中身が変わり、形が変わる
「その場にとどまるためには、全力で走り続けなければならない」。『鏡の中のアリス』の中で、赤の女王はこう言いました。植物も生き残るために、自家不和合性を利用して走り続けています。そして変わり続けて、多様性を確保しているのです。私も人との出会いによって中身が変わり、分かれ道で形が変わってきました。それはちょうど昆虫が、目いっぱいまで成長した後で、脱皮をするようなものでした。そんな植物や昆虫の営みを、私は化学者の目で眺めてきたのです。
4月1日生まれの小粒の山椒
東京の根津に、7人兄弟の5番目として生まれました。大正の大震災や太平洋戦争でも焼けず、古い物や事が残っている下町です。3月30日に生まれた子供のことを思って、親は4月1日に届けてくれたのですが、遅生まれは2日からだったのです。1日違いで全く違った人生になっていたでしょうね。1つ目の大きな分かれ道です。学年で一番遅くに生まれていますから、小学校でも中学校でも一番小さく、ひたすら誰かにくっついて遊びに行くのが精一杯で、今から思えば背伸びをして過ごしていました。自分が率先して何かをやった記憶が一つもないのです。両親も何かを期待していたふうではありませんが、懸命に働いている背中から、何でも一生懸命やるということを教えられました。
小学校4年生の時に、渡辺久子先生が「さんしょはこつぶでぴりりとからい、ですものね」と通信簿に書いて下さったのです。名前をしっかり覚えています。小さいながらも頑張っているねと評価してくださったその言葉が、それ以来、私の背中を押してくれています。先生の一言って重いなと思います。小学校の思い出としてもう一つ。6年生の頃に房総半島への遠足で、小さな橋を大勢で渡ったものだから壊れて皆が小さな川に落ちたんです。幸いケガ人は出なかったのですが、担任の奥村象吾先生が泣きながら父兄に謝っていたことを覚えています。こんなに責任の重い先生という職業にはなれそうもないなと思いました。
中学校でも相変わらず小さくて、3年間の卓球部生活では試合には一度も勝ったことがありませんでした。ただ、体は丈夫で休んだのが卒業式の前の日だけ、精勤賞をもらいました。中学校は、文京区立第6中学校(文京6中)でした。良家の子女が通う有名校で、頭の良い子が多かったですね。とはいえ、末代まで語られるほど荒れたクラスで、級友の1人が浅草のやくざになりました。「磯貝さんってすごい。やくざの友達をもってる」と周りに言われると、「違う、友達がやくざになったんだ」って笑うんです。彼は亡くなりましたが、今でも年に一回の中学校のクラス会には行っています。そのうちの何人かは毎年奈良に遊びに来るんです。奈良は良いところだから、おまえ案内しろって。
文京6中は東京大学農学部の前にありました。構内は通り抜け禁止だったのに、文京6中の生徒だけは農学部を通学路にしていました。小学生のときも御殿下のグラウンドや農学部の野球場が遊び場でしたから、その後に籍をおく東大農学部は小さい頃から馴染みがありました。小学校から高校まで全て東大の近く。後に東大でお世話になった田村三郎先生も、近くの千駄木に住んでいらしたので、根津という生まれ故郷は私にとってすごく大切なキーワードです。山の手に育っていたら違った人生だったろうなと思います。
中学校の裏側にある区立の図書館が私の勉強場でした。小さくて大変という話をしてきましたが、成績は良かったので勉強していると仲間が聞きにくる。教えるのも1つの勉強だと思って、喜んで教えていました。毎日通っているものだから司書の人とも顔見知りで、書庫に勝手に入ったりもして本をたくさん読みました。といっても、山手樹一郎、吉川英治、大佛次郎や講談本など時代小説ばかり、翻訳物は子供用の怪盗ルパン程度で、理科系の本は読んだことがなかったですね。高校で同級生から、「サルトル読んだことあるか」って聞かれ、名前も知らなくて、慌てて読んでみたけれど全然分かりませんでしたね。
高校は都立小石川高校で、都電で通いました。大学まで含めて一番遠かったのが、都電と地下鉄で通った駒場のキャンパスでした。だから今でも遠くに行くのが嫌いで、本当は外国もあまり行きたくない。自分で切り開いていく性格ではないんだと思います。高校の生物の授業で、まず花の絵を描けと言われて全く描けなかったのを今でも覚えています。ここで、生物はもうダメだと思いましたね。それが自家不和合性の仕事をすることになるんですから。花の名前を覚えるのに苦労しましたよ。
あの頃の都立高校は先生たちが10年間以上いるシステムだったから、それぞれ独特の校風がありましたね。高校の先生をしてから大学に戻る先生も大勢いたから、教科書だけでなくいろいろな話を聞けました。生徒は優秀でしたけど、授業をさぼって映画を見に行ったり、マージャンをやったりもしました。3年生になると受験勉強で仲間は塾に通ったけれど、私は相変わらず図書館で勉強してました。家族が寝ている夜中は、どてらを着て火鉢を抱え、部屋の隅っこで勉強していました。上野動物園に近かったので、ライオンの吠える声を聞きながらの受験勉強でした。そんな人はあまりいないでしょ。
エースのカードに導かれて
化学が好きでしたが、理学部や工学部は向いていないと思って、農学部や薬学部に進める東大理科Ⅱ類に入りました。何もないところから考えて作るのはあまり得意ではなく、工作など工学系は好きじゃありませんでした。大学に入っても、小さい頃から身に染み付いている遅れている分を取り戻そうと背伸びをする感覚があり、体でも頭の中でもそれを行っていたのかもしれません。大学に入った1960年は安保闘争の真っただ中で、新入生のオリエンテーションでトランプのカードが配られ、エースのカードを引いてしまい、自治会の代議員になってしまったのです。その時の委員長が西部邁さんで、30分ぐらい息も切らずにしゃべるんですよ。大学ってのはすごい人がいるもんだと思いましたね。押し付けられた役割でしたけれど、斜め下から見上げるような格好で社会を見ることが出来たのは1つの体験でした。
進学は、結局小さな頃から知っている農学部、その中の農芸化学科を選びました。薬学部という選択肢もあったけれど、子供の頃の食料不足の体験などから、食べ物の研究が大事だと思ったのです。弥生のキャンパスに移ってからも、駒場での経緯を知ってる人に言われて自治会委員をすることになりました。就職できなくなるかもしれないから委員長は絶対に嫌だと断りました。1962年の11月に起こった茅総長カンヅメ事件では、委員長の代わりに現場を見に行かされました。その日はアルバイトの予定があったので、総長秘書室から断りの電話を入れたのです。誰かがそれを聞いていたのでしょう。現場に農学部の学生が居たはずだということになって、事情聴取されました。その時の聴き手が、後に恩師となる田村三郎先生(東京大学名誉教授)です。私たちが乱暴なことをしているのは承知の上で、けしからんという言葉は使われずに、事情聴取だけをして下さったのです。その時にこの先生なら信頼できると思い、卒論はここにして、田村先生について行こうと決めたんです。あとで聞いたところでは、先生以外の研究室員はとんでもない奴が来ると心配していたそうです。自治会委員と大学側との団体交渉の時に、座り方も雑でそっぽを向いていたりして態度が相当に悪かったんですね。でも、卒論研究では和やかに問題なく過ごしました。
卒論研究は、久山真平助手の指導でパイナップルに害を及ぼす線虫をトラップするカビの研究をすることになりました。線虫が出す化学物質のなかから、カビがトラップを作ることを誘導する物質を明らかにしようということで、まずカビの培養から始めたのです。ところがカビが生えてこないんです。そのためこの研究は中止になりましたが、この研究テーマをとても面白いと思いました。化学物質がある種の生命現象に関わっており、物質を通して生命現象を知ることができる。この研究室はそういうことをやっているんだ、面白いなとそのとき初めて実感しました。結局卒論では、昆虫病原菌の毒素であるデストラキシンBの部分合成を試みました。この毒素はペプチド結合とエステル結合で環状となっている化合物でした。あとから振り返ると、この化合物との出会いが、その後の数多くのペプチドとの出会いを導いたのかも知れません。
まずは、柔らかな製菓会社で
父親が戦前に和菓子職人をやっていたこともあり、食品会社に就職しようとかなり早くから決めていました。森永製菓か明治製菓にしようかと考えてたのですが、森永のキャラメルの方が明治のものよりも柔らかかったので、会社の社風も柔らかいかもしれないなと思いそちらに決めたのです。なにか決めどころが欲しいですからね。役員面接のとき、玉木興二研究所長に助けられたんですよ。履歴書の支持政党の欄に、何も書かないとかえって怪しまれると思って社会党と書いたのです。そこで人事部長が「組合なんかやられたらかなわんなぁ」と言われたのですが、玉木さんがかばってくださったのです。東大の農芸化学のご出身で、鈴木梅太郎先生(東京大学名誉教授)のお弟子さんでした。
会社では鶴見の研究所で菓子や香料の分析をしていました。入社2年目に、組合の職場委員の役が回ってきて、次の年から2年間は支部の総務部長、次の2年間は執行委員、6年目には書記長までしました。春闘のときには1000人もの前で話をするわけで、最初はドキドキして話せませんでした。けれども背伸びをして話しているうちに、コツをつかみました。相変わらず背伸びです。この頃に「組合を専従でやってくれないか」という話があったのですが、そこは「職業を変えるつもりはない」ときっぱり断りました。化学を学んできて技術者として生きているのに、組合役員という事務系に移るつもりはない。これは、はっきりしていました。
その頃、鶴見工場の副工場長をしていらした高木貞男さん。後のグリコ森永事件のときに副社長として会社の立場をきちんと説明し、森永製菓を救われた方です。実はこの後に私は大学に戻るわけで、かなり後になってからこの方に尋ねられました。「あなたにとって会社は回り道だったのですか」と。これまで述べてきたような事情ですから、会社では研究者としてのトレーニングは受けられませんでした。しかし、人をどう見るか、大事な人をどう見つけてどう付き合い、自分の世界をどう作っていくかということを大いに学んだ時期だったと思います。そこで、「いいえ。あの時期がなかったら研究者としての今の私はありません」とお答えしました。
1970年の2月、田村先生から助手へのお誘いがありました。先代の住木諭介先生(東京大学名誉教授)が研究されたジベレリンとは違うテーマで、新たな内容の研究室を立ち上げようとされていたのです。私の家と田村先生のご自宅は近くでしたから、卒業後もよく伺っていろいろとお話を聞いていました。研究も素晴らしいと思っていました。けれども、大学の教員の道は考えたことがなかったから、随分迷いました。会社の研究所では論文を1つも書いていませんでしたし、ましてや教育経験はありません。けれども田村先生は、「私は戦争に6年も行っていた。君も会社に6年行ってたって何とかなるんじゃないか」とおっしゃった。当時の助教授だった鈴木昭憲先生(東京大学名誉教授)に相談したところ、「いま、目の前にある小さな川を、飛び越えようと思うかどうかということでしょう」とおっしゃった。私自身も、もしかしたらあの時に踏み込んでいたら別の人生もあったかもしれないなという後悔はしたくなかった。こうして研究者として何の実績もないまま大学の教員になったわけです。その後いまの大学に移ってきたのですが、大学院を出ていない私がここの大学院大学で教員をし、学長までやっているのですから不思議な話ですよね。
再び、現象の追跡に
大学に戻ったときの学位論文のテーマは、昆虫を使って漢方薬の有効成分をスクリーニングするというものでした。実はあまり面白いものは見つからず研究の難しさを実感しましたが、学位取得後にそのテーマを膨らませた結果、農芸化学会奨励賞をいただきました。受賞の際の論文の表題は「薬用植物に含まれる昆虫生理活性物質に関する化学的研究」でした。けれども一方で、昆虫フェロモン研究で有名な京都大学の石井象二郎先生(京都大学名誉教授)から、私たちのやり方とは違うというコメントをいただいたことが心に残っています。生理活性物質の探索の仕方としてスクリーニングという方法があり、抗生物質などの有用物質の探索にはこの方法が使われるのですが、生命現象の化学的解明という意味ではやはり自然を意識することも大事だと思いました。そこで、それ以降は昆虫病原菌や植物病原菌を集め、動植物が死ぬ原因物質の探索を始めました。原因となっている化学物質と病気の関係を知ることで、病気を通して正常を知ろうと努めたのです。こうした研究から、病原菌の感染メカニズムや、それに対する宿主側の抵抗性の研究が重要であるという認識にたどり着きました。奈良に移って植物の自然免疫という研究を始めたのはその課題を暖めていたからでもあります。病原菌の毒素の研究と平行して、カイコの脳ホルモンの研究も行いました。そのために、前橋までカイコを集めにいってホルモンを抽出するという時間のかかる仕事でした。この時に、時間をかけるときは覚悟を決め、そう思ってやらなければいけないと思えるようになりました。この覚悟はその後の研究に役立ちました。コツコツ進めていれば、新しい技術の出現によって方法が変わり、研究環境が変わることもあり、研究は進んでいくのだという気持ちですね。
実は、田村研究室に入って2年後、研究室の名前が農産物利用学講座から生物有機化学講座に変わりました。当時、薬学部の天然物化学では生薬の成分分析が主流で、理学部の化学は生物とはあまり関わりなく構造解析をしていました。それに対して田村先生の研究室では、生命現象を化学の目で見ることを目指していました。生理活性物質の構造と役割を明らかにしようとしていたのです。この流れは、鈴木梅太郎先生の脚気に関わるビタミンBの研究に始まり、藪田貞治郎先生(東京大学名誉教授)や住木論介先生のジベレリンを経て、田村先生の研究に至っているのです。この頃の有機化学者が扱える物質は低分子の生理活性物質に限られていましたが、その後の生物有機化学研究室の研究の中で、ペプチドやタンパク質にまで広がっていきました。いま化学者が扱える分子はDNAのような高分子にまで及んでいます。今でも、化学が対象とする領域は拡張され続けているのです。田村先生が退官後に『現象の追跡』という本を書かれましたが、生命現象を化学物質の立場から追跡するという意味であり、私たちが続けてきたサイエンスを最も的確に表している言葉だと思います。昔は生理活性物質を単離して構造を決めるところまでしか出来ませんでしたが、今は生理作用や相互作用、そして制御や遺伝子レベルでの機能解析までも化学者が扱えるようになってきています。当時から考えると広がりと深まりは拡張されてはいますが、行っていることは今でも生命現象を物質レベルで追求することに尽きると私は思っています。生物学者は生理現象そのものを一生をかけて追いかけるのですが、私たち化学者は物質のレベルではここまで分かったと割り切らなければならない時もあると思っています。私は、組織の中では人の間をつないできましたが、化学者としては化学物質を介して生命現象の間をつないできたと、自分のしたことを位置づけています。
1970年代の後半、同じ助手だった坂神洋次さんの研究を分担していました。トレメラというシロキクラゲの有性生殖の解明を目指して、性フェロモンの単離と構造決定に取り組んでいたのです。この頃からやっと生物学に近づいた気持ちになってきたように思います。トレメラの半数体は酵母状で、接合して2倍体となって、キクラゲとして売られている子実体になります。半数体細胞の2つの性はA型とa型に区別されており、接合は有性生殖です。接合に際し、セロファン膜を通過する物質を分泌して、相手側に接合管を形成させます。この物質が一般的に性フェロモンと呼ばれていて、ペプチド性の物質と予想されていました。けれども分泌量が微量のために、構造の確定には至っていなかったのです。有機溶媒中の低分子化合物しか扱ってこなかった化学者が、ペプチドやタンパク質やのような水溶性の高分子化合物を扱えるのかという不安がありました。けれども実際は、案ずるより産むが易しで、トレメローゲン A-10とういう性フェロモンの構造を確定できました。そして、システイン残基のチオール基とカルボキシル基で、それぞれプレニル化とメチルエステル化という修飾が同時に起こることを世界で初めて突き止めたのです。その後、こうした修飾が酵母や動物のタンパク質でも起こることがわかり、今でこそアミノ酸配列からこの修飾が起こることは当然のように知られていますが、それをトレメラで初めて示したのです。
これらの研究を進める過程で、機器の性能の向上が、研究をすすめる原動力の1つだと痛感しました。単離のための高速液体クロマトグラフィー、構造解析のための質量分析計(MS)や核磁気共鳴装置(NMR)など、新しい機器を使うことによって、これで仕事の進み方がぐんと変わりましたね。コツコツと研究をしている間に、ものすごい勢いで機器が進歩し、私たちが必要とする方法論が追いついてきたのです。専門業者から新しい情報を仕入れるなどして、私たちはそういった機器の進歩を注意深く見ていなければなりません。こうした企業の人たちを単なる商売人としてではなく、研究仲間だと思って大切にしなければならないと思うのです。
分析機器の精度が良くなったので、試料の精製度は高い必要があります。生物学者は、高純度の精製をあまり求めていなかったのに対し、私たち化学者は精製度が高くないと、例えばNMRで得られたピークが本当に目的のものなのかと疑ってしまいます。トレメローゲンの場合も、私たちのサンプルは精製度が高かったからデータが取れたのです。また、単離用の高速クロマトグラフィーは、自作もしましたし、発売されてからはその当初から使っていましたから、利点も欠陥も熟知していました。機器をブラックボックスにしてはダメなのです。私が大学に戻ったころにちょうどこうした機器の急激な進歩があり、皆がヨーイドンで始められたので、途中参加でも遅れることがなかったのは幸いでした。もちろん教科書がないものもあって、業者のカタログを集めたりして独学で勉強しました。
私の勉強方法の特色としてもう一つ、ゼミで学生の発表を聞くことです。自慢じゃないけれど、ゼミで寝たことは一度もありあません。ある特定の事柄に関しては、発表のために一生懸命勉強した学生が良く知っているのです。学生は先生だと思っていましたよ。現役の研究者だった頃も、相当に年を取るまでそう思っていましたよ。これはかなり大切な発想だと思っています。個人の情報ではなく、相互に教え合い、研究室の情報として集積する。ある特定の時期に、ある研究室から優れた成果がつづけて出るのは、そういった集団の知識とパワーがあるからだと思うのです。
トレメラの研究で蓄積したノウハウは、私たちの研究室の貴重な財産となりました。そして、後に昆虫ホルモンや、私がたずさわった自家不和合性の研究を進める上で大きな原動力となったのです。そういった意味で大事な節目の研究だったと思います。実際にこの研究を通して、対象や方法論も含めて、化学の扱う領域が拡大しているなと実感しました。
ダーウィンも悩んだ自家不和合性との出会い
トレメラの研究と同じ頃に、植物の自家不和合性の研究を始めることになりました。植物の花をよく眺めてみると、1つの花の中に雌しべと雄しべの両方がある両性花がたくさんあります。けれども、1つの花の中で雄しべにある花粉が雌しべに付いても種は作られません。これが自家不和合性と呼ばれる現象で、被子植物に多く見られます。この性質によって、植物は遺伝的な多様性を維持しているのです。実はこの性質、ダーウィンの時代から知られていて、多くの植物学者の興味を引いてきました。当時、もう引退されていた田村先生が、高橋萬右衞門先生(北海道大学名誉教授)から、自家不和合性の研究をされている東北大学の日向康吉先生(東北大学名誉教授)を紹介されて共同研究が始まりました。研究室でも次の大きな研究テーマを捜していた時期でもあったんです。育種学者だった日向先生は当時、アブラナ科植物の自家不和合性を研究されていていました。ヒトにABOの血液型があるように、植物には自己と非自己を識別するS遺伝子座があります。Sは不稔性(sterility)の頭文字です。日向先生は、S遺伝子型が異なる個体の雌しべには、それぞれ違うタンパク質があることを見いだされていました。それらは異なる等電点をもっており、電気泳動で区別できました。糖鎖が付いていたので、S糖タンパク質(S-locus glycoprotein:SLG)と命名されました。けれども、その構造と機能が分からなかった。こうして、育種学者の日向先生と私たち化学者の共同研究が始まったのです。最初は、踏み出すのがちょっと怖かったですね。というのも、今まで私たちが扱ってきた物質は生理活性物質であり、精製するための指標となる生物検定系を比較的容易に確立できました。それに対してこの研究では、電気泳動を使ってバンドを見ることはできましたが、機能が分からないので生物検定系がなかったのです。一方で、大変興味深くもありました。細胞というのは、基本的に自己と非自己を識別する機能を持っているのだろう。それが免疫反応や病原菌への抵抗性になっているのだろう。自家不和合性というは、概念的には同じことをしていると直感的に思ったのです。さらに、細胞が自己と非自己を見分けるときに物質が働いているのなら、私たち化学者が関わればより詳しく分かるはずだと思いました。
この自家不和合性の研究は、当時、大学院生だった高山誠司くん(現奈良先端科学技術大学院大学教授)と一緒に始めました。まずはアブラナ科植物を大量に栽培して、雌しべの先端部分、つまり柱頭を何万個も集めました。朝から晩まで黄色い雌しべの先端を取っていると、夜中にまぶたを閉じても黄色が見えたものですよ。研究室の皆にもこの研究の大切さを理解してもらい、手伝ってもらいました。私は、途中から老眼で見えなくなり、出来なくなってしまったのですが。大量に採った柱頭から目的のタンパク質を精製し、アミノ酸配列と糖鎖配列を決定していきました。実はこの頃、アメリカのあるグループが同じようなことをしていて、1985年の秋にcDNAを単離したという論文が「Nature」に載りました。けれども、すでに私たちがもっていたアミノ酸配列の断片的なデータと見比べると、どうも彼らの塩基配列は間違っているようだったのです。そこで、私たちはSLGのタンパク質部分のアミノ酸配列と糖鎖の配列を完全に決定して、1987年に「Nature」に投稿したのです。そこで、アブラナ科植物のSLGは共通の特徴ある構造をもっていること、さらに、互いに非自己のアブラナ科植物のSLGの構造の違いは、タンパク質部分のアミノ酸配列に基づいていることを記述しました。不思議なことにこの論文が受理されたころ、何の前触れもなく先のアメリカのグループから研究者がやってきて、ジョイントペーパーにしようともちかけてきたのです。すでに私たちの論文は受理されていましたから、鈴木先生の判断で結局はジョイントペーパーにはしませんでしたが。けれどもその後に、校正用の原稿が遅れるなど不可解なことが続きました。嫌な競争相手がいるもんですね。
さてSLGの構造は決まりましたが、その物質が何をやっているかは依然としてわかりませんでした。さらに詳しく調べようと、1989年から私たちの研究室でも遺伝子を扱えるように整備をしました。この頃に、オーストラリアのグループがタバコの自家不和合性に関わるS糖タンパク質を単離し、それがRNA分解酵素だということを発表しました。日向先生と一緒に、その発表をしたメルボルン大学のAdrienne Clarke教授のもとを訪れたのが1989年。実はこの頃、タバコの自家不和合性とアブラナの自家不和合性で、雌しべのタンパク質に共通性があるのではないかという考え方があったのです。それで様子を見にいったということです。しかし、A.Clarke教授らの仕事で、タバコの方が先に、それがRNA分解酵素としての機能があるということが明確になって、どうもアブラナとは本質的に違う機構のようだということがはっきりしたんです。自家不和合性の研究の世界でいえば、この2つの自家不和合性機構の間での競争があったということになります。そしてこの時、あとから始まった、タバコの方が研究が先行してしまったということです。ずっと後のことになりますが、私が奈良に行ったとき、このタバコと同じナス科のペチュニアを使った研究も始めたのです。世界の自家不和合性研究グループの中で、ナス科とアブラナ科の両方を研究しているところは私達の研究室だけでした。そして、最近、ペチュニアを使った研究でも、大きな成果を出すことが出来ました。それが私の研究者としての最後の論文で、「Science」のarticleとして掲載されました。随分長くかりましたが、良くやってきたと思います。
話をオーストラリアに行った頃に戻しますが、同じ頃、アブラナでも大きな進展が思わぬところからありました。アメリカのある研究グループが自家不和合性とは無関係に、1990年にトウモロコシからセリン/スレオニン型のレセプターキナーゼをコードする遺伝子を見い出しました。驚くべきことに細胞膜を貫通するこのキナーゼは、細胞外領域のアミノ酸配列がSLGと相同性を示していました。こうした情報をいち早く入手したのでしょうね、アメリカの競争相手のグループは、アブラナで、SLGと相同な細胞外領域をもつレセプターキナーゼを発見し、S-レセプターキナーゼ(S-receptor kinase: SRK)と命名しました。この時はさすがに、先をこされたと思いましたね。でも、私たちとしてはやれることを少しずつでもやっていこうというスタンスで研究を進めました。まず、私たちはSLGのアンチセンス遺伝子を導入した形質転換植物を作製し、不和合性が打破されることを示しました。それに続いて、日向先生のグループが長年の苦労の末に、SRKが雌しべ側の自他識別の特異性を担う因子であることを明確に証明されたのです。SLGはSRKの働きを補完していると考えられましたが、現時点でもその働きは明確には分かっていません。しかし、SLGの研究がなかったら、その後の研究はないのですから、日向先生のお仕事はこの研究の一つの鍵であったと思います。
自家不和合性をたずさえて大和の国へ
さて、雌しべ側が分かったので、次は花粉側の問題です。けれども花粉側の因子を見つける方法は、すっかり行き詰まっていました。この頃に、奈良先端科学技術大学院大学に移ることが決まったのです。新しく出来た大学であり、研究室を新しく作ってスタッフを自分で選べる、実験機器も購入してくれるという条件だったので、移ることに決めました。森永製菓から東大に戻る時ほどは悩みませんでしたね。奈良に移るにあたっては、当時、助教授だった鈴木先生と相談しました。自家不和合性の研究は私が責任をもって進めていましたが、東大にいる時に始めたものですから、持ち出して良いものかどうかを尋ねたのです。ありがたいことに、鈴木先生から、結構ですよとのお返事をいただきました。自家不和合性を進めるスタッフとしては、大学院生の時に自家不和合性を一緒に頑張ってくれた高山誠司くんを呼び戻しました。彼は当時会社に就職していましたが、何とかお願いしてスタッフとして参加してもらいました。
こうして新たな研究体制で、研究室の主要テーマとして、自家不和合性の研究を継続出来ることになりました。研究は少しずつ進みました。1999年のことです。SRK遺伝子とSLG遺伝子の近傍に、花粉側の因子をコードする遺伝子を発見し、SP11(S-locus protein 11)と命名しました。この遺伝子から作られたタンパク質で雌しべの柱頭を処理すると、受粉させた非自己の花粉についても、花粉の発芽が抑えられました。SP11タンパク質が、自家不和合性の花粉側の因子であることが明らかになったのです。このタンパク質を化学合成してジスルフィド結合の位置を決定し、花粉側因子の化学的な実態を示すことも出来ました。そして、この花粉因子と雌しべ側のSRK/SLG複合体との相互作用も解き明かしていったのです。この時も、1つの危機がありました。
「Nature」投稿用の論文を書いて、その後に私が京都の国際シンポジウムで花粉因子のことを話して帰ってきたら、「Science」に同様の論文が発表されていたのです。慌てて、当時の学長だった山田康之先生に頼んで、「PNAS」に1ヶ月遅れで論文を載せることが出来ました。私たちの研究が、どこかで漏れていたのかもしれません。
私達が明らかにした花粉側のSP11と雌しべ側のSRKの相互作用に付いて、もう少し詳しく見てみます。アブラナ科植物のS遺伝子座上には、花粉と葯のタペート細胞で発現するSP11と、雌しべの柱頭の乳頭細胞で発現するSRKがコードされています。SP11は花粉が成熟すると花粉の表層に移行し、一方SRKは乳頭細胞の細胞膜上に存在します。花粉が雌しべの柱頭に付いて受粉したとき、それが自己の花粉だった場合は、SP11がSRKと結合し、SRKの自己リン酸化が起こります。すると、乳頭細胞内で不和合反応が起きて、花粉の吸水や発芽が抑えられるのです。一方、非自己の花粉だった場合は、SP11がSRKと結合せずに、上に述べた一連の反応は起こらず、花粉は花粉管をのばして受精に至るのです。さて、SP11とSRKが相互作用していることが分かったのは2000年ごろです。私が奈良に来たのは1994年ですから、6年ほどかかりました。最初の1987年の論文から数えると13年です。研究というのはある時に良い結果がでて、それが落ち着くと次の新しい結果が出るまでに5から8年ほどかかる。私たちも何度か体験しましたが、競合相手との競争もあります。大きな結果が出ない時期にいかに我慢して着実に仕事を進めるかということが大切だと思いますね。
自家不和合性の研究は、奈良先端科学技術大学院大学に来なかったらここまでの発展はなかっただろうと思います。研究に対する考え方を共有できる多くのスタッフに集まってもらえましたし、多くの共通機器も使えました。また、お互いを刺激し合えるバイオサイエンス研究科の仲間たちの存在も貴重でした。実は、東大にいたときにキチナーゼの阻害剤の探索研究も大学院生と一緒にしていました。昆虫の皮膚はキチン質で出来ており、硬くて一定以上の大きさにはなれません。大きくなるためには、脱皮をしなければなりません。キチナーゼは、その時に働くキチン分解酵素です。振り返って見れば、奈良に移ったことは、私にとって脱皮だったと思うのです。もちろん、脱皮したことが良い選択だったと思えるよう努力しましたが。
大和の国に根付いた小粒の山椒
学長になり若い人たちと飲んだ時に、「先生、趣味は何ですか」って聞かれたので、「畑と奈良だ」って答えたんです。最初は畑を明日香で借りていたのですが、最近は近くで借りています。学長になって畑に出られなくて困っていますがね。大学では研究のための植物を育て、今は畑で作物を育てている。小さい野菜が大きく育っていくのを、じっと待ちながら見ていると楽しいですね。教育も同じで、経済性を重視した促成栽培ではなく、自分の子供や学生が育っていくのを見て、助けて、待ってやる。それが大切だと思うのです。
奈良に来るときに、ある尊敬する先輩から「地元の人と知り合いにならなきゃだめだ」と言われました。旅行者として観光地を回るだけではなくてね。奈良に来たばかりの時に公開講座でアブラナの話をしたら、それを聞いていた奈良女子大学の出身で、電子顕微鏡が専門の研究者が、「研究チームにいれてくれませんか」って来てくれたんですよ。その人が、同じ大学出身の人を秘書として推薦してくれて、その人がまた別の飲食店の方を紹介してくれました。その人から、奈良の僧侶や職人やらといろいろな人をずいぶん紹介してもらいました。こうして今も奈良の人とのつながりが増えています。実験をしていた頃は学生からいろいろなことを教わりましたが、今は奈良の人たちから奈良のことをいろいろと教わっています。ところで、奈良先端科学技術大学院大学の学生は、奈良国立博物館に無料で入れるのです。留学生に限らず、ここの学生はもっと積極的に奈良の文化に触れてほしいと思いますね。教員もそれを許してやらなきゃいけない。最近、よくグローバル化とか国際化とか言われますが、グローバル化は世界標準で評価しましょうということ。一方の国際化は、それぞれの国の文化を理解して、独自性を出していくことだと思うのです。「さんしょはこつぶでぴりりとからい、ですものね」。そこには、小さな私の独自性がありました。この小さな大学も、奈良という地域性を活かしながら、ピリリと辛くあり続けられればと思い、全力を尽くしています。