コールド・スプリング・ハーバーで
1955年5月、私は日本を出航し、合衆国ロングアイランドのコールド・スプリング・ハーバーにあるカーネギー遺伝学研究所に到着した。その2年前、ワトソンとクリックがDNAのモデルを発表した時もほとんど話題にもならなかった当時の日本で、微生物遺伝をやるならデメレッツ教授のところへ行くように勧めたのは京都大学農学部の木原均教授だった。
コムギの研究からゲノム説を打ち立てた木原先生は、さらには細胞質遺伝の重要性を唱え、また遺伝学は微生物の時代になると予見していた。木原研究室に入門した私は、葉緑体の遺伝を微生物でやってみたいと思い、ミドリムシ(ユーグレナ)の研究に着手した。まもなく、ミドリムシにストレプトマイシンを与えると、葉緑体が消失して、”シロムシ”になるという奇妙な現象が報告され、私は、熱によっても同様のことが起きることを実験によって証明した。ミドリムシの本体には影響ないが、葉緑体の増殖が阻害されるのだと考えられ、このことは細胞質遺伝因子の存在とその自律性を示唆していた。当時は葉緑体の遺伝解析をそれ以上進める方法はなく、研究を中断することになったが、不思議とその後ずっと私は、主要な染色体以外の遺伝因子を追うことになる。
当時のコールド・スプリング・ハーバーは、バクテリアやバクテリオファージの遺伝学の中心だった。DNAの分子モデルに立脚し、実験的に遺伝子の内部構造を決めていく新しい分子遺伝学を目の当たりにして、私は目からウロコの落ちる思いがした。なにせ京都では、ルイセンコ説をめぐって遺伝子の存在すら否定しかねない議論がさかんに交わされていた頃である。アメリカでは驚いたことに、ATGCの4種類の塩基の組み合わせでアミノ酸が指定されるというガモフのモデルが、科学雑誌『サイエンティフィック・アメリカン』に掲載され、駅の売店などで安価で売られており誰でも読むことができた。それから5年くらいして3個の塩基の組み合わせによる遺伝暗号が確立するのだが、私はそういう時代をまさにその研究の中心で過ごすことになった。
デメレッツ研究室では、サルモネラ菌から多数の突然変異体を分離し、バクテリオファージの形質導入を利用して解析するという研究が大々的に進められていた。形質導入というのは、あるサルモネラ菌に感染したファージが、ファージDNAの代わりに菌染色体の断片を取り込み、感染によって別のサルモネラ菌にそれを持ち込むという現象である。2株のサルモネラ菌を部分的に交配することになり、遺伝解析が可能になる。遺伝子はメンデル以来、1つの単位形質に対応する最小不可分の単位とされてきたが、形質導入を利用した詳細な解析によって、可分であることがわかってきた。私が留学した翌月には、ベンザー(当時パーデュー大学)によって、T4ファージのr II 遺伝子に関する詳細な解析から、1つの機能的単位としての遺伝子も組み換えの単位としては1塩基のレベルまで分割できるという報告がなされ、デメレッツらの研究と相まって現在のような遺伝子概念の基礎が確立されることになる。
さらに、デメレッツの研究室では、機能的に関連した遺伝子は互いに隣接して存在する傾向にあるとという大きな発見があった。現在オペロンと呼ばれているような、複数個の遺伝子で構成される、より大きな遺伝子単位がこの時すでに検出されていたことになる。例えば、トリプトファンの合成に4種の酵素が関与しているとすれば、それらに対する4個の遺伝子が1つの領域に並んでいることになる。どの遺伝子が突然変異を起こしても、同じトリプトファン要求性(trp–)という表現型になるため、それらを各遺伝子に分類する必要が生じてくる。
私は、そのための簡便な方法としてアボーティブ・トランスダクション(不稔形質導入)が利用できるのではないかと考えた。不稔形質導入というのは、導入された染色断片が、宿主染色体に組み込まれることなく、したがって増殖もしないが、各細胞分裂ごとに一方の娘細胞にのみ安定に受け継がれ、形質を発現し続ける現象である。2種の異なるtrp–菌の間で形質導入を行なった場合、それらが異なるtrp–遺伝子に由来すれば互いに機能を補い合って不稔形質導入による微小なコロニーが形成される。同じ遺伝子の場合には形成されない。微小コロニーの有無によって、機能的単位としての遺伝子を検出しようとするものである。万能ではないとしても、簡便な方法として各種栄養要求性株の解析に広く利用されるようになった。この仕事が私のデビュー作となり、遺伝子概念の確立にささやかながら一役買うことになった。
私は研究がますます面白くなっていたが、アメリカでの3年のビザの年限が迫り、研究を続けるためにロンドンのリスター予防医学研究所微生物部門のストッカー教授のところに行くことにした。
イギリス、再びアメリカ、そして帰国
大腸菌は接合と呼ばれる方法で遺伝子を交換する。これを利用すると、染色体全体にわたる大きな遺伝子地図が描ける。接合しないと思われていたサルモネラ菌では、形質導入によって、個々の遺伝子の細かいマッピングができた。この両方を満たす方法を探っていた私は、ストッカー教授のアドバイスによって、サルモネラ菌もコリシン因子と呼ばれるプラスミド(宿主染色体とは別に存在する小さな遺伝因子)の1つが接合によって遺伝子組み換えを引き起こすことを発見した。サルモネラ菌でも染色体全体の遺伝子地図が描けることがわかったのである。たまたま研究所を訪れたルリア教授(ファージの研究でノーベル賞を受賞した)に話をすると非常に面白がって、マサチューセッツ工科大学(MIT)に来ないかと言う。1960年私は、ロンドン大学の学位授与式を待たずに再び渡米することになった。
当時は分子生物学が急速な展開を見せはじめた頃で、ルリア研究室には、セミナー、口コミ、プレプリントなどによって、いつも新しい情報が集まってきた。MITでポストドクを経て講師をしていた約2年間、mRNA、遺伝暗号、オペロン説などの新しい概念が次々と確立され、分子生物学の潮流の渦中にいることを実感した。分子生物学では、その頃を中心に1960年代の半ばまでを”ロマンティック時代”と呼ぶことがある。処女地に、新しい分野を構築していくような、夢多き時代であった。アメリカに腰を落ち着けることを覚悟しはじめたちょうどその頃、先に帰国した国立予防衛生研究所(予研)の富澤純一科学部長から、科学部に新しい分子生物学の研究室を開設するので参加しないかという誘いがあり、私はこの新しい分野を日本に移植するという気持ちで帰国を決意した。日本を発って7年の歳月が流れていた。
富澤さんとは分子生物学の草創期を共に現地で過ごしたなかであり、以来、予研、大阪大学を通して、何かにつけて大いに啓発されることになった。かつてコールド・スプリング・ハーバーには、ファージコースというものがあって、世界中から、新しい生物学を求める若い優秀な研究者が集まってきた。この講習会が今日の分子生物学に果たした役割は大きい。富澤さんの発案で、日本でもファージ講習会が開催され、私も講師として参加した。この講習会は、1960年代に入った頃からようやく普及しはじめた日本の分子生物学に拍車をかけることになり、受講生のなかから、その後の分子生物学を担う研究者が数多く輩出することになった。
京都での20年―tRNAの研究を始める
1969年、私は京大理学部に新設された生物物理学教室の教授として分子生物学の講座を担当することになった。新しい皮袋には新しい酒をということで、tRNA(移転RNA)の分子遺伝学を始めることにした。
tRNAは遺伝暗号(コドン)を各種アミノ酸に対応づけるという役割をもった一群のRNA分子であり、あらゆる細胞に普遍的に存在している。いずれもクローバ葉モデルで記載できるような構造的画一性をもつとともに、一方ではそれぞれが異なるコドンとアミノ酸とに特異的に対応するという個性をもち、多様性にも富んでいる。tRNAの研究はそれまで生化学的に進められてきたが、遺伝学的にはまったく手が付けられていなかった。私は、予研時代に、世界で最初の例となった1つのtRNA遺伝子を大腸菌で検出しており、しかもその遺伝子をファージゲノムに組み込ませた形質導入ファージの分離(つまりクローン化)に成功していた。そして、それを手がかりにtRNA分野に新たに分子遺伝的手法を持ち込むことを計画していた。
私は未知の分野を開拓するほどの意気込みで研究を開始した。幸いにして当初から優秀なスタッフと大学院生に恵まれ、tRNA遺伝子を次々と同定するとともに、tRNAの生合成ややアミノ酸特異性などに関する突然変異体を分離することに成功し、世界的にも”京都グループ”として注目されるような研究室に育っていった。そして、定年の間際には大腸菌ゲノムにおけるtRNA遺伝子構成の全容を明らかにすることができた。
私のどの研究も、結局、的確な変異体の分離という基本作業に支えられてきた。遺伝子工学という言葉がマスコミにも盛んに登場するようになった頃、哲学者の上山春平氏(当時京大人文研教授)が、最新の生物学に興味をもって研究室を覗きに来たことがある。コロニーを爪楊枝で一つ一つ拾っている私を見て、彼は「なんや田植えみたいなものやな」。ものすごい機械を使うようなテクノロジーを期待していたらしいが、変異株を利用する分子遺伝学は、言ってみれば、工学というよりもむしろ生き物のうまみを利用する農業のようなものなのかもしれない。
ゼニゴケの葉緑体全ゲノムを解析
停年の5年前、tRNA研究と並行して、葉緑体ゲノムの研究を再開した。葉緑体は学生の頃からのテーマである。京大農学部の大山莞爾さんとの共同研究によって、1986年にはゼニゴケ葉緑体ゲノムの全塩基配列を決定した。葉緑体ゲノムとしては世界で最初である。たんに配列を決めたばかりではなく、イントロンの検出法なども考察し、機能が未同定のものも含めて遺伝子構成の全容を明らかにすることができた。
葉緑体やミトコンドリアなどは細菌の細胞内共生がその起源と考えられており、その説を支持するように、大腸菌遺伝子との間に多くの類似性があることが明らかになった。それとともに、葉緑体の遺伝子構成は非常に不完全であり、リボソーム、ATPase系、光化学系、ルビスコ酵素など、蛋白質複合系のどの1つをとっても、葉緑体遺伝子のみで完成するものはないという状況もわかってきた。共生した細菌から多くの遺伝子が宿主核に移行したという説もあるが、いずれにせよ核にも葉緑体に関する遺伝子が多数あり、葉緑体がそれ自体の遺伝子と核遺伝子との相互作用の上に成立していることが具体的に示された。折から、名古屋大学のグループによって、高等植物であるタバコの葉緑体ゲノムの全構成が決定されたが、遺伝子構成や遺伝子地図はゼニゴケとほとんど同じだった。このことは、コケ植物と高等植物が分岐したとされる約3億年前に、すでに現在のような葉緑体システムが確立していたことを示唆しており、すべての陸上植物の葉緑体が同じ単一の起源から派生してきたという説を提唱することができた。
木原先生が生きておられたらどんなに喜んでくださっただろう。木原均教授の門をたたいて以来、ミドリムシの葉緑体から、大腸菌、サルモネラ菌、tRNAの研究を経て、再び葉緑体に戻ったのも、私としては主要な染色体とは別に存在する遺伝要因を解明して全体を見たいという一貫したテーマからであり、思えばゲノム説についで細胞質遺伝の重要性を唱えた木原教授によって蒔かれた種であった。
いつも自分で考えた
私は子供の頃から、覚えるべく課せられた勉強というものが大の苦手だった。本当の基本だけ知っていればあとは自分でできる数学だけが好きだった。分子遺伝学をやって一番よかったと思うのは全部自分の頭で考えていけるということだったかもしれない。新しい分野には勉強すべき古典というものがない。物理や科学や医学などからも非常に優秀な人たちがこの分野に集まってきたが、いずれも専門ではない、素人集団だったといえる。「これ何でや」と自分で考えるしかない。自分の頭で考えて辻褄が合えば、それが自然の法則に自然に合っていくようになる。うまく合う時というのはずっと先まで合っていくものである。
はからずも、分子生物学の勃興期に生まれ合わせ、あとちょっと遅くても早くても出会えなかったであろう人たちにめぐりあい、夢多き時代を過ごすことができた。その気ままな研究生活の中で、自分で新しい方法を見つけ、新しい理論を打ち立てる機会を与えられた私は幸運だったと思う。