免疫学を志す
ある日、これを翻訳してくれたまえと、先生に渡された本が『The Chemistry of Antigens and Antibodies 抗原と抗体の化学』(J.R.マラック著、1938)で、これが私と免疫化学のつき合いの始まりでした。東京大学医学部の学生だった私が、1946年の夏休みに細菌学を学びたいと思って、伝染病研究所(現在の東大医科学研究所)の中村敬三教授の研究室に実習に行っていた時のことです。中村先生は元来細菌学者でしたが、同時にアレルギーの薬理学的な研究をされており、アレルギーが免疫学的な機序で起きると信じておられました。免疫学は、ベーリングと北里柴三郎の抗毒素の発見に始まったものですが、戦争中の日本ではもっぱら細菌毒素や抗感染免疫、ワクチンの研究に力が注がれていました。しかし、中村先生は、これからの免疫学には化学的なアプローチが必要と考えておられたのだと思います。
マラックの本は第一章が化学結合論に始まり、聞いたこともないような話の連続でしたが、主体は、抗原の特異性はその化学構造によって決まるということの系統的な叙述でした。終戦の1年後でしたから、日本には外国の本はほとんど入ってきませんでしたし、抗原と抗体がなぜ特異的に結合するかなどということは誰も問題にしていませんでしたから、私にとってその内容は驚きであり、非常におもしろかった。しかも翻訳しなければならないので何度も読むうちに、内容を克明に憶えてしまったのです。おそらく先生の目的は私を夢中にさせることにあったのでしょう。確かに、この本を訳さなかったら、私は免疫学をやる気にならなかったかもしれません。
卒業後、1950年に先生の教室(国立予防衛生研究所/予研)に入りました。学生時代から先生とは本当によく議論しましたね。私が質問すると、先生は文献を渡されて、君の質問の答を得るためにはどんな実験をしたらよいか考えてこいと言われる。答をもってゆくと、初めて、僕ならこういう実験をするがねと言われる。このようにして先生は私に考え方を教えて下さったのだと思います。日本にはまだ免疫化学が入っていない時代でしたが、卒業後研究所に入ってからは、先生は免疫化学の領域で私が疑問に思うことをやらせて下さり、御自分は相談相手になって下さったわけです。
アメリカ留学とキャンベル先生の教育
中村先生の推薦で、57年にカリフォルニア工科大学の免疫化学のダン・キャンべル教授の元に留学しました。キャンベル先生はアレルギ一の機序について、中村先生とは独立に似たような仮説を出されており、お互いに、面白いやつがいるなと思っていた仲でした。しかしタイプは全く違い、中村先生は、見るからに、教養のある高雅な紳士で好男子でしたが、キャンベル先生はお酒好きで、“自分は野人だ”と言っていました。
当時は、アメリカと日本では研究のレべルがまるで違っていましたが、キャンべル先生は始めから私をアメリカ人と同じように扱い、容赦なく、プロの研究者はどうあるべきかということを叩き込みました。彼の教室では、大学院生もフェローたちもものすごい勢いで働いていました。
アメリカに着いて1週間ほどして、テーマを相談すると、先生はアレルギ一反応は抗原と抗体が反応してつくられた結合物が生物学的活性を持つために起きるのだと思うと話してくれました。当時は、細胞に結合している抗体に抗原が反応することが刺激になってアレルギー反応が起きるというのが常識であり、彼の考えは聞いたこともないような仮説でした。面白いと思ったら証明してみろというので、どうやって証明するのですかと意見を聞くと、それは俺のbusinessではないとそっけない。テーマをやったのだから後はお前が考えろというわけです。そこで、とにかく抗原と抗体の結合物を試験管内でつくり、モルモットに皮膚反応が起きるかどうかを調べ始めました。キャンベル先生は、毎日、実験室にふらっと現われて研究員たちと短い言葉を交わす程度で、まとまった報告などしたことはないのですが、彼はそれぞれの進捗状況を実によく知っていました。そうこうするうちに、私の仕事で理論的なことが分かってきたら、小説を書くつもりで論文を書けと注文するのです。私が、日本人に英語で小説なんか書けますかと言ったら、それは分かるが、論文は小説みたいに面白くなければ誰も読んでくれないから面白くないものは書いたって無駄だと言う。ある時などは、私が次にこういう実験がしたいと言ったら、実験を始める前に論文を書けという。御冗談でしょうと言ったら、ランドシュタイナー(抗原の構造と特異性の関係を系統的に解明した学者で、ノーベル賞受賞者)はいつもそうしていた、今のお前にはそれが出来るはずだというのです。しかたがないので、先生の言葉に従って、予測のもとに論文を書いてから実験をしましたが、これは大変なアドバイスだったと思います。書いてから実験をすると、結論を出すために必要な対照は完壁に取れることになりますから、期待通りの結果が出なかった時でも、その実験は無駄にならない。その当時は、抗原抗体結合物の仕事もポピュラーになり、大きなグループが我々を追いかけてきていましたから、失敗などはしていられない状況でした。要するに、キャンベル先生は、仕事が軌道に乗った時、競争に勝つ方法を教えてくれたのです。そのような指導を受けて、抗原抗体結合物はモルモットにアレルギー性皮膚反応を起こすが、1分子の抗体に抗原が結合したものは活性がなく、2分子の抗体が同一の抗原に結合して初めて活性が現れることを明らかにすることができました。しかも、活性が出るか出ないかは抗原の化学的性質とは無関係で、抗体の性質(種類)で決まることもわかりました。明快な方法を教えてもらったので、はっきりした結果が出せたのだと思います。
ジョンスホプキンス大学でアメリカ東部を知る
58年の春、フィラデルフィアの免疫学会での発表がきっかけで、ボルティモアのジョンスホプキンス大学から誘いがきました。仕事がうまくいっていたので、移りたくはなかったのですが、キャンベル先生は、お前はここがアメリカだと思っているけれど東部へ行ってみろ、全く違う、それを知ってから日本に帰ったらどうか、と言うのです。
59年の1月に移ったジョンスホプキンスでは、それまでの仕事を続けてもよいことになっていたのですが、医学部ですから、実験動物はふんだんに使える一方、機械や試薬はあまり豊富ではありません。しかも、キャンベル先生の教室のように、多量の抗血清も持っていません。私はあと8ヶ月で日本に帰らなければならないので、自分でウサギを免疫していたのでは、実験をする時間がなくなってしまいます。仕方なく、抗体を使わずに今までの仮説を証明する方法を考えました。
それまでの結果から、抗原抗体結合物がアレルギー性反応をおこす活性を持つのは、2つ以上の抗体分子が抗原によって引き寄せられるためであり、抗体が集まるのが大事なのではないかと考えていました。そこで、正常のγグロブリンを化学的な方法で重合させてみました。もしそれで抗原抗体結合物と同じ活性が出れば、抗原は抗体を重合させるためだけに働いていたということになります。確かに、重合したγグロブリンは皮膚反応を起こしたのです。予想的中!嬉しかったですね。
実は、ジョンスホプキンスに補体に関しては世界一の学者であるマンフレッド・メイヤー先生がいました。妻の照子は日本にいた時から補体の研究をしていたので、彼女はメイヤー先生の教室で研究を進め、重合したγグロブリンが抗原抗体結合物と同様の機序で補体を結合することを証明しました。これで、補体が抗原抗体結合物に結合するのも、抗体分子が(抗原によって)重合するためであることがわかったわけです。キャンベル先生の言ったように、ボルティモアはカリフォルニアとは違って住み難い所でしたが、幸い仕事の方はうまくゆきました。
結局、2人で、2年間の留学の間に9つの論文を発表しましたので、アメリカに残らないかという誘いもあったのですが、私は公用出張で留学しているのですから帰らない訳にはいかない。しかし、当時の日本では、アレルギー性疾患などは問題にされていませんでしたから、予研でこの研究を続けることが許されないのは当然です。そこで、キャンべル先生に相談したところ、アメリカ政府は他の国の研究にも研究費を出しているから申請してみてはどうかというので、NIHへ研究費の申請書を出してから帰国しました。幸い翌年からこの研究費をもらうことが出来たので、私どもは日本でもこの研究を続けることができました。こういうところ、アメリカのふところの深さを感じますね。研究には国境はないと言われますが、こういうところで実行している。素晴らしいことです。
なぜ再びアメリカに戻ったか?
帰国した59年の暮に、イギリスのポーター教授(後のノーベル賞受賞者)が、抗体をパパインで分解して3つのフラグメントに分けることに成功し、その内の2つ(Fab fragment)が抗原に結合することを報告しました。この時から、免疫学の研究は抗体の構造を調べる段階に入ったのです。予研に戻った私は、抗体のどの部分の構造がその生物学的活性に関わるのかを同定しようと考え、抗原と結合しない部分(Fc fragment)に目をつけました。ポーターの方法に従って抗体を3つのフラグメントに分け、Fc fragmentを重合させればアレルギー性反応や補体結合を起こすが、Fabを重合させてもこれらの活性は出ないことを証明しました。つまり、抗体の生物学的性質はFc部分の構造で決まるということです。私はこの結果を61年の日本細菌学会で発表したのですが、誰も感心してくれない。なぜそんな意味の無いことをやるんだという批判まで受けました。しかしアメリカでの体験や世界の動きを見て、この仕事には自信があったので、同じ年にニューヨークで開かれた国際学会で発表しました。その反響は大きく、あちこちからセミナーを頼まれ、3週間の旅行の間に、3つの口がかかりました。日本とアメリカでのあまりの反応の違いに、考え込みましたね。アメリカには同じような研究をしている強カな競争相手がいる事もわかりました。研究者は、自分の仕事の意義がわかってくれる所で研究をするべきだと思いましたので、ここで、アメリカに戻ることを選びました。
小児喘息研究所
62年の秋にデンバーの小児喘息研究所に赴任しました。ここは民間の小さな研究所で、しかも着くなり、所長が理事会と喧嘩をして辞任してしまったので、初めは研究所の立て直しに苦労しました。しかしそういうことで、かえって研究所内の人間関係がしっくりゆきました。雨降って地固まるということです。ここは地方の名もない研究所でしたから、その後の研究が時流に流されることなく、潰されないですんだという利点もあったと思います。
私の目的は、これまでに動物実験でわかった仕組みがヒトのアレルギーにもあてはまることを証明することでした。ヒトのアレルギーについては、アレルギー患者の血清を正常の人の皮膚内に注射して、翌日アレルゲンをその局所に注射するとアレルギー性反応が起こることがわかってきました。つまり、アレルゲンと反応する抗体様物質が患者血清中に存在することが予想され、その物質はレアギンと呼ばれていたのです。一方、60年代の初めには、抗体活性を持つタンパク質は1種類ではないことがわかり、これらのタンパク質は免疫グロブリンと総称され、それぞれ、IgG、IgM、lgAと名づけられていました。レアギンの本体は長い間不明でしたが、免疫グロブリンの研究が進む中、62年にレアギン活性が患者血清中のIgA分画に存在するという有名な論文が発表されたのです。以来、多くの人が傍証をあげ、64年の国際学会では、レアギンはIgA抗体であるということがほとんど定説になりました。
そんなわけで、私もレアギンはIgAだと思っていたのですが、どうもそれでは説明のつかないことがある。しかも、私のつくった抗IgA抗体を患者のIgA分画に加えて、IgAを全部取り除いてもレアギン活性はなくならない。つまり、レアギンはlgA分画中の不純物だということになります。
ところが困ったことには、レアギン活性を持つタンパク質は非常に微量であることがわかりました。lgAは血清1cc中に3mg、IgGは10mgあるのに、このタンパク質は1μgぐらいしかない。こんな微量なタンパク質を精製しようと思えば、数リットルの患者血清が必要となりますから、このタンパク質を純粋に取り出して、その性質を確立することは不可能です。
ここで1週間ぐらい考えに考えた結果、この未知のタンパク質とだけ反応するウサギの抗体をつくり、それを使ってこのタンパク質を同定しようと考えました。レアギンを含む分画で免疫したウサギの抗血清から既知の免疫グロブリンと反応する抗体を全部除き、それをアレルギー患者の血清に加えた時、レアギン活性がなくなれば、その抗血清はレアギンに特異的な抗体を含んでいることになります。
ところが、ウサギはなかなか問題の抗体をつくってくれません。レアギンがなくなったかどうかを調べるためには、主に私の背中を使って、妻に調べてもらっていたのですが、数ヶ月間免疫をくりかえす内に、ようやく1匹のウサギの血清中に問題の抗体がみつかりました。しかも、この抗体と反応するヒトのタンパク質はアレルゲンを結合しましたから、新しい免疫グロブリンと考えられます。そこで、アレルギー性皮膚反応のErythema(紅班)のEをとって、このタンパク質をγEと名付けました。
66年の春ニューヨークの全米アレルギー学会でこの仕事を発表した時は、みな興奮しました。もちろんずいぶん質問もありました。ところがその後、他の研究者が同じことをやろうとしても、レアギンに対する抗体が出来ないので、あれは間違いだったのではないかということになってきたのです。1年後の学会では、γEはまだあるのかなどと皮肉っぽく聞かれました。しかし私どもはその時、γEの物理化学的性質を発表しましたし、患者血清中のアレルゲンに対するγE抗体の濃度とレアギンの活性は相関することも示しましたので、γEは追試ができないまま認められることになりました。この仕事はその後も順調に進みましたが、他の人達はγE(レアギン)に対する抗体をつくることができないので、追いかけようがなかったわけです。
しかし、γEを新しい免疫グロブリンと認めるためにはγEをつくる骨髄腫が必要です。我々も探したのですが、アメリカでは見つかりませんでした。ところが、67年にスウェーデンで非定型的な骨髄腫蛋白がみつかり、それが我々のγEに対する抗体(抗γE‐抗体)と反応、lgE骨髄腫と判定されました。そんな経路を経て、68年にスイスのローザンヌで開かれたWHOの会議で、γEは正式にlgEと呼ばれることになりました。
γE骨髄腫蛋白があれば、誰でもlgEやレアギンに関する仕事ができるわけですが、スウェーデンの連中は、骨髄腫蛋白を一切外部には出しませんでした。そこで我々もアメリカでlgEの骨髄腫を探し続けたのです。幸い、68年になって、アメリカでピーター・ジャックフォードというlgE骨髄腫の患者が見つかりました。彼は毎週大学にきて、血漿交換をすることに賛成してくれ、1年で40リットルの血漿を提供してくれました。私どもはその時から10年問、この血漿から精製した骨髄腫蛋白を依頼に応じて世界中の研究者たちに送り、多くの研究者がこれを使って研究をしてくれました。また、69年以来世界中で使われた市販の抗lgE抗体の大部分は、彼の骨髄腫蛋白を使って作られたものです。ジャックフォードさんは、病気が発見されてから1年で亡くなりましたが、彼の貢献は非常に大きかったのです。
ジョンスホプキンスから、ラホイヤ・アレルギー免疫研究所設立
小児喘息研究所は、こじんまりした地方の研究所でしたが、私どもはよい人間関係に恵まれて落ちついて研究ができました。その間いくつもの誘いを断っていましたが、結局70年にジョンスホプキンス大学医学部教授としてボルティモアに移ったのは、私たちの基礎研究が臨床医学の研究に広がってゆくことを期待したからでした。ジョンスホプキンスでは強カな臨床免疫部門を持ち、特にアレルギーの研究に熱心でしたから、我々の研究を臨床に応用したかったのです。
我々としては、レアギンの正体がわかりましたので、IgE抗体がどの様な機序でアレルギーを起こすのかが次の研究課題になりました。アレルゲンが体内に入ると、それに対するIgE抗体がつくられ、それが、そのFc部分で鼻や目の粘膜などに並んでいる肥満細胞の表面にある受容体に結合する。次にアレルゲンが入ってくると、それは肥満細胞に結合しているlgE抗体を架橋し、その刺激で細胞内の酵素が活性化されて、細胞からヒスタミンやロイコトリエン、プロスタグランジンが放出され、アレルギー症状を起こす。この様な機序は照子が中心になって行った研究から明らかになったことです。一方私は、IgE抗体は、なぜある条件でしかつくられないのかということに興味をもち、抗体産生の問題に取り組みました。ジョンスホプキンスはlgE産生、lgEによるアレルギー反応の機序、臨床アレルギーの3つの研究領域を持っていたので、国際的にもアレルギー研究の指導的役割を果たせました。
このように、ジョンスホプキンスに移ってから最初の10年間は自分達の研究と若い研究者の育成が私の主な仕事でしたが、80年から免疫学部長を引き受けましたので、私は大学院学生の教育の責任を負わなければならなくなりました。また、政府からの研究費の配分とか、大学院学生への政府の援助とか、研究費申請書の評価に関する仕事も多くなりました。ジョンスホプキンスはワシントンから近いので、何かとNIHから意見を聞かれることが多かったと思います。私は根っからの研究者ですから、大切だと考える課題について自分で研究することが一番楽しいのですが、若い研究者や学生を育てることも、自分が専門とする免疫学の将来のには不可欠なことですし、そのための努カも大いにやり甲斐のある仕事だったと思います。そういうことは、そもそも私が先生たちから学んだことです。先生達の時代には、免疫学を独立した領域として確立するという目的がありました。自分達の分野を認められるようにしたいということになると、競争相手を叩き落としているわけにはいきません。政府に働きかけて研究人口を増やすことも、若手を教育することも大切だったわけです。
私が89年にラホイヤに新しい研究所をつくる気になったのは、次の時代の研究者に賭けたいと思ったからです。80年代のアメリカは国の財政が悪化していましたから、基礎研究をすべて政府に依存することができなくなっていました。そうなると、いくらアメリカでも、学界の大勢にそわない研究には研究費が出にくくなってきますので、若い人が独創性を発揮できません。80年に施行したバイドール法は、大学の基礎研究が政府だけでなく企業からも支援されることを可能にしました。ラホイヤの研究所の設立は、バイドール法を100%利用させてもらったお蔭です。この研究所は企業のお金で公益研究所をつくる原型になりましたが、現在約200名の研究者を擁し、アメリカ中に名を知られるものになっています。研究者達はもちろん激しい競争社会の中にありますが、彼等はよく協カしあっており、我々が先生から受け継いだ精神が保たれていると思います。
引退して思うこと
私は70才で引退して日本に帰ってきましたが、振り返ってみると、私ほど自分のやりたいことを、自分の行きたい所へ行って、自分の好きなようにやった日本人は珍しいのではないかと思います。よい指導者に恵まれましたし、周囲の人からも理解されました。しかし私がこんな勝手なことができたのは、何といっても照子のお蔭だと思っています。彼女はすべての意味で私の相棒であり、大学や研究所内では、研究以外でも、私の不得手なことは頼まなくても進んでやってくれました。彼女はラホイヤで発病し、山形大学病院に入院してから4年になりますが、私には彼女を犠牲にしたという感覚はありません。彼女も自分の生きたいように力一杯生きたと思いますし、少なくも25年間は自分のやりたい研究をしましたから研究者としても恵まれていたと思います。彼女が79年からジョンスホプキンスの教授になり、ラホイヤ研究所のアレルギー部長兼カリフォルニア大学教授であったのは、その研究業績を考えれば、男女同権のアメリカ社会では至極当然でした。しかし日本の社会ではいつまでたっても色眼鏡をかけて見られるようです。その原因の1つは、日本の大学の人事が教授会という閉鎖社会で、“お手盛り”で行われていることにあります。しかも、日本の大学人は欧米の大学でも同じことが行われているだろうという大変な誤解をしているようですが、アメリカのプロの社会では“なれあい”はありません。
アメリカの大学の教授選考は、候補者と専門を同じくする学外の多くの学者達の率直な意見を聞いて行われています。現在の日本のシステムを変えないかぎり、大学改革もできないし学閥もなくならないでしょう。もう1つ私が気になることは、日本の将来の科学の方向を決める研究費の配分や教育方法が学者の意見ではなく、研究にも教育にも経験のない政府の官僚によって決められていることです。従って、日本では、常識的なことや既に流行している領域に重点がおかれています。考えてみると、私が30代にやった研究は、当時の常識からはずれたことばかりでした。日本では、現在でも大部分の研究費はグループ研究に分配されていますが、当時の私のことを考えると、この方法の下では、どう考えてもグループに入れてもらえなかっただろうと思います。
アメリカの研究者たちは、自分の専門領域の将来は自分たちが決めなければならないという責任感が強く、そのために大変な努力をしていますし、政府もそれに依存しています。私も照子も、ジョンスホプキンスに居た時は、そのために多くの時間を費やしました。それは、自分のためには何の得にもならない努カですが、自分の専門領域の学問の将来のためには必要なことです。私は、日本の学者達が同じような努力をしない限り、日本のサイエンスは国際的な競争に勝てないのではないかという危惧を持っています。(文責:高木章子)