成績は良かった、でも勉強は苦手

富山県の山麓で育ちました。屏風のように険しく連なる立山連峰の裾野に位置する、亀谷という山村です。黒部ダムに代表されるように、急峻な地形を利用した水力発電が盛んな一帯で、幼少期は、北陸電力に務めていた父と家族でここに暮らしていたのです。村を流れる和田川ぞいに山道を上がっていくと、そびえ立つ薬師岳のふもとに広大な有峰湖が広がっており、反対に川沿いに町を下ると、3,000メートル級の山々からすとんと流れ落ちてくる常願寺川に合流します。冬は氷点下まで冷え込み軒下まで雪が積もる厳しい気候ですが、野ウサギを探して野山を駆け回ったり、春から秋にかけては、立山から下りて来る冷たい渓流でイワナを釣ったりしました。勉強はあまりやらず、好きなことばかりして過ごしたと思いますね。というのも、中学の中ごろまでは勉強しなくても県でトップクラスの成績だったのです。ただ本を読むのは好きで、夜に布団の中で偉人の伝記を読んだり、推理小説、とくにルパンやホームズを読んだりしました。いちど没頭すると時を忘れてしまうものですから、親戚の間では、「この子は遊びにくると、勝手に本を見つけては何時間でも読みふけっている」と言われていましたね。

小学5年生からは富山市内に引っ越しましたが、自由奔放な子供時代を送ったので、勉強のやり方を知らずに中学卒業まで来てしまいました。県内一の進学高校に入学したのはよいけれど、最初の中間テストで赤点レベルに落ちてしまい、周りが努力していることにやっと気付いたという、何とも呆れた話です。さすがに目が覚めてこつこつ勉強し始めました。しかし2年生の終わりになって東京大学合格レベルの成績に達したものですから、気が緩んだのか他のことがやりたくなり、なんと3年のとき勝手に「天文クラブ」を作ったのです。今考えると自分でも、受験生が何をやってるんだと言いたくなりますよ。ただ忘れられないのは、自分で試作した天体望遠鏡で高校の屋上から、離れた市内の繁華街を覗いたときのことです。看板の文字までくっきり見え、「おおっ」と感心しましたね。これだと思ったら徹底的にやるという性質は、今も変わりありません。

けっきょく受験は失敗、次の年は学生紛争で東大の入学試験がなく、京都大学を受けました。僕らの年代の多くの理系学生が考えたように、京大に行くなら湯川秀樹先生のいる理学部を受けて、数学か物理をやろうと思っていました。

母の実家で、仲良しだった近所の犬と。山の中でよく遊び、生きものは大好きだったが、生物学への道は考えたことがなかった。

家族そろって妹(左から3人目)の誕生日を祝っているところ(本人:右端)。

雪の山の上で、遊び仲間だった親戚の子と。亀谷では毎年2メートルほど雪が積もった(本人:右)。

中学2年生のころ。小学校の終わりごろに引っ越し、中学は都市部のマンモス校に通った。山の中から町中へという、環境の激変を体験した。

中学3年の修学旅行写真。夜行列車で奈良と京都を訪れた。(本人:右端)

先輩に誘われ分子生物学へ

入学してしばらくは大学紛争の混乱で授業がなく、秋にようやく授業が始まりました。入試の数学は満点でしたから自信をもって授業に望んだのですが、初っ端の永田雅宜先生永田雅宜(1927-2008)数学者。「ヒルベルトの23の問題」の一つ、「不変式系の有限性の証明」を否定的に解決したことで知られる。の講義でその自信を打ち壊され、カルチャーショックを受けました。抽象代数の分野で日本有数の数学者だった先生の授業は、初学者もおかまいなし、抽象的な記号の羅列でノートを取ることすらできません。試験は、時間無制限で朝から夕暮れまで机にかじりついて問題を解くという、型破りな形式でした。何より驚いたのは、40人クラスの中で3人合格者がいたことです。クラスは違いましたが、後に代数幾何学の研究でフィールズ賞フィールズ賞数学の分野で多大な功績を上げた研究者に贈られる賞。「数学のノーベル賞」とも称される。を受賞した森重文君(京大数理解析研究所元所長)も合格者の1人で、彼はすでに大学院の試験問題を解く力があったと聞きました。周りのレベルの高さに愕然とし、数学者志望はすっぱり諦めましたね。理学部の先生は一線の研究者ばかり、学生に懇切丁寧に教えるより、自力で道を開かせるという方針だったのです。

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この時すでに、分子生物学が新たな道として心に浮かんでいました。きっかけはサークル活動です。思い出しても不思議な縁で、新入生歓迎会に行ってみたところ、サークル勧誘の喧噪の中でニコニコしながら立っている先輩が目に飛び込んできたのです。それは理学部の中辻憲夫さん(京都大学名誉教授)で、満面の笑顔に引き込まれるように「生命の科学の会」に入会していたというわけです。それまでは、生物学のことなどまったく頭にありませんでした。僕の入学の少し前、分子生物学を取り入れた「生物物理学教室」が理学部に新設されたのを機に、中辻さんや坂野仁さん(東京大学名誉教授)たちが立ち上げたサークルでした。ジェームズ・ワトソンによる教科書『遺伝子の分子生物学』を読み、最新の話題をみんなで議論するのが主な活動でした。DNAやRNA、タンパク質など、分子のはたらきで生命現象を見ることを初めて知ったのです。それまでの生物学と比べると、システマティックな視点があって肌に合う気がしましたね。

そうこうするうちに、生物物理教室に赴任したばかりの岡田節人先生や小関治男先生の研究も活気付いてきました。先輩達は生物物理研究室の第一期生として進学していきましたし、僕も何となくそれに続くようにして、卒業研究では小関研の門を叩いたのです。

大学生のころ、生命の科学の会の合宿にて。京大の白浜臨海試験所に泊まり込み、昼は海で遊んで朝と夜に分子生物学の勉強会をした。

これからはmRNAだ

遺伝子がはたらくためには、mRNA(メッセンジャーRNA)によってDNAから遺伝子の情報を写し取り、その情報に従ってtRNA (トランスファーRNA)がアミノ酸を運んでタンパク質を作るという、一連のステップが必要です。DNA二重らせんの発見者であるフランシス・クリック博士が、この流れを「セントラルドグマ」として提唱して以来、ここに関わる分子を扱うのが分子生物学の主流になっていました。小関研では一連のステップの最後のほうで働く分子、tRNAの全容解明に向かって突き進んでいました。

しかし僕にとっては確たる動機もなく選んだ研究室でしたから、またいつもの癖で真面目に勉強しなかったんです。いっぽう同じ実験机を並べた小原雄治くん(現・国立遺伝学研究所特任教授)はとてもよく勉強していて、彼こそが期待の星といった存在でした。自分は中途半端だという自覚はありました。でも若気の至りで、研究室の方向性に物足りなさを感じてもいたのです。tRNAは、既に写し取られた情報に従うだけの補助的な分子に過ぎないじゃないか。それより前の段階、つまりDNAから遺伝子の情報を写し取るmRNAこそが、生命を知るうえで重要なのではないか。ちょうどこの頃、『Nature』誌の姉妹誌『Nature New Biology』に大腸菌の転写の特集記事がありました。DNAを鋳型にしてmRNAを作り出す酵素、「RNAポリメラーゼ」の複雑な機構を目にし、すっかり惹き付けられたのです。「よし、これからはmRNAだ」なんて勝手に考えてね。修士課程から、RNAポリメラーゼを研究していた京大ウイルス研究所の由良隆先生(現・京都産業大学客員研究員)の下で研究することにしました。

当時の自分は本当に不勉強でしたし、今なら小関研の研究の意義はよく理解できます。けれどこのとき自分なりに考え、これだと決めたことが研究者への最初の一歩だった気がするんです。

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志村令郎先生の生物物理学教室での退官講義の風景。(96年)

卒業研究でお世話になった小関治男先生(前列左端)、小関研の先輩の近藤寿人さん(前列左から3人目)、大学院の恩師の由良隆先生(前列左から5人目)と並んで最終講義を聴いた。(本人:左から4人目)

世界が見落とした大腸菌熱ショック応答の発見

大腸菌などの原核生物のRNAポリメラーゼは、4種類のサブユニットからなる複雑な酵素です。転写の際は、まずこの酵素がDNAに沿って移動しながら、「σサブユニット」の部分で転写すべき遺伝子を識別します。続いて、残りのサブユニットがDNAの二重らせんをほどいて間に割り込み、片方のDNAを鋳型にしてmRNAを合成していくのです。と、今でこそ見てきたかのように説明できるんですが、当時はこの酵素の複雑な構造がどのような意味を持つのか、まったく分かっていませんでした。由良先生たちは、抗生物質を使った独自の解析システムを駆使して、この世界的な謎に取り組んでいました。

転写のメカニズムに惹かれて飛び込んだ研究室でしたが、最初の大きな発見に至るまではずいぶんと紆余曲折がありました。まず、当初力を入れていた研究テーマで、イギリスのグループに先を越されてしまったのです。がっかりしたものの、サブテーマとしてもう一つ実験をしていたのが幸いでした。それは大腸菌の突然変異株を集める仕事で、生育温度を高温にしたときだけ転写ができなくなる株(温度感受性変異株温度感受性変異株特定の温度条件下でのみ表現型が現れ、他の温度条件下では野生株と同じ表現型を示す突然変異株。致死的な突然変異を解析するのによく用いられる。)を集めていました。実はこれが独自の発見のきっかけになりました。大腸菌の生育温度を急激に上げると、突然変異株でも野生株野生株遺伝学実験に用いる標準的な系統の株。突然変異株に対し、本来的にその生物が備える遺伝子型を持つと考えられる株を指す。でも、数分以内に未知のタンパク質がいくつか出てくることに気付いたのです。大腸菌が熱から身を守るためのタンパク質、後に言う「熱ショックタンパク質」でした。けれど周りはほとんど誰も相手にしてくれません。「温度が上がって化学反応速度が変わったことで、未知のタンパク質が出てきたように見えるだけだ」という意見が大半だったのです。大腸菌の生育温度を操作するのはよくある実験手法でしたから、「そんなことが起こっているはずがない」と世界中が思い込んでいたのも災いしました。けれどただ一人、研究室の助手の伊藤維昭先生(京都大学名誉教授)はデータをじーっと見て、「これ、面白いんちゃう?」と言ってくれたんです。この日から、大腸菌が熱ショックタンパク質を作っていることを示すための徹底的な証拠集めにかかりました。

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まず大腸菌の野生株を使って、温度を上げると未知のタンパク質が出てくることを論文として発表しました。しかしこれだけでは、それが熱ショックタンパク質であるという証明にはなりません。決め手となったのは、ほとんど奇跡的なことでしたが、伊藤先生がこれらのタンパク質を作れない突然変異株の論文をたまたま見つけてきてくれたことです。この株は温度を上げるとすぐ死んでしまうのですが、サプレッサーtRNAサプレッサーtRNAコドンとアミノ酸との対応関係に変異を持つtRNAで、この場合は終止コドンに対応してアミノ酸を運搬するナンセンスサプレッサー。突然変異により遺伝子中に終止コドンが生じ、タンパク質合成ができなくなった株に付加することで、タンパク質合成を行なわせることができる。で突然変異を戻して再びこれらのタンパク質を作れるようにしてやると、耐熱性が戻ることが分かりました。しかも、この耐熱性はtRNAのサプレッションレベル(tRNAによる突然変異の抑圧の程度)と見事に比例するんです。二次元電気泳動法を使って、突然変異株でこれらのタンパク質が作られていないことも明瞭に示しました(図1)。私が発見した未知のタンパク質が、温度変化に適応するための「熱ショックタンパク質」だということがこれでやっと証明できました。『米国科学アカデミー紀要(PNAS)』に論文が受理されたときは、ついにやったという達成感に満ちていましたね。

熱ショック応答の論文は、『Nature』誌のコメント欄でも取り上げられ、注目を集めました。ショウジョウバエやマウスに見られる熱ショック応答が、大腸菌という起源の古い原核生物でも起こっていたことに世界が意表を突かれたわけです。ただし、私が関与したのはここまで。この発見には20年にわたる後日談があるのですが、それはすべて由良先生やキャロル・グロス博士(現・UCSF教授)たちの仕事になります。温度が上がって数分以内という反応が可能なのは、実は転写の段階で、RNAポリメラーゼが熱ショックタンパク質に関わる遺伝子だけを識別して、急速に転写を加速するからだと分かりました。高熱という状況に特化したσサブユニットが存在し、転写すべき遺伝子を素早く識別するのです。

私はというと、大腸菌の熱ショック応答の存在を証明した時点でもう答えは見えたと思いました。「いずれ誰かが、ここに関わる転写メカニズムを解き明かすだろう」と、博士号を取った後このテーマから離れることにしたのです。

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(図1)二次元電気泳動法でとらえた大腸菌の熱ショックタンパク質。熱ショックタンパク質を作れない突然変異株は、生育温度を30℃(A)から42℃(B)にしても熱ショックタンパク質は現れない(Bの黒矢印)。いっぽう野生株では、生育温度を30℃(C)から42℃(D)にすると熱ショックタンパク質が現れる(Dの黒矢印)。

Yamamori T & Yura T, PNAS, Vol. 79(3), 860-864, (1982), Fig. 2より引用。

次の問いは細胞と細胞のやり取り

私も含め、あのころ分子生物学の渦中にいた人たちはずいぶん悩んだと思いますね。というのも、ワトソン・クリックによる二重らせんの発見に始まり、セントラルドグマで提起された諸問題は、1970年代にあらかた答えが出てしまった。「分子生物学はもう終わった」と極論する人さえいて、それまでの分子生物学的方法に誰もが限界を感じていました。

次にどこへ向かうべきか。人それぞれ考え方はありましたが、私は思い切って神経系に転向したのです。私が発見した大腸菌熱ショック応答は、細菌が外部環境の変化に応答するしくみです。それに比べて神経系は、細胞と細胞が複雑にやりとりしながら環境変化に応答するしくみですから、単細胞で生きる大腸菌からスケールアップして、環境応答の新たな世界が見えるのではないかと考えたのです。その最終目標は、神経細胞の集積である脳でした。

当時すでにシーモア・ベンザーやマーシャル・ニーレンバーグなど、分子生物学の先覚者たちもこぞって神経系に転向していました。ところが、それまで神経系を扱ってきた生理学や解剖学は100年以上の歴史があるわけでしょう。そういった訓練も受けず、大腸菌に頼っていた分子生物学で立ち向かうには、神経系はあまりにも複雑なんです。これまでのことを地道にやればいいのか、それとも全く違う方法論を見つけなければいけないのか。誰にも先が見えない状況でした。私も大学院を始めからやり直すくらいの覚悟でしたが、DNAやタンパク質などの分子は扱えましたから、まずは自分がやれることから取っ掛かりを見つけようと考えました。そこでコロラド大学の末岡登先生のもとに留学して、神経細胞とグリア細胞の分化に関わる遺伝子を探す実験をさせてもらったのです。末岡先生のところで神経関連遺伝子の扱いを学ぶことができたのは幸いでした。大学院をやり直すどころか、脳研究に行き着くまでの30年以上の挑戦がここから始まったのです。

神経細胞を分子の手法でみる

留学して4年ほどたった頃、思いがけず日本に帰る話をもらいました。アナハイムで開かれた北米神経学会に遅れて行ったところ、会場前で大阪大学の塚原仲晃先生が私を待っていて、そのままカフェテリアに連れて行かれ、「今度うちで助手のポストが空くから来ないか」と熱心に誘ってくれたのです。実は神経系に転向するとき、赤核細胞赤核中脳に存在し、脊髄まで神経線維を伸ばして運動のコントロールに関与する神経細胞の核。赤身を帯びて見えるのでこの名前がつけられている。の研究で有名な塚原先生の研究室の大学院生になろうかと考え、相談に乗ってもらっていたのです。結局分子生物学にとどまり、留学を選んだので先生には申し訳ない気持ちでいましたので、就職の話をいただけるとは予想もしていませんでした。アメリカでの仕事がまだ中途半端だったのでずいぶん迷いましたが、やはり日本に帰ろうと決めました。ところが、先生に返事を出そうとした矢先、1985年8月12日のことでした。塚原先生が、あの日本航空機173便の墜落事故で亡くなってしまったのです。知らせを受けてしばらくは、茫然として何も手に付かない状態でした。先生が何度も下さった手紙はまだ残してあります。やっと気持ちが落ち着いたとき決心したのは、当分アメリカに残ってもっとしっかり神経系を勉強しよう、そして大きな仕事を成し遂げてから日本に帰ろうということでした。

末岡先生のところで神経細胞の扱いにも習熟し、小さな仕事で論文を書けるくらいにはなっていました。そこでカリフォルニア工科大学に移り、ポール・パターソン先生が発見した、神経細胞の興味深い謎を解く実験をすることに決めました。アドレナリンを伝達物質とする交感神経の細胞を、骨格筋や心臓といった特定の細胞と一緒に培養すると、アセチルコリンを伝達物質とする、全く異なるタイプの神経細胞に変わるのです。神経細胞が周囲の環境に合わせて主要な性質を変えるという、驚きの発見でした。パターソン先生は、その変化を誘引する物質が、一緒に培養する細胞の上澄み液に含まれていることを掴んでいました。さらに、慶応医卒でサンディエゴ大学の学位を取った深田恵子さん(元・愛知学院大学准教授)の英雄的な努力で、その原因タンパク質も精製されており、独立する彼女の後を継いで、このタンパク質をコードする遺伝子を特定することが私の仕事だったのです。4年間ほかのことには眼もくれず、ひたすら同じような実験を繰り返し、原因となるタンパク質のアミノ酸配列と、それを作り出す遺伝子を特定しました。1989年末、『Science』誌に成果を発表できた時は嬉しかったですね。奇しくもその年のボイジャー特集と同じ号で、私たちの論文はトップに掲載されましたから「ボイジャーの上に乗った冠アーテクル論文」なんですよ。

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気がつけば神経系に転向して10年、末岡先生やパターソン先生の手ほどきを受けながら、分子生物学の手法を生かして神経系を調べられるようになっていました。米国の永住権も取得して、そろそろ独立したポストを探そうと考えていたとき、理化学研究所の伊藤正男先生(現・理研脳科学研究総合センター特別顧問)から手紙が来たのです。理研の「国際フロンティア研究システム(現在の脳科学総合研究センターの前身)」に参加することに興味はないかという誘いでした。

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カリフォルニア工科大時代の恩師、ポール・パターソン先生(左から4人目)が来日したとき。当時の日本人留学生が勢ぞろいした。私のことをパターソン先生に紹介してくれた深田惠子さん (元・愛知学院大学客員助教授:右から4人目)、実験にいろいろな助言を与えてくれた那波宏之さん(新潟大学脳研究所教授:左から2人目)もいる。当時は、「ジャパニーズマフィア」と言われるくらい多くの日本人留学生がいた。(本人:左端)

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カリフォルニア工科大時代に実験の苦労を共にした共同研究者、シーグレン・コーシングさん(現・ケルン大教授)と深田さんと。名古屋港にて。

脳研究の入り口

伊藤先生の下では、貢献したことよりも学んだことの方がはるかに大きかったですね。当時、国際フロンティア研究システムの居室はプレハブの建物にあり、ここで設立のためのお手伝いや実験をしながら、小脳の学習回路について一から勉強させてもらいました。例えば「前庭動眼反射」。小脳の学習を通して身に付く能力として、最も分かりやすいものです。やってみましょう。まず目の前に指を一本立てて軽く振ってみてください。指先を見ようとしても、焦点がぶれて見えづらいでしょう?では反対に、指を固定したまま頭の方を軽く振ってみてください。今度は指先がぶれずに見えるでしょう?相対的な動きはどちらも同じですが、頭を動かした場合は眼を反対側に動かして補正するよう学習しているのです。歩きながら看板の字を読んだり、電車に揺られながら本を読んだりするとき無意識にこれをやってるんですよ。ほかにも自転車の乗り方や投球フォームなど、一度できるようになると忘れない動作、いわゆる「体で覚える」と表現する能力は、実は小脳の学習を通して身に付くものなのです。

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「体で覚える」ことを可能にする小脳の学習回路は実に巧妙なもので、伊藤先生はその全貌を明らかにした小脳界のスーパースターです。小脳には「プルキンエ細胞」という層を成した巨大な神経細胞があり、プルキンエ細胞には神経線維を通じて二種類の信号が送られてきます。一つは運動を制御する多数の神経細胞からの信号、もう一つは間違いを知らせる信号です。例えば自転車に乗っていてバランスを崩したりすると、間違いを知らせる信号がすぐさまプルキンエ細胞に送られます。するとプルキンエ細胞上で両者の信号が干渉しあい、間違った運動を指令している神経細胞の活動が抑圧されるのです。抑圧は長期間続くので「長期抑圧」と呼ばれ、間違った運動をする神経細胞を次々と抑圧していくことで、一度覚えたら忘れない学習が可能なのです。当時は伊藤先生が提唱したこの「長期抑圧」の存否をめぐる論争が、国際的に最も激しかった時期でした。プルキンエ細胞上で、長期抑圧にはたらくタンパク質合成が、予想よりはるかに早く行なわれていることを示したのは、私のささやかな貢献かもしれません。

神経系に転向し、留学先でたくさんの先生方に出会ったことが第一の転換点だとすると、伊藤先生との出会いは第二の転換点と言えます。実は留学中から、培養細胞のレベルでいくら神経系を調べても、全体としての脳は理解できないというもどかしさを感じていました。伊藤先生に脳を回路として理解することを教わり、霞が晴れましたね。やっと脳研究の入り口が開かれた気がしました。

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国際フロンティア研究システムのメンバーと。多面的なアプローチで脳を研究するために、システム長の伊藤正男先生(前列中央)により、生物系の研究者に加えて工学系や理論系など様々な分野の専門家が集められた。

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日本に帰って最初の年に、フロンティア研究システムのメンバーと行った大菩薩峠ハイキング。左から二番目は、マウスの記憶・学習行動を研究する中沢一俊さん。(現・アラバマ大学准教授)

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ニューヨーク州のコールド・スプリング・ハーバー研究所のミーティングに参加したとき。本部棟の前で伊藤先生と。(本人:右)

同ミーティングで、昼食をとりながらミーティング参加の研究者たちとディスカッション。左から私、MITの利根川進先生の下でポスドクをしていたアルシノ・シルバさん(現・カリフォルニア大教授)、ウミウシの神経系を研究していたダニエル・アルコンさん(現・西ヴァージニア大教授)、神経細胞のイメージング技術の先駆者アーサー・コナーズさん(現・ミュンヘン大教授)。

大脳の進化を探る

帰国して2年半たったとき、基礎生物学研究所から教授として迎え入れたいとの声が掛かりました。好きなことができる恵まれた条件でのオファーでした。伊藤先生に相談すると、「ま、行ったらいいだろう」と軽く言って下さったのですが、内心とても残念がっていたと後から聞きました。ただ、弟子はいつか師を越えていくものだと今でも思っていますし、小脳を続けていては伊藤先生を越えられないと思ったのです。小脳の回路の全体像は伊藤先生が明らかにしたといっていいのですが、思考や知覚に中心的な役割を果たす大脳の回路は、配線があまりにも複雑なためになお未知の領域でした。教授になったのを機に、ヒトに近い霊長類を材料にして、大脳皮質の進化の研究を始めたのです。

ここで大脳皮質についてちょっと説明しますね。哺乳類の大脳皮質の基本構造は実は単純で、新聞紙のような大きなシートを6枚重ねて折り畳んだものが、頭の中に入っていると捉えられます。6層構造は哺乳類すべてに共通で、ネズミでもヒトでも同じ。大脳のはたらきの違いを決定的にするのは、大脳皮質上にいかに複雑な機能分化があるかという点なのです。100年前の解剖学者コルビニアン・ブロードマンは、哺乳類の大脳皮質が性質の異なるいくつもの領域からなることを発見し、後に「ブロードマン領野」と呼ばれる分類を提案しました。この分類では、ネズミの領野は10にも満たないうえに境界も不明瞭なのに対し、ヒトの場合は役割の異なる48もの領野に分かれています(下図)。脳卒中の診断に熟練した医師は、症状を見ただけで、ヒトの大脳のどの辺りから出血しているか分かるというでしょう。ヒトを含む霊長類の大脳皮質は、場所と機能の対応が比較的はっきりしているのです。

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ブロードマンの脳地図。Brodmann(1907)の原図を参考に作成した。1-3は一次体性感覚野、4と6は運動野と補足運動野、17-19は視覚野、41と42は聴覚野、その他(青色系統の領域)は、連合野として機能すると考えられている。

ジグソーパズルのように複雑な霊長類の領野がどのように形成されるのか、それが大脳皮質の進化の鍵というわけです。新しい研究室の立ち上げで、分子生物学のアプローチで何かできないか考えてみたとき、「大脳でそれぞれの領野に特有な遺伝子がはたらくことで、領野が分化しているのではないか」と考えました。そこで助手の渡我部昭哉君(現・理研脳科学総合研究センター研究員)や、最初の大学院生の栃谷史郎君(現・福井大学特命助教)、小松勇介君(現・上海神経科学研究所研究員)たちと一緒に、ディファレンシャル・ディスプレイ法ディファレンシャル・ディスプレイ法遺伝子発現の量の差異を解析する方法の一種。多数の遺伝子の発現量を比較することができる。で、マカカザルの大脳ではたらいている遺伝子を一つ一つ調べました。結果は予想とは半分はずれ、半分あたりといったところでしたね。マカカザルの40余りの領野それぞれに、異なる遺伝子が発現しているわけではなかったのです。遺伝子のはたらく場所は大まかにしか決まっておらず(図2)、前頭部から側頭部にかけてはたらく遺伝子群、頭頂部ではたらく遺伝子群、そして後頭部ではたらく遺伝子群という3グループしか見つかりませんでした。しかし思いがけないことに、この3グループが霊長類の大脳皮質の進化と重なったのです。霊長類は進化の過程で、大脳の中の3つの領域を大きく発達させました。一つは、入力された感覚情報を統合して認知や思考を行なう「連合野」、もう一つは、精密な動作を可能にする「運動野」、そして、複雑な視覚情報の処理を可能にする「視覚野」です。私たちが最初に見つけた3グループの遺伝子群は、この3つの領域にぴったり対応していました。

これらの遺伝子群は、霊長類に特有の大脳のはたらきに関わっているにちがいありません。面白くなりそうだと思いました。例えば、視覚野ではたらいている2つの遺伝子「5-HT1B」と「5-HT2A」。大阪大学の佐藤宏道教授の研究室との共同研究で興味深いことが分かりました。5-HT1Bは、網膜からの情報が最初に送られる一次視覚野の前シナプス部(図3:赤く示した神経細胞)ではたらいており、より弱い信号を押さえ込み、より強力な信号を増幅する役割をもちます。こうすることで、伝達の過程で生じるノイズをカットするのです。続く後シナプス部(図3:青く示した神経細胞)では5-HT2Aがはたらいていますが、その作用は5-HT1Bと正反対で、ノイズと一緒に押さえ込まれてしまった弱い信号の分を増幅して元に戻す一方で、強すぎる信号を押さえ込み元に戻します。ノイズを除いた上で、脳に入ってくる信号を適正にしているのです。私たちは眼に入った情報をそのまま見ていると思っていますが、実は視覚野で2段階のフィルターを通した情報を見ているわけです。もしこの遺伝子のどちらか一方でもはたらかなければ、ノイズが多かったりコントラストが強すぎたりと、まったく違った景色の見え方になっていたでしょう。

同じく視覚野の広い範囲ではたらいている遺伝子のなかで、長らく機能が分からなかったOCC1は、神経細胞への入力を抑制することが最近報告されました。しかも信号が強いほど抑制が強くなる、つまり強い信号への感受性を下げる機能があるのです。結論として、視覚野ではたらくこれらの遺伝子は、私たちの日常に欠かせない「視覚恒常性の維持」に関わっていると考えています。例えば、晴れた日に屋外でスマートフォンなどの液晶画面を見ると、暗くて見えづらいでしょう。これは視覚恒常性が維持されている証拠で、周囲の明るさによって光への感受性を調節しているのです。周りが明るいと光への感受性を下げるよう調節されているので、液晶画面など暗いものを識別しづらくなるわけです。実は光のない真夜中と日中の明るさを比べると1000万倍も光の量が違うのですが、急激な光の変化を私たちがそこまで意識しないでいられるのは、視覚恒常性のお陰なんです。霊長類にはこうした視覚恒常性維持のしくみが他にもいくつもありますから、サルと私達が非常に視覚的な動物として進化してきたことを物語っているといえるでしょう。

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いっぽう連合野ではたらく遺伝子群の役割は、まだほとんどわかっていません。ただ「SLIT1」という遺伝子は、神経細胞の樹状突起をつくるのに重要なはたらきをしているのではないかと考えています。連合野はさまざまな感覚情報が入力される領域ですから、神経細胞の樹状突起の枝分かれが、他の領域の場合より多いのです(図4)。とくに神経細胞の最先端部にあるトゲのような枝分かれ、「スパイン」が密になっており、多数の神経細胞と結合できるようなのです。マウスの神経細胞でSLIT1の相同遺伝子を実験的にはたらかせてみると、このように複雑な枝分かれの樹状突起ができることが分かっています。霊長類でも同様のはたらきが見られることをこれから証明したいと思っています。

遺伝子の発現によって多様な領野が作り出されるメカニズムも未知の課題です。けれど異なる領域で異なる遺伝子をはたらかせる仕組みは少しずつ明らかになってきました。例えば研究員の畑克介君は、連合野だけで特異的にはたらく遺伝子「SLIT1」、「RBP4PNMA5」に、DNAメチル化DNAメチル化
DNAの特定の配列にメチル基が付加されること。遺伝子の転写を制御する「プロモーター」領域のDNAメチル化は、転写活性に影響を与える。
の目印がついていることを見つけました。メチル化されているのは遺伝子のプロモーター領域のなかのCpG配列です。メチル化されたプロモーター領域を識別して遺伝子の転写を促進するタンパク質「MBD4(Methylation binding protein 4)」は、霊長類では連合野のある前頭部に特に多いので、このタンパク質が連合野に特異的な遺伝子の発現を促しているようだと分かってきました。

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基生研に来て間もないころ、生理学者のレイモンド・ケイドウ先生(元フランス国立科学センター主任研究員:左)と電気生理実験をしているところ。教授になって数年の間は、新しい実験システムの立ち上げに奔走する日々だった。(本人:右)

基生研でお世話になった、藍藻研究者の藤田善彦先生(右から2番目)の最終セミナーにて。カイコの分子生物学者、鈴木義昭先生(基礎生物学研究所名誉教授:左端)も交えて談笑。(本人:左から2番目)

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1995年にフランスのストラスブールで開かれた、ヒューマン・フロンティア・サイエンス・プログラムの少人数ワークショップ参加者の集合写真 。(本人:後列右から4人目)

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同ワークショップの際に、エクスカーションとして行なわれたアルザスのワイナリーツアー。世界各国から集まった研究者が、ワインについても真剣に学んだ。右から3番目は利根川進先生。(本人:右端)

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(図2)マカカザルの大脳皮質で発現していた遺伝子群と、その発現場所。発現場所が分かれたのは、連合野を中心に発現する遺伝子グループ(図中青字・青系統領域)、視覚野を中心に発現するグループ(図中黄文字・黄系統領域)、運動野を中心に発現するグループ(図中緑文字・緑領域)の3群のみだった。

SPP-1は、Sato A et al., Biochem Biophys Res Commun. Vol. 362(3), 665-669, (2007)による。

Yamamori T, Rockland KS. “Neocortical areas, layers, connections, and gene expression”, Neurosci Res., Vol. 55(1), 11-27,(2006), Epub2006 Mar 20. Review., Fig. 1 より改変。
http://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0168010206000423

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(図3)ニホンザルの視覚情報の処理に関わる遺伝子、5-HT1B5-HT2Aのはたらき。シナプス前部に発現する5-HT1B(赤で示す細胞で発現)は微弱な信号の入力を抑え、強力な信号の入力を増強することでコントラストを上げ、ノイズを落とす。一方後シナプス部に発現する5-HT2A(青で示す細胞で発現)はその逆の作用をもち、コントラストを元に戻す役割を果たす。5−HT1Bは、外側膝状体の入力を受けている一次視覚野4層にも発現しているが簡単のため、本図には記していない。

Yamamori T, Prog. Neurobiol., Vol. 94(3), 201-222, (2011), Fig. 6を参考に作成。

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(図4)マーモセットの神経細胞の形状の比較。前頭連合野の神経細胞は、一次視覚野の神経細胞と比べて樹状突起も多く、樹状突起上のスパインも密である。佐々木哲也博士撮影(未発表)。

生きた脳のはたらきが見えた

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分子レベルで霊長類の大脳皮質のはたらきが一つ一つ分かってきたのですが、思考や記憶といった複雑な機能を知るには、やはり回路としての理解が不可欠です。脳の回路は神経細胞の結合で作られていますから、最近は、霊長類の大脳の神経細胞を詳細に観察できる手法の開発に力を入れています。ニホンザルは体が大きく繁殖にも時間がかかるので、実験動物としてより扱いやすいマーモセットを材料にしています。神経細胞に発現している遺伝子をマーカーにして光らせてみたところ、生きたマーモセットの大脳の神経細胞を細部まで観察することができました。神経細胞の樹状突起の先端にあるスパインの結合が、時間とともに消えたり生まれたりする様子も見えました(図5)。そして2014年から始まった「革新的技術による脳機能ネットワークの全容解明プロジェクト」(革新脳)では、基生研の松崎政紀教授の研究室との共同研究で、この神経細胞の活動を長期にわたって観察することに成功したんです。神経細胞間で情報伝達が行なわれる瞬間、情報を受け取る側の細胞にカルシウムイオンが流れ込むという性質を利用しました。定金理君(現・理研研究員)と渡我部君が、カルシウム濃度に応じて光るカルシウムセンサー遺伝子と、そのセンサーの発現を増幅させる遺伝子を同時に神経細胞に組み込みました。このおかげでカルシウムセンサーのシグナルをとらえやすくなり、数百個の神経細胞の活動を100日以上にわたって観察できるようになったのです(図6上)。マーモセットの手足に軽い刺激を与え、刺激を伝達する神経細胞が活動する様子をとらえることができました(図6中)。彼らが学習するときの神経ネットワークの変化を追跡することもできます(図6下)。大脳の高次機能を分子で捉える糸口になりそうです。

こうして大脳の回路を少しずつ紐解いていく一方で、その全体像の理解にはまだまだ距離があることを実感しています。考えていたことが一つでも当たっていれば良しとしなくてはならないし、分かるところを足がかりに前進していくしかないのが大脳研究なんです。恩師の伊藤先生がいつも口にしていた名言に、「生理学は『整理学』」というものがあります。脳研究をはじめたころ、一見複雑なしくみも整理すれば解はみつかると教えられたのは、大きかったですね。

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東京で開かれた、上原記念生命科学財団の国際シンポジウム「脳の高次機能と分子生物学的アプローチ」(96年)では、座長を務めた。(本人:左)

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三菱財団の自然科学研究助成金の贈呈式にて。

1997年に一緒に助成を受けた、サルの視覚研究の三上章允先生(現・中部学院大学教授:左端)、随意運動の制御機構を研究する南部篤先生(現・生理学研究所教授:左から二番目)、江橋節郎先生(東大名誉教授:右端)と立ち話。(本人:右から2番目)

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2000年ごろの研究室の集合写真。スタッフも学生も増え、霊長類を使った大脳皮質研究で結果が出せるようになってきた。(本人:前列左から3番目)

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(図5)生きたマーモセットの大脳皮質神経細胞上のスパインの時間変化を捉えることに成功。同じ神経細胞の変化を追っていくと、時間に伴ってスパインが新たに生じる部分(B上図□→B下図□)や、消失する部分(C上図△→C下図△)が見出された。

Sadakane O et al., eNeuro, Vol. 2(4), e0019-15, 2015, 1-10, Fig. 4より改変。

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(図6)最新の研究成果より。多数の神経細胞の活動をモニタリングすることに成功した。脳がネットワークとしてどのように機能しているのか、これから明らかにしていきたい。

理化学研究所プレスリリースより提供。原論文はCell Reports, Vol. 13, Issue 9, p1989–1999 (2015)に発表。

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2001年に主催した、基生研の「バイオサイエンストレーニングコース」での集合写真。学生や若手研究者に生命科学の最先端の実験技法を習得してもらうプログラムで、多くの若者が集まってくれた。(本人:2列目左から6番目)

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脳科学界の重鎮が揃った国際シンポジウムで。

行動神経科学の先駆者リチャード・トンプソン先生(前列左端)、利根川進先生(前列左から2番目)、『カンデル神経科学(邦題)』のエリック・カンデル先生(前列左から3番目)、脳の記憶システムの先駆者ラリー・スクエア先生(前列右から2番目)、睡眠と学習の関係などの研究で有名なマット・ウィルソン先生(前列右端)。(本人:後列左端)

本当にやりたいことを見つける

気がつけば、大腸菌という最も単純なシステムから、霊長類の脳という、生命の最も複雑なシステムへと研究対象が進化していました。生きものはもっとも単純なものを組み合わせて複雑なシステムを作ってきましたが、私も分子という最も単純な単位を武器に、複雑なしくみを整理しながらやってきたわけです。振り返ってみるとすべて繋がっていたんですね。

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自分は運が良くてここまで来られたと思いますので、同じ道を若い人も歩むべきだとは思いません。でもね、矛盾しているようですが、私が人生をやり直すとしたらやっぱり同じ道を行っただろうと思うのです。聖書には「狭き門より入りなさい。滅びに至る道は広い」という表現がありますが、そもそも本当に自分がやりたいことって、人それぞれ違うはずでしょう。自身の個性とも呼ぶべきそれを見つけ出すのが一番大事だと思いますね。留学時代、ロックフェラー大学の花房秀三郎先生に向かって生意気にも、「これからは脳の時代だ」と言い切ったことがあります。先生は「脳以外にも面白いものはたくさんあるよ」と諭してくださったのですが、当時の私は聞く耳を持ちませんでした。10年か20年に一度出てくる、そういった「本当にやりたいこと」を大切にするべきですね。そして、これだと決めたら解が得られるまでやるのが私の流儀です。その時々の判断が正しかったかどうかは後からでないと分からないものですが、私の場合は不思議なことに、いつも解を見つけることができました。本当に自分が求めるものは、そういった自然の不思議さとどこかで繋がっているんです。

研究は好きでないと続かないのはもちろんですが、ゆくゆくは一つのことを極めたプロになれないと長くは続きません。そういう私も、プロの研究者としての覚悟が固まったのは教授になってからですけれどね。教授は自分だけでなく周りの人に対する責任も背負わなくてはなりませんから、プロとして結果を出し続けることを初めて意識したのです。そうして60代の半ばに差し掛かって、人間の能力はやってみなければ分からないものだと実感しています。年を取ればいろいろな能力が落ちてくるのですが、逆に獲得していく能力もあるのです。結局いまの自分を判断するのは自分自身ではなく、プロとしてどれだけ周囲に結果をリターンできるかなんですね。

仏教には「往相」と「還相」という言葉があるでしょう。「往相」は悟りを求めて精進するさま、「還相」は、悟りの世界から戻ってきて衆生に教えを説くさまのことです。私はまだ「往相」ですから、若い人に説いて聞かせられるようなことはないと思いますが、まだまだ若い才能を求めている脳科学の面白さが少しでも伝われば嬉しいですね。小脳の回路とその計算原理が明らかになったのは、デービット・マー博士や伊藤先生の貢献によるところが大きいのですが、根本にあるのは1967年に出版された『神経機械としての小脳』『神経機械としての小脳』原題は『The Cerebellum as a Neuronal Machine』(スプリンゲル社、1967年)。ジョン・エクルズ、伊藤正男、ヤノス・センタゴタイによる共著。プルキンエ細胞の性質や小脳の回路について記載されている。で示された小脳回路の基本構造です。それに比べて大脳皮質の本質的理解は、多くの発見にも拘わらず、小脳の1967年レベルにも達していないのですね。それだけ複雑で、容易には全体像をあらわさないシステムなんです。いま「革新脳」で取り組んでいるのは、マーモセット大脳皮質の全神経構造を決めるというプロジェクトで、私は副プロジェクトリーダーとしてチームを組み研究を進めています。当面の目標は、ヒトを含む霊長類の大脳皮質の神経結合を分析し、回路としての全貌を明らかにすること。精神活動の中心である大脳のことを理解できるか、挑戦しようという気持ちは強くなるばかりです。

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学生のころ読んだ『遺伝子の分子生物学』のジェームス・ワトソン先生と、RNA研究の第一人者ジョアン・スタイツ先生が基生研を訪れたときの研究室メンバーとの記念写真。(前列右端から、本人、スタイツ先生、ワトソン先生、志村先生、後列本人左:岡田清孝前所長)(提供:基礎生物学研究所)

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基生研の研究室メンバーとの集合写真(2014年)。この4月、理化学研究所に移るまで、基生研では21年間教授として研究を行った。(本人:前列右から3番目)。(提供:基礎生物学研究所)