トリプトファンとの出会い
医者を目指したのは、明治末に単身アメリカに留学して医学を修め、さらにドイツでも研究した開業医の父の影響だった。入学した大阪大学医学部では谷口腆二先生の感化で細菌学に興味をもったが、3年次に太平洋戦争が始まり、私は軍医として海軍に入隊した。
敗戦後の大阪は一面焼け野原で、住むところも食べるものもない。田舎で開業医になろうと思い、谷口先生に挨拶に行ったところ、これからの日本は基礎研究からやり直さなければならないと説得されて、大阪大学微生物学研究所で、研究に従事することになった。「にぎり飯より柿の種だよ」という先生の言葉でその気になったのが、これが最初の運だ。
ところで当時の研究室では、アメリカの新しい雑誌や本を読んでのセミナーに明け暮れていた。私は、本の知識、アメリカでの知識も結構だが、いくら知識を増やしても自分で学問を進歩させることはできない、何か実験がしたいとちょっと苛々していた。
あるとき、古武弥四郎先生(当時大阪大学名誉教授)が、何か研究に使って欲しいと、トリプトファン(アミノ酸の一つ)の入ったビンを持ってこられた。それは先生が一生かけて天然物から分離・精製されたトリプトファンの残りで、薬を買うお金もない当時としては非常に貴重なものだった。
これはいいものをもらったと思ったのだが、生化学の第一人者の古武先生が一生かかって研究してこられたトリプトファンを、お前のような素人が研究したってろくな論文を書けるはずがないと、周りの者は悲観的だった。確かに、実験動物も餌もない。しょっちゅう停電するし、水もガスもチョロチョロという時代に何ができるだろうと迷ったが、何かしたいと考えた。
外国の雑誌に、ある物質の水溶液に土を混ぜると、その物質を栄養源にして成長するバクテリアが増えてくるという実験が出ていた。これをトリプトファンでやってみよう。そう思いついて、爆撃で焼け野原となった微研の裏で、10ヶ所くらいから採取した土を試験管に入れ、貴重なトリプトファンを耳かきの先程度入れて水を加えてみた。翌朝見ると、土は沈殿し、上は透明な水で何の変化もない。ところが3日目には、上澄みが白く濁っており、バクテリアが生えていた。トリプトファンを分解して栄養源にして生きる特別なバクテリアだ。
古武先生は何十年も哺乳動物で研究されてきたのだが、それとこのバクテリアとではどこが違うのかということを比べてみた。その結果、トリプトファンの分解は、人間もネズミもこのバクテリアでも、あるところまでは同じだが、その先が違うことがわかった。バクテリアの場合は、芳香族が脂肪族に変わるというところまで分解されるのである。そこに働いている酵素を取り出して、その性質を調べると、今までどの生物でも知られていない、まったく新しいものだった。ピロカテカーゼと名づけた。
普通、トリプトファンなどの栄養物が生物の体内で酸化される時には水素がとれるのだが、この反応では酸素が加わると私は考えた。しかし、生物での酸化は、酸素が加わるのではなく、水素がとれるというのが、ノーベル賞をとった大学者ウィーラント以来の定説だった(脱水素学説)。それにお前みたいな何も知らん新米が反対しても駄目だ、と先輩や同僚に諭され、論文には、非常に遠慮深く脱水素ではないようだという程度にして発表した。酸素が付くなどと言ったら恐らく雑誌には載せてもらえなかっただろう。
確かにいくつかの状況証拠はあったが、確定的ではなかった。サイエンスは動かない証拠を実験で示すことが基本である。いつかは証明してやろうと思った。
アメリカへ
この論文が、グリーン教授(ウィスコンシン大学酵素研究所初代所長)の目にとまり、1949年、招聘されてアメリカに行くことになった。
アメリカは、私が父の留学中に生まれ、8ヶ月までいた国だ。記憶にはないが、両親は、その後の日本での暮らしでもハイカラで自由な気風で私を育てたので、生まれた国に戻るという気持ちで期待に胸を膨らませた。
マディソンという小さな町の飛行場に、雪の中降り立つと、グリーン研究室の2人のポスドクが迎えに来ていた。日本人はほかに誰もいない小さな田舎町で、この2人とは兄弟以上に親しくなり、あらゆる生活面で面倒をみてもらい、一緒に遊び、話をした。おかげで英語にもアメリカの生活にもすぐに馴染むことができ、幸運だった。当時アメリカの生活は日本とは天と地ほどの違いがあった。戦後すぐのことで、日本人に対する差別は何かとあったが、私は元来、鈍な性質で、それが幸いしてかあまり感じないで済んだのだと思う。
グリーン教授は、細胞内のエネルギー代謝に関して新しい説を立て、有名になっていた。ところが、先生のテーマで実験をし、毎日ディスカッションをしているうちに、どうもおかしいと思うようになった。実験結果を持っていくと、都合の悪いところは捨て、都合のいいところばかりで自分の説を作るというところがあった。学会では彼の学説は賛否両論だった。8ヶ月たって、「アメリカに招聘してくれたのは感謝しているが、学問的にはどうしても先生と意見が違うのでやめたい」と話に行った。日本のポスドクでこんなことを言う人はまずなかろう。
日本に帰ろうかどうしようかと思いながら、アトランティックシティで行われた全米生化学会の会場で、ぼんやり講演を聞いていると、一人だけ水際立って講演のうまい、討論や受け答えのすごい人がいた。「あれ、誰や?」「アーサー・コーンバーグだ」。彼は私より2つ年上で、当時33歳の若さで国立衛生研究所(NIH)酵素部門部長で、アメリカの将来の生化学を背負って立つ若いスターだった。アメリカに残るなら、実験室でめったに会えない大先生の教室ではなく、ああいう若い先生と毎日一緒に実験や議論をして実力をつけたらいいと友人も言うので、意を決して会いに行った。
初対面のコーンバーグは「お前は広島の原爆をどう思うか」と聞く。「あれはひどい、アメリカの罪だ」とも言えず、「戦争だからしょうがなかった」と下手な英語でボソボソと言った。すると彼は「お前はけしからん、日本人だったら原爆をなぜ落とした、あれを落とさなくても戦争は終結していたじゃないかと堂々と言うべきだ」と言うのでびっくりした。学問の話をする前にそういうことを言うこの人は、研究も立派なんだろうけれど、人間として立派な人だ。ぜひ一緒に研究させてほしいと頼み込んだ。
酸素添加酵素を実証
いったんカリフォルニア大学バークレー校に移り、スターニア教授との共同研究で、それまで不可能と言われていたトリプトファン代謝経路のすべての酵素を緑膿菌から抽出することに成功して、4ヶ月で8編の論文を書き、その後ワシントン郊外にあるNIHに向かった。当時、世界最大規模の研究所であるNIHのコーンバーグ研究室は、期待に違わず優秀な研究員が集まり、非常に充実していた。なかでも、毎日のランチタイムセミナーでは、一つの論文について、方針の立て方、内容、結論を導くに至ったプロセスについて、批判的に読む訓練がされ、コーンバーグは弟子たちを厳しく指導してくれた。彼は、後にノーベル賞をもらうことになるDNA複製の酵素の研究をしていたが、私には好きなことをやらせてくれた。
2年間を過ごした頃、コーンバーグがワシントン大学(セントルイス市)細菌学教授として赴任することになり、私に助教授として一緒に来いという。英語で講義を行ない、ポスドクや学生を指導することに躊躇したが、たっての要請に断わりきれず、セントルイスに移った。しかし、この経験は、研究室の煩雑な雑用を含めて、後に日本で研究室を主宰する際に非常に役立った。何が幸いになるかわからないのだ。
ところが54年、今度は私自身がNIHの毒物学部長として呼び戻された。自分の研究室を構えることになって、7年前からどうしても忘れられないままに放り出してあった酸素添加酵素を、今度こそ実証してやろうと思った。
実際に酸素の動きを追うために、当時まだ手に入れにくかった18Oという酸素の同位元素(重酸素)を使うことにした。これは、幸いロード・サミュエル(イスラエル・ワイツマン研究所)が快く分けてくれた。さらに大がかりな質量分析機を導入し、人員を配置しなければならない。世界最大の研究所といえども相当な投資だ。しかし所長が、やってみなければわからない、やれ、と応援してくれた。わからないことだからこそやれというこの考え方こそ、新しいサイエンスを生み出すものだ。幸い非常にうまくデータが出て、取り込まれた酸素は空気中の酸素に由来することが実証できた。海のものとも山のものともわからないテーマにもかかわらず、思い切って研究費や設備を援助してくれた。よい上司、よい協力者に恵まれたからだと思う。
アメリカは、そういう時、非常に公平に新しい結果を評価してくれる。アメリカ化学会の雑誌がすぐに取り上げてくれ、化学会の年会でシンポジウムをしろとか、国際生化学会の総会で特別講演をしろと、依頼が続いた。酸素添加酵素は、その後、人間をはじめ、動物、植物、微生物に広く分布し、アミノ酸や脂質、ホルモン類や薬物毒物の代謝に重要な役割を果たしていることが明らかになっていく。
京都へ
酸素添加酵素の実証は、それまでの教科書を書き変える結果となった。アメリカ滞在も10年になろうとする頃、京都大学から教授として帰ってくるようにという強い要請があった。ずいぶん迷ったが、58年、慣れ親しんだアメリカを後に、日本へ戻った。アメリカでは、日本とは比べものにならない豊富な研究費や設備に恵まれたが、帰国後もNIHやロックフェラー財団などが継続して研究費を援助してくれることになり、日本の生化学の発展に大いに寄与してくれた。
貧弱な研究環境の中で研究している優秀な若手研究者の熱意に応え、彼らを育てるのが私の大きな仕事となった。医学部で医科学教室を主宰し、コーンバーグに鍛えられたランチタイムセミナーを行って、弟子たちに研究の神髄をたたき込んだ。それは早石道場と呼ばれ恐れられたが、25年間の在任中に600人近くが巣立っていき、そのうち100人を越える人たちが全国で教授になった。
アメリカの友人がよく「お前、アメリカに残っていたら、ノーベル賞をとっていただろうけれど、日本へ帰って100人の教授を育てたことと、どっちが大事かわからんな」と言う。確かにアメリカに残っていたら、ノーベル賞は冗談としても私自身の仕事は伸びただろうけれど、日本の生化学界に少しでも貢献できたということで、自分としては幸せだった。
20世紀初めから発達してきた生化学は、歴史的には、最初はタンパク質や酵素が主だったが、後半からDNAやRNAを扱うようになった。京大の生化学教室から巣立った人たちも、プロテインキナーゼCを発見した西塚泰美(神戸大学学長)、脂肪酸代謝や神経科学で成果をあげた沼正作(元京大教授、故人)や免疫学の本庶佑(京大医学部長)、脳神経科学の中西重忠(京大教授)をはじめ、分子生物学、免疫学、脳神経科学などでよい仕事をしている人が大勢いるのはうれしいことである。昔から師の恩とはよく言うが、私は弟子の恩にも恵まれたと感謝している。
93年京大を辞める時には、もうこれで教育はやめよう、まったく新しいことをやろうと考え、大阪医科大学学長時代には新技術開発事業団と、続いて大阪バイオサイエンス研究所で睡眠の研究を始めた。
睡眠の研究
睡眠は医学の中のブラックホールで、人生の3分の1を寝て過ごしているにもかかわらず、何もわかっていない。睡眠とはなにか、睡眠と覚醒の調節はどのようにして行われているか、眠れなくて困る、あるいは眠りすぎる病気など、わからないことだらけだ。生化学や分子生物学、分子遺伝学など、新しい学問を使い、チームを組んで睡眠の問題を総合的に解決しようと思ったのである。
京大在任中から私は、酸素添加の働きで生合成されるプロスタグランジン(PG)という局所ホルモンに着目していた。30種類以上知られているこのホルモンの中で、とくにプロスタグランジンD2の合成活性が脳において高いことを明らかにした時、何かがあるという直感があった。脳に固有の生理機能を果たしているのではないか?
脳にはもう一つプロスタグランジンE2の活性があり、これは発熱作用があることがわかっていた。PGE2とPGD2は逆の構造になっているので、PGD2は体温を下げるだろうと予想し、ラットの脳の視床下部に注入した。案の定、体温は下がったが、驚いたことに、ラットが眠り始めた。PGD2の睡眠促進作用は偶然の発見だった。
ラットが眠っている時は脳脊髄液中のPGD2の量が高く、目覚めている時は低いこともわかり、自然な状態で睡眠を司っている内在的な睡眠物質であることもわかってきた。
PGD2はどこで作られるのか?この睡眠物質を作る合成酵素を探したところ、意外なことに、脳を包むくも膜で作られ、脳内を満たしている脳脊髄液に流れ出していることがわかった。この合成酵素は、脳脊髄液の中にあって、生理的意義の不明な謎のタンパク質とされていたβトレースと同じものだということもわかった。
PGD2は脳のどの部分に働いているか?答えは前脳基底部の表面の非常に狭い部分に働き、アデノシンに引き継がれて脳の内部に伝達され、睡眠中枢を刺激し覚醒中枢を抑制するというシナリオを突き止めた。「眠る脳」(脳みそ)と「眠らせる脳」(脳を包む膜)があることがわかったのである。
こうして次々と睡眠に関わる物質や仕組みがわかってきたのに、この研究は従来の学説とかけ離れているのでなかなか評価されなかった。89年にワシントンで開かれたアメリカ睡眠学会の総会で、会長のスタンフォード大学のデメント教授に特別講演を依頼され、99年のドイツで開催された世界睡眠学会連合の第3時総会では「優秀科学者賞」に選ばれ、ようやく国際的にも認められるようになった。
研究の面白さ
若い頃から、音楽、スポーツ、勝負ごととなんでも興味があっていろいろやったが、何をやっても才能がない。早々に諦めてしまったが、生き物について不思議だと思うことを調べていくのは好きで、それだけはしつこく追っかけてきた。研究も若い人たちを育てていくのも比較的得手だったと自分でも思う。競争するのが苦手だから、他人のやっていないことをやろうと思った。酸素添加酵素の発見も、睡眠の分子機構の研究も、そこのところが評価されることになった。
昔、古武先生が、「一燈を掲げて暗夜を行く。暗を恐れる勿れ、一燈に頼れ」とおっしゃっていた。自分の専門をもちつつ、しかし、専門外のことに無関心だったり、無知なのはだめ。生命現象の研究は、昔のようにそれぞれの狭い専門に閉じこもっていても、全体を捉えることができない。とくに睡眠の研究のように脳の高次機能の研究はそうである。
実験は手間も時間もかかる。どういう実験をするかを考えるのも、実際にやっていくのも大変なことだ。よっぽど、鈍で、のんきな人間でないと研究はやれない。あまり賢いと自分でわかった気になってしまう。私は、剃刀みたいな秀才ではなく、健康に恵まれ、少し鈍い刀を持っていたために、こうして実験を続けることができ、ある程度の成功をおさめることができたのだと思う。
その鈍なところを多くの師、友人、後輩、そして協力者に助けられた。古武先生、谷口先生、コーンバーグ、京大時代の弟子たち、大阪バイオサイエンス研究所の仲間、睡眠の研究を引き立ててくれたデメント博士。そういう人たちに助けられてきた。運。合理主義で、迷信などは大嫌いだが、振り返るとやはり世の中には巡り合わせがあって、こうなったのだと思う。