うという意識がなく本気でけんかしたことがない。親から競争を強いられたこともありません。今の科学は競争を求めますのでどうしてもそこには入りきれない。科学は面白いと思うけれど、競争型の科学者にはなりきれない。ここが私の原点かなって思います。もう一つは事柄でも人でも無関係なものはないという感覚です。文学も美術も外国の人も…。私が私らしくできる科学の場を求めて、気づいたら生命誌研究館を始めていた気がします。

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四歳頃。自宅の庭で。

お雛様を飾るたびに

一九四一年に太平洋戦争が始まった時が五歳。幸い父は国内での海軍の仕事のお手伝いをしており戦場に行かずに済みました。陸軍幼年学校の寄宿舎に入っていた兄は夏休みに帰省すると、毎朝、宮城の方を向いて大きな声で「軍人勅諭」を唱えて、なんか違う人みたいと思いました。でも卒業前に終戦です。家庭としては運が良かったと言う他ありません。でもある日、町の一角の家が全部壊されてびっくり。強制疎開と言って空襲に備えて延焼を防ぐためです。一九四四年、小学三年生で集団疎開です。行き先は山梨県の下部温泉の旅館でした。富士山の西を流れる富士川沿いにある古い湯治場で、石原裕次郎が足の骨折を療養したところです。旅館の広間にみかんの木箱を並べてお勉強、お洗濯用の張り板を木箱に渡した食卓に並んでの食事です。朝昼晩とおかずは茄子でおやつにお芋が一切れ。お腹が空くので隣の方が少し大きいなとか、こういう暮らしはさもしい気持にさせるものだと実感しました。

一九四五年三月十日の東京大空襲の後、家族も父の仕事場のある愛知県へ疎開することになりました。私は集団疎開をしていたのでその時の様子は知らないのですが、荷物は柳行李一つしか許されなかったのだそうです。本やレコードや写真のような生活を楽しくするものなどは入りません。三月ですからお雛様が飾ってあり、誰もいなくなるけれど、箱の中では窮屈だろうと思って飾ったままにしてきたのよと、集団疎開先から戻った私に母が話してくれました。家は五月の空襲で焼失。今でも毎年お雛様を飾るたびに、緋毛氈の上に並んだお雛様が燃えている様子が目の前に浮かびます。実際に見てはいないのに、この場面は現実感があるのです。戦争では本当に多くの人が命を落とし、家族を失くしたお友達のことを思うと大きな声では言えませんが、心の傷です。そういうバカバカしいことは止めるのが当たり前です。八月十五日の玉音放送は聞いていないのですが、その日、灯火管制で電灯を覆っていた黒布を外し、明るい食卓でご飯をいただくことがとても嬉しかったことを覚えています。お芋が混じったご飯も美味しかった。社会が少し落ち着いて、東京へ戻ったのは中学一年生の時です。

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戦時中疎開していた愛知県の小学校を訪ねて(1997年)。周囲の様子は変わっていましたが二宮尊徳の像は昔のままでした。

ああいう人になりたい

古巣へ戻って麹町中学校に入りました。大学を出たばかりの若い担任の先生が島崎藤村が大好きで、詩を朗読しましたね。今でも「初恋」なんて諳んじています。それから教室にござを敷いて百人一首をやるのです。反射神経には自信があるので上手なんですよ。先生は、文学部候補を育てるつもりでいらしたのかもしれません。戦後は若い先生が多く、学校での毎日が生き生きと楽しかった。今、クラス会で集まると生徒と先生の区別がつきません。体操部に誘われて平均台で脚をあげたり、英語劇を楽しんだり。私が何でも面白がって一所懸命やるので、いろいろな先生から誘われて楽しみました。中学三年生になって進学先を決めるにあたり、まず日比谷高校の文化祭へ行ってみました。バンカラがよしとされていたのでしょう。汚い感じの男子がいっぱい。校舎が焼け残った古い建物なのは仕方がないとしても、ゴミは散らかっているし。ここは通いたくないと思っていたら、母が「お茶の水を受けてみる?」って先生と相談してくれて。もちろん日比谷は良い学校ですよ。

お茶の水女子大学付属高校は女子校です。良い先生とお友達に恵まれて幸せでした。付属なので大学の先生も来てくださり、どの授業も面白く楽しかったです。この学校が私にピッタリだったのは競争がなかったこと。卒業までクラスの中で、誰が成績が良いのか悪いのかわからなかったし、そんなこと考えませんでした。三年生の時に「答辞を読みなさい」と言われた時はびっくりしました。何で私なのって。

化学担当の木村都先生が、どう言ったらいいのかな。教えるというより、私はこれが好きなのよという風に実験して見せてくださる。その様子がとても魅力的で、ああいう人になりたいと思いました。後に、都先生が引退なさる時、理系へ進んだ人たちが集まったら、五十人ぐらいいた全員が同じ気持で進学したことがわかりました。この時も私って普通なんだと思いました。都先生に憧れていたおかげで東京大学の理科Ⅰ類に入ったら、周りは、高木貞治先生の『解析概論』を小脇に抱え、偉そうな顔をして歩いてる男子ばかり。同級生五百人のうち女の子はたったの三人ですから変なところへ来ちゃったぞと最初は思いました。でもすぐに慣れましたけれど。

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全校の学芸会で島崎藤村の詩を朗読(本人:左から二人目)。

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国語の授業で百人一首。お下げ髪の女子が本人(手前右端)。

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クラス全員で皇居外苑の千鳥ヶ淵へ。中学の三年間、国語の大久保先生(後列左から三人目)が担任だった(本人:中列左から四人目)。

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同級生と校庭で。高校でもクラブ活動に限らず、ピアノ、軟式テニス、創作体操、奉仕活動と何でも挑戦した。

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木村都先生(前列左から二人目)に憧れて化学クラブに入った(本人:後列右から三人目)。

五号館クラブ

東大駒場でも化学部に入りましたが、もう一つ、かなり時間を使ったのが留学生のお世話です。学生部の西村秀夫先生は敬虔なクリスチャンで、学生のことをよく考えてくださる素敵なお人柄でした。当時、中国や韓国、東南アジアの諸国から留学生を受け入れ始めており、彼らの日常の支援が学生部のお役目でした。国際留学生会館という建物はあるけれど、日本語教育も不充分で、講義も難しく言葉すらわからないところへ放り込まれた留学生はとても大変でした。学校へ来ずに渋谷で遊んでいる人も出てきて、このままではいけないと思った西村先生が、彼らの日常を支援するための学生グループをおつくりになった。学生部は五号館にあったので、名前は「五号館クラブ」です。とくに理系は厳しいですから、学生会館まで行って一緒に勉強したりしました。試験の後に先生のところへ行って「ここまで一所懸命やったのだから、合格点をあげてください」って頼んだり。留学と言っても国費もあれば私費もあり、ほとんどの人は真面目でしたけれど、中には「僕は国に帰ったら偉くて、君なんか近寄ることすらできないんだ」と言って遊んでばかりの人もいました。残念なのは、我が家によくご飯を食べに来ていたベトナムからの留学生がベトナム戦争で連絡がつかなくなったことです。戦争はイヤですね。

化学部では、当時、若い助手の先生が取り組んでいたペーパークロマトグラフィーを用いて、ほうれん草など身近な食べものを擦り潰してアミノ酸分析をし、駒場祭で発表したのが一年生の時。先輩が面白い本があると言って教えてくれた『Dynamic Aspects of Biochemistry』を読み、当時わかり始めたクエン酸回路(TCAサイクル)について議論しているうちに、試験管の中より生きものの中のほうが面白いと思うようになりました。

三年生になる時、他の女子二人は物理、私は化学へ進みました。化学は当時、石油化学などの新興もあり人気学科でした。理科Ⅰ類のほとんどの人は、将来役に立つ工学部を選び、その頃の憧れの一つは「夢の技術」と言われていた原子力でした。しかし、世の中は変わるものです。石油化学や原子力の問題点を考える時、難しいなあと思います。

化学教室では有機化学、物理化学などで一つの物質もさまざまな見方ができることを教えられて面白かったです。大学では赤堀先生、朝永先生、湯川先生など本を読んで素晴らしいと思っていた方のお話が聞けることにわくわくしましたね。実は、皆さん小さな声で話される。決して話術に長けているわけではありません。でも優れた方のお話なんだと思うから一所懸命です。最近、話を面白くすることが求められますけれど、ちょっと違うと思いますね。

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五号館クラブでアジア留学生と工場訪問(1955年)。(本人:奥列右から四人目)。

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大学三年生の時、同級生と化学科の実験室で(本人:中央奥)。

美しい二重らせん

DNAを初めて知ったのは水島三一郎先生の授業でした。水島先生のご専門は物理化学で、いろいろな化学物質の構造を系統立てて教えてくださる。その日は炭素化合物でした。メタンから始まりエタンへ、更にはベンゼン環へと順に話が進み、アミノ酸、最後に「ところで最近、DNAの構造が発見されてね。」とおっしゃって二重らせんの図を見せてくださった。『タンパク質化学』を共著で出されていた水島先生だからこそ、化学者でありながらDNAに興味をお持ちだった。水島先生がいらしてくださったからこそあの時代に授業でDNAの話が聞けたのです。DNAの形が不思議で、しかもとても美しいと思いました。平面図を見ていても本当の姿はわからない。五月祭に向けて、クラスの数人と立体模型をつくって確かめようということになりました。先生に教科書を借り、それを見ながら竹ひごと紙粘土でつくってみたら本当にできたのでびっくり。塩基は十段の一回転分。多分、日本で初めてのDNA模型だったと思います。これで試験管の中より生きものの中のほうが面白いという気持は更に強くなりましたね。当時、化学は人気でしたから就職は引く手数多。でも女子がいるとは思ってもらえずお誘いなしです。そこで大学院進学を考えました。行くならDNAです。同級生には散々けなされました。何しろ当時の化学は花形ですし、DNAなんてどうなるかわからない。でも何だか面白そうだからと言ったのです。私の体験から進路の選択は流行より関心の強いものがお勧めです。それなら後悔はしないでしょうし。

実は、水島先生のお弟子さんの渡辺格先生が、アメリカのデルブリュックにファージ研究の薫陶を受け、東大で研究室を立ち上げたばかりでした。水島先生に勧められて渡辺先生をたずねました。初めてお会いして何を話したのかほとんど覚えていないのですが、その時、これまでに会ったことのない面白い先生だと思いました。兎に角、ディスカッションが大好きなのです。先生は「僕は、しばらく留守にするけど、研究室に来てどんな研究をしている人がいるのか見ておきなさい」とだけ言ってアメリカへ行ってしまわれました。そこにいたのが、三年上に松原謙一さん。一つ上の京極好正さんは水島研に預けられていて、東大での渡辺先生の学生は私を入れた三人だけです。その時、先生が「面白い女の子が来るから入れとけよ」とおっしゃったと聞かされ、お互い面白いで合格してしまいました。以来、長い間、影響を受けてきました。渡辺先生は、当時、RNAに強い関心をお持ちでした。DNAの具体的なはたらきを見せてくれるのはRNAであり、生きものっぽいというところを見ていらしたのは、驚くべき勘の良さだったと思います。あの頃、ファージ感染直後のRNAやタンパク質の動きを見ていましたから、もし渡辺研にアメリカ並みの環境があれば、メッセンジャーRNAを見つけていたかもしれないと思ったりします。

実験を教えてもらったのは補助員の北村とも子さん、後に三浦謹一郎さんの奥さんになった方です。まず5S、16S、23Sという三つのRNAの分析で、当時としては最先端の実験です。研究室には設備もお金もないので他所の機械を使わせていただきました。日本に一台の超遠心機「スピンコ」が、千葉の家畜衛生研究所の高浪研にあったので、試料を魔法瓶に入れて行くのです。タンパク質合成でRNAからアミノ酸へ翻訳される際にtRNAがはたらいていることはわかっていましたが、アミノ酸20種に対して、tRNAも20種あるのか、一つのtRNAがアミノ酸すべてに対応するのかすらわかっていませんでした。私はこの実証に取り組みました。放射能のあるアミノ酸を付けたtRNAを抽出し、分光器に掛けて紫外線を吸収する波長を確認します。核酸は260nm。アミノ酸のうち、アラニンとロイシンをつけるtRNAを調べたところ明らかにピークがずれた山ができましたので、別種のものがはたらいているという方向が見えてきました。この時に使った、紫外線吸収測定装置ケリーは当時としては最先端で、渡辺研のお隣の長倉三郎先生の教室にあったものをお借りしていたのです。この時、長倉先生に「使い過ぎだ」と叱られてちょっと涙…でした。生化学会での発表です。分子生物学会はまだありませんでしたが、一九四九年に、渡辺格先生、柴谷篤弘先生、江上不二夫先生の三人が中心になって核酸研究会を始めていらしたので、生化学者の間でも分子生物学への関心が少しづつ広がり始めていました。

修士二年の時には、渡辺先生が京大で研究室を持つことになり、ここではジャコブとモノーのオペロン説に取り組みました。ガラクトシダーゼの遺伝子のオペレーターが欠けた変異株にすると調節がまったく起きなくなり常に合成が起きることを見た時には、大腸菌やDNAに、生きているという実感を持ちましたね。この一年間、京都で下宿暮らしをしました。京大の近くで六畳一間。お台所もお手洗いも共用の学生向けの下宿です。銭湯からの帰り道にアイスキャンディーをかじるという一人暮らしで、休日は仲間があちこち連れて行ってくれ楽しい一年でした。先日、下宿のあった辺りをうろうろしていたら声を掛けられ「この辺で西村さんというお宅に下宿していたので」と言ったら「ああ、父と母はもう亡くなりました」って。息子さんに誘われてご仏壇にお参りしました。

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三年生の五月祭でDNA二重らせん立体模型を展示(本人:左)。

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渡辺研究室にて実験中。

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修士一年生。生化学会で初めての発表。

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京都で初めての下宿暮らし。

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修士二年生の時に通った京大ウイルス研の実験室で。

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学会の後に嵯峨野で一服。渡辺格先生(右)と。本人(左)。

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長野県白馬の栂池高原へ渡辺研の仲間とスキー旅行(1960年頃)。左から京極好正、本人、松原謙一。

偶然と必然

修士課程の二年を終えて東京へ戻り、博士課程からは江上不二夫先生の研究室に入れていただきました。江上先生の取り計らいで国立予防衛生研究所の小関治男先生の研究室に通いました。国立予防衛生研究所の化学部長だった富澤純一先生が小関先生と分子生物学の研究室を立ち上げたところだったのです。江上先生は、渡辺研での仕事を考えてありがたい選択をしてくださった。大きな方です。小関研では松代愛三さんが発見されたφ80というファージを扱いました。京大の渡辺研で用いていたのは、ジャコブとモノーと同じλファージです。φ80は、大腸菌のアミノ酸のトリプトファン合成経路でラクトース代謝経路と同様のはたらきをします。このφ80を用いて、大腸菌がアミノ酸をつくる際の調節機構を明らかにするという研究が博士論文のテーマです。ところが、実験を幾らやっても思うような結果が出てこない。しばらくは何が悪いのかわからず情けなかったですね。トリプトファンを運んでいることは確からしいのに、定量的なデータが出ずにかなり悩みました。ちょっと違うプラークが混じっていることに気づき、二種のファージが混在しているということがわかりました。一つはλと同じだけれど、もう一つは溶原性がφ80とは異なるファージでした。後者にφ81という名前を付けました。φ81のみを用いて大腸菌を培養してみると、RNAの転写がうまく進まず、不稔形質になりコロニーも増えないという興味深い現象が見えました。発現の調節についてのオペロン説は素晴らしいけれど、実際の生きものは、より複雑で多様なしくみを持っているのです。一方、φ80を用いた場合はラクトースの系と同じような結果が得られました。オペロンからオペレーターを外してしまうと、抑制できずにトリプトファンをつくり続けてしまう。そのような調節性が大腸菌のアミノ酸合成経路にもあるわけです。

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大学院修士入学の時。江上研究室の仲間と。本人(前列中央)、江上不二夫先生(本人右隣)、藤本大三郎(本人左隣)大島泰郎(後列左から三人目)。

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江上研究室の仲間と登山(1964年頃)。戸隠高原。本人(左端)。

全体を見て先を見る

大学院の五年間でお世話になった恩師、江上先生、渡辺先生は対照的なお二人でした。性格も、興味を示す事柄も、問題に取り組む切り口もまったく異なる。でも全体を考えている姿は同じだと感じていました。お二人の中での研究はいつも広がりがあり、常に社会とのつながりの中で考えていらっしゃいましたね。

「格さん」の愛称で皆に親しまれた渡辺格先生の研究室のあった東大宇宙航空研究所は古い建物で、入り口の引き戸を開けると、廊下の一番手前に教授室がありました。コンクリートが剥がれているような床にテーブルが一つ置いてあるだけの部屋です。先生はご自宅が近いので、朝、早くからそこにいらっしゃることが多かった。研究室へ行くには、教授室の前を通るわけですが、そこで「おいおい」って声を掛けられたら、ディスカッションが一時間では済みません。皆、研究の計画があるから「おいおい」と言われたくない。如何に、格さんに捕まらずに廊下を通り抜けるか、誰を犠牲にするかとよく話していました。

江上不二夫先生はその反対で、教授室に五分いたら偉いと言われていた。せっかちです。江上先生は「地球生化学」がお好きで、これは、後の三菱化成生命科学研究所の設立につながる発想です。一九六七年に出版された『生命を探る』にも出てきます。この本の先見性には驚かされます。今でこそ、生態系や循環という言葉は珍しくありませんが、江上先生は、この頃、既に「化学的にも循環が大事だ」とおっしゃっていました。他にも、生命の起源、宇宙生物学、生命の合成まで語っていらした。

渡辺先生は『人間の終焉』を書かれた。「分子生物学は終わった」なんて言ってよく皆に怒られていました。でもそれは、セントラルドグマを基本に単細胞生物で考える分子生物学は終わったということです。つまりニュートン力学は終わりで、次は量子力学で考えようとおっしゃりたかったのです。多細胞生物の個体発生も、脳の構造や機能をどう解くかも新しい方法が必要です。『人間の終焉』には、分子から脳、更に人間の精神までをつなぐ全体像を考えていこうという先生の思いとそこから生まれる人間の生き方の問題が書かれています。全体を見て先を見る、とても大きなお二人に可愛がっていただいた私はとても恵まれています。両先生から渡されたものに、私なりの形を与える責任がある。それにはどうしたらよいかと今も考えています。

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『生命を探る』江上不二夫著。岩波新書(1967年)

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『人間の終焉』渡辺格著。朝日出版社(1976年)

「そろそろ出てきなさい」

博士課程を終えて就職したところで結婚。DNAを教えてくださった水島先生が、私の卒業の年に定年退職なさって八幡製鉄基礎研究所の所長に就任なさいました。主人はその研究所に就職し、そんなご縁でお仲人を水島先生がしてくださいました。主人の父が八幡製鉄で本人も同じ会社に入り、子供の頃から鉄に囲まれて育ったせいで何でも鉄で考え単位はトン。こちらはミリグラムより小さいわけで、けんかのしようもありません。二年後に出産ということになり、実はそこで退職します。江上研は女性が多く、先生はいつも女の人を大事にしてくださっていたので、女性で結婚なさっても皆さん働いていた。そんな環境の中、出産で辞めたわけですから不肖の弟子です。にもかかわらず見捨てずにいてくださった先生のありがたさは言葉にするのが難しいです。

研究室を離れてからも江上先生のお手伝をしていました。英語の著作の一部共著での執筆や翻訳など。家庭に入っていた五年間、科学を考えていられたのは先生のおかげです。「科学映画協会」のお手伝いもあります。科学映画製作の東京シネマの岡田桑三社長を中心に、江上先生と朝永先生が応援団になって科学映画協会をつくることになりました。当時、ドイツではさまざまな学問の成果を映像で記録する「エンサイクロペディア・シネマトグラフィカ」という壮大なプロジェクトがあり、岡田さんはそこに作品を提供していました。日本でそのような活動をしようというわけです。資金が必要で、岡田さんに伴われて実業界の方や国の機関を資金集めに回ったのも他では得難い経験でした。シナリオの科学的な部分のチェックの仕事もしました。

一九七〇年、江上先生は東大の定年退職を機に、生命科学研究所設立を構想されました。当時、江上先生は日本学術会議の会長でしたので、その構想を公の場でも語っていらしたのですが、実現には時間が掛かる。先生の高校の同窓生だった三菱化成の篠島秀雄社長が、三菱化成の創立二十五周年にライフサイエンス分野に取り組む新たな方向づけとして、この構想の実現を考えてくださったのです。私は生命科学研究所という言葉を聞いた時、その意味がよくわかりませんでした。「生命」は哲学、宗教の言葉。科学と結びつくという感覚は誰も持っていませんでした。江上先生は、新しい研究所は実験研究だけでなく、科学を社会の中に位置づけて捉え直し、社会問題に取り組むところまでやる。つまり「生物」の中に人間が入るという画期的な構想です。そこで「生命」が必要だったのです。三菱化成は公害問題などを抱えていましたし、この姿勢は重要でした。この構想の基盤には、生命論的世界観があったのだと、今になって思います。格さんは、哲学や宗教を語りますが、江上先生はその種のことを表立っておっしゃる方ではありません。でも生命科学の構想には、科学が社会や哲学とも結びついての全体像が入っていました。そして、その思いを汲み取って、面白がってついて来るのは誰だろう。先生は私の性質を見抜いていらっしゃったと思います。それで生命科学を現実化する時に「そろそろ出てもいいでしょう」と呼んでくださいました。その時、子供は幼稚園と三歳でしたが、もう乳飲み子を置いて出るのとは違うかなと思って、家族と相談して、お手伝いさんをお願いしたうえで先生のお手伝いをすることになりました。

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結婚式(1964年)。前列左から五人目より水島三一郎先生、ご主人、本人、水島夫人。江上先生(三列左から七人目)。

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新婚時代。夫と犬のクロと自宅の庭で。

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自宅に友人を招いてバーベキュー。

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長男と長女と(1969年)。

社会の中に存在する学問を

三菱化成生命科学研究所準備室は、机と椅子以外何にもないお部屋でした。あるのは江上先生の構想だけ。建物も、人も、組織も、全部これからでした。先生と秘書さんと私と、研究室の後輩の女性が一人。研究室の構成から図書室に揃える雑誌の調達まで、先生と一緒に丸一年取り組みました。日本国内には分子生物学を基盤に発生学や脳科学に取り組む研究者はまだ少なかった時です。加藤淑裕さん、天野実さんらをアメリカから呼び戻すなどいろいろなことをしました。この時の経験は生命誌研究館をつくる時に大きく役立ちました。民間企業の支援で一人の研究者が構想した基礎研究所を設立、運営するという初めてのことです。東京の町田市に研究所が開設したのは一九七一年の六月です。

先生から与えられたテーマは「社会生命科学」でした。「具体的には何をやるんでしょう」と伺ったら「初めての試みだから僕だってわかりません。君が考えなさい」って。びっくりです。でも「いろいろな分野の知恵を借りて考えるところから始めましょう」と知恵を出してくださり、まずパネルディスカッションを元に構想を練り上げることになりました。全十一回。物理学、医学、人文学など多分野の状況を調べて、毎回、五人ずつパネラーをお招きしました。この時、私はまだ三十五歳ですし、構想なんて一人で考えて出くるものではありません。でもこうしていろいろな方と語り合う場をつくると、そこから大事なこと、思いがけない発想が出てきます。更に、人と人のつながりから広がりが生まれるということを実感しました。朝永振一郎先生、伊藤正男先生らたくさんの研究者が快く相談に乗ってくださり、この時の約五〇人の先生方は私の大事な財産となり、それは今にもつながっています。

研究所の構想がようやく形になってきた頃、先生にヨーロッパ視察を勧められました。諸外国の研究への取り組みを知り、私たちの構想がどんな風に受け止められるかを自分の目で確かめて来なさいということです。初めての海外、しかも二ヶ月に渡る一人旅でした。ヨーロッパのホテルって隣室との間にドアがあるでしょう。夜中に誰か入って来るんじゃないかと心配で、ドアの前に椅子を積み上げたりして。フランスでは、パスツール研究所へ行きたいと言ったら古い所を教えられて、おかげでパスツールの研究した厩を見ましたけれど。疲れ果てて、地下鉄で居眠りして車庫まで行ってしまったりと失敗談にも事欠かない珍道中でしたが、ヨーロッパの文化の中にある科学を実感しました。印象深かったのは、イギリスのBAAS(Brithish Association for the Advancement of Science)、英国科学振興協会です。科学誌『サイエンス』を発行しているアメリカのAmerican Association for the Advancement of Scienceの祖先で、専門家でなくとも誰もが参加できる大きな組織です。一六六〇年設立のThe Royal SocietyにつながるBAASでは、毎年、若者たちだけの科学の祭典をいろいろな町で開催するという伝統があり、科学が社会の中にしっかりと根を降ろしているファラデー以来の歴史を痛感しました。ドイツも、町のミュージアムが一国の歴史を踏まえた学問のあり方を表現する形で存在していて圧倒されました。上っ面で「科学と社会」って言うのは無意味だということです。

遺伝子組み換え技術が開発され、一九七五年に、このガイドラインを議論するアシロマ会議が開かれました。日本としてもこの問題に取り組まなくてはならないはずです。この時、江上先生は「ここは民間であり、自分たちで考えなければならない。三菱化成生命科学研究所としてガイドラインをつくりましょう」とおっしゃいました。アメリカのものを参考にしながらですが、日本で初めてのガイドラインをつくりました。格さんが「国もガイドラインをつくらなくてはいけない」と文部省に働きかけて委員会をつくり、そのお手伝いもしました。お二人の行動からわかるように、科学と社会との関わりの一つとして、生命倫理やガイドラインの整備は欠かせないことです。でも私は、この仕事はどうも本筋ではないと感じ始めていました。お二人がおっしゃるように、社会の中での学問の存在を、生命科学として真剣に考えるのであれば、やはり基礎学問が大事です。今の時代に、そして次の時代に大切な学問は何か。大事なことは、生命科学に生きものが持つ時間を入れて考えることであり、それにはまず発生学をもっと系統的にやる必要があると思いました。でも、社会の要請に応えるという議論では、高齢化社会だから老化が大事だという流れになってしまう。老化は壊れていく過程なので、まずはどのようにしてつくられてくるのかを知ることが大事と主張したのですが、老化のほうが受けるのです。残念なことに、立ち上げからほぼ十年、七十歳で江上先生はがんで亡くなられました。そんな中で、本当に大事と思うことをやりたいという気持が強くなっていきました。

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1971年。三菱化成生命化学研究所の室長たちと江上先生を囲んで。加藤淑裕(前列左から二人目)、江上先生(前列中央)、大島泰郎(前列右端)、和田英太郎(後列左から三人目)、本人(後列中央)、天野実(後列右から三人目)。

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組み換えDNA技術の視察でヨーロッパヘ(1979年)。本人(左)、飯野徹雄先生(中央)。

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渡辺格先生の慶応大退職記念の会で(1982年)。左から渡辺先生、松原謙一、本人、渡辺先生の奥様。

生命誌研究館の提案

一九八〇年です。元国土庁次官の下河辺淳さんから、「科学技術と人間」というテーマで報告書をまとめなさいと言われました。一九八五年開催の国際科学技術博覧会のテーマは「人間・居住・環境と科学技術」であり、博覧会に向けて、このテーマを掘り下げて考えたいとのことでした。下河辺さんは、次の世代に任せたいとおっしゃって、科学哲学の村上陽一郎さんに「環境」、社会学の公文俊平さんに「住居」、そして私に「人間」が割り当てられた。与えられた時間は五年です。優等生の答えはすぐわかりました。科学技術の進歩は素晴らしいけれど負の側面もある。だから倫理的なことを含めた考えの下に科学技術を進めていかなければならない。それならすぐ書けます。でも、それだけは書くまいと、その時、心に決めました。さあ、そこから何をすればよいのやらさっぱりわからない。こういう時は、いろいろな人の意見を聞くことですからシンポジウムを企画しました。「科学技術と人間」というテーマの基盤は、やはり生命科学です。身近なところにいてくださる分子生物学の松原謙一さん、発生生物学の岡田節人先生、免疫学の多田富雄先生、他にも私の思いを汲んでいただけそうな方々をと思って神経内科医の岩田誠さん、霊長類学の西田利貞先生、人類学の寺田和夫先生、詩人の辻井喬さんなどからお考えを伺いました。もちろんそこで、ポンと答えが出てくるわけではありません。その後も関わってくださった方々に相談しながら、なんとか納得のいく形にまとめて、報告書を下河辺さんのところへお持ちした時には、もう約束の期限を一年過ぎていました。報告書の題は『生命誌研究館の提案』です。

「科学技術と人間」というテーマを、私は「生命科学が明らかにしつつある生きものとしての人間が暮らしやすい社会の実現に向けて」という問いとして受け止め、納得のできる答えを求めて模索しました。これまでで一番、突き詰めて考えた時かなと思います。その結果、土壇場で頭の中に「生命誌研究館」という言葉が浮かんだのです。この瞬間、それまでもやもやしていたすべてが整理されました。哲学をよく勉強している友人に夜遅く電話で相談していた時のことです。実は最初から基本は生命科学だけれど、もっと博物誌的な印象があって、二〇世紀版ナチュラルヒストリーという感じだね。だから「ネオ・ナチュラルヒストリー」だなどと仲間内で言っていました。でもそれでは、なかなか研究者仲間にわかってもらえず「ネオナチみたい」とか言われていました。兎に角、多様性に目を向け、時間と関係を考えることが生きものを見ることだという考えとしては納得のいくものに練り上がっているはずなのに、うまくまとまらない。「生命誌研究館」という六文字が頭の中で並び揃った時、一気にもやもやは晴れ、すべてが見通せると感じました。「生命誌」という学問が現実のものとして動いていくには、それに相応しい場が必要で、二つを切り離して考えることはできません。その場を「研究所」と言ってしまうと、そこは専門家のための場となり広がりがありません。「研究館」は英語で言えば“Research Hall”です。皆が訪れ、コンサート・ホールで音楽を楽しむように、科学を楽しむことができる。私がつくりたいのは生命誌研究館 “Biohistory Research Hall”なんだと改めて気づきました。この時から、私は言葉の力を思うようになりました。言葉によって考えが整理できる。そして言葉で人に伝わる。言葉って本当に大事なものです。

下河辺さんに報告書をお持ちした時「これを本当につくりたいのです」と申し上げました。その時の私の素直な気持です。すると「この本棚にいっぱい報告書が並んでるでしょ。でも、ここに書いたことを本当にやりたいと言った人は一人もいないんだよ」とおっしゃいました。確かに、本当につくるとなったら大変です。でもここまで突き詰めて考えた、本気でやりたいことなのだから、報告書をつくっただけで終わりはないなと思いました。ずっと先生に恵まれ、その世界で行動することを続けてきた人間に、その時始めて、自分で考え、自分でやりたいことが出てきたのですから。

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三菱化成生命科学研究所 人間・自然研究部長時代。

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1982年。外務省派遣使節としてアジア諸国を訪問。マレーシア首都クアラルンプールでマラヤ大学を訪問。公文俊平(右から二人目)、牛尾治朗(右から三人目)、本人(左から二人目)。

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下河辺さん(中央右)と(本人:中央左)。

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水問題の会議の後のレセプションで、今上天皇徳仁さまと。

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NIRA研究叢書『生命科学における科学と社会の接点を考える -生命誌研究館の提案-』

節人先生の即答

「生命誌研究館」の実現には誰かの力を借りるほかありません。江上先生が「生命科学」というまったく新しい考えの実施のために三菱化成の支援で研究所を立ち上げられた時にお手伝いした経験を生かし、企業の応援をお願いしようと決めました。当時はバブル景気の只中で金融関係など余裕のある会社は比較的多かったのです。ただ会社の理念に生命誌と重なるところがなければ長く応援していただくのは難しいので、それを重視しました。JTの方たちが「誰もやっていないこと」だけれど「とても大切」という気持ちを理解してくださったのはありがたいことです。

大阪府高槻市に「JT生命誌研究館(BRH)」を設立できることになり、すぐに岡崎国立共同研究機構(現・自然科学研究機構)の機構長でいらした岡田節人先生に電話をかけました。「館長さんになってください」と。電話とは何と失礼なと今は思いますが、その時は前のめり。「いいよ」との即答で、後で伺った「大事なことは一秒で決めるんだ」という言葉は忘れることができません。岡田先生は本質を見る発生生物学者であると同時に、昆虫や音楽やゲーテを愛する素晴らしい文化人です。先生がいてくださらなかったらどうなっていたか。本当に運がいいと思います。

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岡田先生を一言で表わすならダンディ。外見はもちろん、中身もとびっきりのお洒落だった。

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岡田先生と館長室の前で。この時のカーディガンはBRHを始める時に岡田先生からいただいた昆虫柄のもの。(季刊「生命誌」50号対談

科学のコンサートホールができるまで

生命誌研究館は「科学のコンサートホール」、「実験室のあるサロン」というコンセプトをイタリアの建築家が具現化してくれました。一階から四階までを吹き抜けにして木を植える案は予算オーバーで断念しましたが、誰もが集える展示ホール、DNA二重らせんをイメージした階段、議論と実験のための研究室フロアは今も大好きな空間です。一九九一年に東京の虎ノ門ビルの一室の準備室ができ、高槻での建設が始まりましたが、当時はDNA研究に対する反対運動もあり、開館は一九九三年になりました。その時は一刻も早く活動したいと思っていましたが、今では準備期間をしっかりとれたことは幸いだったと思います。

具体的な活動をどうするか。シニア研究者として分子進化学の大澤省三先生が加わってくださり、岡田先生と3人でまず研究テーマを議論しました。分子生物学の主流はモデル生物から普遍的なしくみを探ることであり、自然界にいる多様な生きものに目をむける研究はほとんどありません。実験室と日常をつなぐユニークなテーマを探しました。再生能力の高いプラナリアやナナフシ、獲れたてのタコから出てくるニハイチュウなどをいろいろな研究室に見に出かけ、楽しかったです。その時タイミングよく出版されたのが石川良輔先生の『オサムシを分ける錠と鍵』(八坂書房)です。日本のオサムシを生殖器の形態で分類した仕事の集積で、サイエンティフィックイラストレーターの木村政司さんが描いた表紙も魅力的でした。形態分類の成果のうえに、DNAから進化を探るという選択をしました。大澤先生に「何も面白いことは出ないかもしれないよ。知らんよ」と釘をさされましたが、この昆虫が予想を超えて大活躍してくれたのです。

準備室では生物学者だけでなく、物理学者や情報学者、アーティストなどさまざまな方に声をかけ、皆さん「なんか面白そう」と集まってくださいました。この勉強会にいらしてくださった宇宙物理学者の佐藤勝彦さんは、この経験がひとつのきっかけになり、後年に地球外生命の探索を本格的に立ち上げられました。ジャーナリスト出身で女性誌の編集長をしていた茂木和行さんが生命誌研究館のコミュニケーション部門の初代ディレクターとなり季刊「生命誌」を創刊するなど表現活動の土台を築いてくれました。準備室での集まりから人の縁や生命誌の広がりが生まれていきました。自由な議論から新しいことを生み出すサロンの活動は今改めてやりたいことのひとつです。

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1992年に東京スパイラルホールで開催した「生命誌研究館立ち上げのためのマルティプレゼンテーション」の際にお配りしたリーフレット。

季刊「生命誌」創刊号
マルチプレゼンテーション特集号:生き物さまざまな表現

『オサムシを分ける錠と鍵』石川良輔著(八坂書房)

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BRHのアマミナナフシ。岡田先生が再生に惹かれ研究テーマの候補として見に行ったが、実験には使わず展示ホールで来館者の人気者となった。

オサムシが教えてくれたこと

高槻での活動が始まったのは一九九三年です。岡田先生の館長挨拶を楽しみにしていましたら「挨拶をしよう、事故を起こさない」の二つでした。その時は拍子抜けしましたが、よい仲間がよい仕事をするための基本であり、今に続いています。研究館の活動の軸は研究と表現です。初めての表現は「生命誌絵巻」。今も展示ホールの入り口を飾るBRHのシンボルで、長年活躍してくれています。「生命誌」と言ってもほとんど理解されませんでしたから、長々説明しなくてもよいように科学として正しく、美しい作品を作りたいという私に力を貸してくれたのは細胞生物学者の団まりなさんです。熱心にさまざまな研究を調べて絵巻にのせる生きものを選んでくれました。

研究室フロアでは4つのラボが活動を始め、大澤先生をリーダーとする「オサムシの進化をDNAから探るラボ」ではアマチュアの愛好家との交流が始まりました。ヨーロッパでは歩く宝石と呼ばれるほど美しい種がいるオサムシは、世界中に愛好家がたくさんいます。このネットワークによって日本各地からオサムシのサンプルが集まり、研究の進捗を手作りのニュースレターで発信しました。こうして進めた系統解析の結果、オサムシの種の分岐と日本列島形成の歴史とが見事に重なったのです。「生きものは地球の上に生きている」のですから当たり前のことですが、研究の世界では生物学、地質学と専門を分けます。自然そのものを見ることの大切さと面白さを実感しました。専門分野、専門家と素人などという分類には意味がないと教えられました。この研究をきっかけに創立十周年には地球と生命の歴史を重ねた「新・生命誌絵巻」を和田誠さんに描いていただきました。たくさんの情報をお渡ししたのですが和田さんらしいシンプルな作品になり、独特のメッセージを出しています。

他にも"ミドリムシは動物か植物か"という問いから始めた藻類研究から度重なる共生の歴史を明らかにしたり、チョウのハネの形づくりではハネの縁でアポトーシス(細胞死)が起きるという大きな発見をするなど、面白い結果が出始めました。身近な生きものを用いたDNA研究やアマチュアとの連携は最近では珍しくありませんが、当時は生命誌ならではのものでした。他にはない独自の物語を描き、具体を積み重ねていく面白さを実感する日々でした。すべてを綿密に構想して始めたわけではありませんから、これも運がよかったのです。

新・生命誌絵巻画:和田誠

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BRH開館初期のメンバーと。(本人:最後列中央)

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1993年にBRHで開催したオープニングプレゼンテーション「新しい生き物の物語」。生きものに関するトーク、音楽家ツトム・ヤマシタさんの演奏、狂言「横座」の上演などを組み合わせた3時間の催しとなった。

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生命誌絵巻画:橋本律子
多様な生きものが長い時間の中で誕生した歴史と関係を表現している。

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1996年「オサムシの進化をDNAから探るラボ」の成果で展示「進化の部屋」の内容を刷新。研究と表現の融合を初めて具体化することができた。

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1997年4月、岡田先生がオーガナイザーを務めたシンポジウム「発生生物学の半世紀」の最終日にジョン・ガードン博士(3列目右から2番目)ら約30名の研究者がBRHを訪問してくださった。(本人:3列目左から2番目)

いのち愛づる館

二〇〇二年に岡田先生から館長を引き継ぎました。基本は何ひとつ変えていません。この頃、世界の研究の流れに大きな節目がありました。二〇〇三年のヒトゲノム計画の完了です。ゲノムから生きものの物語を読み解くことが生命誌研究のひとつですから、これは嬉しいことです。しかし、ゲノム研究は網羅的に情報を集める大規模プロジェクトが主流であり、医療への応用面が強調されました。生命誌が求める生きることの本質は自分たちで腰を据えて考えようという姿勢を示すために動詞で考えることを始めました。「生命とは何か?」ではなく、「生きているとはどういうことか?」と問うことで具体的に考えをめぐらせようというわけです。以来、季刊「生命誌」のテーマは毎年動詞を選んできました。最初は「愛づる」です。

生きもの研究はまず生きものそのものに惹かれる、素晴らしいね、かわいいねという気持ちが基本で、対象への愛があるからこそじっくり見つめ研究するのです。今の科学は対象を分析し構造を数値化し、論文を書き、みんなに認められればそれで仕上がりです。客観性は科学の基本ですがそれがすべてではない、生命誌では対象への向き合い方が大事です。この想いを哲学が専門のお友達に話すと、平安時代の短編物語「蟲愛づる姫君」を読むことを勧めてくれました。確かに私が求めていたことがみんなここに書いてありました。時間をかけて身近な生きものを観察し、生きものの本質を発見することによって生まれてくる愛が「愛づる」です。単なる「好き」を越えた知的な愛です。これが書かれたのは西洋の近代科学の誕生にはるか先だつ平安時代の末です。日本の文化はすばらしいと思いました。しかも女の子です。平安時代は平和が300年以上も続いたことにも注目しています。

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BRH 10年目の館員集合写真。(本人:2列目中央)

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BRH10周年記念催し「生きもの愛づる人々」。オリジナルの朗読劇「絵巻のおしゃべり -ものみなひとつの細胞から-」を上演した。

季刊生命誌年刊号『愛づるの話。』(新曜社)

展示「蟲愛づる姫君」。平安時代の物語に登場する蟲愛づる姫君は、みなが嫌う毛虫のなかに美しいチョウの本質があると語る。身近な生きものを観察しその本質を見出す生命誌の先輩だ。

つながりの中で生きる

十年目ころから、発生・進化に加えて生態系に目を向ける研究を始めました。イチジクとその花粉を運ぶイチジクコバチとの共生と進化を探る研究母チョウが子どもの食草を見分けて産卵するしくみを探る研究です。その中で、研究と日常をつなぐ展示、Ω食草園をつくりました。Ωアワード受賞での賞金でBRHらしいことをしたいと考え、世の中に昆虫園や植物園はあるけれど、食草園はどこにもないと気づきました。チョウはそれぞれ食草が異なるので可愛い植物が揃う場になりそうなのに。ないとなるとやってみたい。けれどもBRHで使える場所はコンクリートの壁に囲まれた四階の屋上だけです。こんなところにチョウが来てくれるかしらと思いましたが挑戦しました。もしチョウがこなくてもチョウの食草の看板がついた植物が並べばそれだけで楽しい庭だと思ったのです。ところが心配をよそに食草園にはたくさんのチョウが訪れ、卵を産むようになりました。一体どうやってここを見つけるのか、研究者にもわかりません。高槻のチョウの間に噂が広がっているに違いないと思っています。この庭では、イチジクも育て始めました。チョウよりもさらに小さな体長2ミリほどのコバチもやってくるのですから、昆虫たちの能力に驚きます。

研究と日常をつなぐ「Ω食草園」
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これまで食草園には30種類ほどの食草を植え、30種類以上のチョウが訪れた。
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食草園に植えているイチジク属植物のイヌビワ。小さなイヌビワコバチが花粉を運んでやってくる。

「株」取引より、畑の「カブ」

物事は大体思いがけず始まるものです。二〇〇六年から関わってきた喜多方市の小学校とのお付き合いもそうです。ある会議でこれからの教育は英語とコンピュータだという話になり、コンピュータで小学生に株の取引を教えるというのです。私は「株より畑のカブの方がよいのでは」とつぶやきました。その場にいた新聞記者が声をかけてくださって「小学校で農業を必修に」というコラムを書き、これを読んだ喜多方市の市長さんが具体的に動いてくださったのです。全国の小学校で初めての教科としの農業科の誕生です。

農業科は田植えや稲刈りなど一部の作業を切り取った体験ではなく、一年中、国語や算数と同じように子どもたちの頭の中に農業があることが特徴です。「今、僕の野菜はどうなっているかな」と常に繋がっています。学校の先生は農業を専門として学んでいませんので、地域のお年寄りが支援員として活躍し、とても熱心です。二〇〇九年からは「農業科作文コンクール」がはじまり、子どもたちの成長が読みとれ、毎年の楽しみです。喜多方市は二十年以上前から学校給食に地元産の食材を使う努力を続けています。行政から補助金を止められても姿勢をつらぬき、教育委員会、市、保護者が三分の一ずつ負担して給食を運営してきたと伺い驚きました。このように地域の強いつながりがあったからこそ農業科も実現できたのだと思います。最初からすべてを構想したわけではないのに、始めてみたらいろいろなことがつながり上手くいったのは、オサムシ研究の時と同じ体験です。

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喜多方市立熱塩小学校の農業科の授業に参加。トウモロコシを初めて生で食べその甘さに驚いた。

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農業科の後、5、6年生の国語の授業に参加し、教科書に執筆した文章「生きものはつながりの中に」について語った。

3.11の衝撃-科学者が人間であること

二〇一一年三月十一日東日本大震災の後、科学者は役に立たないと思い知らされました。歌手やスポーツ選手が被災地を訪れ皆を笑顔にしているのに、科学者は何もできない。原発事故もあり打ちのめされましたが、結局、生命誌を通して人間として考え続けようと『科学者が人間であること』(岩波新書)を書きました。わかりづらいタイトルだと編集者に変更を提案されましたが、人間であることこそ大事だと思い、無理を言って通してもらいました。

この時、無性に読みたくなったのがなぜか「方丈記」と宮沢賢治です。「セロ弾きのゴーシュ」を読んだ時、水車小屋に戻ったゴーシュが必ず水を飲むのは、乾いた人工社会から湿った自然の世界へ入る儀式に思えました。乾いた社会が苦手なゴーシュは自然の中でカッコウなど小さな生きものに学び、人びとの心を動かす演奏家になります。これぞ生命誌の世界と思い、チェコを中心に世界中で活躍する人形劇師・沢則行さんにお願いしフィギュア・アート・シアター「生命誌版 セロ弾きのゴーシュ」をつくりました。生命科学で修士課程を終えた後チェリストになった谷口賢記さんがゴーシュに。質の高い舞台になりました。BRH20周年での上演には美智子皇后の来臨、国内での再演、チェコの国際フェスティバルへの招待はどれも嬉しい経験でした。実は、公演よりつくる過程が好きなのです。生きものは時間を紡ぐ存在、プロセスこそが大事ですから。

20周年の節目の作品としてもう一つ「生命誌マンダラ」があります。「生命誌絵巻」、「新・生命誌絵巻」は38億年の生きものの歴史と関係の全体を描きましたが「生命誌マンダラ」では個体に注目しその階層性を描きました。ここには発生の時間がはいっています。個体として生まれることが生きるしくみを生み出す鍵であり、BRHでは開館初期から発生の研究を進めてきました。今はクモカエルなどの研究から発生のしくみを探っています。身の回りを見渡すとみな当たり前にアリはアリとして、チョウはチョウとして、ヒトはヒトとして、生きているけれど、よく見ていくと本当にすごいことをやっている。それぞれの生きものがどう形づくられ生まれてくるのかこのしくみはまだわからないことだらけです。私って何だろうと考える日常の問いにもつながる、考えることが楽しいテーマです。

生命誌マンダラ画:中川学、尾崎閑也
展示ホール1Fには織物の「生命誌マンダラ」がある。電子ジャカード織りで、縦に白、黒2色の糸を約7千本、横に白、黒、青、緑、黄、赤6色の糸を約1万8千本織り、糸が交叉する約1億3千万個の点によって描かれている。

科学者が人間であること』中村桂子 著(岩波新書)

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フィギュア・アート・シアター「生命誌版セロ弾きのゴーシュ」。人形は沢さんと京都造形芸術大学の若い学生さんたちが一緒に製作してくださった。

「生命誌版セロ弾きのゴーシュ」では表現を通して生きものを考えるセクターの村田さんと二人で語りを担当した。

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BRHの活動が評価され2012年に日本学士会からアカデミア賞をいただいた。染色家の志村ふくみ先生が生命誌をイメージして作ってくださった着物で授賞式に出席した。

自然に境界線はない

これまでたくさんの芸術家が生命誌の活動に関心をよせてくださいました。三十年前活動を始めたころに出会った芸術家に2人のサイさんがいます。蔡國強(サイ・コッキョウ、Cai Guo-Qiang)さんと崔在銀(サイ・ザイギン、Choi Jae-Eun)さんです。一九九四年に平安建都千二百年を祝う催しとして、京都市役所前の広場で「長安からのお祝い」という作品を蔡國強さんが発表しました。DNAを描きたいけど、どうやって描いたらいいかと相談されたのです。会場にやぐらが組んであり、私もそれに登りDNAの形をチェックしました。高所恐怖症なのに。中国の強いお酒を流して火を付け、炎によって中国と日本をつなぐ絵が描かれるのです。彼は火薬をつかった作品を発表しつづけているので、ある時「なぜ?」と聞きました。「今ここにある光の作品は百年たったら百光年先にある」と言うのです。自然の世界をとらえた「生態系」に対して、「文態系」を考えていたのです。今ここで発した光が、宇宙へ広がっていく。地球上の人間の行動が宇宙に広がってつくる「文態系」という考え方、中国風かもしれません。

崔在銀さんは地面の中にある微生物のはたらきなど、生きものの時間とアートとつなげたいという気持ちがあり、準備室時代からBRHによく来てくれました。彼女が初めて監督した映画「On the way」もお手伝いしました。この時、彼女と一緒に近代の歴史を映像や写真で追った経験が忘れられません。ヒトラーの演説を拍手して応援する女性の横顔のアップと、ベルリンの壁が壊れみんながわっと盛り上がった時の女性の横顔のアップの笑顔が、まるで同じ人かのようなのです。二つの事柄の違いを思うと、人間って何なのだろうと思わざるを得ません。朝鮮半島の出身で分断の経験者である崔さんと一緒に軍事境界線にも行きました。境界を超えたら撃たれても構わないという誓約書にサインして。境界線の前に立ったとき、足元を見るとアリが渡っていくのが見えました。自然には境界線はない。地球上の生きものすべてを仲間と見る生命誌の視点とアーティストの崔さんの視点は全く同じ、そう思いながらの映画づくりでした。

五年ほど前から崔さんは「Dreaming of Earth(大地の夢)」プロジェクトを進めています。朝鮮戦争休戦後から六十五年間、数百万個もの地雷が埋まり人がほとんど立ち入っていない非武装地帯(DMZ)に空中庭園をつくるという提案です。軍事境界線に沿って南北四キロにわたって広がるDMZは、山も、谷も、川もある美しい場所です。人間の対立によって誰も入れなかったために世界一豊かな生態系があるというのは皮肉ですね。その空中に橋をかけ散策路をつくることと、地下道を活用してタネのバンクを作り研究を進めるというのが彼女のアイディアですが、世界のアーティストや建築家が集まり具体的な構想をつくりあげているところです。政治的な関心が集中する場だからこそ、政治抜きで芸術の立場で考えるところに大きな意味があります。実現は大変ですが、応援しています。

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自宅にて崔在銀さんと。(季刊「生命誌」86号対談

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BRHの1階で展示している崔さんの作品「瞬・生」。遠くから見ると、光の輪を伴った漆黒の円に見えるが、近くで丸い穴を覗き込むと一匹のチョウが浮かび上がる。チョウの後ろには細胞の顕微鏡写真があり、生命の内と外との関係を考える作品だ。

ふつうのおんなの子のちから

日常こそが学問を支えると考えてきました。科学では対象を決め、知りたい現象を決めて考え、具体的な解明をしなければ研究になりません。その過程で、自然や生きものや人間のもつ日常性を排除していきます。研究ではそれをするしかないけれど、焦点をあてた外側を自分の中から捨ててはいけないと思うのです。今の科学の教育はそれを捨てさせます。科学と日常を一人の人間の中で重ね描くことこそがとても大事だと考えています。二〇一八年に書いた本『「ふつうのおんなの子」のちから』はタイトルを見て、生命誌と関係ないと思われるかもしれませんが、「まさに生命誌」と思って取り組んだ仕事です。読んでくださった方から「幸せってこういうことだ」と思ったという声をいくつもいただき、「生命誌」はそれを願って始めたのだということに気づきました。遺伝子でなくゲノムという総体を見よう、そうすることで機械論から生命論へと脱却しよう。学問の世界としてはそうなのです。でも一人の生活者としての「生命誌」は、このまま進むと幸せから遠くなるのではないかしらという危惧から始まったのでした。

自分が本当に大事だと思うことを続けて来られたのは幸せです。先日息子にもそれを言われました。ただ、AIやゲノム編集などがもてはやされる今の社会に危機感をもっています。AIは意味を理解しません。意味こそ人間にとって最も大事なもののはずです。「生きている」とはどういうことか、人間とは何かを考えることがこれまで以上に大事になっている。今改めて強く思うことです。日常と学問の重ね描きをもう少し続けて幸せへの道を探していきます。

「ふつうのおんなの子」のちから 子どもの本から学んだこと』中村桂子 著(集英社クリエイティブ)

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岡田先生が遺してくださった空気が今もBRHにある。