昆虫少年からの旅立ち
私が少年時代に住んでいたのは名古屋市東区の新出来町。あまり豊かではない人たちの住む長屋街で、私たちは冗談まじりに「貧民窟」などと呼んでいた。すぐ裏手に徳川時代から続いている「建中寺」というけっこう由緒あるお寺があって、高い石垣に囲まれて中に入れない。人を入れないから中はうっそうとした原始林(?)で、昆虫の宝庫だった。
小学校4~5年ごろから虫採りに夢中となり、このお寺にもぐりこんでは昆虫を採った。しかし、最初から蝶にはあまり関心がなかった。もっぱら集めたのは甲虫、それも、カミキリムシやクワガタムシといったなじみのある大型甲虫ではなく、体長0.5~2cmの小さな甲虫が中心だった。
虫好きの私を見て親父が買ってくれた三省堂の『原色甲虫図譜』には、小さな甲虫がたくさん出ていた。カミキリとかクワガタに比べると、こうした小さな甲虫はわからないことが多い。だから、そっちのほうが面白いと思ったのだろう。
大学卒業近くまでは昆虫学者になるつもりだった。しかし、私のいた名古屋大学理学部は発生学のメッカで、昆虫学は農学部がやるものだという雰囲気があり、私のほうも講義を聞くうちに虫以外に生物学には面白いものがあると感じるようになっていった。とくに印象に残ったのが、イモリの発生の鍵を握る物質としてあがってきたRNA(リボ核酸)である。化学の江上不二夫さんの講義を聞いてみると、じつに面白そうな物質だと思った。虫も面白いが、DNAやRNAという核酸のほうが、より生命にとって本質的なのではないか。虫屋であった私が、やがて遺伝暗号の世界へと歩を進めていったのには、こんないきさつがあった。
リボソーム工場
1960年代も終わりに近いころになると、遺伝物質としてのDNAの複製・遺伝情報発現の分子機構がほぼ明らかになった。その時点で内外の分子生物学の大リーダーたちは「第一期の古典分子生物学は終焉を迎えた。つぎに来るべきものは発生、分化、脳神経、免疫、がんなどの高次生命現象の解明である」と宣言した。
私自身流行に乗るのが昔から好きではない。自分なりにやっていることを軌道に乗せるほうが好きだ。DNAの複製についてはいろんな人がやっていて、手をつける気にならない。虫をやっていて感じたことは、生物の世界がいかに多様であるか、ということだった。そんなこともあって生物の系統進化には興味があった。しかも、大リーダーの唱える高次生命現象は、ほとんど人間(脊椎動物)であり、30億年あまりの生物進化(多様化)の歴史がほとんど無視されている。やるなら分子から見た進化だ、と思った。
私たちが材料に選んだのはリボソームのRNA(5SrRNA)である。リボソームはDNAからRNAに転写された遺伝情報を翻訳してたんぱく質を生産する細胞器官で、バクテリアから人に至るまで全生物に共通している。分子進化による系統樹の研究は、ポーリングとズッカーランドルのヘモグロビンが有名だが、血液はすべての生物にあるわけではないので、バクテリアなど原核生物には適用できない。チトクロームcによる研究もあるが、これもバクテリアには適用できない。その意味では、リボソームはすべての生物の系統樹を描き出せる最良の材料と思われた。
系統進化の研究は、堀寛君(現名古屋大学教授)が精力的に進め、十余年後ついに全生物を包含する分子系統樹ができた(1987年)。私はこの系統樹の作成を続ける過程で、マイコプラズマ(写真1)に注目した。これは寄生性の細菌で、肺炎を起こしたり血清にとりついてだめにしたりする。大腸菌の10分の1と非常に小さく、ウィルスと生物の中間、という人もいたくらいの微小生物である。
変化する遺伝暗号
遺伝子DNAは、4種類の塩基A(アデニン)、G(グアニン)、T(チミン)、C(シトシン)が並んだ二重のらせんである(RNAはTのかわりにUウラシル)。DNAのこの配列をメッセンジャーRNAが写し取り、リボソームでトランスファーRNA(tRNA)に読み取られてたんぱく質に翻訳されていく。
たんぱく質は20種類のアミノ酸がつながってできる。AAAがリジン、AACはアスパラギンといった具合に三文字続きのDNA(またはRNA)塩基配列が、一つのアミノ酸を指定する。このアミノ酸を指定する三続きの塩基配列をコドンと呼ぶ。どのコドンがどのアミノ酸を指定するかは全生物に共通とされ、普遍暗号と呼ばれてきた。(図17参照)
マイコプラズマの5SrRNAを調べているうちに、思いもかけないことが出てきた。普遍暗号表によれば、UGAは読み取りを停止させる「ストップ」(終止)のコドンである。ところが、マイコプラズマではこれがトリプトファンに読まれていたのである。遺伝暗号は「普遍」ではなかったのだ。
1966年にクリックが「遺伝暗号が変化すればそれはその生物にとって致死的になるから、遺伝暗号は変化しえないはずである。現在の遺伝暗号は、進化のある時期に偶然に凍結されたのだろう」という説を提唱した。それ以来、遺伝暗号は普遍であるとの考えが常識化していた。私たちの発見は、この常識を覆したのである。
遺伝暗号が変化しているなら、生物に致死的とならずに暗号を変化させるメカニズムが存在するはずである。それはどのようにして可能なのだろうか。私たちが提唱している「コドン捕獲説」によれば、変化すべき遺伝暗号はいったんDNAの塩基配列上から消えてしまう。そして、別のアミノ酸を指定する遺伝暗号として復活するのである。
アミノ酸を指定するコドンは61種類もあり、一つのアミノ酸は二~六つのコドンと対応している(このほか、終止コドンが3種類ある)。たとえば、リジンに読まれるコドンにはAAAとAAGの2種類があるが、この情報をアミノ酸に翻訳するtRNAも2種類存在する。このどちらかに対応するコドンがDNA上にあれば、その遺伝暗号はリジンとして翻訳されるのである。
遺伝暗号変化のメカニズム
このコドンの可塑性が、遺伝情報を無化したり、復活させたりする巧妙なメカニズムを存在させる(図18参照)。今、仮にリジンを指定する2種類の塩基配列のうち一方のAAAが、突然変異によってAAGに変わってしまい、遺伝子上から消えてしまったとしよう。するとAAAに対応するtRNAも使われないために、やがて細胞内から消えてしまうだろう。
次に、アスパラギンを指定する塩基配列AACに突然変異が起き、AAAという配列が再び遺伝子上に生じたとしよう。AAAを読み取るtRNAは、使われないためにすでに消えてしまっている。しかし、今AACがAAAに変わる前にアスパラギンを読み取るtRNAに微妙な変異が起き、AACだけでなくAAAも読み取れるようになったらどうなるか(tRNAには可塑性があり、しばしば2種類以上の同一アミノ酸のコドンを読み取る。これをウォブルのルールと呼ぶ)。AAAという塩基配列は、生物体に何の害も与えないまま、リジンからアスパラギンを指定するコドンとして生まれ変われるだろう。
このメカニズムの存在を、どうしたら実験で証明することができるだろうか。私たちが研究対象としてきたマイコプラズマでは、アルギニンを指定するコドンCGGが、同義語のCGAに置き換わっている可能性が高い。CGG配列が読み取られないことを実証できれば、私たちの「コドン捕獲説」の第一段階が正しいことが立証されるだろう。
私たちは、マイコプラズマの細胞をすりつぶして試験管の中に入れ、そこにCGGの配列を中間に含むように合成したメッセンジャーRNAを加えてみた。もし、マイコプラズマがアルギニンのコドンとしてCGGを持っていれば、すりつぶした細胞内にあるリボソームによってCGGがアルギニンに翻訳されるはずである。ところが、この作業は予想どおりCGGにくると止まってしまう。つまり、マイコプラズマのリボソームの中には、CGGをアルギニンに読み取るtRNAが存在しないことが確認されたのである(図19参照)。
やはりマイコプラズマでは、アルギニンのコドンCGGはCGAに変わってしまい消えていたのだ。つまりそれは「無の存在」なのである。私はこれらを「ナンセンス・コドン」と名づけた。
このナンセンス・コドンを読み取るtRNAができたら、再びアミノ酸のコドンとして復活できる。そのtRNAがアルギニンのtRNAなら、CGGは再びアルギニンのコドンとなるが、別のアミノ酸のtRNAができれば遺伝暗号の変化となって現れるのである。
理論的に割り出した無化しうる可能性のあるコドンは25種にのぼる。実際に無化したり、変化したりしたコドンはこれまでに17種報告されているが、すべて理論で予測した範囲内におさまり、例外はまったくない。
進化と時間
もちろん、こうした遺伝暗号の変化は、数千万年から数億年という長い長い進化の道のりの結果である。イースト酵母の仲間では、このような遺伝暗号の変化が2回起きたことがわかっている。私たちが作った分子進化による系統樹と照らし合わせてみると、白せん病を起こす酵母は、ロイシンに読まれるはずのコドンCUGがセリンに読まれている。ところが、そこから分岐してきたパン酵母では、同じコドンが先祖返りしてもとのロイシンに戻っているのである。
もし少年のころの志どおりに昆虫学者になっていたとしたら、私はどのような学者になっていただろうか。それは保証のかぎりではない。というのは、虫をやる人は日本の昆虫の学名など全部暗記しているほど記憶力がいい。しかし、記憶力にあまり自信のない私にはとてもそんな芸当はできそうもない。昆虫をやるには図を描くのがうまくないといけないが、それもさほどのものとは思えないからだ。それでも、私の発見したオオキノコムシやベニボタルなどの新種や亜種が先輩の昆虫学者の論文に登場していることを知り、虫につかれた我が青春も無駄ではなかったと思っている。