RESEARCH
「語る科学」
「野生の科学」の可能性
-イヌイトの知識と近代科学
イヌイトなどの先住民族は、自分たちの生活圏に関する豊富な知識を持つ。ところがこれは定性的で「お話」にしか見えず、近代科学になり損なった知識と捉えられてきた。しかしカナダ・イヌイトのフィールド調査から分かったのは、彼らの世界理解が、近代科学とは異なり自然を対象化せずに、全体的・文脈依存的に捉えるものであるということだ。
1.極北の科学者イヌイト
カナダ極北圏の先住民、カナダ・イヌイト(註1)は「極北の科学者」という異名をもつ。環境の微妙な変化も見逃さない鋭い観察力、飽くなき好奇心、徹底した経験主義、厳密さと精確さへの執念、そして何よりも、過去数世紀にわたる狩猟・漁労・採集活動の実践を通して蓄積されてきた豊かな知識。これらイヌイトの知的な資質と所産に対する敬意が込められた呼称である。
(図1) 冬のアザラシ猟
氷の割れ目につくった穴で呼吸するアザラシにわなを仕掛ける。氷の割れ目は雪に覆われていることが多いが、イヌイトはどこにアザラシの呼吸穴があるかを見つける知識と技術をもっている。
今日、こうしたイヌイトの知識が、近代科学に匹敵する世界理解のパラダイムとして多方面から注目を集めている。クジラやカリブーなどの野生生物の動態をはじめ、地球温暖化に伴う環境の変化を把握し、その現状に対処するにあたって、イヌイトの知識が有効であることが指摘されるようになってきたからである。実際に、環境の持続的な利用のために、近代科学だけでなく、イヌイトの知識を利用しようという動きがみられている(註2)。また、イヌイトの知識は「自然:文化」という二元論的な環境観に基づく近代科学とは異なり、人間と環境を一体のものとしてとらえる一元的な環境観に基づいていることが知られるようになってきた。そして、こうした環境観に基礎づけられたイヌイトの知識に、環境を人間から切り離したうえで一方的に開発してゆこうとする近代科学の欠点を修正する可能性が指摘されるようになっているのである。
それでは、こうした可能性を秘めたイヌイトの知識とは、どのような知識なのだろうか。近代科学とどのように異なっており、そのどこに近代科学の欠点を修正する可能性があるのだろうか。そして、イヌイトの知識が基づいている一元的な世界観が切り開く世界とは、どのような世界なのだろうか。こうした問題を考えるために、私は1992年以来毎年、カナダのヌナヴト準州、クガールク(旧名ペリー・ベイ)村を訪れ、イヌイトの狩猟に参加したり、古老にインタビューしたりしながら、イヌイトの知識を学び続けている。
(図2) カナダのヌナヴト準州、クガールク村周辺図(左)とクガールク村遠景。
(註1) カナダ・イヌイト
カナダ・イヌイトと呼ばれる人々は、「エスキモー」と総称されてきた極北ツンドラの先住民の中でも、特にカナダに住んでいる人々のことである(イヌイトは「人」を意味する「イヌク」の複数形で「人々」という意味)。「エスキモー」は一つの民族集団を指す呼称ではなく、少なくとも言語学的にはイヌイト下位語派とユッピク下位語派の二つの言語集団に分けることができるいくつかの民族集団の総称である。しかし、「エスキモー」という名称はクリー語やオジブワ語の「生肉を喰らう輩」ということばに由来する蔑称であると考えられるようになり、カナダでは公称としてエスキモーは使われなくなっている。このため、現在では、便宜的に、シベリア、アラスカ、カナダ、グリーンランドにまで及ぶ広大な地域に住む極北の様々な先住民の総称としては、従来のエスキモーに代えてイヌイト/ユッピクを、極北カナダに住む先住民を指す名称としてはイヌイトを使うことが多い。なお、一般に人類学では、イヌイトは狩猟、漁労、採集を主とする生業経済に基づく生活を営むことから、狩猟・採集民と呼ばれることもある。ただし、カナダ・イヌイト社会は、1960年代に季節周期的な移動生活から定住生活に移行して以来、カナダという近代国民国家に統合され、産業資本主義経済の世界システムに編入されてきた。この結果、各種の賃金労働と狩猟、漁労、採集を併用する経済に移行しており、多くのイヌイトはサラリーマンとハンターを兼業している。なお、現在のイヌイトは、セントラル・ヒーティング完備の住宅に住み、スノーモービルや四輪駆動バギー、船外機付き金属製ボートを駆使し、ケーブル・テレビやテレビ・ゲームに興じ、スーパーマーケットで買い物を楽しむなど、私たちとあまり変わらない高度消費社会に生きている。しかし、こうした流れの中にあっても、狩猟活動や漁労活動それ自体をはじめ、その活動によって手に入れられる肉や毛皮は、イヌイトの生活とアイデンティティを支える重要性を失っていない。
(註2) イヌイトの知識の利用
カナダ極北圏においては、1970年代後半以来、イヌイトの人々が野生生物資源管理のために行われる調査、分析、意志決定の全過程に、国家や地方自治体の行政組織と対等の資格で参加する「共同管理制度」が次々に実現され、その共同管理に近代科学だけでなく、イヌイトの知識を活用するための制度が整備されつつある。こうした動向は、カナダの環境大臣が1991年に述べた「我々の任務は(先住民の)伝統的な知識と科学を統合することである」という言葉に象徴的に現れている。
2.近代科学と対等なパラダイム
イヌイトの知識が近代科学と対等なパラダイムとして認知されるようになったのは、ここ30年ほどのことである。それ以前は、イヌイトの知識は近代科学になり損なった「未開の科学」とみなされ、荒唐無稽な神話や迷信の一種としか考えられてこなかった。
たしかに、表にあるように、複雑な現象を定量可能な要素に分析し、実証可能で客観的な法則や原理に還元する傾向にある近代科学からみれば、現象の全体を主観的な経験に基づいて定性的にとらえる傾向が強く、生活史の物語や逸話のかたちをとることが多いイヌイトの知識は、「科学」というよりも単なる「お話し」にしかみえない。しかも、自然と人間を分離しない一元的な世界観に基づいて、自然現象を擬人的に説明する傾向が強いため、自然の現象と人為的な現象を混同した「お伽噺」にさえみえる。
しかし、イヌイトの知識の研究が進み、実際に観察される様々な現象について、イヌイトの説明と近代科学の説明を比較する研究が進展するにつれ、こうしたイヌイトの知識が、精確さや説明力、現象を再現する際の妥当性などの点で、近代科学に勝るとも劣らないことが明らかとなってきた(註3)。イヌイトの知識は非現実的な迷信やお伽噺ではなく、むしろ、生態環境の複雑な現象を説明するに際しては、近代科学よりも適したパラダイムである可能性が指摘されるようになってきたのである。
(表) イヌイトの知識と近代科学
(註3) 近代科学に勝るとも劣らないイヌイトの知識
たとえば、イヌイトの知識では、ジャコウウシやカリブーの社会には、人間の社会と同様に、経験を積んだ古老がおり、それぞれの社会はその古老の知恵に従って冬季の厳しい環境を生き抜いていると説明される。また、ジャコウウシとカリブーの社会は、相互に相手の社会を好ましく思っておらず、一方の社会が進出した地域からもう一方の社会は撤退すると説明される。最近の生物学では、一見お伽噺のようにみえるこうしたイヌイトの説明が野生生物の実態を見事に言い当てているのではないかと考えられるようになっている。たとえば、カリブーやジャコウウシの群れでは、実際に年老いた個体が、冬季に生き延びるために、雪の下から食用の植物を掘り出す技術を幼少の個体に教えていることが知られるようになり、イヌイトの説明にある通り、年老いた個体はそれぞれの種で重要な役割を担っていることが明らかになってきた。また、カリブーの群れの大きさが約70~100年周期で増減を繰り返している可能性をはじめ、さまざまな動物種が、敵対関係や互酬的関係などのかたちで相互に密接に関連しながら、分布地域や移動ルート、群れの規模を周期的に変えていることなど、イヌイトの説明にある現象が、実際にその通りであることが指摘されるようになってきた。
3.イヌイトの知識と近代科学の基本原理―戦術と戦略
それでは、近代科学と対等なイヌイトの知識が、表1にあるように、近代科学と対照的な姿をとるのはなぜなのだろうか。それは、イヌイトの知識が近代科学を支えている「戦略」のイデオロギーとは対照的な「戦術」のイデオロギーに基礎づけられているからである(註4)。
戦略のイデオロギーとは、周囲の環境から身を引き離し、環境を一挙に見通して対象化する主体(人間)が、対象化した環境をコントロールしようとする実践様式を評価する価値観のことである。表にあるように、近代科学は環境を人間との関係から切り離して対象化したうえで、その環境にみられる現実の多様性を一般化したり、定量化したりすることによって環境に関する客観的な法則や原理を構築し、その法則や原理に基づいて環境の全体を一挙に把握しようとする。その意味で、まさに近代科学は戦略のイデオロギーに基礎づけられている。そして、このように環境を対象化する戦略の延長線上に、環境を管理して操作しようとする近代的な環境開発の考え方があるといえるだろう。
一方で、イヌイトの知識を基礎づけている戦術とは、身近な例でいえば、格闘技などで多用される実践様式であり、相手を対象化することもコントロールすることもできない組んずほぐれつの状態の中で、相手の力を巧みに利用しながら「うまくやる」機略である。そして、戦術のイデオロギーとは、このように周囲の環境との密接な関係に巻き込まれながら、その中に一瞬あらわれる機会を利用して「その場しのぎ」的に「うまくやる」技術を高く評価する価値観のことである。「柔よく剛を制す」ということばによって、この戦術のイデオロギーは端的に表すことができるだろう。
(図3) イッカククジラを仕留める。
実際、イヌイトの社会では、この戦術のイデオロギーに相当する価値観を表す「イホマ」(思慮)という理念がある。イホマは大人がもつべき重要な資質の一つであり、多様で複雑な現象を一般的な原理に還元してしまうのではなく、現象の多様性の中に潜む機会を機に乗じて巧みに利用する才覚を指している。イヌイトにとって理想的な大人とは、「柔よく剛を制す」戦術を身につけた人物のことなのである。
こうした戦術のイデオロギーに基礎づけられているために、イヌイトの知識は戦略に基礎づけられた近代科学とは対照的な方向に発達してゆくことになる。そして、近代科学にはイヌイトの知識が「未開の科学」にみえるのと同じように、複雑な現象の多様性を一般的な法則や原理に還元してしまう近代科学は、イヌイトの目には思慮に欠ける子供っぽいもののやり方に映ることになる。思慮ある大人らしい戦術を首尾よく行うためには、近代科学のように、現象の法則や原理を明らかにしてもあまり意味がないからである。むしろ、どのようなコンテキストでその原理や法則を利用するのか、つまり多様な状況によって微細に異なる多様な「やり方」をできるだけ多く知っていることこそが肝心なのである。機に乗じて「機会」を利用するためには、その機がふいに訪れた時に即興的に乗じる機敏さや当意即妙な柔軟性が要求される。そういった時にものをいうのは融通のきかない固定的な法則や原理ではなく、蓄積された豊かな経験なのである。
結果として、イヌイトの知識では、表にあるように主観的で経験的、直感的な性格が強調され、現象を全体論的にとらえるコンテキスト依存的な傾向が強くなり、物語や逸話のかたちが好まれることになる。また、近代の環境開発の考え方のように、環境が人間との関係から切り離され、利用、管理される資源として対象化されることはない。むしろ、格闘技における「わざ」の開発のように、狩猟や漁労の実践を積み重ねることによって、多様な経験を記憶の蓄積として開発することにこそ重点が置かれることになる。イヌイトは環境を改変したり、野生生物を管理したりしながら開発してゆくかわりに、経験の物語を編みだし、自身の記憶と技能を磨いてゆこうとするのである
(図4)イッカククジラの解体作業。
(註4)「戦略」と「戦術」
この「戦略」と「戦術」という概念は、フランスの歴史学者であるミシェル・ド・セルトーの概念に基づいている(『日常的実践のポイエティーク』、山田登世子訳、国文社、1987年)
4.「野生の科学」が開く世界に向けて
このように、イヌイトの知識は近代科学よりも劣る「前科学」なのではなく、近代科学を支えている戦略のイデオロギーとは対照的な戦術のイデオロギーに基づいて発達してきたもう一つの科学なのである。近代科学が野生の環境を対象化して飼い馴らす「飼育する科学」であるとすれば、イヌイトの知識は野生の環境のただ中に息づく「野生の科学」であるといえるだろう。
春(4~6月)の狩猟キャンプ風景。
(左:図5)カリブーの干し肉づくり。冬の厳しい寒さが緩み、氷雪上の移動が容易になる春には、さまざまな野生生物の狩猟と漁労がさかんになる。彼らにとって、もっとも楽しい季節である(撮影:スチュアート ヘンリ・放送大学教授)。
(右:図6)「イヌイト・アート」と呼ばれる彫刻を彫る。「イヌイト・アート」はカナダを代表する美術の一つとして国際的に高く評価されている。
このように、イヌイトの知識は近代科学よりも劣る「前科学」なのではなく、近代科学を支えている戦略のイデオロギーとは対照的な戦術のイデオロギーに基づいて発達してきたもう一つの科学なのである。近代科学が野生の環境を対象化して飼い馴らす「飼育する科学」であるとすれば、イヌイトの知識は野生の環境のただ中に息づく「野生の科学」であるといえるだろう。
こうした野生の科学としてのイヌイトの知識は、近代科学が見落としてきた人間の知性のあり方を教えてくれるかもしれない。たしかに、戦略のイデオロギーに基づいて発達してきた近代科学は未知の世界を切り開き、私たちの生活を豊かにしてきた。しかし、そこには、イヌイトの知識に実現しているような知性のあり方、環境の力に翻弄されながらも、その環境に秘められた潜在力を機に乗じて巧みに引き出す創意と柔軟性が欠けている。力ずくでねじ伏せるのではなく、「柔よく剛を制す」イヌイトの野生の科学は、私たちに多くのことを教えてくれるのではないだろうか。あるいは、野生の科学と近代科学が手を携えることによって、新たな科学の誕生への道筋が開かれるかもしれない。野生の科学としてのイヌイトの知識には、限りない可能性が秘められているのである。
こうした意味で、野生の科学としてのイヌイトの知識の実態を探ることには、私たちの未来への扉を開く鍵が潜んでいるといえるだろう。野生の科学を基礎づけている戦術とは、どのような知性のあり方なのだろうか。そして、その戦術に基づいて見つめるとき、この世界はどのような姿でとらえなおされるのだろうか。野生の科学から私たちが学び、近代科学との連携のなかで新たな科学を構想してゆくためには、「柔よく剛を制す」という比喩でその輪郭を辿るだけではなく、その知性の姿を具体的に描き出してゆかねばならない。世界の中に身を浸したまま、その世界の潜在力を的確に引き出す戦術という知性のあり方を具体的に明らかにすることによって、生命をさまざまなかたちをとりながら分散する一つの持続の流れとしてとらえなおし、その生命の一つの現れである私たちが、その流れの中で未来を生きるための指針を手に入れることができるかもしれない。そのような期待に突き動かされて、私はイヌイトの知識の調査を続けている。
(図7) 夏の狩猟でイヌイトの少年と。(左:本人)
大村敬一(おおむら・けいいち)
1966年静岡県生まれ。1997年早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了、博士(文学)。早稲田大学人間科学部助手、大阪大学言語文化部講師を経て、現在大阪大学言語文化部助教授。