TALK
季刊『生命誌』50号座談会
[これからを考える生命誌]
学問と日常を一緒に
0.「生命誌から生まれた世界観」より
中村
生命誌のテーマは動詞で考えており、基本は、「“生きている”を見つめ“生きる”を考える」です。昨年は、テーマが「観る」だったので、文明社会を“生きる”人間としての「私」が、鏡のなかに、自然界で“生きている”ヒトとしての「私」を「観る」という表現を考え出しました。
「生命誌絵巻」では、生きものの世界をどう見るかということを基本にしており、その中でのヒトを考えています。今回は、日常の中にいる人間としての私にまで広げ、「生命誌から生まれた世界観」として、これからの生命誌を考える基本にしていこうと思っています。
現代の日常を描いた人工の世界(橙色)のなかにいる人間としての「私」は、社会・人生・歴史という三つの軸をもって暮らしています。しかし、「私」は、多様な生きものの中のヒトでもあると考えるのが生命誌の捉え方です。自然の鏡に写った裸の「私」は、背後に広がる自然界(緑色)に、数千万種の生きものが関わる社会(生態系)のなかで、蝶やカエルと同じく人生(発生)を生き、38億年の生命の歴史(進化)につながる存在です。
ここに描いた世界観を、現実にするための「知」をもちたい。これが、生命誌のこれからを考えることになります。分子生物学の勝木さんは、自然界のヒトとしての「私」、基礎情報学の西垣さんは、文明社会の人間としての「私」の側から全体を見渡し、新しい「知」を考えていらっしゃる。ご自身の専門と、日常を重ね合わせながら、生命誌のこれからに向けてお考えを聞かせていただきたいというのが今日のお願いです。
1.自然と文明に目配りしながら次を考える
中村
季刊『生命誌』もやっと50号です。今日は、その節目に、「学問としてのこれから」や「社会との関わりのなかでのこれから」を考えたいと、生命誌のよき理解者であるお二人に応援をお願いします。私のカンは、発生学と情報学の辺りから、面白いものが出てきそうな気がするのです。
すべてを遺伝子に還元する分析的生命科学に疑問を感じたのは、なんだかそれでは“生きている”や“生きる”は見えて来ないというカンでした。分析的科学のデータを生かしながら全体を見るにはどうしたらよいか。そこで切り口として見つけたのが、DNAという物質であり、同時に、種・個体・細胞として生命現象をまとめる実体としてのゲノムでした。
DNAをゲノムとして見ることで、個別研究を踏まえた新しい知を作る場として、生命誌研究館が始まったのです。
その間、生命科学は、ヒトゲノム解読プロジェクトを完了し、次々と多様な生物種でゲノム解析が進められました。ゲノムが注目されたと思ったのですが、実はこれは網羅的という方法へと展開しており、生命現象の全体を総合して考える学問になっているかというと・・・。
西垣
それは別の問題ですね。
中村
解析技術は開発され、膨大なデータが産出されるけれど、そうした情報を生かして全体を見る方に向けて次の一歩をどう踏み出すか。生命誌が目指しているところはまだ見えていません。知の構築はなかなか難しい。
勝木
情報というと、現代では、コンピュータ上の情報を思うけれど、本来、生物にとって最も重要な情報はゲノムです。
現代生物学は、ゲノム情報を読み解きながら、それぞれの生物が生きられる条件とはどのようなものか。さらに、ゲノムのもっている拘束条件からの逸脱が生体に及ぼす影響はどのようなものかという問いを考えているわけです。
一つの受精卵から分裂した細胞が、徐々に分化・増殖して個体を形づくる過程を辿って細胞の系譜を見ると、ある時期、ある拘束条件をまっとうした一定の細胞群は、その次、まるで自ら何になるかを知っているかのように振舞いますね。
中村
全体として見ればそうかも知れませんが、一つひとつの細胞は必ずしも決まっていませんね。
勝木
厳密には決まらない。その上、時に劇的に変化するように見える。そこが生物の面白さですが、分子生物学によって、大筋はほとんど決まっているんだという理解に到達してしまった。
例えば、多細胞体の成立に欠かせない「細胞が話し合う」しくみともいえる細胞間相互作用でも、解析の結果、非常に緻密なメカニズムが存在するとされていますね。
中村
分子生物学の基本といえば、DNAからRNA、そしてタンパク質へというセントラル・ドグマ※註1でしたが、実はその働きをする部分はゲノムのほんの一部。タンパク質にはならないRNAが細胞のなかに充満していて、いろいろな調節に働いているというような形でゲノム全体としての調節を見ていかなければならないことが、はっきりしてきましたね。だからこそ、細胞は周囲の状況に応じて、柔軟に変化できるのでしょうね。
勝木
ノンコーディングRNA※註2などの遺伝子でない情報も含めて、DNAのすべてであるゲノム情報に基づいて生きている限り、生物はその拘束から大きく逸脱することはない。だからヒトもこれまで生き残った。生物の最も深いところです。
ところが、現代の文明社会に溢れている情報には、ヒトの生存を拘束しているゲノムのような変更できない拘束性がまるで無い。
赤ん坊が生まれ出てから、大脳皮質に与えられる多くは所与のものではなく、後天的に獲得される情報です。僕は、保守的かも知れませんが、人間の脳が作り出す情報に満ちた文明社会は、ヒトという生物本来の拘束条件からかなり逸脱した状況にあると思う。
西垣
確かに現代人は本来の生物的な拘束条件を無視しているようなところがありますね。それで自然環境破壊がおきる。また一方、それとは別に、自分で妙な社会的な拘束条件を作り出している面もあると思います。文明が発達すればするほど後者が増大するために、現代社会は人間の自由度がかなり抑圧された状況にあると捉えているのが私の立場です。
中村
なるほど。文明は自由度を増してくれるような気がしていましたけれど。確かに会議や報告などの決まり事が多くて、皆さん忙しいですね。日常のなかでの自由度がなくなっている実感があります。
西垣
その拘束から外れると、社会性のない困った人として排除されてしまう。そのような社会的な拘束条件と、生物的な拘束条件がどう関わっているかが検討されなくてはなりませんね。
考えるきっかけとして、人類学者のロビン・ダンバー※註3が唱える「人間が作る共同体の構成員の上限値は約150名」という説は、生物的な拘束条件の一つとして面白いと思います。
狩猟採集民の集団の規模や、昔、農耕牧畜を始めた頃の部落の規模もそのくらいで、何百、何千ではないらしい。現代の軍隊でも、指揮官が全体を把握できる中隊の規模はやはり約150名だそうです。
中村
実際に日常接触できるのは、それ位だというのは今も変らないはずですね。
西垣
私が年賀状を出すのもほぼ150枚です(笑)。むろん政治家などで何千と出す方もあるでしょうが、ひとり一人の顔が思い浮かぶ上限値はその程度だと思いませんか。
ところが現代社会では、構成員が何千万以上の「国家共同体」さえある。会社組織も、「運命共同体」だとよくいわれますね。でも生物的には、50人なら仲良くできても、一万人の運命共同体では、「僕は関係ない」と思うのは当然かもしれない。我々は本来そういう動物だという話です。
中村
150名というところに生物的上限があるとして、社会的拘束は具体的にどうできてきたのでしょうか。
西垣
独立戦争時のアメリカの例はよくひかれます。馬に乗るほか陸上交通のない時代に、広大な土地にまばらに人々が居住しているアメリカでは、同じ共同体に属するという意識などもちようがなかった。それを可能にしたのは新聞です。皆が、毎朝、同じ新聞記事を読み、「我々はアメリカ合衆国のメンバーなのだ」と考えるようになっていく。そこに「想像の共同体」が生まれてくる。国家という架空の共同体を形成する「新聞メディア」という社会的装置が働いたのです。私たちの現代社会はメディアの上に築かれているともいえます。
中村
なるほど。文明社会のほうは、メディアが構造を決めていくとすると上限はないようなものですね。
勝木
幸か不幸か、人間がもつ巨大な情報処理装置は二つある。一つは、生物学の対象であるヒトを含むすべての生物がもつゲノム情報。もう一つは大脳の情報。これが文明につながる。生物学者は、生物の発生や行動、生態における拘束条件を確かめているに過ぎません。その知識に基づいて、あるがままの自然観を、生物学という学問を通して、文明社会の世界観にどう反映させて行くかと考え、実践するのが生命誌の使命ですね。
(註1) セントラル・ドグマ
【central dogma】
中心的教義。核酸上の塩基配列として決定されている遺伝情報は、DNAからmRNAへ、さらにタンパク質へと伝達されるが、その逆流はしないという考え方。1958年にDNA二重らせん構造の発見者の一人、フランシス・クリックが生物の一般原理として表現した言葉。
(註2) ノンコーディングRNA
【non-cording RNA】
タンパク質をコードしていないRNAの総称。これらの大部分の働きはまだ解明中。近年、ヒトの細胞でも、DNAから転写されたRNAの約98%がノンコーディングRNAだといわれており、複雑な体制をもつ生物ほどこのRNAの働きが重要だと考えられるようになった。
(註3) ロビン・ダンバー
【Robin Dunbar】
イギリスの人類学者・進化学者。リヴァプール大学教授。著『ことばの起源 - 猿の毛づくろい、人のゴシップ』(青土社)に詳しい。
2.「私」は「池の鯉」
西垣
人間はふしぎな存在です。例えば、企業のコンピュータ・エンジニアは、社会のなかで様々なシステムを実現するため一生懸命に働くのですが、同時に、それは生物的な自己が抑圧された状態でもある。朝、「体調が悪いから休みたい」と思ってもそうはいかない(笑)。社会人として生きる以上、誰もが大きなメカニズムの歯車の一つのように動いていますが、実は、自らそうする面もある。社会的拘束条件にしたがいながら、また反面、そこから逃れたいと希望し、逸脱する自由を求めるのが人間の面白さです。 そういうふしぎな存在を捉えるために、「情報」に即して見て行くのが、私の「基礎情報学」の立場です。人間にはコンピュータと同じように決まった役割を果たす一方、逸脱して新規性を創出する別の面もある。この矛盾した両面をいかに総合して捉えていくか。
中村
西垣さんの情報学は、いかに社会を便利にするかというメカニズムに徹するいわゆる情報工学とは一線を画するもので、生命の本質として情報を捉えておられる点など、生命誌と通ずるものがあります。
西垣
客観的に社会的メカニズムを追求するだけでなく、逸脱があった時、そこにどのような一回性的意味があるかを見抜かなくてはいけない。その両面を丸ごと捉えて初めて、一つの歴史と呼べるものになる。そこは、生命誌とも重なる非常に面白いところだと思っています。
勝木
僕は、逆に西垣さんよりも、生物を機械と捉えているかもしれません。
動物行動学者ローレンツ※註4の実験で、卵からかえった雛鳥が、すぐ近くで動くものを親と認識して一緒に行動する“刷り込み”と呼ばれる習性が知られています。自然界では、生まれた雛鳥が最初に見る動くものは、親鳥のはずですが、玩具の機関車や飛行機を置いておけば、それを親と見做してついて行く。これは動物の脳が一定のプログラムで反応するのにゆるやかな拘束条件(親ではなく、最初に見る動くもの)で制御していることを示すよい例だと思います。
動物には、機械のような面があり、膨大で複雑になった環境に適した行動を選ぶために、多くのサブルーチンを準備しているように見える。この多くのサブルーチン群を制御するために脳神経系を獲得した。
ここで考えたいのが、生物にとってと同時に、生物を考える学問にとって、重要な概念であるユクスキュル※註5のいう「環世界」です。そこでは、生物が捉えている自然界の姿は、主体であるところの生物固有の拘束条件に基づいて現れると考えます。だから蝶には蝶の、ヒトにはヒトの環世界がある。
人間は、ヒトの環世界しか知り得ない。何でも自由に考えているわけではないのです。ヒトとして、所与のゲノムや脳の働きに即して考えるほかない。その制約を踏まえた上で、文明社会はどのようにやって行くべきかが問われているのです。現代生物学の立場から、一番言いたい点は、そこなのかもしれません。
中村
生きものを機械として見るのは現代生物学の基本です。生きものを構成しているのは、すべて物質ですし。ただ、現代文明を支えている機械が、「利便性」を目的とするものであるのに対して、生きものは、「継続性」を求める存在であるという違いがありますでしょう。
生きものは、38億年間一度も途切れずに続いています。しかも面白いのは、最初の方法、つまりゲノムの入った細胞を基本単位とする方法はまったく変っていません。例えばコンピュータは真空管に始まり、半導体、ICと用いる基本単位が変っていますでしょう。脳も、最初の仕組みを使い続けながら増改築を繰り返して現在までつながっています。方法を変えずに、しかもこれだけ長い間続いてきたシステムはやはり興味深い。
西垣
基礎情報学の立場から、機械と生物の違いを言うと、それは、アロポイエティック・システムとオートポイエティック・システムの違いなのです。アロポイエティック・システムとは、時計や自動車など、利便性があるような機械のことです。アロポイエーシスとは、外部の存在により自己が作られること。時計にとって他者であり外部である人間が、人間の役に立つように設計して時計を作りますね。これがアロポイエティック・システムで、そこには、外部があり、入力と出力があるのです。
それに対して、「私」という生物は、誰かが拵えたわけじゃなく自律的に発生した。しかも生命発祥の太古より継続して自己創出し続けていくオートポイエティックな存在です。普通、機械といえばアロポイエティックな存在のことですから、二つは峻別すべきですね。
勝木
それは、大事な違いだと、私も思います。
西垣
オートポイエティック・システム※註6は、自己言及的で、外部のない不思議なシステムだといわれています。通常のオートポイエーシス理論においては、オートポイエティック・システム同士は常に並列であり、上位、下位の概念もありません。しかし私は、先ほど勝木さんも述べられたように、生命体というものはある意味で、「入れ子構造のシステム」と捉える必要があると考えています。
そこで『基礎情報学』※註7では、システム間の関係に、拘束条件を入れて整合性をもたせつつ、階層的なオートポイエティック・システムを可能にするモデルを検討しているのです。
中村
そのように、生きものがもつ矛盾した関係性を整理して示すことで、メカニズムの部分は認めながらも、全体としては自律しているところが大事なのだという価値を明確に出せるとよいですね。
西垣
基礎情報学では、オートポイエティック・システムは常に、観察者と一体になった複合システムとして成立しています。つまり、観察者とシステムとが、構造的に連結して成立しているのです。そして観察者は、社会を観察する時もあれば、生物個体や細胞を見る時もある。このように、動的に視点を切り替えることが、階層性を可能にしているのです。
例えば、今この瞬間の「私」という人間の心的システムに即して見ると、自律的というか、いくらでも勝手なことを考えられる。見当はずれな冗談も言える。しかし、社会的システムのなかの「私」を眺めると、こうして大学で授業した後、遅刻もせず電車で座談会に来て(笑)、律儀にしゃべっている。まるで機械のように予定通り動いているようにも見える。それは視点の違いです。
中村
なるほど。ゲノムという切り口の魅力の一つは、階層を貫くことなのです。細胞のゲノム、個体のゲノム、種のゲノムという言い方ができます。これがDNA、遺伝子という還元的な捉え方とまったく違うところ。これを今のお話の動的に視点を切り替えるというところにつなげると情報学とのつながりが見えるかも知れない。視点の違いというところを考えてみます。
西垣
池のなかで泳いでいる鯉は、おそらく池を拘束だとは思っていないでしょう。鯉にとって、池は所与の環世界です。でも遠くから見れば、囲われた「池の鯉」ですね。
勝木
西垣さんのお話には、分子生物学者がずっとやってきたことも、よく反映されていると思います。
生物主体にとっての環世界を生み出す拘束条件のなかに、神経系も免疫系もあり、それぞれ自律して自由に働いている面もある。けれども、生物学として観察する時には、それをメカニズムとして捉えなければ、生物の自由度も見えてこないのです。
でも一般には、そのような見方が反映されていないと感じることが多く、やはり利便性を求めてシステムを設計する立場と、生物というシステムを理解しようと考える立場の違いは、非常に大きいのだろうと思います。
西垣
ゲノムを基本にして、次から次へと、個が個を作り出すオートポイエティック・システムが「種」ですね。そこに生命体としての自律性も拘束性も存在する。
次に、生命体を基本にして、文明社会の場面で、どのようにして自律的なシステムを設計していくか。それも基礎情報学で考えている重要テーマのひとつなのです。
中村
そこがまさに生命誌と重なるのですよ。
(註4) ローレンツ
【Konrad Lorenz】(1903-1989)
オーストリア生れ。ハイイロガンなどの観察研究により動物行動学という分野を確立。ノーベル賞。
(註5) ユクスキュル
【Jakob von Uexkl】(1864-1944)
ドイツの動物学者。生物の目的追求性は機械論的原理では説明できないとする「環世界(Umwelt)」を提唱。主著に『生命の劇場』『生物から見た世界』。
(註6) オートポイエーシス
【autopoiesis】
チリの生物学者ウンベルト・マトゥラーナとフランシスコ・ヴァレラによって1973年に提唱された生命システムの自律性を強調する概念。詳しくは、『基礎情報学』を参照。
(註7) 『基礎情報学』
西垣 通著。NTT出版。
3.生物的な欲望と社会的な欲望
勝木
生物というシステムでは、全体を統括した一つのプログラムが動いているわけではなく、非常にたくさんの自律性のあるまとまり(サブルーチン)が、常に動的に連携して、大きな働きを生み出している。これは、生物の本質的な部分ですが、その秘訣は、絶対という価値はもたずに、何でも相対的に判断するところにあると思う。
オスの蝶は、羽の形で種を見分け、同種のなかではより大きなメスと交尾しようとします。そこで風車の羽の一方にメスの蝶を動かないように固定して、もう一方に、紙で模したメス蝶の羽の形をつけて実験をします。風車を回転させるとオス蝶は、必ず大きいほうを選ぶ。紙の羽を徐々に大きくしながら実験を繰り返すと、自然界では在り得ない大きさでも選んでしまう。これはオス蝶が、メスの羽の大きさの絶対値を知っているのではなく、大きさを相対的に比べるプログラムで行動しているからです。実は、ほとんどの生物的な過程は、相対的なプログラムの集まりで成り立っていると考えられます。
中村
自分たちの欲望に従って、生態系を破壊している人間も、小さな相対的な選択を積み重ねた結果、大変なことになってしまったのではないかということでしょうか。
勝木
相対的に判断するから進歩もある。欲望や心の働きを脳のメカニズムと見たとき、その根本にある現象「記憶」を解く鍵として、意外な物質的な基盤があるかもしれません。辛み物質の受容体を欠失させるマウスの実験では、記憶と学習に大きな変化が表れます。生物が覚える必要がある出来事は、危険や恐怖を伴う場面が多く、その時、働く回路は、唐辛子を「辛い」と感じるメカニズムを使っているかもしれないわけです。
中村
一つひとつの過程が、それ位に単純でなければ、たいへん複雑な事柄を記憶できないだろうと。単純だから次々選択を積み重ねて膨大になり得るということですね。
勝木
私が、拘束条件と呼んでいるのは、本来的に生物に組み込まれているプログラムのことです。文明社会はこれを見ずに、頭で考えた「より良い」ことのためだけに科学から成果を取り出すのでおかしな社会になってしまう。
西垣
私は基本的に、欲望は、アナログだと思っているのです。アナログである限り、食欲も、性欲も、睡眠欲も、そこそこ満たされれば「足りる」でしょう。
ところが人間が、文字を用いて活動を始めた時に、その均衡が崩れた。外部記号系の発明により、例えば、民族的憎悪を数世紀にわたってもち続けたり、かぎりなく蓄財に狂奔したりする。文字にはディジタル化、即ち数量化という面があります。数量化が怖ろしいのは、アナログ・パターンと違って、「足りる」ことがないからです。数量化された欲望は、アナログ・パターンと違って決して減衰しない上に、どこまでも肥大する。極端に効率化を指向する。欲望がディジタルになると、本当に、際限がなくなるのです。
現代日本社会において最高理念になりつつある「お金儲け」は、その最たるものです。10億円も儲けなくていい、10万円でも儲かったら嬉しいというのが、普通の人間の感覚です。ところが、誰であれ、金融商品を扱う投資ファンドなんかを扱う状況に身を置くと、欲望の虜になってします。地球環境を目茶苦茶にしてもなお止まらないということになる。だからこそ、外部記号による情報系としての「メディア」というものを、真剣に考えなくてはなりません。
中村
ディジタルになったことは、一つの鍵ですね。私は今、言語に関心があり、言語をもったことで人間になったと思っていますが、川田順造※註8さんに無文字社会のことを伺って、文字の発明というところに大きな鍵があるのかもしれないと考えるようになりました。
西垣
言語といっても、ヒトの音声言語によるコミュニケーションでは、コミュニティ規模は150名が限界。数万年前までは、神話や伝承はあっても文字はないので、自然のなかで狩猟採集の生活が営まれていたのです。ところが農耕牧畜が始まり、文字を書き出すと痕跡が残る。そこから複雑な階級社会が始まる。
中村
ちょっと整理させて下さい。生命誌は、ゲノムから出発し、次に脳の機能を特別のものと見て、さらに言語を、人間を人間としたものと捉え・・・というように少しずつ異質なものが入ってきたように考えてきましたが、むしろ言語までは一連のものと捉え、文字を作ったところに大きな一歩を考えることになるのかもしれないと思い始めたのですが。
西垣
そうですね。まず、文字という「メディア」が大きな変化をひきおこした。そしてやがて印刷技術があらわれて近代国家が出現し、さらに現代はインターネットによるグローバライゼーション時代が訪れています。
勝木
文字には、抽象的なことが入りますね
西垣
文字を言語の基盤にしたことで、社会全体の知識は増やせるようになり、自然科学もそこから生まれた。ただ率直にいうと、現在の人文社会科学における人間の捉え方は、残念ながら、二百年くらい前の自然科学の知に基づいている気がします。そろそろ、啓蒙時代の人間観から脱皮しなくてはいけない。人間観や社会観に現代生物学の知を注入して行く必要性を強く感じています。
中村
自らが、ゲノムという情報に基づく生きものであると実感し、自律的存在としての人間を考え、しかもそれが言語をもち文字をもつ過程をそこに重ねていく。
西垣
ゲノムも文字も、同じく情報であると捉える基礎情報学はその切り口になると信じています。文字、印刷、ITなどのメディアとしての情報と生物的な情報とが本来、連続したものなのだという考えを社会に根づかせて行くこと。これは、あえていえば生命誌研究館の使命の一つでもあるのではないでしょうか。
日常の身の回りをよく見れば、食物も病原菌も、生きものだと気づくはずですね。自分が生命的なネットワークのなかで生きているというのは、現代人に絶対に必要な考え方です。昆虫も花も人間も、生きているすべての多様な生物が、歴史を辿るとみんな祖先が同じだったということが、科学的に立証された。これは百年前にはなかった非常に大きな出来事で、この驚きをみんなが実感して共有できるところまでもっていかなくてはいけない。そのためにはある意味で、エンターテイメントも重要かもしれません。
中村
学問から社会へという問題を本当に考えるなら、まず学問からきちんとした世界観を出すべきですね。最近もてはやされている科学コミュニケーションでなく、いっそのこと、徹底したエンターテイメントとして科学が社会のなかに存在し得るか挑戦すべきかもしれません。
ウォルト・ディズニー※註9の「白雪姫」が、本当の『白雪姫』かは、意見が分かれるところでしょうが、彼なりのコンセプトを徹して世界中に広がりをもったことは確か。科学からの世界観をそんな風に表現できないだろうかと思う。
勝木
世界観ということでしたが、まず自然観を大切にしたいですね。
西垣
現代では、ITというメディアをうまく使って行くことも大事だと思います。
中村
東洋には、自分たちも、ネットワークのなかの存在だという感覚が自然なものとしてあったと思いますので、IT社会のネットワークのなかにいることが、伝統的な関わり合いの意識を、改めて実感させるようにはできないものでしょうか。
西垣
かつての東洋には、生命ネットワーク的な捉え方がありましたね。一方、かつての西洋では、一番上に神様、次に人間、その下にその他の生物というキリスト教的な階層秩序による捉え方が根強くて、人間が特権化される。そして近代以降の社会も、自然科学も、人間を特権化した西洋の思想が作ってきたという歴史がある。さて、そこをどうして反転させるか。「生命ネットワークのなかでの私」という世界観にもっていくのはなかなか難しいですよ。
中村
確かに。ただ、今、科学も転換点にありますね。欧米の研究者も生命誌を評価してくれるのでなんとかしたいのです。
(註8) 川田順造
【かわだじゅんぞう】
1934年東京生れ。東京大学教養学科卒業。パリ第5大学民族学博士。62年に、西アフリカ内陸部のモシ王国を訪れ、以降40年間でアフリカ滞在は延べ8年以上に及ぶ。
季刊生命誌43号 Talk『生きものとヒトと人間』
(註9) ウォルト・ディズニー
【Walt Disney】(1901-1966)
シカゴ生れの漫画家・アニメ製作者・実業家。ミッキー・マウスの生みの親。アメリカ合衆国のエンターテイメント会社"The Walt Disney Company"を創業 (1923年)。
4.自己言及的に主体をもって考える学問
中村
生命誌研究館は、今、50人足らず。「素晴らしい活動なのに、なぜもっと大きくしないのか。」と嬉しいことを仰って下さる方もありますが、個々が自律しながら新しいことを生み出す活動を維持する集団としては、今が最適規模と実感しています。150人まで行かないのですが。 一方で、地球上の人類すべてがつながり、皆が一緒に、地球環境を考えねばならない時代であることは確かなので、ウェブネットで最適規模集団の外側を考えられないかと期待して、季刊『生命誌』もカードとウェブの組み合わせという工夫もしているのですが。
勝木
僕には、世のウェブネットが、本来の意味でのネットワークであるとは、到底思えません。言い方が悪いかも知れませんが、どうも皆、独り言のネットワークのように思えてならない。
中村
ブログなんてそうですね。基本に戻るなら150人の世界を大事にすべきであることは確かですね。
勝木
そこに戻って考えることが大事だと思います。共有するには、主体がなければなりませんからね。
中村
その通り。しかも、西垣さんが仰ったディジタル世界のあくなき欲望、メディアの問題を考える必要があります。それらをきちんとした上でウェブという手段をいかに活用するか。実際に来館される人数とウェブ来訪者は、一桁も二桁も違いますから。
西垣
私は、研究者も含めて、階層的オートポイエティック・システムの考え方による新しいワークスタイルの構築が可能ではないかと考えています。例えば、数十名の規模で、自己言及的に、自律的にコミュニケートしていく集団をつくり、それらを交流させるとか。模擬的ですが、一種のオートポイエティック・システムみたいなものです。企業組織などでも、そういうシステムがうまく出来れば、個々の社員は自律性をもちながら、企業全体としては一つの機能を果たすものになりうる。
中村
専門家は、ある分野のなかにあると同時に、外から自分を見る視点をもたなければ、学問はできないものです。その両方ができる人を育てることも生命誌で考えている大事なことの一つです。
西垣さんの仰る階層的なオートポイエティック・システムは、そこから見てもとても興味深い。実体としてのシステムが基本であることを踏まえた上で、ネットワークでの実現も諦めずにおきたいと思います。普通は、専門分野に入って仕事をしながら、同時に外からも自分を見るなんてなかなか難しい。そこを、ITでうまく補える可能性もあると思う。
勝木
研究者が、視点を変えて自らを省みることがいかに重要かは、痛切に実感しています。人文科学の研究もおそらく同じでしょうね。
西垣
情報に即して見ることで、「生命から社会へ」と連続してものごとを捉えなくてはいけない。そう私はいつも強調しているのですが、なかなか……。
中村
西垣さんのような方がいて下さるので、生きものの側としてもありがたい。そこはつなげたいですね。本来、生物界は、オートポイエティックなものなのですから。
西垣
生命体には、現在この瞬間まで、情報システムとして生き続けて来たという実績がある。生きられなかったものはもう此処にはいないのですから。
本来は自律的で自己創出的なのに、ある視点から見ればきちんと役割を果たしている階層的オートポイエティック・システムとして文明社会を複眼的に眺めないと、人間は捉えられない。これが私の情報観です。
ところが最近世間では、ウェブなどのITにより、世界はフラット化に向っているといわれています。例えば、誰でも大統領にメールを送れるとか。つまり、情報をネットワークにのせれば、それでパーッとすべてが共有できると思われている。
でもそれはあまりにも安易な発想で、大統領はメールを読まないでしょうし、フラットにして情報共有すれば万事OKというのは幻想です。大切なのは主体的に思考する存在です。しかし、それをいうと今の時勢に合わないと反論される。
勝木
時勢に合わないことないですよ。
中村
今、いちばん求められているのは考える人です。
西垣
人類や、地球の運命を本当に考えている人は、今の世のなかには残念ながらあまりいません。巨視的思考をするエリートを作ることに対する大衆社会の反発は凄いですからね。
中村
エリートとかフラットという言葉を誤解されるといけないのですが。最近、科学コミュニケーションという言葉が流行しています。それも自発的に話したいからというより説明責任として求められるのです。これ英語の“accountability”で、まさに数値的評価であるという気がします。アインシュタインのように、相対性理論をわからなくたって、なんだか素晴らしい人らしいと人気が出るような社会のなかでの科学のありようも悪くないと思うのですが。今の科学のやり方を見ていると、コミュニケーションすればよいでしょうとなり、本当に、今の学問でよいかと考える“問い”を失わせてしまう。
西垣
学問自体よりコミュニケーションのほうが大事になってしまうということですか。
中村
とても危険なことで、学問から創造性が失せてしまう。
勝木
生物学の場合、研究している主体が完全に専門化してしまうとアロポイエティックなメカニズムの面ばかり見て、生物の本質から外れてしまう。その時、研究者自身がオートポイエティックなものであり、自分の一部を遠くから見ている意識がある限りは大丈夫だけれど。
中村
実は、私が生命誌を始めた時がそれでした。DNA研究は面白いけれどアロポイエティックばかり。日常のオートポイエティックな自分との乖離がはなはだしくて耐えられなくなったのです。
勝木
分子生物学者の多くは、アロポイエティックなメカニズムとしての問題を扱う場合が多く、問題を解決するには優れた切り口だと思います。しかし、分子生物学者にとって、生物学の問題をどう見つけるかがなかなか難しい。
中村
本当に難しい。生命誌も50号まで来て強く思います。でもそこを考える人が出なければいけないのです。
勝木
考える人。すなわちエリートのことです。本物の専門家で、戦場で戦う人ですよね。現場の一番恐いところに自ら進んで身を晒す人。それは学校で教えられることじゃない。
中村
岡田先生の言葉ではある種のカン。それと人間全体としての品格かもしれない。
勝木
それは絶対に必要なことだと思って、少なくともエリートを認める社会を作ろうと、『科学技術と社会』※註10という本の、現代の課題ということでちょうど書いたところです。
中村
こちらが逐一何かいわなくても、どんな場面でも、「おっ、考えているな」と思う人間がいる状況であって欲しい。ところが現代社会はむしろ反対に向っている気がする。
勝木
対話がありません。考えるとは対話することですね。それにセンス・オブ・ユーモアが欲しい。今、日本には、対話のない集団が増えているのではありませんか。何か新しいものが生まれそうだと思える創造的な雰囲気があり、きちんと対話ができる集団と言えば、やはり50人くらいが理想的なのかも知れませんね。
中村
「対話」の重要性はいくら強調しても強調しすぎることはないと思っています。
(註10) 『科学技術と社会』
科学技術振興機構 研究開発戦略センター編。丸善プラネット。
5.科学コミュニケーションではなく日常をもつ
中村
実は、小学校と中学校の国語の教科書に文章を書いているんです。最初、中学三年生。「35億年の命」という文章の冒頭で、「人間もゴキブリも同じです」と書いたら、「僕は、ゴキブリと違います」と手紙をくれる男の子がいました(笑)。
勝木
それはなかなかいいセンスですね。
中村
次、小学四年生に「体を守るしくみ」という免疫の話を書いた。大人は難しいというテーマで、学習指導要領でも、高等学校に入るまで理科で教えてはいけない話なのですが、国語は別に何を書いてもいい。それで、あなたの体のなかで、小さな細胞が毎日あなたを守っているのですと、免疫の話を書いたら、ちゃんとわかっているとしか思えない手紙が来る。小学生には、素直にスーッと入るのです。
今は、小学六年に、「生きものはつながりの中に」という題で、ロボットの犬と、生きている犬とで、同じところ、違うところを比べて、生きものには時間的、空間的つながりがあることを。中学生には「生きものとして生きる」と、すべて生命誌の話を書いています。すると全国の子どもたちからたくさん手紙が来る。実は大都会でなく地方が多いのですが。しかも、わかった上で、家族のこと友だちのことを書いてくる。子どもはわからないというのは嘘です。とくに生物学は子どもにわかりやすいのでしょうね。
勝木
とても実感がある話ですね。
中村
私は、そのなかから考える子が出てくれることを期待しているのです。手紙を読むと、うん、わかっているじゃないって思う。
勝木
西垣さんは、今、大学で若い人たちをご覧になってどう思われますか。考えるということについて。
西垣
今の学生をみて可哀想だなと思うところがあります。彼らは企業化しつつある大学に投げ込まれて、厳しく競争させられているのです。だから大学院生になると、効率をあげるため専門外のことは一切勉強しない。学部生はまだ時間があるので、広い分野の勉強をするようにはっぱをかけます。ただ個人差もあって、なかにはよく考えているなと思う人もいますよ。
それにしても、小学校の教科書のお話でも思いますが、ものごとを深く捉えるためには、自分の思考が知識として断片化せず、日常生活と連続してないといけないと思う。
中村
そう。生命誌はまさにそれを意図しています。考えることを日常の生活とつなげるのですね。
西垣
日常生活とつながっていない人には、本質的に新しいことなど考えつかない。
勝木
考えるとは、まさにそのことですね。
中村
世のなかには、優秀な人もいるけれど、日常の生活とつながっていないことも多い。私のなかでその二つをつなげたいと思ったことが生命誌を始めたきっかけの一つなので、これは若い人たちにも伝えていきたいと思います。
西垣
例えば、人工知能の研究を例にとりましょう。この研究のベースにあるのは本来、一種の哲学です。世界は普遍的な言語で記述される知識命題で出来上がっており、我々の知も普遍的な概念がメカニカルに組み合わされて出来ているのだという哲学。人工知能研究はこういう哲学を考えて、考え抜いて初めて可能になるものです。ところが多くの日本の研究者たちは必ずしもそうは見えない。日常生活は全然別のところで浪花節的にやっていて、研究に関しては純技術的に効率化することばかり考えている。それでは改良研究は出来ても、本質的な成果は得られないでしょう。
勝木
浪花節的機械を作ろうとしてもできない?
西垣
もしそれが出来る人がいれば偉いですよ(笑)。日常と研究を真剣につなげて、浪花節的機械を作れたら素晴らしい。でも普通、それはやりませんね。
中村
私は、コンピュータがコミュニケーションに使えるという発想を、小林宏治※註11さんから初めて聞かされた時は、とても感心しましたが、今になるとコンピュータをコミュニケーションに使うのはよかったのかなと疑問に思います。コンピュータは計算機。人間の思考とは違う論理で動いていますね。コミュニケーションの道具は、より人間の思考に近いものを新しく発想すべきではないでしょうか。現在のディジタルの計算機をコミュニケーションに使っているのは、実は、あまりよくないのではありませんか。
西垣
ウーン、これは、すごく深い話ですね。ディジタル化、つまり数値化は両刃の剣なのです。論理的に正確になるという長所もある。現在のコンピュータは、チューリングという天才数学者が徹底的に考えて、アルゴリズムによりものごとを形式化して捉えて、論理計算としての人間の思考の限界を示した機械なのです。ところが今の中村先生のお話は、人間の思考のなかの論理でない部分をどうするかという問題ですね。例えば、直感的な類推などの処理を機械化して外在化させるにはどうすればいいのか。また果して、そうすべきかどうか・・・。
中村
機械には、機械の論理でやってもらったほうがいいというのもわからないことはない。ただ今、その論理が人間の側へ入ってきているので・・・。
西垣
機械とは、あくまでも論理的な処理を行なうものだという立場もあります。そこはいろいろな考え方があると思いますね。
勝木
そこはあんまり考えすぎると自殺しちゃうよ(笑)。
中村
そこまで考えたチューリング※註12やノイマン※註13は、まさに天才ですね。歴史を見ると、天才は、ある時期に集中して出現することが多い。そして今の時代は、なぜか天才が出ませんね。
西垣
出ないというより、出さないのです。ああいう天才は社会が生み出すわけですからね。
中村
えっ、あれは社会が生み出すものなの。
西垣
そうですよ。優れた資質の人なら、どこでもある頻度で出現しています。例えば数学の能力についての生物学的な脳の分布は、時代でそれほど変らないはずでしょう。あとは社会状況の違いです。歴史上の非常に限られたある時期に、優れた資質をもった人たちを抽出して、特権的に能力を伸ばしていく状況が制度的にも確保された時代があったのです。選ばれた人たちは、現代日本のような大衆的競争もなく、生活も比較的保障され、自分の能力を思う存分発揮でき、成果を社会に還元できた。よくいわれるのが、オーストリア=ハンガリー二重帝国の末期です。ノーベル賞級の学者や大芸術家がたくさん出た。
勝木
要するに王様がパトロンだったわけね。
中村
そのように、考える人が、ちゃんと考えられる状況が保てる社会にできないものでしょうか。今そういう人が欲しい時なのに。
西垣
日本だけでなく、今の先進国は全世界的に大衆社会ですから、皆、一緒でないといけません。スポーツ以外は、天才なんて許されないのです。
中村
昔は、日本でも、それこそ戦争やってることも気がつかないで、学問に没頭していた人だっていましたね。私は、そういう存在が許される社会であってもいいと思うんですよ。百年経って、あれは素晴らしい仕事だったといわれるようでなければ、本当の学問とはいえないでしょ。
西垣
おっしゃる通りですが、今の世のなか、それをいってはいけないんです。学者も例外なく毎年評価される時代ですから(笑)。
勝木
少なくとも本人はそう思って没頭することが大事です。
中村
生命誌研究館は、今、流行の科学コミュニケーションはやりません。SICPというセクターは、研究成果をきちんと表現する方法を考えているのでこれは、生活と学問を一緒にするという作業です。
(註11) 小林宏治
【こばやしこうじ】(1907-1996)
山梨県生れ。日本電気(NEC)元社長・会長。1977年、コンピュータと通信の融合をうたったスローガン「C&C (Computer & Communication) 」を提唱し、新たな企業理念となる。
(註12) チューリング
【Alan Mathison Turing】(1912-1954)
イギリスの数学者。1937年チューリング・マシンの概念を導入。数学基礎論、非線形現象の理論にも業績を残す。
(註13) ノイマン
【John von Neumann】(1903-1957)
ハンガリー生れ。アメリカの数学者。純粋数学のほか理論物理学・数理経済学、特に計算機科学において第1級の仕事をし、数学者の活動圏を大幅に拡大。
6.見えてきた生命体の社会
西垣
自然科学では、理論モデルを考えたら、必ず実際の現象とつき合わせて検証しますね。結果が食い違っていたら理論の修正を迫られる。この非常に基本的なことが、文系の学問では必ずしも徹底されていないような気がします。
勝木
生物学でも、非常に複雑な現象と想定して考えていかないと、途中で単純化し過ぎて、物事を誤って認識してしまうことが本当に多いですよ。
中村
本来、モデル化は自然科学の基本ですが、現代の生命科学で、考えなくてはならないことは、複雑な実態を見て、それを複雑なものとして理解する知をつくることではないでしょうか。
発生生物学では、個別の遺伝子がどう働いて頭や体の形ができてくるかと細かく見るところに基本がありますが、最終的には、細胞、臓器、そして個体の成り立ち全体を観る学問ですね。コンピュータを用いて、知識データベースまでは構築できても、蓄積したデータが本当の意味で生かされた総合の学問にはとどいていませんね。
例えば、要素が全部で一万個あるなかから、百個を抽出してモデル化することは十分やってきた。でも実際、「私は、一万個で動いているのですがどうしてくれます?」という声に応えなければ意味がない。それは、日常感覚というものです。そしてモデルは、日常からとても遠い。具体的にそこをつ
西垣
極めてうまい切り口で切れば、複雑な現象の骨組みが途端にサーッと見えてくるということもあるのでしょうけれど…。
中村
生命誌を始めた時は、ゲノムという切り口でスーッと見えた。そしてゲノムで見るべき世界は一通り見えた。さて、次もう一回、パーッと開く切り口は何かと、毎日悩んでいるのですが難しい。今日、お二人が仰ったことをやるには、それが必要なのです。
西垣
それは、なかなか難しい話で…。
中村
情報学、発生学、その辺りに何かありそうな気がして仕方がない。
西垣
これまで、進化という問題を考える時には、あくまで「生物個体」に即して、生物種を捉えていくのが普通ですね。個体の遺伝子の変化が子孫にひきつがれていくという意味で。
ただもう一つ上の、「生物種」というレベルに即して進化を捉えることもできるのではないでしょうか。仮にある種を自律主体と見て、全体を捉えると、そこには生態系というシステムがある。そのなかでは、種同士が関係し合っている。捕食関係、共生関係、いろんな関係があって、そのなかからまた新しい種も出てくる。
中村
38億年間、そういうものが関わり合って、オートポイエティックにダイナミズムをもちながら生態系という全体を保っているわけですね。
でも一方で、人間の社会のなかでいわれる環境保護や、食の安全などの視点があり、もう一方、現代生物学として生態系を捉える視点もあるけれど、そのどちらもが、生態系をオートポイエティックなダイナミズムを基本にしながら外部との兼ね合いで動いているシステムだという風に捉えてはいませんね。
勝木
そこをまとめるなら、現在いうところのメタゲノミクス※註14という視点になりますね。
中村
ゲノムから共生を考えるということですね。
西垣
メタゲノミクスとはどんな概念ですか。
中村
実は、人間が培養できる生物はほんの一部にすぎず、培養できないと種が同定できないような微生物が、海のなかや、土のなかには、たくさん存在しているといわれているのです。
勝木
そこで池から水を採取してそのまま解析に掛けると、そこには、まだ同定されていない生物種のDNAがある。DNAは、PCR法※註15で増幅できるので、極端な話、分子が一つあれば、そこに、そのDNAをもった生きものが確かにいたとわかる。
中村
そのように調べると、池の水や、土のなかには、培養されず同定されなかった膨大な種数の生物が存在して、それらすべてで生態系をつくっていたのだということが、改めて見えてきた。
勝木
ここから想像力をすごく羽ばたかせることができます。それこそ、ゲノムの次にあることかなとも思いますね。
西垣
まさに生物ネットワークの世界ですね。
中村
それは、微生物にとっての現実の社会です。
勝木
微生物の社会といえば、近頃、さらに面白くなってきた話があって、バクテリアは、バイオフィルム※註16という足場を作りながら増殖していくのですが、自分たちで作ったそのバイオフィルムを通して、今、何匹いるぞというような情報をお互いに伝達し合っていることがわかってきたのです。情報交換しながら個体数や栄養の分配を制御して成り立っている社会があったのです。これは多細胞体まであと一歩という感じですよ。多細胞生物だって、見方によっては単細胞が情報を交換しながら体制を作っているわけですから。
中村
面白い。生きもの同士が関わり合うネットワーク社会が新しく見えてきたということですね。
西垣
やはり生物学の基本は、関係性ですね。今まで単体でしか見ていなかった生物を、大きな関係性のなかで調べていくことの重要性。単体では自律的に見えるけれど、それを総合して見ると、個々が関係し合って成立するシステムのなかで、情報が伝わっているからこそ、それぞれが生きていられる。そういう複合性が見えてきた。
中村
その通りです。
西垣
やはり微生物から生態系まで、生命体の世界は、すべて階層的オートポイエティック・システムと捉えることができる。視点を切り替えることで、異なるレベルの関係性が見えてくる。
今のバクテリアのお話は、単なるレトリックでなく、まさに自律的な生命体が相互に情報を交換しながら生きているというバクテリアの「社会」そのものですね。やはり、生物の世界は面白い。生きているってどういうことか、という本質が見えてきます。ここから意識ある「私」の問題も考えて行きたいですね。
勝木
ゲノム同士が相互作用するもう一つ大きな社会がないと生きられないということが見えてきた。次の面白い話ですね。
もう一つ生物学として面白い話は、ゲノムがわかった結果、その裏側に見えてきたエピジェネティックス※註17です。
中村
決定論じゃないものが見えてきた。ゲノムのなかにある情報がRNAとして働いているところも考えなければいけませんし。
勝木
ただこれも、生命誌は、始めから知っていたという印象ですね。つまり生命誌は、このままでいいのではないですか。
中村
確かに、ゲノムを切り口に、今、仰って下さったことを全部入れて考えれば、それでよさそうな気もしますね。このまま行けばいいのかな。でも、今日のことだけでも、やっぱり考えなければならないことたくさんありますし、ちょっと考えます。そしてまた相談に乗って下さい。
(註14) メタゲノミクス
【meta genomics】
地下生命圏の微生物生態系などのあまり実態が知られていない環境サンプルから、DNAを直接抽出して遺伝子情報のライブラリを作成し、そこから生態系を構成する生物種や代謝活動を探る手法。
(註15) PCR
【polymerase chain reaction】
ポリメラーゼ連鎖反応。DNA合成酵素(ポリメラーゼ)が、プライマーを目印にDNAを合成する性質を利用し、二つのプライマーで挟まれたDNA部分を試験管内で大量に増幅させる方法。
(註16) バイオフィルム
【biofilm】
自然界で一般的に見られる微生物の状態で、川底の石や水道管などある固体表面に付着した微生物集団とそれを包むヌメリを合わせてバイオフィルムと呼ぶ。
写真:大西成明
対談を終えて
勝木元也
対談中にも何度か申し上げたけれど、生物はゲノムの拘束条件に基づいて生きる限り、ある意味、自由なのです。そして生物学者は、生物が無意識にやっていることを、厖大な労力を掛けて客観的に追認しているに過ぎません。そうして自らの拘束条件を知ることは、ヒトも生物である以上、本来的に機械のように動いてしまう本性を、そうならないように自らを仕向けるための知恵とすべきもののはずでしょう。それはおそらく、人間の尊厳にあたる一番大切な部分です。しかし、現代はそこをないがしろにする。生物学は、それを意識して研究を進め、社会の価値観にコミットすることになります。それをお説教でなく、エンターテイメントで楽しく発信していこうと発想する生命誌研究館の活躍が、今後ますます楽しみです。
勝木元也(かつき・もとや)
1943年福岡県生れ。東京大学大学院理学系研究科修士課程修了。九州大学大学院理学研究科博士課程単位取得退学。後に、東京大学医科学研究所ヒト疾患モデル研究センター教授などを経て、2001年より現職。専門は分子生物学・発生工学。カイコ・マウスの研究システム等、日本の発生工学の確立に貢献。
西垣 通
「僕は実験が下手だし・・・」とか「私はどうせ文科系だから・・・」といった理由だけで、生命科学なんて自分と関係ない話だと勝手に決めこむ人たちも多い。私自身、中学高校では、理系の勉強は好きでも生物学は苦手でした。ところが現在の私にとって、生命に関する知は、情報学の礎として最重要なものです。
中村さんの著書『自己創出する生命』に出てくるいろんな概念を、情報という切り口から捉え直すと、私の『基礎情報学』と重なる部分が無数にあります。哲学や思想という言葉がよいかどうかはわかりませんが、我々のいちばんのベースは進化プロセスでたまたま出てきた生命現象なのだという自覚に基づいて、人間の営む世界を捉え直すべきなのですね。同じ思いだと改めて実感した座談会でした。「生命誌」と「基礎情報学」から生きる基本を出したいですね。
西垣 通(にしがき・とおる)
1948年東京都生れ。東京大学工学部計数工学科卒業。日立製作所でコンピュータ・ソフトウェアの研究開発に携わった後、明治大学教授等を経て、現職。専門は情報工学・情報社会論。『デジタル・ナルシス』『基礎情報学』など多数。また小説家でもあり、『1492年のマリア』『アメリカの階梯』などの作品がある。