性格は穏やか

生まれは大阪天王寺です。両親共に大阪の人間でしたから血筋としては浪速っ子です。でも、大阪の記憶はあまりありません。父親の転勤で4歳の時に滋賀県の守山町に移りましたので、幼稚園から高校までずっと守山町と隣の野洲町で過ごしました。守山は琵琶湖の東に広がる田園地帯です。子どもの頃は専ら外遊び、本当にのんびりとよい時代を過ごしました。近くに野洲川が流れていて、その堤防が遊び場でした。もちろん昆虫採集はやりましたが、のめり込むところまでは行きませんでしたね。昆虫図鑑を見ると、きれいな虫が描いてあったり、珍しいものが紹介されていたりするので、それと同じものを見つけたいと思うのだけれど、なかなかそういうものには巡り会えませんよね。夏休みの宿題で、図鑑にあるようなのを採ってきた同級生がいて、傘を開いて逆さに置き枝を叩くと面白い虫が傘に落ちてくると教えてくれたんです。早速やってみたら採れたのはムカデ。夜になったらカンテラを置いて前に白いシーツを置くと蛾が来るという知恵をつけられてこれもやってみました。砂糖水を入れたビンも置いたし。そういうことを教えてくれるガキ大将がいる子ども社会の中で生きものとつき合っていたのですが、子ども心にも生きものはなかなか思い通りにはならないなあと思ったものです。性格は穏やか。研究者になってからの今も競争の世界でグイグイ自分を出していく人から見たら少し物足りないと思われるかなと思う時もあります。でも、この性格を生かして、自分の中で大事と思うものを探しながら着実に進む道もあると思っています。

小学4年生。自宅横の祇王井川で父と魚とり。

違う世界への憧れ

滋賀大学附属中学に進みましたので、大学生が教師になる訓練のための授業が多かったんですね。その中に情熱的な人がいて、とても刺激になりました。大学生ですから年齢も近いわけで先生より親しみが持てて楽しかったです。たとえば、藻類について細かく教えてくれ、実際に自分で調べてごらんと言われるわけです。藻類って多様でしょう。形も色もさまざまで面白いと思いましたし、とくに生活環で一倍体とか二倍体とか出てくるところに惹かれて懸命に調べて表にしたら、少しずつ違う複雑さが見えてきたのが印象に残っています。レポートにして出したらほめられましたね。ただ虫を集めるだけでなく、生きものの中で起きていることを見て行くと面白いと知りました。生物学に触れた最初と言える、記憶に残る体験です。

英語の先生にも影響を受けました。フルブライト基金で留学をして帰ってきたばかりで、写真を見せながらアメリカの話をしてくれたのです。当時は船で行ったんですね。船での生活の話も含めて、なんだか夢の世界のようでした。しかもその先生の発音がきれいなんですね。英語を通して違う世界につながってみたいという気持が強くなって、英語クラブに入りました。クラブとしてはテニスなどもやってみましたが、あまりうまくならないし、一番熱心だったのは英語でした。実は、後でアメリカに留学した時に、「おまえの英語はわかる」と言われました。ネイティブと話してみたいと思いながら、そういう機会もなく勉強していたものですから、この一言は嬉しかったですね。

高校は滋賀県立膳所高校。20分ほどの電車通学でしたから高校卒業までは琵琶湖畔の限られた場所で暮らしていたわけです。相変わらずクラブは英語を続けていて、英語劇でクリスマス・キャロルをやったりディベートを楽しんだりしていました。父は京大農学部を出た化学会社の技術者でしたから直接進路について何かを言われたわけではありませんが、理系に進むのは当然みたいに思っていました。母親からは医師になる気はないかと言われたこともありますが、申し訳ないけれど興味がなかった。お金には縁がないだろうけれど研究者になりたいと漠然と思っていました。もっとも高校3年になるまでどこの大学のどこの学部に入るかも考えずにいたのですが。

中学1年の頃。自宅で。

分子生物学との出会い

京大は入学の時は学部を選ぶだけなので、とにかく理学部に入りました。大学で学べるものは何でも吸収しようと思い、最初の年は物理や数学から人文系まで思いきって多くの課目をとりました。高校の勉強と決定的に違うと思ったのは仏像の授業です。飛鳥から奈良、平安と仏像の様式が変化していきますよね。それに儀軌とか。夏休みに京都や奈良のお寺をまわりながら教えてくれるコースもあって、観光とは縁遠いお寺にも行く京都の大学ならではの授業でした。数学の授業は、高木貞治著「解析概論」を教科書にしてどんどん進んで行く。大きくて厚くて、しかも中味は手強い。将来の進路として数学の選択はなしだと思いました。当時は大学紛争の真っ最中。学内には立看板がいっぱい立ってますし、教室へ行っても黒板に大学や政府を糾弾する文が書いてあるという状況でしたが、私自身はノンポリで、大学らしいことを学びたいと授業に出ていました。でも二年生になったら紛争が激しくなり、夏休み以降授業なしになってしまいました。しかたがないから図書館通いです。当時翻訳が出たばかりのワトソン著『遺伝子の分子生物学』を読み、この分野の面白さに目覚めました。他にも分子生物学の本を読み、この分野がいいぞとなったんです。これで進路はきまりです。発生生物学の近藤寿人君(大阪大学生命科学教授)は教養時代に同じクラスで、分子生物学の魅力を語り合うよい仲間でした。二人共進学先は当時できたばかりの生物物理学教室にしました。岡田節人先生(京都大学名誉教授、JT生命誌研究館名誉館長)、寺本英先生(故人)、小関治男先生(故人)、丸山工作先生(故人)など、多彩な顔ぶれの新しい教室で、京都大学らしい新しいことができそうな感じでわくわくしました。この教室に進学した仲間には他に坂野仁君(東京大学理学部生命科学教授)もいて、よい仲間に恵まれたと思います。本来なら進学の時に試験があるのですが、その年は授業がなかったので、全員希望通り進学できることになったのです。生物物理は20人くらいいたと思います。

とにかく分子生物学の基本を学ぶことに惹かれていましたので、卒業研究と大学院の進学先には、分子生物学に正面から取り組んでいる小関研究室を選びました。小関先生は研究を楽しむタイプで、とくにディスカッションがお好きでしたね。細かいことは何も言われない。そこに助教授として志村令郎先生(京都大学名誉教授)がおられた。志村先生は研究の目的を明確にし、よく検討した方法で着実に事を進めるというタイプです。厳しかったです。この絶妙なコンビがかもし出す雰囲気の中で、期待感充分でしたね。ただし、できたばかりの教室ですから始めの年の学生は僕らの学年だけ。研究室のスタッフは、ほかに講師の山岸秀夫先生 (京都大学名誉教授)、助手の井口八郎先生(京都大学名誉教授)と池村淑道先生(長浜バイオ大学教授)もおられて賑やかでした。研究室の雑誌紹介セミナーの時は、近くの研究室の人も来て議論するんですが、学生に理解させようという雰囲気ではありません。先生方が勝手に盛り上がって、学生にはわからない用語が飛び交っている。お前ら勝手について来いみたいな感じでした。それもあって、学生仲間で何度か合宿して勉強しました。読んだのはコールド・スプリング・ハーバー研究所のシンポジウムの記録集です。DNAの二重らせん構造を発見したJ・ワトソンが所長をしていたこの研究所は世界の分子生物学の中心で、研究の現状を捉えるだけでなく、次に大事になるのはどんな分野であるかを考えるシンポジウムをしており、ここから世界での研究の動向を知ることができます。会場は琵琶湖畔にあった父親の勤めていた会社の研修所を借りました。論文に出てくるグラフの読み方を話し合ったり、ここが大事なポイントだなどと教え合ったり、実験結果について考える訓練ができました。当時はそう簡単に外国へ行ける時代ではなく、小関先生が海外出張の時に皆に買ってきてくれるネクタイで、外国を身近に感じ始めていたのでした。ジャンケンで好きな柄を取り合ったりしてました。

斑鳩で。大学1年の時、仏教美術学の授業で京都や奈良のお寺をまわった。

no71_interview_f1

Scientist Library:
季刊 生命誌 30号
「ルイセンコの時代があった ―生物学のイデオロギーの時代に」
岡田節人

no71_interview_f2

Scientist Library:
季刊 生命誌 11号
「分子生物学のロマンティック時代と私」
小関治男

no71_interview_f3

Scientist Library:
季刊 生命誌 24号
「筋肉をめぐる闘いの40年」
丸山工作

no71_interview_f4

Scientist Library:
季刊 生命誌 63号
「常に問いを立て続けて —免疫・嗅覚・そして次は」
坂野仁

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Scientist Library:
季刊 生命誌 5号
「私のサイエンス・スタイル「直感的創造力」」
志村令郎

大学院の頃、仲間と合宿して勉強したコールド・スプリング・ハーバー研究所のシンポジウム記録集。

ファージのゲノムで考えた10年

小関研での研究テーマは、BF23という溝渕潔先生(東京大学名誉教授)がアメリカから持ち帰られた大腸菌のバクテリオファージの遺伝子機能とDNAの構造解析です。当時分子生物学で扱えるのはバクテリア、ほとんどの研究は大腸菌を用いて行なわれていました。それも大腸菌のDNAを見るのは難しいので、それに感染するウィルス(ファージと呼ぶ)を用いてDNAのはたらきを見ていました。世界中でよく用いられていたのはT4ファージやラムダファージなどでしたが、ファージの種類によって性質がずいぶん異なるのでBF23での研究を始めたのです。事実このファージ特有の特徴がいくつも見られ、面白いと同時にその意味をずいぶん考えさせられました。志村先生がtRNAの研究をしておられたこともあり、BF23ファージがtRNA遺伝子をコードしていることを確認したのが最初の論文です。

このファージをEDTA(エチレンジアミン四酢酸)溶液の中で60℃に加熱すると失活するのですが、この条件下で生き残る変異体の中にファージゲノムの一部を欠いているものがあり、しかもその欠失部分にtRNA遺伝子が存在するものがあることがわかってきました。つまり、ファージのtRNA遺伝子はなくてもよいということです。欠失ファージが感染した時には大腸菌のtRNAがはたらくのでしょう。ではファージの持っているtRNAは大腸菌の中でどのようにはたらくのか、なくてもファージとして存在し得るものをなぜ持っているのか、欠失にはどんな意味があるのかなど問いは次々出てきます。でも当時は今のようにDNAを扱う技術が進んでいませんでしたから、苦労しました。欠失変異体はDNAが小さくなっているので、正常のものと分離できるはずです。できるだけきれいに分離したいと思い、アガロース・ゲルアガロース・ゲルアガロース(agarose)は寒天の一成分で、ゲル化すると編み目構造をもつためDNAやRNAの電気泳動の支持体として用いられる。を縦にしたDNA分離装置を考えたのです。まず粘土の上でゲルを固めるのですが、粘土をはずすとゲルが滑って下に落ちてしまう。しかたがないので、下部を先にアクリルアミドゲルで固めて落ちないようにしてその上にアガロース・ゲルを置くという工夫をしました。日本でアガロース電気泳動装置を使った最初だと思います。それを用いて、欠失変異体のDNAがきれいに分離できました。そのパターンが見えた時は嬉しかったですね。最近は高価な分析装置が市販されていてそれを購入する予算の獲得競争になっていますね。装置を手作りしなければならない状況では得られるデータは少ないのですが、高性能な機器を使ってデータをどんどん出せばそこから何かがわかるだろうという進め方とじっくり考えながら必要なデータを積み上げていく方法とを比べた場合、どちらが進んだやり方か一概には言えないと思います。学生の教育には、後者の方がよいでしょう。当時はちょうど制限酵素が次々に見つかってきた時だったで、それでBF23ファージのtRNAを切断して構造を調べました。制限酵素も市販されていない時代だったので自分達で精製して研究室間で互いに交換していました。私は、当時京大化学研究所におられた高浪満先生(京都大学名誉教授)から分けていただいた酵素をずいぶん使いました。BF23ファージゲノムの物理的地図を作る仕事の時には、二重鎖DNAの5’末端から切っていく酵素(ラムダ・エキソヌクレアーゼ)が必要だったのですが、これは自分で精製しました。この仕事は志村先生のご指導でしたものですが、志村先生にお願いして単独名の論文で出しました。博士課程の途中で助手に就職したので、当時の京大の規定で学位をもらうためには、単独名の論文を出して論文博士となるしかなかったのです。

助手になったのは1975年秋で、溝渕潔先生(当時、東京大学生物化学科助教授)からお誘いを受けたのです。溝渕先生と一緒にBF23ファージのDNA構造を徹底的に調べていくうちに、ファージの増殖に必要でない遺伝子が集まっている部分があるとか、両端の9000塩基は同じ配列だなどの性質が明らかになってきました。当時はDNAはすべて遺伝子であり、しかもそれらの遺伝子はすべてはたらいていると考えられていましたから、これは奇妙なことと思え、どう説明したらよいのか考えていました。その後DNAの解析が進むと、ゲノムには何をしているのかわからないところとか、同じ配列のくり返しなどがあるものだということがわかってきましたね。ファージという小さなDNAだったので当時このような解析ができたのです。1980年にBF23ファージのゲノム構造とその複製についての総説を書きましたが、DNA解析からゲノムという全体を捉える概念を出せたのはファージを研究材料にしていたためだと思います。

修士の頃。

修士論文発表後に研究室でコンパ。左端は志村先生。(中央:本人)

助手時代。東京大学生物化学教室で。

ウィルスからヒトへ

このように大腸菌とファージの系は、分子生物学の基本を解くよい系ではあるのですが、DNA組換え技術が開発されてからのDNA研究の流れは、より高度な生命現象の解明を目指して多細胞生物を扱う方向へ移っていきました。私も、岡田節人先生のゼミで異なった組織をバラバラにした細胞を混ぜると、元々同じ仲間だったものだけが集まるという論文を読んで多細胞生物の発生研究が面白いと思っていたのですが、その前に大腸菌を用いた分子遺伝学をマスターしておかないと遺伝子レベルの研究に手が出せないだろうと考えていたのです。

しかし、大腸菌とも10年以上つき合いましたから、多細胞生物の研究へ移りたいと思い、その機会を探していました。幸い、文科省の在外研究員として派遣されることになり、いくつかの研究室に手紙を出したところハーバード大学分子生物学教室のStrominger教授が受け入れてくれたのです。テーマは「ヒト免疫遺伝子(HLA)の遺伝子構造の解析」。ヒトの免疫B細胞の表面にあるMHC(major histocompatibility complex)という各人に特有であり、臓器移植をした時など他人のものを受けつけない原因となる細胞表面の抗原分子の遺伝子構造を調べました。この分子は移植ばかりでなく、T細胞への抗原提示など個体認識の鍵となるもので、Strominger教授はヒトを用いて、この分野で先行していたマウスの研究を追い抜こうとしていました。そのために正確な物理的地図を作ることが求められていたのです。ファージで身につけたDNAを扱う技術をヒトの遺伝子を知るために使うということなので、新しい研究を始めるにも抵抗はありませんでしたね。ウィルスでもヒトでも同じ手法で扱えるのが分子生物学の面白いところです。コスミドベクターを用いてMHCの遺伝子が集合しているクラスター部分を取り出し、遺伝子の配列と遺伝子型の多様性が高い部分と低い部分の違いを調べました。この研究はイギリスでも行なわれていて激しい競争ではあったのですが、お互い補完的なところもあり、悪い関係ではありませんでした。こちらがちょっと早く答を出したと思っています。

中学の時に先生の留学体験を聞いたところに始まり、小関先生たちの話や海外でのセミナーについての情報に触れて、自分もいつか実現したいと思っていたアメリカでの生活です。妻と子供二人の家族で行ったのですが、新しい仕事への挑戦ですから、とにかく仕事第一でした。土曜日も日曜日もなく研究室へ出ていたので、アルバイトで守衛をしている学生に「そんなことするのは日本人だけだ」と言われたりしました。でも当時J・ワトソン博士がインタビューに答えてこんなことを言っているのを見つけたのです。「一日10時間以上、土・日もはたらかない研究者なんてダメだ。学生時代は勉強しないでよい成績をとるのがいるけれど、科学の世界ではそれは通用しない。」(OMINI 1984年5月号)。2008年にワトソン博士が基礎生物学研究所を訪問された時にその記事のコピーにサインをしてもらいました。

在外研究員制度は職はそのままで海外へ出られるというありがたいものなのですが、期間は10ヶ月と短いのです。これでは仕事をまとめるのは無理ですね。そこで、溝渕先生にお願いして2年間に延ばしてもらったお陰で納得のいく仕事ができ、論文も5報出しました。競争の激しいアメリカ、しかもハーバードの研究室はどんな様子だろうと緊張して行ったのですが、Stromingerは一言で言うなら小関先生と似たタイプの研究者で、細かいことは何も言いません。のびのびやらせてもらいました。研究設備は、驚くような差はありませんでしたね。遠心機など日本で使っていたものより古かったりして。設備や機械を多くの研究室で共有に使うシステムはうまく機能していて囲いこむ感じがなく、これはいいと思いました。物をシェアし合うと人間関係もできて、他の研究室の仕事への関心もわきます。教室組織の柔軟性は大変なもので、学期が変わると今までStrominger研究室のポスドク研究員が使っていた場所を隣の研究室の若い研究者が使い始めたりするのです。獲得した研究費の増減の関係もあるのでしょう。これまで論文で接していた著名な研究者のセミナーを直接聞けるのも嬉しかったですね。ハーバード大学のメインキャンパスと医学部キャンパス、さらにMIT(マサチューセッツ工科大学)のキャンパスがテレビのケーブルでつながれていて、それぞれの場所でのセミナーをどこででも聞けるようになっていましたから、いろいろな人の話を聞きました。アメフラシの神経系と記憶の研究で有名なEric KandelやZ型DNAの構造を見つけたAlexander Richの話など印象に残っています。

Strominger教授の下でヒトHMCの遺伝子構造についての論文を5報出した。

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2008年に基生研を訪れたJ・ワトソン博士にサインをもらった「座右の銘」は、今も所長室に飾っている。

1984年5月にセントルイスで初めて開かれた米国生化学会と免疫学会の合同年会(AAI-ASBC)に参加。初めての国際会議に緊張している。

ポスドク仲間とホームパーティ。(右端:本人)

エンドウからシロイヌナズナへ

アメリカでの研究生活は思う存分楽しみましたし、高次の生命現象の研究への準備もできたのですが、帰国して東大へ戻ればバクテリアの研究室ですから、そのままではテーマを変えるわけには行きません。近藤君は岡田節人先生の下で発生を、坂野君は利根川進さんのところで免疫の研究をバリバリやっていましたから、ちょっと焦っていました。そうは言っても、日本ではまだ分子生物学の手法で多細胞の研究をする場が多くはありませんでしたからそのようなポジションを見つけるのは難しい状況でした。その頃岡田節人先生が基礎生物学研究所の所長になられて、基礎生物と言うからには植物の研究が必要と考えられたのです。分子生物学の流れは多細胞生物に移っていると言いましたが、それは動物の話です。岡田先生は発生研究に分子生物学をとり入れる必要性を早くから主張なさっていた。学問を見る眼のある方です。そこで、植物研究にも積極的に分子生物学をとり入れなければいけないと思われ、志村先生が基礎生物学研究所の客員教授に就任されるに当たって、その具体化を依頼されたわけです。志村先生は学生時代、木原均先生木原均植物遺伝学者。コムギの染色体倍加を研究し、ゲノム概念を確立した。(1893~1986)の弟子になろうとされ、これからは分子生物学だと言われて京大植物学教室の芦田先生芦田譲治植物学者。成長ホルモン(ジベレリン)の研究など、植物生理学が専門。日本植物生理学会初代会長。(1905~1981)についたという経歴を持っておられます。それで岡田先生は、志村先生が適任だと思われたんでしょう。考えて見れば遺伝学の始まりはメンデルのエンドウの研究。ここから遺伝子という概念が生まれたわけですが、その後モルガンがショウジョウバエで染色体上に遺伝子が並ぶ地図を作るなど遺伝学はショウジョウバエをモデルとして進んできたわけです。植物はイネの品種改良など、実用面で遺伝学が重要視されましたが、基礎研究は主として生理学、とくに植物ホルモンの研究が盛んでした。動物のように分子遺伝学を進め、それを他の生命現象へ活用するという流れは植物には少なかったのです。光合成に関する遺伝子、染色体にあるヒストン遺伝子などの研究は進んでいたのですが、より広い基礎研究が必要で、それに適したモデル植物を探す必要がありました。志村先生がシロイヌナズナに眼をつけられ、基礎生物学研究所の研究室で実際に研究する人間として私に話を持ってきて下さいました。私はこれまで植物とはまったく無縁だったのですが、どうせ変わるなら思いきって新しいことをやろうと思いました。

花形成のモデルを求めて

シロイヌナズナは、小さな野草。ヨーロッパでは野原に生えているありふれた草なので、学校で遺伝学の教育に使われていたそうです。突然変異体をとるなど本格的な基本的研究を始めたのはドイツで1965年頃です。と言ってもこの時代の記録を見ると放射線をあててさまざまな変異体をとるという話で、どの位の線量をあてるのがよいかなど、放射線生物学が主流です。でもこの時代に様々な変異体が得られています。1980年代になると確実に分子遺伝学を意識した研究が始まります。私が基礎生物学研究所に移って研究を始めたのは1986年ですが、その時アメリカ、ヨーロッパ、オーストラリアではすでにシロイヌナズナをモデル生物とした分子遺伝学研究の動きが始まっていました。1985年に後で花の研究のところで名前が出てくるMeyerowitz博士が「サイエンス」にシロイヌナズナの紹介を書いていました。

この植物のよい点は、小さく(20~30cm)て室内で栽培できること。自家受精し、種をまいた後約2週間で開花、4~5週間で種子が得られる、つまり世代時間が短いこと。染色体数が少なく(n=5)詳細な遺伝子地図があること。ゲノムサイズが小さいこと(125×106塩基対)などです。とてもよいモデル植物です。研究を始めるに当たって、アメリカ各地の著名な植物研究室十数カ所を訪問して、ほぼ二週間シロイヌナズナ研究の状況を調査しました。それを基に志村先生と話し合い、まず発生研究に集中しよう、ホルモンや光合成というこれまでの植物生理学研究の中心課題は避けようと方針を決めました。権威者が大勢いるところは大変だということもありますしね。具体的には、葉や花の形態が異常になった突然変異体をできるだけ多数分離することにしました。さらに、研究が少なかった外部環境に対する植物の応答を調べることにしました。植物は動物と違って動けませんから光や重力などの影響が強いし、一方それをうまく活用してもいるわけです。他の研究者が見たことのない新規な突然変異体を集めて、それを財産として研究を進めることにしました。すぐに遺伝子の解析に飛びつくのは止めて、突然変異体の分離に重点を置くことにしたのです。花には外側からがく、花弁、雄しべ、雌しべとあり、葉が花に変わる時に遺伝子がはたらいて各部分ができていくわけです。それらの遺伝子がうまくはたらかないと形態が他の器官に転換するホメオティック変異体ができます。これらの突然変異体の解析から花形成の機序を追っていたのですが、同じような研究をしていたCoen博士とMeyerowitz博士がABCと名づけた3つの異なるクラスの転写因子のはたらきでそれを説明するABCモデルを提唱しました。研究としては同じことを解明していましたし、私たちもモデルを考えてはいたのですが、彼らのモデルはすっきりして理解し易いものでした。その後すぐにABC遺伝子がクローニングされ、発現のパターンがモデルと合致したことで、このモデルが有名になりました。残念でしたが、日本の研究者の層が薄かったことも一つの原因です。1990年始めの頃は、突然変異体から変異座をマッピングして遺伝子をクローニングするには大変な時間と労力がかかったのですが、トランスポゾンやT-DNAを用いた挿入突然変異体からクローニングするのは容易でした。でも、期待通りの異常を持つ挿入突然変異体を探すには、やはり大変な作業が必要です。しかし、その頃から欧米ではたくさんの挿入突然変異体を作り、面白い変異体が得られたら自分で解析するのではなく、興味を持つ研究者に渡すというスタイルの研究者が出てきたのです。アメリカでABC遺伝子がいち早くクローニングされたのは、このような研究システムあってのことでした。ただただ変異体をとるだけの研究なんて私には考えられないことでした。自分に必要なものを自分でとるものと思っていた。でも今ではゲノム研究でこういうことが必要になってきています。研究のしかたが変わってきたんですね。基礎生物学研究所の研究室でも花弁や雌しべの形が異常になる突然変異体が次々に見つかって、私も花の形態決定に関わる遺伝子を次々とクローニングしていきました。1987年の最初の論文で、がく片や花弁が棒状になるFIL突然変異体などの花の形成に関わる数種類の突然変異体を報告しましたが、これが葉や花形成の機序を解析するその後の私の研究の中心テーマの出発点となりました。

花の形態形成が異常になる突然変異体の単離から研究を始めた。

根も葉も花も

植物では、ホルモンであるオーキシンが大きな役割をしますが、pin1突然変異体が思いがけずこれと結びつきました。茎の先端に蕾ができず針先のようになってしまう変異体で、明らかにオーキシンの極性輸送能が低下しているのです。1991年に出した論文は、私の研究の中では最もよく引用されるものです。最初志村先生と植物ホルモンの研究は避けようと言いながら始めた研究が、結局ホルモンとつながり、植物生理の研究者の関心を呼んだというのも面白いことだと思っています。

私たちの仕事で独自なのが根の研究です。植物はどれも根と茎と葉と花から成るという限られた構造です。しかもそれぞれが成長点という先端のところで細胞分裂が起き体を作っていくわけです。地面の上に出ている葉と花に注目が集まりますが、根も面白いはずです。環境との相互作用で言えば重力との関係ですね。根の変異体の探し方を考えた結果、45度に傾けた寒天培地に種をまくという方法に辿り着きました。根は真下に伸びようとするのですが、寒天が障害になるのでそれを避けて回転します。そこで伸びて行くとまたぶつかるので避けます。観察していると、6時間毎に左、右と動き波型に伸びて行くのです。なんだか子どもの遊びみたいで楽しかったです。こうして変異体を探すと、波型を作らずくるくる回転するもの、真直伸びるものなどが見つかりました。実は伸びているのは最先端部ではなくそこから細胞数にして20~30個離れたところなので外からの情報をそこに伝えるメカニズムがあるはずです。多くの変異体を調べることで少なくとも6個の遺伝子がここに関わっていることがわかり、それぞれが重力、光屈性など物理的刺激と結びついていました。根という地味な存在もなかなか面白いものなのです。

根や花の変異体を通して、それぞれの細胞が自分の空間配置(位置情報)を認識する機構の分子的実体を調べて、それが実際に葉などを作っていく仕組みを見ていきたいというところに興味が集中してきました。そこで今、葉の表と裏がどのようにできるかというところに眼を向けています。最近の仕事から、表裏の決定にコハク酸セミアルデヒド(SSA)が働いていることがわかりました。シロイヌナズナの芽生えにSSAを与えると両面裏になった葉ができるのです。1940年代に植物に様々な微小手術をする実験が盛んにおこなわれ、その中で成長点から葉の裏表を決める因子が移動するという説が出されています。SSAがこの因子だと面白いと思っています。また、葉の表側領域の組織分化を支配する制御因子としてPHBというタンパク質が見つかっているのですが、これが働く領域を決める際にマイクロRNAが必要だとわかってきました。裏側をきめるのはFILという制御因子、これら三つの関係について今モデルを考えているところです。

芽生えを育てる寒天シャーレの向きを変えることで、重力や接触刺激に対する応答能の違いによる変異体を分離した。野生型の株は斜めの寒天培地では根が下方へ伸びようとして左右にS字を描くが、変異体では根が直伸してしまったり同じ方向へ巻いてしまう。
Science Topics: 季刊 生命誌 2号
シロイヌナズナに見る根の成長の遺伝子コントロール  岡田清孝

1999年、京都大学の研究室を訪れたStrominger教授(右端)にシロイヌナズナの栽培室を案内。(中央奥:本人)

シロイヌナズナ研究を根づかせる

最近これまで20年以上かけてとってきた突然変異体を整理してみました。花と葉それから根の構造異常や形成異常、光屈性や重力屈性変異など様々な種類の変異体をとり、そこではたらく遺伝子を調べてきましたが、私の研究グループでクローニングして命名した遺伝子は40個以上になることがわかって驚きました。手を広げ過ぎじゃないかとも言われますし、自分でもそうかなと思いますけれど、日本にシロイヌナズナ研究を根づかせるという役目を担ってきたという思いがあり、狭い分野に絞らずできるだけ広くと心がけてきたことも確かです。1986年にこの仕事を始めた時からその気持は持ち続けてきました。1965年から始まった国際シロイヌナズナ研究集会の第3回集会が、研究を始めた直後の1987年に開かれたので参加し、1990年からはその集会の推進委員会のメンバーになりました。この頃から、シロイヌナズナの遺伝子導入体の作成や遺伝子クローニングができるようになったので、日本での研究を広く、強くしようと思い、志村先生や岡田先生と相談して基礎生物学研究所でシロイヌナズナワークショップを開催しました。その後毎年行なっています。1995年からは国際集会の方も毎年開かれるようになり日本の研究者もどんどん参加しています。この20年の間に、シロイヌナズナを用いる研究はすっかり定着しました。

ところで、1965年の第一回の国際シロイヌナズナ研究集会はドイツのゲッチンゲンで開かれています。ドイツではかなり前からシロイヌナズナが学校教育に活用されていて、変異体なども分離されていたことは前にもちょっと触れましたが、最初の集会がドイツで開かれたのはそのような歴史を踏まえてのことです。1964年の3月にはArabidopsis Information Service(AIS)という研究成果を報告する冊子がドイツのG・Robbelen博士によって発行され、1980年頃まで毎年出されていました。第一号の冊子を送っていただいたのですが、日本人研究者が多くの研究報告を掲載しておられるのでびっくりしました。ハンガリーからアメリカに移住したG・Redei博士がミズーリ大学で研究しており、AISを送って下さった廣野好彦さんという方がRedei博士の研究室でシロイヌナズナの研究をしておられたのです。私が2009年の植物学会学術賞を受賞した時にお手紙を頂いたのですが、シロイヌナズナの研究材料としての利点に気づき、その分子生物学をやりたいと思っていたのだけれど帰国した日本ではそのような場はなく断念したとありました。アメリカでも植物遺伝学はトウモロコシ、トマト、小麦などでなされるべきでシロイヌナズナは必要なしとされ、Redei博士も研究費がなく、自費で研究を進める状態だったのだそうです。1970年代のことですから、それほど昔ではありません。現在の研究の状況を見るとそこまで否定されていたとは隔世の感があり、研究の評価の難しさを感じますね。日本でも1970年代に植物学、遺伝学の教材として高く評価して大学や高校で使っている方がおられます。宮城教育大学の後藤伸治先生、東北大学の清水芳孝先生などです。後藤先生は1993年にSENDAI Arabidopsis Seed Stock Center(SASSC)を設立されましたが、そこにはご自身で採取されたシロイヌナズナの野生株とフランクフルトのJW Goethe大学のAR Krantz博士のコレクションが集められました。Krantz博士が退官する時に自分のもつ株を後藤先生に託されたのです。その後、後藤先生も退官され、SASSCのストックはRiken BioResource Centerに移されました。これまでの研究ではこういう縁の下の力持ちと言うべき仕事はあまり評価されませんでしたが、体系だった研究をするには生体試料(BioResource)がきちんとしていることが本当に大事です。シロイヌナズナの場合は、率先してそれをやって下さる方があり、ありがたいと思います。

今は基礎生物学研究所の所長という管理職のため、そちらに使わなければならない時間が多いのですが、研究の面白さは忘れていませんし、この役目を生かして日本での研究システムをよりよくして若い研究者が大勢育つ環境づくりに努めたいと思います。シロイヌナズナを見ていると可愛い。研究の基本は生きものを見ることだと改めて感じています。

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基礎生物学研究所のシロイヌナズナ栽培室で。 手入れをしているのは八重咲きの変異株。

1987年から参加している国際シロイヌナズナ研究集会の要旨集。1990年から5年間は推進委員会のメンバーとして活躍した。

写真上:1991年基生研で開いた第一回ワークショップの記念撮影。(前列左端:本人、左から五人目:志村先生)
写真下:シロイヌナズナの扱い方を若い研究者に指導。(左奥:本人)

2009年、植物生理学会の後、研究室の同窓会で還暦のお祝い。(前列中央:本人)

2010年、東京で開かれた国際シロイヌナズナ研究集会の後、ABCモデルのMeyerowitz博士(中央奥)らと会食。(右端:本人)