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TALK

多彩な暮らしが織りなす世界

関野吉晴武蔵野美術大学教授
中村桂子JT生命誌研究館館長

1.関野さんが動いた理由

中村

生命誌研究館の設立と関野さんがグレートジャーニーを始められたのは同じ1993年。今年で20年ですね。人類の誕生とその歴史は生命誌にとっても大事なことなので、関野さんの旅は興味深く、応援団をしてきました。この旅を南米からアフリカへと逆向きになさったのはなぜですか。

関野

その頃、南米に通っていて、アンデスやアマゾンの先住民の人たちと付き合ううちに、彼らの顔や背格好だけでなく、表情やしぐさ、シャイな性格まで日本人やアジアの人にそっくりだという実感が湧いてきました。そこで、この人たちの祖先は、いつ、どこから、どのようにしてやってきたのかを探る旅をしたいと思ったのです。

出発点は南米大陸最南端のナバリノ島という小さな島です。当時は先住民の姉妹が二人で暮らしていましたが、今は80代の妹さん一人になりました。その民族の言葉を話せる人はその方一人だけです。

中村

一つの民族とその言葉が消えていてく現場に立ち会われたわけですね。

関野

彼らは自分たちをヤマナと呼んでいて、それは「人間」という意味です。イヌイットもそうですが、僕が旅先で出会った人々は皆「人間」を意味する言葉で自分たちを表す。ヤマナはチリ海軍の基地建設のために土地を追われて、お墓だけが残りました。そこで旅の出発点をそのお墓の前にしました。

中村

そこから人類の出発地へ向かうルートはどのように決められたのですか。

関野

太古の人たちが大陸棚になっていたベーリング海峡を渡ったことは確かですが、それ以外のルートはいくつも想定されるので、史実はあまり気にせず、僕が面白いと思うところを通りました。アフリカから辿ると、ヨルダン、イスラエル、紅海を渡って中央アジアに入り、北上して、シベリアからアラスカ、そして南米へと辿るルートです。後からわかったことですが、主要なルートはもっと南よりで、最初の集団が向かった先はオーストラリア、次に移動した集団はアラビア半島からインドを通ってインドシナへ向かったようです。今から2~3万年前は氷期だったので海面は今より120メートルも低く、インドシナ半島とインドネシア諸島は陸続きでしたし、亜熱帯生まれの人類は南のほうが過ごしやすかったのでしょう。

中村

今のインドネシアの島々がスンダランドという一つの大きな大陸だった頃ですね。

関野

ええ。ところが、気温が上昇して海面が上がって島に分かれると、狭い土地では暮らしていけないので、誰かが出て行かなくてはならない。その時に北上した人たちがいて、その集団の一部が日本に来たと言われています。

中村

アフリカを出た人類は氷期に南の方へと広がり、暖かくなって北上したということですね。

関野

まずは陸地を歩いて北上した。海を渡ったのはもっと新しい時代になってからです。人類は海に馴染みが深いように思われますが、海での移動は新しいのです。最後のグレートジャーニーがポリネシアです。ハワイに人類が住み始めたのは1,500年前、イースター島が1,000年前、ニュージーランドはわずか800年前です。

人類が1万年前まで行っていた狩猟採集の暮らしは食料獲得の効率が悪いので広い土地が必要です。一集団あたり沖縄本島くらいの面積が必要だと言われますので、ハワイやイースターなどの狭い島では暮らせません。今、オセアニアの島々では、タロイモやキャッサバなどを栽培し、豚や鶏を飼育しています。航海術に加え、農耕や家畜を得て初めて人類は海の島々に進出できたわけです。

中村

なるほど。航海術と耕作の技術を獲得するまでは、人類はある程度広さのある土地で、その土地ごとの恵みを得て、狩猟採集で暮らしながら移動していたという歴史ですね。

自転車やカヌーなどなるべく人力を使っての関野さんの旅ですが、面白いと思うのはただ通り抜けるのではなく、そこに暮らす人と一緒に生活することを大事にしていること。太古の人々の暮らしを実感したいというお気持ちからですね。

関野

その通りです。だから足掛け10年、自分の腕力と脚力の他に、犬ゾリやトナカイゾリ、馬やラクダなどの動物も使いました。暑さや寒さ、風の匂いや埃、地球のでこぼこを感じて移動することで、太古の人たちに思いを馳せる旅をしたかったのです。しかし半分は寄り道でした。主要ルートを逸れて脇に入ると、伝統的な暮らしをしている人々がいる。

中村

人類の移動を追う旅が村々での滞在に時間をかけていることの意味は大きいですね。最初にアフリカを出た人々も元の土地で暮らしていけたら移動しなかったかもしれません。動かざるを得ない状況が生じたのか、好奇心からか、移動してその先で暮らす。それをくり返していたら南米まで動いてしまったのでしょうね。

 

アフリカに誕生した人類が世界中に拡散した道のりを逆ルートで辿ったグレートジャーニーと、人類が日本列島にやって来た3つの道のりを辿った新グレートジャー二―



2.太古の人々が動いた理由

関野

人類の旅に目的地はありません。古生物学者のポール・マーチン(註1)が、人類がアラスカから南米最南端までの1万2,000キロの移動にかけた時間をシミュレーションしたら、1,000年で充分という結果が出た。30年を1世代と考えれば、1,000年は33世代、1世代で400キロ移動すればよいわけです。400キロなんて10日で歩ける距離ですよ。人類が進出した頃のアメリカ大陸には大型哺乳類がたくさんいて、彼らは人間を知らず油断しているから狩猟が容易だった。そうした獲物を追って徐々に南下したようです。ユーラシア大陸の移動はさらに遅く、1世代40キロですから、実はほとんど動いていないのです。

僕は旅に出る前は、彼らの移動の動機は「向こうには何があるのだろう、もっとよい暮らし、たくさんの獲物がいるに違いない」という好奇心や向上心だと思っていました。それならば、一番遠くに行ったヤマナの人たちこそ、最も好奇心や向上心の強い、進取気鋭に富んだ人たちのはずです。ところが彼らはそうではない。彼らの暮らすナバリノ島で採れるのは、岩場に付着したムラサキガイやツブガイ、蟹やオットセイに似たオタリアという動物などで、わずかな資源を頼りに慎ましく生きていたのです。彼らはどうしてここへ来たのか。おそらくは追われて行き場を求めて辿り着いたのだろうと今は思っています。

強い人は既得権益が守れる土地に暮らし、弱い人が追われて新天地に向かう。新たな土地に適応できずに滅びた人もたくさんいたでしょうが、想像力を発揮して創意工夫をした人々が、住みにくい場所を「住めば都」にしたわけですね。でも、また増えるわけです。こう考えると日本は弱い人の吹き溜まりかなと思いますが、弱い人は弱いままではない。追い出した人間より強くなることが往々にあります。日本に移り住んだ人たちはその典型です。

中村

学校で習う歴史は、リーダーを、とくに勝者を語りますが、私たちの歴史の基本にあるのはさまざまな人の生活の積み重ねですね。その場所にある自然を活用し、あるいは厳しい環境になれていく、つまり適応していく。出て行った人々は新しい土地で適応し、暮らしを続けていく。生命誌はすべての生物についてのそのような歴史を見ているので共感できます。

関野

この旅以前から知っているチリのアルカルフェという先住民の少女の将来の夢は考古学者です。学校の教科書にない自分たちの民族の歴史を研究したいと言っていました。別のウィジチェという先住民の族長が、伝統的な暮らしや迫害された事実を漫画にしました。その漫画を見て彼女は自分が考古学者になって自分の民族の歴史を研究したいと思ったのです。彼女の民族は現在16人、絶滅寸前なんです。

中村

是非、研究して記録を残して欲しいですね。本当は彼女の民族が生き続けて、現代の先進国とは異なる歴史を作れるといいなと思いますけれど。

対談の後、関野吉晴先生に「グレートジャーニー 人類の旅」展(国立科学博物館) を案内して頂いた。

(註1)ポール・マーティン【Paul Schultz Martin】[1928 - 2010]

アリゾナ大学名誉教授。更新世に起きた大型ほ乳類の絶滅は、わずか1,000年の間にアメリカ大陸を拡散した人類の乱獲によると考察した論文 ” The Discovery of America ”を1973年にScience誌に発表。フィールド生態学、人類学、古生物学を横断的に活躍した。



3.人類の特徴、旅の終着点

中村

グレートジャーニーはアフリカを出てからを追うものですが、人類の歴史としてはチンパンジーと共通の祖先から分かれ、森を出るところから考えたいですね。

関野

人類は、犬歯も小さく牙がない。爪も平爪で鋭くない。これでは森の外での競争は難しい。しかし、二足歩行ができたので、俊敏性ではチーターに劣るけれども、100キロマラソンならかなうかもしれない。二足歩行は遠くへの移動に向いた歩き方です。二本の手が空いたので道具を作るわけですが、その前にもっと重要なことがあるんです。

中村

運ぶことかしら。

関野

そう、ものを運ぶことです。四足動物だと口でくわえるか、転がして運ぶかしかなくて、効率が悪い。

中村

小さな木の実なんて手のひらでないと難しいですね。

関野

タンザニアのラエトリには360万年前に人類が二本足で真っ直ぐ立って歩いたことを示す足跡化石があります。大きい足跡が一つと小さい足跡が二つ。僕は旅の終着点をこの足跡化石にしたのです。

中村

お父さんとお母さんと子供の三人の足跡と言われていますね。

関野

スミソニアン博物館では、両親が肩を抱き合って歩き、後から子供が父親の足跡を辿って歩いていると解釈しています。上野の科学博物館で開催しているグレートジャーニー展では別の解釈で、父親の隣を歩いているのは子供で、妊娠した母親が後からついてくる。想像の世界ですが、三人が家族だということは皆が認めています。

人類と他の動物との一番の違いが家族です。ゴリラのお父さんは群れを守りますが、子供の世話はしないし、食糧を持ち帰ることもしないので、家族の兆しはあっても家族とは言えません。

テナガザルはオスとメスがつがいを組み、子供と一緒にいますが、メスが非常に排他的で、他のメスを追い出すので家族とは言えない。霊長類学では、集団の中で協力し合って初めて家族としています。人間はそれをしている。そこで、二足歩行と家族という人間の特徴を示しているラエトリの足跡化石を旅の終着点に決めたのです。実は、鳥には家族のあるものが結構いて、カモメやツバメ、ペンギンは群れで家族同士が協力関係にあるようです。

中村

現代社会の家族の課題をそのような原点から考えてみる必要がありますね。太古の人類の出発点には家族三人の痕跡がはっきり残っているのに、終着点のヤマナは最後の一人なのですよね。家族という生き方を基本にした人間の歴史を360万年辿ると、その基本が急速に失われている現状の問題点が浮び上りますね。

関野

アフリカで最初に誕生した人類である猿人は、アフリカを出ずに滅びた。猿人から分かれた原人は初めてアフリカを出たけれども、彼らも滅んでしまった。その後、旧人、ネアンデルタール人を含めて、20種類くらいの人類が滅び、唯一生き残ったのがホモ・サピエンスですよね。その歴史も家族という切り口で見る必要があるかもしれません。

中村

生きているということの中には、滅びるということが組み込まれているということを前提に。今の社会は経済成長を唯一の価値観にしていますが、豊かさにはさまざまな指標があるわけで、人間の基本である家族の存在が与えてくれる豊かさという指標を入れることも考えられますね。

関野

ゴリラ研究の山極寿一さん(註2)も、家族の大切さをおっしゃっていますね。人間社会で家族が崩壊しつつあることとIT技術の普及は関係していると思うんです。例えば、中学生や高校生の家出というと、昔なら、もう本当に帰ってこないぞって、相当の覚悟をして出て行ったわけです。ところが、今は携帯電話があるから…。

中村

GPSで追いかければどこにいるのかすぐわかっちゃう。(笑)

関野

電話もメールもできるから、親も子供が家出したところであまり心配しないし、子供も安易に家出する。大家族が核家族に解体された上、核家族の中の関係性が壊れようとしている。

中村

家族があるから人間だったとすると、このままでは人間でなくなってしまいますね。

関野

700万年という人類史の中で、ホモ・サピエンスの歴史はわずか20万年ですよ。さらにアフリカを出たのは6万年ほど前ですから、すべてごく最近の出来事です。

中村

さらに文明を持ってからの歴史は、ほんの一瞬ですね。

関野

わずか5,000年です。

中村

東京で生まれ育つと、高層ビルで暮らし、学校に行き、スーパーで買い物する毎日が生活だと思ってしまうけれど、グレートジャーニーでは、学校に行かずに家のお手伝いをしている子供たちや、自分の手で獲物を解体する大人、それを分け合う家族が次々登場し、ついこの間までこのような生活をしてきたのが人間なんだと改めて思います。文明社会で暮らす私たちに「ちょっと立ち止まって考えてごらん」と語りかけていますね。

左:ヤマノミの母子 - 水浴びの帰り(ベネズエラ・アマゾン) 右:遊牧民の一家 - ゲルの前で(モンゴル)

註2:山極寿一【やまぎわ・じゅいち】

1952年東京生まれ。人類学、霊長類学者。京都大学大学院理学研究科教授。著書に『森の巨人』『ゴリラ』『家族進化論』ほか。



4. 自分の足元を見直す

中村

ところで、アフリカへの旅の後、日本人はどこから来たのかを探る旅に移られましたね。

関野

人類の旅を辿ってアフリカに着いたら、自分自身の来歴を考えてみたくなって。そこで、日本人がやってきた道を辿ろうとしたのですが、この問いかけはおかしいと気づいた。日本人という民族がどこかからやって来たわけではないし、日本人という集団を作ってきたわけでもない。この土地に集まったいろいろな人を日本人ということにしているわけです。日本という国号が使われたのは8世紀になってからですし、拘った見方をすると、聖徳太子は「日本人」ではなかった(笑)。これは日本列島にやって来た人たちと言うべきだと気づいたのです。

グレートジャーニーでいろいろな土地を旅すると、どこから来たのかと聞かれるわけです。そこで、自分が生まれた土地や、住んでいる土地についてよく知らないことに改めて気がついたのも、この旅を始めた理由の一つです。自分の足元を見ようとミトコンドリアDNAを調べてもらったら、母方の祖先は、北海道の礼文島あたりの縄文人だったことがわかった。そうすると、縄文人やアイヌ(註3)やマタギ(註4)について知りたくなる。それで、熊狩りをしている方や、鷹匠を訪ねてお話を伺いました。

最初、アマゾンに行った時に狩りをして、獲物の毛皮を持ち帰ろうとして税関で没収されたことがあります。イノシシは豚の仲間、シカは牛の仲間なので、家畜にうつる病気を持っていたらまずいわけですね。これは没収かなと思っていた塩漬けのヘビとワニの皮は大丈夫でした(笑)。

僕の生まれた東京の墨田区には、豚の皮や爬虫類の皮を扱っている工場があるので、そこでなめしてもらいました。その工場は、零細企業の集まった下町の職人街にあって、僕は調査や取材よりも、そこの人たちと仲良くなってから話を聞くというやり方が好きなので、その界隈で一番面白そうだった皮なめし工場に「働かせてください」とお願いして通ったのです。日本の豚皮なめしの8割をその街でやっていたんです。働いてわかったのは、肉屋さん、毛皮や太鼓、靴などの動物革製品を作っている人たちは被差別民だったのです。僕が子供の頃、同じ学校にその街から通っている友達もいたのに差別のことはまったく知りませんでした。

近代以降に朝鮮半島から来た人も多く、街のおじいちゃん、おばあちゃんから、いかに自分たちが差別されたか聞き、また、今でも結婚と就職の差別があることがわかりました。加えて、職人の高齢化や産業の空洞化という問題も起きています。バブルの頃に、皮のなめし方を中国や東南アジアに教えて以来、原材料の皮も仕事も人件費の安い国に奪われて、製品になったものが日本に入ってくるようになり、国内では工場がどんどん潰れていくという現状がある。その街は日本の縮図に思えます。

中村

私たちは、一口に日本人と言うけれど、長い歴史の中にはさまざまな人々がこの列島で暮らしているわけで、それを知らなければいけませんね。

関野

そうですね。そうやって街の人たちとも仲良くなれたので、今は僕が教えている美術大学の学生を屠場に見学に連れて行っています。自分たちが食べている肉が、それを扱う人がどんな思いで殺して、その人たちが他の人たちからどのように見られているのかを、一人一人が自分の感性で受け止めて考えて欲しいのです。連れて行くと考え方が変わっていくのがわかります。

中村

都会で暮らしていたら、お肉はパックに入ってスーパーマーケットで売っているものとしてしか接していません。関野さんの旅は暮らしの積み重ねだというよい例を伺いました。

(註3)アイヌ【Ainu】

アイヌ語で「人間」の意。かつて北海道、樺太、千島列島に居住し、現在は主として北海道に居住する先住民族。口承による叙事詩ユーカラなどを伝える。


(註4)マタギ

東北地方の山間に居住する猟師の集団。狩猟中は山言葉を用いるなど古い伝統を守って生活する。



5. 自然の中で生きているという自覚

関野

日本列島にやってきた人たちが辿った主要なルートは、まずシベリアからサハリンを通って北海道へという北方ルート。ヒマラヤ山麓から東南アジアに抜けた後、北上して朝鮮半島から渡った南方ルート。最後に舟で海を渡ったという三つのルートが考えられます。海のルートについては否定的な見解も多いですが、僕は、海のルートはあっただろうと思います。舟の移動はお年寄りや子供にとっては歩くよりも楽ですし、人口が増えたら向こうに見える島まで渡ろうという感じで、一世代で一回、いい天気の日に渡ればよいわけです。

中村

始めから日本列島を目指したわけではなくて、隣へ、隣へと渡って行くうちにここまで来たという感じですね。

関野

文明社会の僕らと違って、伝統社会の人々は天気や海にとても詳しい。アマゾンの人たちを見ていると、持ち物がとても少なくて、本当に必要な道具、要するに担げるものしか持っていないけれど、自然に関する膨大な知識を持っているから生きていけるとわかります。森や動植物に関する知識は生態学者顔負けで、いつ、どこへ行けば薬草があるか、動物を追いかける時にどう動くとよいか、足跡を見ていつ通ったか、凹みがあればどういう動物が寝た後かもわかる。

中村

生きものとしての人間の能力を活かした暮らし方ですね。

関野

動きを知っているから狩猟が成功する。海についても同じで、眼で見た色の変化で、深さも潮流もわかる。太陽や星を見れば方角がわかる。海図はいりません。いつ、どこへ行けば、どんな魚が獲れるかを知り、どうやって獲るかを発明していくわけです。

中村

一昨年の東日本大震災後、東北の漁民、農民の生活の知恵のすばらしさ、生きる力の大きさを教えられ、一方、現代科学技術の専門家の問題点を知らされましたね。

関野

縄文時代の遺跡は山の上にある。日本の伝統社会では地震や津波に対する暮らしの知恵を持っていたはずです。

中村

伝統社会の人たちは、自分たちが自然の中で生きていることを自覚していますが、現代にはその自覚がありませんから。

関野

自然は制御できるものと錯覚して、甘くみていますね。人間にとって、本来、自然は神様に似て、恵みを与えてくれるけれど凶暴でいじわるもする、制御できない怖いものです。

中村

それを制御できると勘違いし、想定外などと言ったわけですよね。

関野

一昨年の3月11日はジャカルタにいました。僕は医者でもあるので何かできないかと思い、日本に戻ってすぐ気仙沼へ行きました。すると、建物の倒壊や火災による怪我人が出た阪神淡路大震災と違って、今回はほとんどが津波の被害なので低体温症か溺死が多く、救急医はあまり役に立ちませんでしたね。むしろ床ずれなど慢性疾患の人たちが多かった。  

中村

お年寄りが多いですものね。

関野

一番感じたのは、津波の被害の大きさですね。自動車道が通れるようになって、一関から気仙沼に向かって自動車で走っているとほとんど家も崩れてないし、大丈夫じゃないかと思えてくる。ところがあるところを境に何もなくなる。津波の被害なんです。

気仙沼では、山に植林をして牡蠣を養殖している畠山重篤さん(註5)にもお会いしました。

中村

「森は海の恋人」という信念で動いていらっしゃるから震災後もその考えで活躍していらっしゃるのはみごとですね。

関野

高さ16メートルの津波が来て、お母さんを亡くされていますが、彼は、津波が掃除をしてくれたと言っていました。自分も周囲の人たちも皆悲しい思いをして いる。けれども、この地震は、地球の大きな動きのうちの一つだと思っているんです。震災の後、牡蠣が戻ってきているそうです。

中村

眼の前のすべてを受け入れて、向き合っている漁業、農業の方たちは強いなあと思いますね。

新グレートジャーニーで海のルートを渡った手作りの丸木舟「縄文号」の前で。

(註5)畠山重篤【はたけやま・しげあつ】

1943年中国上海生まれ。牡蠣養殖家、京都大学フィールド科学教育センター社会連携教授。NPO法人「森は海の恋人」代表。著書に『漁師さんの森づくり』『鉄は魔法つかい』ほか。



6. 人間が本当に必要とするもの

関野

日本列島に海を渡って来た人たちのルートを辿るなら、出来合いのカヌーでなく彼らが用いた舟を使いたいと思って、まず縄文カヌーについて調べました。ところが日本に残っているのは小さな川船で、これでは海は渡れません。それならばと、旅の出発地インドネシアまで行って調べたところ、熱帯では竹も木も全部腐って、新しい時代の舟しか残っていませんでした。けれども現地の舟大工さんの話をいろいろ聞いていくと、昔の人々がどのようにして舟を作っていたかを考えることができます。そこで、すべての素材を自然から取ってきて自分たちで作るという考え方で、可能な限り時間を遡った舟づくりを再現することにしました。舟にする木は現地で山から切り出します。その時、必要になるオノなどの道具作りから自分たちで始めることにしたのです。

中村

オノからですか。昔の人と同じ思いで海を渡るためには、彼らと同じように、自分たちの知恵で作り上げた旅をしようということですね。

関野

長野県にある浅間縄文ミュージアムに行って、縄文時代の舟作りの再現に必要な石器作りから教わりましたが、こんな石器や貝で作った船で、本当に大海原を越えるのかと思うと怖くなって(笑)、鉄は使ってもよいことにしました。実際、3,000年前にはインドネシアにも鉄はありましたので。

次いで、奈良県東吉野の刀鍛冶場へ鉄器作りの相談に行きました。面白そうだから協力するよと言ってくれて、砂鉄から鉄を作るたたら製鉄(註6)に詳しい東工大の先生に、その場で電話をつないでくれたんです。「どのくらいの工具を作りたいの、重さで言ってごらん」とおっしゃるので、「オノとナタとチョウナを5キロ作りたい」と言ったら、「120キロの砂鉄を集めて、300キロの炭を焼きなさい」って。

ここで、これを自分一人でやるのはもったいないと思ったのです。文化人類学を教えている美大の学生にも、チャンスを与えてあげようと思った。

中村

なかなかいい口実ができた(笑)。

関野

彼らは、ものづくりをしているのに、自然から素材を採ってきて作るということを一切せずに、材料も道具も皆買ってくるわけです。それまでの旅では、一緒に連れて行って欲しいという若者が来ても、「旅は一人でやるほうがいいよ」って断っていましたが、今度は皆に呼びかけたんです。

中村

一人で300キロの炭は無理ですからね。

関野

でも、手伝ってくれとは言わなかった(笑)。チャンスを与えるから一緒にやってみようって。例えば、舟の旅に必要で日本で作れるものに保存食と縄があります。そこで保存食班、縄班を担当する学生は、それぞれ自然素材からどういうものが具体的にできるのかって、全国飛び回って、自分たちで調べて作り上げていくわけです。

中村

海の旅自体も大事ですが、若い方たちが、旅に必要なものを自然からどう調達するかと自分の頭で考えて、実際に作り出していくという過程に大きな意味がありましたね。

関野

たたら製鉄では、東工大の先生が電動式のふいごを持ってこられたけれど、やっぱり昔のふいごを使いたい。長野県伊那に作れる人がいると聞き、大工仕事の好きな卒業生の一人がその方から設計図を教えてもらってふいごを作りました。炉に空気を送り続けるのに交代でたたら踏みをする時は、まさにお祭り騒ぎです。120キロの砂鉄を溶かすのに26時間ぶっ通しで、わっしょい、わっしょいって、「夜遅くに何やってるんだ」って近所から苦情も出ました(笑)。

皆その過程でいろいろなことに気づく。例えば、炭を300キロ焼くのに必要な松は3トンです。つまり、5キロ分の鉄の道具を作るために、3トンの木を伐採しているわけです。

中村

世界各地でそうやって森が消えていったわけですね。

関野

イギリスは産業革命でコークスに変えましたが、中国は松の伐採を続けてイギリスに負けました。経済の基盤は農業で、農具は全部鉄ですし、武器も全部鉄です。鉄を制すれば世界を制するわけです。

地球の重さの三分の一は鉄だそうです。僕もそれを聞いてびっくりしたけど、考えてみれば核の部分はニッケルと鉄ですね。地球は磁石なんだと初めて気がついた。だからコンパスが使える。

中村

鉄は、錆びて戻るという形で循環しているからずーっと使えているわけですね。

関野

僕らの体でも、男性なら、常に6~7グラムの鉄が物質代謝に関わっていて、もしも鉄がなければ数時間のうちに体が窒息してしまう。だから鉄ってすごい。鉄が使われ始めた時には、金の4倍の価値があったらしい。金で農具や武器は作れませんからね。

中村

鉄器時代の中に私たちの今はあるわけですね。

関野

今も鉄器時代でしょう。決してウラン時代ではない。今や地球の人口は70億を超えましたが、そのうちガラスやプラスチック、金銀やグラスファイバーを使わなくても生きていける人は何億人もいます。けれども、鉄を使っていない人って一人もいないのではないか。パプアニューギニアには1975年まで石器を使っている人がいました。でも1回、鉄のナイフを使ったらもう石器には戻れません。南米アマゾンで新しい民族が発見されたと聞いて、行ってみたら、彼らはナイフを持っていました。アマゾンの先住民族の家に泊めてもらい、周りを見渡すと、屋根も柱も、燃えている薪も、ゴザもカゴも弓矢もすべて素材がわかる。食べものも道具も皆生物から作られていますが、唯一の例外は床に転がっているナイフです。人間が本当に必要とするものは交易によってどこまでも分け入る、それが鉄なんです。

地球の資源が有限だとは、もう40年以上も前からわかっているのに、皆いまだに無尽蔵の資源があるかのように消費していますが、本当に必要なものって、地下資源で考えたら、実は、石油でも、天然ガスでも、金銀でもなくて、鉄だと思いますよ。

(註6)たたら製鉄

たたら吹き。古代から行われた砂鉄と木炭を原料とする和鉄精錬法。足で踏んで空気を吹き送る大きなふいご「たたら」を用いる。



7. 多様な生物界は多様性によって保たれている

関野

人類の歴史を辿ると、出発点には弱さがあったと言いましたが、生物の歴史を見ても、絶滅の時期があり、それを乗り越えた後に爆発的な多様化が起きたりしていますね。

中村

ええ。自然界で生じる津波や噴火など地球環境の急激な変動が、そこで暮らす生物にとって致命的となれば絶滅も起きます。それでも全体として見れば、生きものはこの地球上で38億年間生き続けてきた。ある生物に突然訪れる危機的状況を、新たな生き残りの契機に変えてしまうような柔軟な強さ、ロバストネスという性質があったからこそ続いてきたのでしょう。関野さんがおっしゃった、弱さが強さになっているのが生きものだと実感します。

先ほど工場街での差別に触れられましたが、例えばチーターは短距離は得意だけど長距離は苦手というように、生きものごとにいろいろな違いがありますが、その生きものが持つ強さはトータルで見ればほぼ同じという気がします。人間同士でも、それぞれ得意、不得意はあってもトータルではほぼ同じじゃないかしら。同じだけれど、そこに多様性があることに意味があると思うのです。生きものの世界は、現代文明の画一化とはまったく違う姿で生きていますね。

アマゾンの先住民の人と都会の人とでどちらが優れているかと言えば、少ない持ち物と豊富な知識で生きていくことでは、私は完璧に負けます。でも、ゲノムDNAを基本に生命38億年の歴史を考える生命誌についての知識も重要。どちらの知識が大事というのではなく、トータルとして自然と向き合っているという意味では同じだと思うのです。

関野

名古屋で開かれた COP10(註7)のシンポジウムでも同じ話題になりました。多様な生物界は多様性によって保たれているという。その時に印象的だったのは、パナマのスミソニアン研究所の報告でした。今から50〜60年ほど前に、中南米では、まずピューマ、オウギワシ、それからジャガーが絶滅し、さらにアリドリという昆虫を食べる飛ばない鳥が絶滅したという知見があって、前者のグループとアリドリの絶滅とはそれまで関係がないとされてきました。ところが彼らが調べたところ両者がつながったというのです。ジャガーが絶滅して、天敵のいなくなった中型動物が増えると、彼らがエサとする動植物が減り生態系のバランスが変わってしまう。そのようにすべての生きものがつながっていているということが絶滅して初めてわかった…。

中村

「生き物はつながりの中に」という文を小学校の教科書に書いているんです。

関野

考えてみると、ダライ・ラマが同じようなこと言っていますね。科学の最先端の研究と宗教の最先端にいる人の言葉がつながっている。

中村

お釈迦様のように本質をパッと言える能力は私にはありませんから、DNAを調べてようやく生命の本質と言えるものを見つけているということだなと思っています。科学の発見が、伝統的な知識を再確認することよくありますね。

関野

すべてつながっているというのは、現代の文明にもあてはまる。文明は必ず滅びますが、今はエジプト文明やインカ文明のような地域的な文明がなく、グローバリゼーションで均一化された世界文明ですね。

中村

滅びる時は地球全体で滅びるということですね。

「ラエトリの足跡」を元に復原された360万年前の家族像の前で。

(註7)COP10【the tenth meeting of the Conference of the Parties】

第10回生物多様性条約締約国会議。2010年10月名古屋で開催され、遺伝資源の利用と利益配分(ABS)に関する国際的な取り決めである「名古屋議定書」と、自然と共生する世界の実現(2050年)に向けて、2020年までに20の個別目標の達成を目指す「愛知目標」等が採択された。



8. これから人類はどう生き残っていくのか

関野

これから人類はどう生き残っていくのかを考えた場合に、一番大切なのは均一化されてない人たちです。誰も行きたくない辺境の地を「住めば都」にした彼らの知恵が重要になる。

中村

多様性は本当に大事ですね。

関野

僕は織物を織っている気持ちで旅をしました。南米からアラスカ、シベリア、アフリカまで、線と線を結んだ5万3,000キロの移動が縦糸、寄り道が横糸です。この織物は、見える形では本や写真集やテレビ番組に残されていますが、実は、僕がさまざまなものを見たり、聞いたり、考えることで、少しずつ自分のものの見方、世界観になってくる、そういうものが一番大切じゃないかと思っています。考え方、宇宙観あるいは価値観と言ってもいいかもしれません。何かにぶち当たった時に、均質な考え方だけでなく、いろいろな視点から見ることが必要になります。そういう時に、均一化されてない人たちの考え方が必ず必要になってくると思うんです。

中村

まったくその通りですね。グレートジャーニーは寄り道に時間をかけて、辺境の地の人々の生きる姿を見せて下さる。織物とおっしゃいましたが、生きものとは、まさに時間を紡いでいる存在だと思います。機械なら短時間で同じものを量産できますが、生きものは弱かったりくだらなかったり、しかも時間がかかる。でもそれが強みなわけです。多様性を生み出しているのも時間です。

消えていく民族の中で考古学者になると言った女の子の話を思い出しました。自分の民族、歴史への意識が高いでしょ。文明の中で育つとそれが持てないのも問題だと思うのです。

子供たちと接していて思うのは、大人は子供は何も知らないから教えてあげようとするけれど、それは間違いで、子供たちは本質的な問いを持ち、自分で考える能力を持っています。文明社会ではそれを小さなうちから画一的な教育で押さえこんでしまうけれど、モンゴルやアマゾンの社会にはそれがないから、子供が哲学者のようなことを言いますでしょ。日本の子供も同じものを持っているけれど、小さい時から教え込まれすぎて、それが出てこない。均一化してない人々というのは、辺境の人だけでなく子供も含まれていると思うのです。だから生まれてすぐに均一化の中に入れてはいけないと思うのです。

関野

以前、娘が通っていた保育園で、園児たちに話をしてくれと頼まれて、まず動物当てクイズをしたら、当たるんですよ。テレビや絵本、図鑑で見て知っているんですね。段々ざわついてきたから、まずいなと思って、今度は世界中の子供たちの写真を見せた。自分と年の変わらない子供たちが働いているわけです。全員がぴたっと止まって、夢中で見始めました。聞かなかったけれど感じるものがあったんでしょうね。質問コーナーで鋭かったのは「なんで動物は口が大きいんですか」、大人はそんなこと考えませんよね。馬も熊も動物は皆口が大きいけれど、あれは鼻が大きいからそれに繋がっている口も大きくなる。嗅覚と関わっているわけで、子供の観察眼はすごいと思いましたね。

中村

そうですね。子供は皆観察眼をもっているはずで、それをどう引き出すかですね。

関野

科学博物館で、人類が成し遂げた業績の中で一番大きいものは何かという話をしました。僕は二足歩行と家族だと考えていますが、会場の小学一年生くらいの子が、火だと言うんです。さらに動物には天敵がいないと困るのはと聞くと、敵がいないと増えすぎて草を食べ尽くして滅びてしまうからって、小学生が言うんですよ。

中村

この頃の子はいろいろなことをよく勉強してますよね。

関野

でも実感としてない、体で覚えてないところがありますね。

中村

そこが問題ですね。私は今、喜多方の小学校農業科のお手伝いをしていますが、農家の子供が田んぼへ入ったことがないんです。お手伝いや田んぼで遊ぶことをせずに、その時間があったらテレビを見たり、勉強をしているんですね。社会がそういう価値観で動いているから。

関野

僕は子供の頃にお手伝いをさせられて、いやでいやでしょうがなかったけれど、あの時やってよかったと今思います。モンゴルやアマゾンやアンデスの子供たちは、子供たちだけのグループを作って役割分担を決めて大きい子が小さい子の面倒を見ている。それで親たちは安心して牧畜や農業に打ち込めるようになっています。子供たちも、小さい子の面倒を見ることで親の気持ちもわかったりするわけです。

中村

子供には子供の世界があるという社会ですね。

関野

そうですね。ただ逆に言うと、大人は遊んでくれないということです。だから、僕たちが行って遊んであげると大喜びなんです。離れません。

中村

生命誌では人間も生きものの一つと見て、自然の中でいかに生きるかを考えています。もちろん、科学技術を否定はしませんけれど、多様な生き方を見ていると、どこか考え直さなければいけないことは確かですね。生きものとして持つ能力を思い切り伸ばす文明を探る手掛かりを教えて頂きありがとうございました。

写真:大西成明

 

対談を終えて

中村桂子

「相変わらずとってもいい顔ね。」失礼を省みず言うならこれが久しぶりにお会いした感想です。それは、チリやモンゴルで関野さんが出会った子供たちと重なります。少しはにかむようにして、真直に何かを見ている。日本の街では出会えなくなりました。人類の旅に加えて、日本列島へ移動した縄文人のカヌー作りとそれによる航海を展覧会場で見ながらのお話に、生きることの本質を探る仲間を感じ、楽しい時でした。

関野吉晴

20年間の道のり
アフリカで生まれ、世界中に拡散していったホモ・サピエンス。その中で、最も遠い南米までの旅路「グレートジャーニー」を逆ルートで辿る旅に出発する直前に、僕は中村先生にお会いした。その時、中村先生は、生命の歴史を読み解く実験研究を基礎にして、総合的な知の体系を作り上げたいというご自身の夢を語り、「人類の歴史を、ご自身の足で是非確かめて欲しい」と僕を励まして下さった。あれから20年の歳月が流れた。今回の対談で、お互いの20年間の道のりを確認しながら語り合った。

関野吉晴(せきの・よしはる)

1949年東京生まれ。一橋大学在学中に同大探検部を創設しアマゾン川全域を下る。南米からアフリカへ人類拡散の行程を遡る〈グレートジャーニー〉を踏破(1993年-2002年)。2002年武蔵野美術大学教授(文化人類学)。〈新グレートジャーニー〉では日本列島にやって来た人々の3ルートを踏破(2004年-2011年)。

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