1. 生きもののつながりの中の人間
村田
「めぐる」というテーマをとりあげた季刊「生命誌」(2009年冬号)の酒井先生と中村館長との対談では、生命誌38億年の間に大きなジャンプが二回あるというお話でした。まず物質から生命が生まれるところ、そして多様な生命体の中に言葉を扱う人間が登場するところです。酒井先生は、脳の文法中枢の働きから言語を人間に固有の能力として捉えていらっしゃいますね。その考えに従えば、他の動物のコミュニケーションと人間の言語との間には、進化上の断絶があるということが明確になります。
酒井
思考の基礎となる人間の言語を、コミュニケーションと同一視してしまうことが、そもそもの誤解です。
村田
同時に酒井先生は、物理学者のような姿勢で、人間の多様な言語に普遍性を見出そうとしておられますね。今日は、「生きもののつながりの中の人間」というテーマで、改めてお考えを伺いに参りました。
酒井
地球上の生きものは多様です。ただ多様なヒト属の中でも、人間以外の種は絶滅してしまいました。恐竜も大絶滅で滅びましたね。地球という惑星では、天変地異が起きることでも進化上の断絶が生じます。それにもかかわらず、人間に対してチンパンジーやトリのように離れた種間に進化的な連続性を見出だそうとするのは、不自然なことではありませんか。
人間は一つの同じ種であるわけですが、その一方で多様な特徴を持っています。そこで、民族の違いや言語の違い、そして歴史や文化の差を強調するあまり、必要以上に区別して線を引き、分けてしまいがちです。人間について細かく分けておきながら、人間と他の動物とは結び付けたがるというのは、おかしな話ですよね。生きもののつながりの中に人間を正しく位置づけるためには、まずこの矛盾から脱する必要があります。人間は地球上に生まれた多様な種の一つに過ぎず、他種との間に断絶はありますが、共通の脳から生まれる心、そして言語を持っているのです。
おそらく言語は、私たちにつながる祖先の種のどこかで生まれたのでしょう。そのような特異な能力によって、洞窟壁画などの形で残っているように、何万年も前から創造的な芸術を生み出してきたのだろうと思います。
村田
ラスコーやショーヴェ等の洞窟壁画を描いていた時点で、人間は、既に言葉を持っていたと考えてよいわけですね。
酒井
芸術が先か、言語が先かとよく議論されますが、まず言語機能があり、その創造的な能力の延長として芸術があると考えるほうが自然です。しかし、それでも人々は物事を分けたがるものです。脳機能として音楽と言語は別であるとか、芸術であっても音楽と絵画は別の能力だとかいうように。しかし単に表れ方が違うだけで、人間に備わる一つの能力と考える方が理に適うと私は考えています。
言語学でよく言われる喩え話に、「もし火星人が地球人の言語を観察したら、みな同じだと結論するだろう」というものがあります。もう一歩踏み込めば、地球上の文化もみな同じで、音楽や絵画のように少し表現の仕方が違うだけだとわかるでしょう。音楽は音の伝達を時系列でとらえ、絵画は光の反射を平面で捉えるわけですが、そのような表面的な違いよりも、何を伝えようとしたのかが問題です。それが書道であろうと、身体表現が加わったダンスやバレエであろうと、すべては人間の脳が生み出すものだと俯瞰的に捉えられます。芸術は、人間の想像力による創造物なのです。
残念ながら、当の地球人は表面的な差異に囚われて物事を分けてしまいがちです。大地や海洋に国境線を引き、それに基づく国家同士が、常に対立や緊張を生み出しています。「人間は一つ」という世界観を、人間科学から生み出していくことが必要です。
村田
文明は人間が道具を用いることから始まりましたが、その大本もまた、言葉を扱う能力ということですね。
酒井
道具もまた、どのように用いるかという想像力の下に、他の道具を使って作り上げられたものです。そうしたメタ的な高次機能は、人間だけが持つ能力だと言えますね。
2. 物理現象の中の生命現象
村田
酒井先生は、まず物理学を学ばれ、後に言語脳科学という新たな研究の方向性を打ち出されましたね。転機はいつ、どのように訪れたのでしょう。
酒井
一足飛びというわけではありませんでした。大学の物理学科では、生命の基本となる遺伝などの現象に対して、物質のレベルからアプローチする分野に魅力を感じて、生物物理学や分子生物学を学びました。次に修士課程のとき、堀田凱樹(註1)先生の研究室で神経発生の研究を始めました。生体機能の中でも、神経系は最も不思議な働きを持っています。感覚器から外界の情報を受け、筋肉に運動の指令をするという働きなら、まだ把握しやすいのですが、人間の脳ともなると、自意識や自由意志などが生じます。脳を細胞・組織・器官という階層で捉えたとしても、その精緻な構造からどのようにして意識が生じてくるかは、いまだに全く分かりません。はたして意識という生命現象は、物質的な基礎から生じる「物理現象」なのでしょうか。
村田
単細胞でも内的な状態を保とうとし、自らの生存に有利な環境を求めて暖かいところ、寒いところへ移動したりするのが生きものですが、神経系は、多細胞体での体温や血圧など、より複雑な個体の恒常性の維持に必須ですね。
酒井
そうした生命維持に必要な神経系の働きには、呼吸と体内時計があります。呼吸は呼気と吸気の繰り返しですし、体内時計は昼夜のサイクルに応じた活動の調節ですから、面白いことにどちらもリズムと関係しています。これはまさに、「めぐる」という話につながりますね。
一日の周期から一年の周期となれば、四季の変化に応じた活動となり、冬眠や渡りといった動物の行動に影響を与えます。さらに長いサイクルは、個体の一生ということになるわけで、生命現象は様々なリズムに満ちています。意識を持った人間は、瞬時の判断ができるだけでなく、さらに地球環境の持続可能性を考えたり、ビッグバンを想像することまでできるのです。
平川
脳は、短い時間と長い時間をうまく使い分けられるのですね。
酒井
私は博士過程で、短期記憶・長期記憶と学習の脳研究を始めました。宮下保司先生の研究室で行った、サルを対象とする大脳生理学の実験です。
1992年頃には、MRI(磁気共鳴画像法)を用いて人間の脳機能が調べられるようになったのを機会に、人間を対象とした脳科学の実験に乗り換えました。
ただ、人間のどのような脳機能を研究したらよいか、アメリカへ渡ってからずいぶん悩みました。ちょうどその折、MITで普遍文法を唱えるチョムスキー(註2)と出会い、人間科学の魅力を肌で知りました。これで研究の方向が大きく変わったのです。物理学科の学生だった頃、まさか自分が人間を研究するとは、夢にも思いませんでした。むしろ人間とは縁もゆかりもない、宇宙の果てなど浮世離れした問題を本分と思っていましたが、徐々に生物という存在はとても面白い物理現象だと目覚めた次第なのです。
村田
生命現象を、とてもユニークな物理現象として捉えるのですね。
酒井
生命という、これほどよくできた存在は、宇宙の中でも誇れるものの一つでしょう。短い時間スケールで見れば、同じ生物種が綿々と続いているだけなのに、長い時間スケールでは、これほど多様な生物が次々と生み出されてきたという不思議があります。そうした「進化」がいつも良い結果をもたらすとは限りませんが、地球全体としての調和が38億年にわたって持続しているというのは、本当に驚くべきことでしょう。
平川
宇宙スケールで考えれば、地球上の生命も物理現象の一つと見なせるように感じます。
3. 人間と自然を結ぶ芸術と科学
村田
酒井先生の近著『チョムスキーと言語脳科学』(註3)に、言語学を天文学になぞらえれば、今はまだガリレオ以前の段階で、天動説から地動説へ切り換わる転換点にいるようなものだとのチョムスキーの言葉がありましたね。
酒井
「ガリレオ以前」という言い方は、「近代科学の誕生前夜というくらい大きな変革が起こりつつある」という期待も込められていると私は思います。人間に対する見方を大きく変えたという意味で、「普遍文法(Universal Grammar)」は、ニュートンの万有引力[Universal Gravitationを直訳すれば「普遍重力」です]に匹敵するほどの発見だとも言えるでしょう。
平川
脳の言語機能が、すべての人間に共通だとわかったということですね。
酒井
人間が同じ脳を持っているならば、同じ言語しか生み出せないということになりますから。言い換えれば、世界中にある言語の普遍性について、科学的な裏付けが示されたわけです。
ところが今なお、「普遍文法は存在しない」という非科学的なことを科学誌に書くような研究者が後を絶ちません。そのような「最新の理論」は、言語学を再び「ガリレオ以前」に追いやるようなものです。ダーウィンの進化論が出た当時も、これとよく似た極端な反論がありましたから、それほど驚くには当たらないのですが。
平川
ここ30年程の生命科学で、まずヒトゲノムが解読され、DNAという実体から人間は一つだということが明らかにされました。ヒトとチンパンジーとをDNAで比べれば共通する部分もたくさんありますが、人間独自の営みを生み出しているのはやはり脳ですね。その人間の脳に共通に見られる働きとはどのようなものか、普遍文法から読み解けるのでしょうか。
酒井
近い将来、脳機能の普遍性が解明できると信じて、研究を続けています。そして、人間の脳機能が自然界の法則として何らかの制限を受けているものと考えられます。
私の講義では、自然と人間との関係性について尋ねるようにしています。自然と人間では、どちらが上位に位置するでしょうか。面白いことに二つの答がいつも拮抗します。一方の答は、人間は生物なのだから、あくまで自然の一部であって、人間がどんなに足掻いても自然の方が上位に位置するというものです。他方の答は、人間の方が自然より上位に位置するというもので、都市やダムから、プラスチックや原子力発電所に至るまで、人間は自然にないものを作り出せるということを根拠に挙げます。果たして人間は、既に自然を超えた存在なのでしょうか。
そこで私は、人間が生み出す「芸術」というものについて問いたいと思います。芸術的な創造物は、人工的に作られるとは言え、決して「何でもあり」ではありません。美を追求し、芸を極めたその先には、やはり人間ならではの「自然な表現」が見出せるのではないでしょうか。
芸術はまさに、人間とは何かを探究する営みでもあります。人間同士が言葉を話し、絵を描き、歌い、踊るには、互いに心を通わせ、双方の想像力を通して理解し合うことが必要です。例えばエジプトのツタンカーメンの墳墓や副葬品に対して、美を感じない人はいないでしょう。象形文字が刻まれ、金や宝石、極彩色の装飾が散りばめられた曼荼羅のような世界観を具現化した王墓は、それ自体が不朽の総合芸術と言えます。王を弔うという目的に対し、あらゆる技術や表現が投入されて、人間の本性が自然と現れたのでしょう。
平川
人間に特有の脳の働きが生まれたのが数万年前だとして、その頃から人間の能力はあまり変わっていないのですね。昔の人の美を思う心は、今の私たちと同じなのでしょう。
酒井
ただ単に文明や環境が変化しただけで、肝心の脳や心は変わっていないわけですからね。その一方で、極端に文明化した教育を子どもたちへ施すことには、私は危機感を覚えます。自然から逸脱した人工的な環境、例えば親子の会話が極端に減った状況では、言語獲得に深刻な影響が見られるからです。
村田
とくに子どものうちは、自然の中で自ら感じとる経験が大切ですし、人間にとってそれが基本であることは変わりませんね。
酒井
文明の利器に頼らず、自分なりに工夫することで気づくことがあるものです。例えば、小学校の授業で電卓を使わせてしまえば、筆算の原理を知る機会を奪うことになります。電子教科書やタブレットの導入も同様の弊害があるのです。タイピングでノートを取ることにより、自分の言葉で要点をまとめて、個々のキーワードの関係を図式化して書き出すようなことができなくなってしまいます。
村田
私のメモは自分にしかわからないものですが、それでいいのでしょうか。
酒井
自分で見返した時に再構成できるのならば、全く問題ありませんね。私の講義でも、机上にペンもノートも置かずに、ただ漫然と聞いている学生が目立つようになりました。しかもスマホやパソコンがあれば、私用が気になって仕方がありません。
これからは、文明による人間の堕落が加速していくことでしょう。その最たるものはネット検索であり、人工知能(AI)です。自分で考える前に検索し、AIに頼って考えることを放棄することになりかねません。
平川
人間は悲しいかな、どんどん楽なほうを選んでしまいますね。
酒井
人間が自然を取り戻すためには、芸術が必要なのです。子どもたちには、情操教育こそが命です。例えば、AIに頼ることなく最善手を追求する棋士は、人類にとっての福音だと言えるでしょう。藤井聡太さんは希望と勇気を与えてくれる若者の一人であり、私も応援しています。
村田
世の中にデジタル情報が溢れ、与えられる選択肢が増えたところから、新しく生まれる表現の形もあるでしょうが、自ら現実に働きかけていく意欲が確かに希薄になっていますね。
酒井
さらに言えば、人間は天使と悪魔のように非人間的な危うさと背中合わせなのかもしれません。
私が中学生の時、なだ いなださんの『人間、この非人間的なもの』という本を国語の先生に勧められました。なぜ人間は、戦争のように非人間的で非人道的な行為を繰り返してきたのでしょうか。チョムスキーは知識人の代表として、アメリカの非人道的な覇権主義を痛烈に批判し続けて来ました。
村田
酒井先生は、チョムスキーに出会ったことで、ご自身の価値観や人生までもが変わったというお話でした。もう少しお聞かせくださいませんか。
酒井
チョムスキーは理性と行動の人です。その透徹した知性と、平和への情熱は、彼が敬愛して止まないバートランド・ラッセルと共通しています。ラッセルは、アルバート・アインシュタインと共に、核兵器をなくし平和を維持するための「ラッセル=アインシュタイン宣言」を唱えましたね。2015年には、AIの搭載により自動的に攻撃する兵器の開発禁止を訴える公開書簡に、チョムスキーをはじめ、スティーブン・ホーキングらが署名しています。
さらにチョムスキーは、どんなに些細な質問にも真摯に答えて、視点を正してくれる稀有な科学者です。なぜチョムスキーの訴えに耳を貸そうとしない人が多いのか、同時代人として歯痒い思いがあります。湯川秀樹先生は、晩年のインタビューの中で、「核抑止論が誤りであることは明白なのに、なぜこれほど簡単なことを誰も分かろうとしないのだろう」とぼやかれていました。チョムスキーもまた、人間の未来を見据えた科学者なのです。
平川
人間とは何か、私たちはどこへ向かって行くのかを科学的に考える。その切り口として、脳の理解も一つ、ゲノムの理解も一つということかと思います。それが解決の糸口になれば科学の意義がありますね。
酒井
私がアドバイザーを務める日本科学協会でも、AI倫理や生命倫理などについて議論していて、先日も「科学者三原則」を発表したところです。
村田
アイザック・アシモフの「ロボット三原則」みたいですね。
酒井
その着想は「ロボット三原則」にありました。AI兵器はどちらの三原則にも抵触しますから、明らかな誤りです。
4. 火あぶりギリギリの覚悟で
村田
酒井先生のお話を伺っていると、言葉と国を超えて科学や芸術に共感できることから、美的感覚も人間に共通しているように思えてきます。以前の対談で、言語処理の要となる文法中枢について伺いましたが、例えば、音楽を聴いて美しいと感じる時の脳の働きを調べるような実験はされているのでしょうか。
酒井
スズキ・メソード(註4)というヴァイオリンなどの教育で有名な才能教育研究会と共同で、音楽の研究を始めています。論文発表に向けて準備中ですが、言語と音楽の関係が初めて明らかになると思います。言語で創造的な役割を担う文法中枢が、音楽でどのように働くかが問題です。美的感覚は、対象への感覚的な反応だけでなく、対象が持つ「構造」にも関係するのではないでしょうか。例えば、この写真をご覧ください。
村田
酒井先生がご著書であげておられたロマネスコというお野菜ですね。あまりに美しいと感じられて食べられなかったという……。
酒井
構造は単純ですが、その構造の再帰性が実に見事なのです。
平川
規則性があるのですね。例えば蝶を見た時に、それを綺麗と言う人と、気持ち悪いと言う人に分かれるでしょう。ロマネスコを見ても、それを「美しい」と表現するか、「怖い、気持ち悪い」と表現するかは分かれるでしょうね。いずれにしても、この規則的な構造を受け止めていることに変わりはないのでしょうか。
酒井
そうですね、今流に言えば「キモカワ」というような、半ば相反する感情が生じるのは、それだけ不思議な構造だということでしょう。
村田
「キモカワ」のように、時と共に言葉も変わるものですね。
酒井
言葉の意味が、プラス・マイナスの両極へ揺れ動くことがありますね。何を「美しい」と感じるかは本当に紙一重なのかもしれません。「このジュース、ヤバッ」と意ったら、世代によって解釈が真逆になるでしょう(笑)。
指揮者、将棋棋士、マジシャン、日本画家という芸術家の方々との対談集『芸術を創る脳』(註5)を出版した後、みんなで座談会を企画しました。そこで一番盛り上がったのが、「創造の境界線上では火あぶり覚悟」という共通した思いでした。優れた芸術の創造は、一つ間違えば周りに誤解されて火あぶりの刑に処されることと隣り合わせなのです。その危険をも顧みず、次の一歩を踏み出せるかどうかが問題です。
科学者が真理を求めて常識外の領域に踏み込むのも、これとよく似ています。チョムスキーも思いは同じでしょうし、その生成文法理論は進化論や地動説と同様に多くの誤解や偏見に晒されてきました。空を見上げれば、太陽は月や星と同じように地球の周りを回っています。科学的な観察なしに、この広い大地が動いているなど、誰が想像できたでしょうか。人間の言語も科学的な観察なしには、互いに話が全く通じないような「複数の体系」としか捉えられなかったことでしょう。科学は、目で見えるもの、五感で感じられることから一歩踏み込んだところに本当の真理があると教えてくれます。それが常識や経験則を正すことによって、自然に対する真の理解がもたらされるのです。
人間の真の姿を追究するという意味では、文学もおそらく科学と同じでしょうか。人間の心には光と闇、美しさと醜さの両方が併存していて、そこに気づかせてくれるような作品には、普遍的な真理が描かれています。オルペウス[オルフェウス]の神話や、『かちかち山』のような童話にも、相当怖い部分がありますね。たとえば『かちかち山』は、後に太宰治が『お伽草紙』の中でリライトしているくらいですし。
村田
古今東西の童話や昔語りには、本当に恐ろしいことを含めながら、子どもの想像力に訴えかけるような物語が多いですね。最近は、そうした伝承が疎かにされているようです。
平川
人間の脳は、多様な解釈をいくつも受け入れながら、さらに想像力を膨らませて深く解釈していくのですね。
酒井
現実の世界を単に脳で認知・認識するだけでは、芸術にしろ科学にしろ、明らかな限界があるということなのです。そのことを悟った人間だからこそ、サピエンス[ラテン語で「賢い人」の意味]に成りえたのでしょう。
5. 心はどこにあるのか
酒井
チョムスキーの生成文法理論の核心は、「二股を繰り返して文を作る操作」です。例えば、「赤い」と「りんご」の二股から、「赤いりんご」という名詞句ができます。この名詞句と「食べた」を二股にすると、今度は「赤いりんごを 食べた」という動詞句ができます。さらに「私は」とこの動詞句を二股にすることで、「私は 赤いりんごを 食べた」という文ができるわけです。このように木構造の枝分かれが幾重にも続き、無限の階層性を操ることのできる人間の能力を、脳の文法中枢の働きで説明できるのではないか。そのような言語脳科学の仮説から、「人間とは何か」という究極の問題に迫りたいと考えています。
言語理論を積み上げていけば人間の本性に迫れるというチョムスキーの考えが正しければ、人間の創造性の秘密も文法中枢の働きに関連付けて明らかになることでしょう。言語は創造的な能力のごく一部に過ぎないのかもしれません。言語という手掛かりからもう一歩踏み込んで、心のしくみを解明していく過程では、ちょうど物理学が生物学へ波及したように、言語学が生物学と結びついていくことでしょう。それが人間科学の未来となります。言語を梃子にして、芸術を生み出すような人間性が理解できれば、「普遍文法」は何百年に一度の大発見だったということになると思います。
村田
先述のご著書『チョムスキーと言語脳科学』によると、人間が脳機能として文法中枢を獲得したのは、進化における自然淘汰の帰結でなく、中立的な変化だったと書かれています。言語の機能をゲノムの変化から捉えようとする研究についてどう思われますか。
酒井
ネアンデルタール人のゲノム解析や、FOXP2遺伝子などの切り口からのアプローチは、確かにあり得る方向性だと思いますが、遺伝子から脳機能の実証まで持っていくには、相当険しい道のりとなるでしょう。人間では、ノックアウトマウスや遺伝子導入といった手法が使えませんので。
平川
酒井先生は、fMRIを用いて脳の特定の領域に観察される機能として文法中枢を捉えていらっしゃいますね。言語以外で、脳に内在していると言えるような機能領域は見られるのでしょうか。
酒井
もちろん、脳への入力となる感覚野や、脳からの出力となる運動野の研究は、人間でも一番進んでいます。しかし、両者をつなぐような文法中枢となると、これまでブラックボックスと見なされて来ました。
村田
一昨年前、やはり季刊「生命誌」の対談で、神経内科医の岩田誠(註6)先生を訪ねて、洞窟壁画から芸術の起源やその展開についてお話を伺いました。その時、子どもの発達段階における言語能力の獲得の話題で、酒井先生が多言語話者の文法中枢の働きをfMRIの実験で調べていると伺いました。
酒井
目下の目標は、文法中枢などが多言語話者でどのように働くかをfMRIで明らかにすることです。
村田
なるほど。更に、生まれて間もない赤ちゃんと、母語を既に身につけた人とでは柔軟性に違いがあるのでしょうか。
酒井
それに答えるには、赤ちゃんで普遍文法の初期状態を調べる必要がありますが、技術的にはまだ難しい問題だと思います。同時に心の発達の問題を解いていく必要もありますし、どこまでが生得的でどこからが学習能力なのかを明らかにすることが課題となります。
最近は、先ほどお話したように脳における言語と音楽の共通性を調べたり、漫画を見て揺れ動く感情から、個人差の大きな「心」に迫る実験にも挑んでいます。
酒井
私は、同じ漫画を見て何度でも泣けます。映画も予告編で泣くタイプなので、純粋なのでしょうか。
酒井
そのような感情の動きは、言語化される以前の心の機能でもあり、脳の活動変化として捉えられるはずです。ですから、その人の感受性も含めて明らかにする必要があります。これまで科学は主観を切り捨て客観に集中してきたので、これは最も挑戦的なテーマの一つでしょう。しかも、人同士の普遍性や再現性も求められます。言語の普遍性が明らかになってきたからこそ、取り組むことのできるテーマでもあります。
現在のAIの自動翻訳では、文字や言葉を表面的に扱っているだけで、その元になっている発話意図や意味処理に対してはまだ手付かずの状態です。人間が想像力を働かせ心を躍らせる時、脳で起きていることを科学で語りたい。そこに一番惹かれますね。
註2:チョムスキー【Noam Chomsky】 (1928- )アメリカの言語学者。生成文法理論を提唱する。反戦平和運動にも活躍。著書に『統辞構造論』『統辞理論の諸相』など。
註3:『チョムスキーと言語脳科学』 酒井邦嘉著。集英社インターナショナル(2019)。
註4:スズキ・メソード【Suzuki method】 1948年にヴァイオリニスト鈴木鎮一が創始した才能教育研究会が普及推進している活動。音楽を通じて心豊かな人間を育てることを目的とする教育法の一つ。日本、アメリカなどで展開されている。
註5:『芸術を創る脳』 酒井邦嘉編、曽我大介著、羽生善治著、前田知洋著、千住博著。東京大学出版会(2013)。