ダーウィンのメダルをもらう

前回のこのコーナーに出ていた大澤省三君は、第八高等学校(現名古屋大学部教養部)で5年下の同窓です。どちらも、故熊沢正夫先生(植物学)の弟子でした。

私は髪の毛が黒いので若く見えるかもしれないけど、来年で満70歳になります。ケンブリッジ大学出版から10年ほど前に出した『分子進化の中立説』はとても当たって、ずいぶんいろいろな国で翻訳されました。中国語になるという話もあります。もう少し幅広くて一般向きのものを、今度はオックスフォード大学出版から出すことになっていて、今、書き進めているところです。本論はうまく書けたけど、サマリーとコンクルージョンがどうもうまくいかずに弱っています。

私の中立説は、ひところ、とくにダーウィンの本場イギリスで、ものすごく批判されたけど、ずいぶん変わりました。去年は日本人で初めて(東洋でも初めてですが)、英国王立協会(ロイヤル・ソサエティー)のダーウィン・メダルをもらいました。進化学の大物メイナード・スミス(ロンドン大学教授、1986年のダーウィン・メダリスト)が、会場でものすごくニコニコして私のことを持ち上げてくれましてね。これは予想外だった。なにしろ私は一時、彼らから「地獄の悪魔」にたとえられていたそうですから。

その王立協会が、私を外国人会員に選んだといってきました。たいへん名誉なことだと思っています。日本人では、福井謙一さん(化学、京都大学名誉教授、ノーベル賞受賞者)や江橋節郎さん(生理学、東大名誉教授)らに次いで五人目だとか。

私はずいぶんいろんな賞をもらいました。日本遺伝学界の遺伝学会賞、オックスフォード大学のウェルドン賞、日本学士院の学士院賞、日本人類遺伝学会の人類遺伝学賞、文化勲章、全米科学アカデミーのカーティー賞、そして、今度のダーウィン・メダル。みんなから、褒美のもらいすぎだと言われたりするけど、ノーベル賞はどうももらえそうにないなあ。そう、進化という分野はノーベル賞にはないから、ダーウィン・メダルをもらえば、ノーベル賞をもらったのと同じことになりますかねえ。

趣味のランは玄人はだし。自分が交配してつくった園芸種パフィオペディラム(洋ランの仲間)とともに。自宅温室にて

国際生物学賞受賞で、昭和天皇からいただいた銀の花瓶を妻・弘子さんと持つ(1988年)

遺伝研運動会で、似顔絵書き競争のモデルになったときの一コマ

『分子進化の中立説』(ケンブリッジ大学出版)の出版祈念祝賀会で(1983年)

小学校4年生ごろ(右端)。学校嫌いで、いつも先生に叱られていた時代

遺伝研を訪れた昭和天皇に、研究の説明をする(1965年)

ウィスコンシン大学遺伝学教室のピクニックで。左端が木村博士。その右はライト教授。後ろ向きがクロー教授

定年退官記念パーティーで(1988年)。右端は、中立説の数学モデルの発展に寄与した共同研究者の太田朋子博士

全米科学アカデミーから、カーティー賞を受ける(1987年)。

進化の「中立説」への道

私はこのごろずっと「サバイバル・オブ・ザ・ラッキエスト」と言いつづけているんです。ダーウィンの自然淘汰を成り立たせている哲学は「サバイバル・オブ・ザ・フィッテスト(適者生存)」。私の中立説の核心は、「運のいいものが生き残る」。何千万、何億、何十億という個体に突然変異が起きています。個体や種にとって利益になる変異はきわめて少ないけれど、長い時間の間にしだいに蓄積していく。私に言わせれば、人類のような種の存在は「バクチを打って百万回たてつづけに勝ちつづけてきたくらいの幸運」によるものなんです。
「サバイバル・オブ・ザ・ラッキエスト」は、なかなか上手なネーミングだと思いませんか?1988年にカナダのトロントで行われた国際遺伝学会の総会講演で、初めて披露しましてね。中立説の世界観は、この中によく表現されていると思っています。

私は子供のころから、あだ名やネーミングの名人でした。小学校の上級生のころ、H君という名前の子が二人いて、区別するために一人に「ひょうたん」とつけた。そしたら、みんなが彼のことを「ひょうたん、ひょうたん」と呼ぶようになった。本人だけが気にいらなかったらしくて、えらく怒って首を締められた記憶があります。「中立説」にしても、最初からこの名前があったわけじゃないんです。自然淘汰に有利でも不利でもない「中立変異」という言葉があった。そこに「セオリー」をつけたんです。まだそのころは、淘汰にとってよくも悪くもない変異があるということは、一般には認められてはいませんでした。確率論を駆使して計算すると、遺伝子レベルでの進化の主役はこの中立的な突然変異になる。しかもその突然変異が種全体に広がるかどうかは偶然で、「運」次第という結果が出たのです。
私自身も自然淘汰説にかぶれていたから、半信半疑だったけど、面白いアイデアだと思って『Nature』に出しました。それが1968年。そしたら、ものすごい反論が出てきた。再反論を含めてアメリカの『Science』に投稿したが、たちまちリジェクトされてしまった。当時はアメリカも、イギリスと同じネオ・ダーウィニズム一色の世界だったんです。

人間を含め、哺乳類が一生のなかで産む子供の数は知れたものです。一方で人間のゲノム(遺伝物質の全体)当たりのDNA量は塩基対にして30億もあるから、絶えずたくさんの突然変異が起きている。その変異が、自然淘汰にかかるためには、子供の数が多くなければならないのじゃないか。むしろ、表現型レベルでも、多くの変異は中立だと思います。

以前、メイナード・スミスらに「背の高さで、1mm、2mmの違いに、自然淘汰がかかると思うか。表現型レベルで中立のものがあっても不思議ではないのではないか」と話したことがあります。そしたら、「1mmでも、2mmでも、淘汰はかかる」と、猛烈に反対されました。どう考えても、そんなものに淘汰はかからんと私は思います。自然淘汰への彼らの思い入れには一種の信仰みたいなところがある。

もちろん、自然淘汰がないということではぜんぜんありません。進化というのは、中立的な変異と自然淘汰との組み合わせで起きてきたのだと思う。これも私がよく言っていることなのですが、分子レベルの進化は「保守的」です。既存の分子の機能や構造をなるべく損なわないように、変わっていく。これに対して、表現型レベルの進化の特徴は「便宜主義」。鳥の翼は前肢が変わったものだが、昆虫の翅の起源はまったく違う。オーストラリアでは、有袋類のなかからイヌやリスやアリクイに似た適応形態のものがたくさん出てきている。こうした便宜主義的な進化を説明するためには、どうしてもダーウィンの自然淘汰を持ち出さざるを得ません。

最近では、こんなことを考えています。大きな進化が起きるためには、自然淘汰が緩まなければならない。そのとき中立的な変異がどんと出て、新しい環境へと適応していくのではないか。

たとえば、新しい生物種が爆発的に出た約6億年前のカンブリア・エクスプロージョン(カンブリア期の大爆発)は、その好例だと思います。また、今から6500万年ぐらい前に、それまで栄えていた恐竜がほとんど絶滅してしまった。それまでの哺乳動物は、ハツカネズミみたいに小さく、恐竜の目を逃れるために、ものの陰に隠れて、夜コソコソ出てきて虫を食べるというようなものだった。恐竜が滅んで自然淘汰の圧力が緩み、そこから哺乳類が爆発的に進化し、各種の高等生物が出てきた。私は冗談で言うんだけど、恐竜が滅びなければ人間なんていなかったのじゃないか、とね。

有名な進化学者グールドの本に、5億3000万年ほど前に生息していた奇妙な化石生物が出ています。たとえば、Hallucigenia(ハルキゲニア)といって、足が2列7本ずつついていて、背中から変なものが出ている生物がある。眼が五つあって、手が1本で、先のところで獲物を捕まえて口に入れるようにできているOpabinia(オパビニア)という生物もある。こういった変な生き物が、自然淘汰の緩みの結果、たくさん出てきたのではないか。しかし、その後の競争の結果、負けてしまい絶滅したのではないか、と思っています。

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国際生物学賞の受賞を記念してつくった木村博士デザインによる暖簾。分子系統学を利用して、人から植物までの分岐を簡略に示してある。趣味のランもちゃんと入っている。ほかの暖簾も博士自身のデザイン

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ダーウィン・メダルの賞状(右)をはじめとする、数々の受賞記念賞状。これも科学の歴史である。

化石で発見された奇妙な生き物たち。オパビニア(左)とハルキゲニア(右)。(スティーブン・Jグールド著『ワンダフル・ライフ』早川書房より)

学校嫌いの幸運児

私はだいたい、秀才タイプの人間じゃないのです。小学校の4年生までは、学校が嫌でしかたがなかった。先生の話などろくに聞かず、窓際の席になれば、紙くずを外に放り投げるし、先生にはしょっちゅう叱られて後ろに立たされてばかりでした。ただ、好きになったり興味を感じたりすると夢中になって始める。中学3年のとき、数学の面白さを発見し、大学出たての青年教師の黒田孝郎先生から、「おまえ、数学者にならんか」とまで言われました。この数学好きがのちの中立説を生む土台になったのだけれど、第八高等学校に入ったときの数学の先生がすごく嫌で、落第しそうになったこともありましたよ。

好奇心は人一倍強かったが、先生の言うことをスラスラと頭に入れることは得意ではありませんでした。自分で考えに考えないと、頭に入ってこない。でも、新しい考えを出すにはそんな性質がよかったのかもしれません。

こんな、好き嫌いの激しい男がここまでこれたのも、運がよかったからではないかと私は思っています。大学時代、私は細胞遺伝学に飽き足らなくなり、数学を使った理論遺伝学なるものを志向するようになりました。理論物理学者が物理学でやっていることを、遺伝学でやることが夢になったのです。

しかし、「生物学に数学など使って何の役に立つのか」などと言われたりして、なかなか理解されませんでした。指導教官ともうまくいかず、学位を取れませんでした。そんな私を、木原均先生や駒井卓先生らが支えてくれ、アメリカ留学の道を開いてくれました。留学時代も、ライト(集団遺伝学の草分けの一人)、クロー(留学先のウィスコンシン大学の指導教官)という大きな師を得ました。

クロー先生との出会いは、今でも本当に幸運だったと思っています。昭和28(1953)年、氷川丸でアメリカに渡った私は、クロー先生に読んでもらうための論文を、アイオワ州立大学の大学院生室に置き忘れていることに気づいたのです。その日は日曜日でした。次の日の朝早く、ウィスコンシン大学のクロー先生のところを訪れて論文を見てもらう予定だった私は、大弱りでした。日曜日には大学の院生室に入れないからです。ところが運よくガラス窓の一つが開いており、私は論文を取り出して、首尾よく先生に見てもらうことができたのです。

クロー先生は私の持参した論文にたいへん興味を示し、世界的にも一、二を争う権威のある遺伝学の専門誌『ジェネティックス』に掲載するように取り計らってくれました。かくてこの論文は、私にとって外国で発表した最初の論文になったのです。

クロー先生との幸運な出会いがなかったならば、私の人生はずいぶんと違ったものになっていたはずです。ひょっとしたら私自身が、いちばんのサバイバル・オブ・ザ・ラッキエストだったのかもしれません。

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中立説の革新を示す数式
中立な突然変異では、進化における突然変異体の世代あたりの集団内置換率は、個体レベルにおける世代あたりの突然変異率に等しく、集団の大きさには関係しない。

世界を大論争へと巻き込んだ、記念碑的な『Nature』の論文