縁の好熱菌から生きものの森をみる

森をみるのに2通りの方法があるでしょう。中に入って一本一本の木をみるのと、外から全体を眺めるのと。好熱菌の研究は後者なんです。一本一本の細かいことには興味がない。タンパク質の輸送やシグナル伝達など一本一本の木を見るような細かい研究は立派だと思いますが、どうも性分に合わないようです。大雑把に外側を歩いているのが好きなんです。生きものという森の一番端にある好熱菌を調べることで全体を見ているつもりです。生命科学に限らず、こんな研究姿勢があっても良いと思いませんか。でも、大事なのは常に森の中心を意識すること。「反対を向いてはいけない。中心の分子生物学や生化学と結びつけることが大切だ。」と卒論指導して下さった田宮信雄先生(のちに東北大名誉教授)の言葉を今も心に言い聞かせています。

化学と出会う

生まれは東京の上野桜木町。上野動物園のすぐそばです。通っていた幼稚園が、現在勤めている東京薬科大学の前身の上野女子薬学校近くでした。当時はもちろん知りませんでした。小学校(国民学校)に入ると太平洋戦争が始まり、3年の時に疎開で栃木の山奥へ。子どもばかりの集団生活で大変だったのですが、1年ほどすると今度は家族で愛知へ疎開し、終戦後1年まで母方の実家の尾張一宮にいました。

科学との出会いは疎開先で、と言っても自然ではなく本との出会いでした。何を思ったのか先生が名古屋の丸善に連れていってくれたのです。当時は戦後の混乱もあってそう簡単に汽車に乗れる時代ではありませんでしたが、超満員の汽車に揺られ、一日がかりで名古屋まで行ったことを覚えています。そこで先生が大学で使うような本格的な化学の本を薦めてくれた。実はその頃錬金術に興味をもってたからかなと思うのですが、今となっては覚えていません。小学校6年生ですから、最初は読んでも訳が分からなかったのですが、ちょうど子どもが恐竜の本を丸暗記するように、くり返し読んでいるうちになんとなく分かってくるものですね。製本が粗末だったからバラバラになってしまったので、何度もテープで修理しました。ボロボロですが今でも大切に持っています。

中2のときに東京へ戻って、本郷追分け近くの中学に転入しました。疎開先ではうまく方言が使えず、地元の子どもたちと馴染むのに苦労したので、内心ほっとしました。当時、本郷通りには医療器械屋が並んでおり、簡単にピンセットなどを買えたのでそれを使っている同級生がいるのに、もう、びっくりしました。洗練されていると思いましたね。早速、自宅の自転車置き場で化学実験を始めました。今では規制が多くて無理だと思いますが、当時は中学生のお小遣いで25グラム入りの試薬が買えたんです。そんなにお金があるわけではないので、少し口が欠けたビーカーとか、寒天が入ったままのシャーレとか、近所の東大構内で拾ってきちゃいました。何が入っているのかわかりませんから、今思えばかなり怖いもの知らずでしたね。メッキぐらいは硝酸を使ってやりました。酸はかなり自由に使えたんです。化学だけでなく、生きものにも興味がありました。東大の三四郎池や小石川植物園にオタマジャクシがいっぱいいましてね。捕まえてきて家の庭で飼ったのですが、カエルに変わる頃に尻尾がなくなるのが不思議で、何度も解剖しました。

高校は都立小石川高校で、化学クラブに入りました。本当に好き勝手なことをやらせてもらえて、放課後は実験室に入り浸りでしたね。食べる物、特に甘い物がなかったから、甘味料ズルチンの合成もしました。ズルチンを溶かした水を凍らせたアイスキャンディーは当時の子どものおやつの定番です。ズルチンは毒性があり、今では食品使用が禁止されていますが、実は合成が簡単なんです。後味が良くありませんが、とにかく甘いのがうれしくて。クラブのメンバーで試食会をして盛り上がりました。5~6人位いたその時の仲間はみんな化学屋の道を歩んでいますね。

父が医師だったので基礎医学の本は家の中に転がっていました。父は何も言わなかったけど、医学部に行くことを期待していたでしょうね。でも私にとっては化学の本との出会いの影響の方が大きく、大学では化学の道へすすみました。

1936年頃。大好きな車に乗って得意顔。

ボロボロになるまで読んだ化学の本。

化学の本を薦めてくれた鈴木先生と疎開先の友人。(右端:本人)

自作電蓄と共に。

高校の文化祭でゲルを使った発表

化学クラブのメンバー。(後列右から2人目:本人)

化学の言葉で生きものを理解する

高校の頃にATPで筋肉の動きが説明できると知り興奮しました。化学の方程式で生物のしくみが説明できるということに感動したのです。勉強するほどに、化学で生きものを理解したいと強く思うようになり、卒業研究は念願の東大理学部化学科の生物化学講座へ。指導教官の田宮信雄先生が有名な水島三一郎先生の講座(物理化学)の人と意気投合して私のテーマが決まり、アミノ酸の赤外線吸収スペクトル赤外線吸収スペクトル分子に赤外線をあて、その吸収の様子を調べる分析法。有機化合物の原子や官能基はそれぞれのエネルギーによって振動し、振動数が一致した赤外線だけ吸収する性質を利用している。有機化合物ごとに吸収する波長が違うので、分子の指紋とも呼ばれる。を調べる事になりました。酵素反応を使ってアミノ酸に重水素を入れると、入ったところだけ重くなって原子間の結合の振動数が下がります。すると、吸収する赤外線の波長が長くなるのでそれを利用してアミノ酸の赤外スペクトルが同定できるのです。水島研では計算で近似させ、私が酵素反応を利用してアミノ酸を合成して確かめるという具合です。最初に異分野と共同研究したのが、新しいことを始めるのをためらわない性質を培ってくれたかもしれません。

大学院入学の年に生物化学科が新設され、そこに進学しました。その頃からなんとなく研究者になろうと思い始めていました。社会のことを知らなかったという方があたっているかな。幼い頃から東大の近くに住んで、中学の間、通学は大学キャンパスを突っ切っていたので、そこが世界だったのです。

この頃、後に東京薬科大学の生命科学科を立ち上げられた水島昭二さん(水島三一郎先生のご子息)と出会ったのですが、今思い出しても笑ってしまう話があります。水島先生がどこからかダメ真珠をもらってきて、それをキレイにしてお金儲けをしようとしたのです。真珠は核の回りに分泌されたタンパク質と沈着したカルシウムが層状に重なってできるのですが、中にヘムタンパク質が混じって薄黄色に汚れたダメ真珠になるものがあります。酸につけるとカルシウム、アルカリにつけるとタンパクが解けるから、これを繰り返してみたのですが、何回繰り返してもキレイになりません。そしたら、水島先生が何でもバクテリアに頼めばいいんだっていうんですよ。そこで、二人で応用微生物学研究所(現東京大学分子細胞生物学研究所)のとなりに穴を掘って真珠を埋めたのです。ところがそれっきり忘れてしまった。その後、応微研は増築しましたから、基礎工事のときに土と一緒に捨てられてしまったでしょうね。成功していれば最近流行の大学院ベンチャー企業の先駆けになったのにね。

江上研のメンバーと。(前列右から3人目;江上先生、4人目:中村桂子館長、2列目:3人目:本人)

第一回生化若手の会にて。

大学院時代。指導教官の田宮信雄先生(左)と。

生命の起源を探りたい

大学院ではあまり人がやらないちょっと変わった研究をしました。一つは微生物の硝酸呼吸。分子状酸素を使わず、硝酸塩を使う呼吸です。酸素呼吸では、酵素オキシゲナーゼが関わる反応が、硝酸塩呼吸の場合どうなるのかというのがテーマでした。難しかったです。本当の答には到達できませんでしたから。結局、かなり後になって、分子状の酸素の場合は酸素が直接とりこまれるのに、硝酸塩はそのまま直接取り込まれるわけではなく、全く別のしくみがあることが分かりました。うまく解けなかったけれど、硝酸呼吸は酸素呼吸の前段階の原始的なものですから進化を強く意識するようになり、なにか生命の起源に関連した研究をやりたいと思うようになったのです。

私が学部の学生だった時、ソ連が世界初の人工衛星スプートニクを打ち上げて大きなニュースになりました。アメリカは遅れを取り戻すために、ソ連と逆に国際協力、情報公開、全てをテレビ放映するというメディア方式での宇宙探索と開発を始めたのです。そんな時、国際協力の窓口である学術会議の議員になられた江上不二夫先生(東京大学名誉教授)が、自分の講座からアメリカのプログラムに人を送りたいと思い、おっちょこちょいな私がそれに飛びついたのです。学位取得後に助手になりましたが、すぐカリフォルニアにあるNASAのエームス研究所に行き、そこで2年間研究をしました。地球圏外生物学部門の化学進化、つまり化学物質から生命の起源を探る研究で、地球以外の惑星で暮らす生きものの可能性の検討でもありました。私自身のテーマは、「酵素としてのはたらきをもつペプチドが自然にできるか」というものでした。

『生命の起源』の著者オパーリン(左から2番目)と。(左端:本人、右端:在日中のオパーリンの主治医をつとめた父)

好熱菌との出会い

壁一つ隔てたとなりは異常環境下の生物学の研究室で、地球以外の惑星、特に金星や火星に生きものが可能か探っていました。当時は金星が熱く、火星が冷たいということぐらいしか分からず、イエローストーン国立公園内の温泉を金星のモデルとして研究する人もいました。イエローストーンには、もうもうと湯煙をあげる温泉の中に80℃で増殖できる菌がいると聞いて、迷わず日本に帰ったら私にもその研究をやらせてほしいと伝えました。原始の地球は熱いから、好熱菌は原始的だという迷信みたいな考え方は昔からあって、私も好熱菌を研究すれば生命の起源を探れるだろうと思ったのです。今ではリボソームRNAの遺伝子で作った分子系統樹の根元に好熱菌が集中するので、地球上の生きものの共通祖先は好熱菌だっただろうと言われています。好熱菌を研究する魅力は他にもたくさんあります。その酵素が熱に安定で、広い温度範囲で性質を調べることができるので物理化学の実験に有利です。しかも、熱に安定な酵素は応用にも結びつきやすい。例えばデンプンを酵素反応で分解してブドウ糖にする時、低温ではほとんど溶けないデンプン溶液も80℃まで上げたら、驚くほどたくさん溶けます。反応の材料(ここではデンプン)が水に溶けて初めて酵素反応は進みますから、目的のブドウ糖を効率よく得られます。まだまだあります。安定なタンパク質は結晶化しやすく、立体構造を知るためのX線結晶構造解析に向いています。新たな菌を見つければ、まだ知られてない新しい生化学反応が見つかるかもしれないし、研究者にとって好熱菌はまさに宝の箱ですよ。

イエローストーンの温泉で好熱菌を探す話を聞いたとき、内心、これは日本向きだと思いました。日帰りで行ける温泉がいくらでもありますし、誰も温泉などに行かないアメリカと違って本屋で全国の温泉の泉質の組成を知ることができます。成分が分かれば菌を育てる培地づくりも楽ですよね。

その後、江上不二夫先生の紹介でニューヨークのアルバート・アインシュタイン医科大学のホレッカー先生のところで1年2ヶ月ほど、微生物のエネルギー代謝で大切な解糖系の酵素アルドラーゼを研究しました。ホレッカー先生は「江上先生に頼まれて君を宇宙から地上に戻してやった」と言うんですよ。でも、私にしてみれば、天国から地上に戻ってきたというのが実感でしたね(笑)。バイキング計画のおかげで、NASAは研究費が降り注ぎ、まさに天国でしたから。ポスドクにだって何でも買ってくれましたよ。

日本に帰って来たのは68年。理工系ブームの波にのって、東大の農学部が5講座増えたところでした。その新設講座へ今堀和友先生(季刊生命誌18号)が東大教養学部から移り、そこの助手に移りました。今堀先生は理学部や教養学部での研究は虚学だったので、せっかく農芸化学に呼ばれたのだから、今度は虚学を基本にした実学をやりたいと考えていたようです。ですから、応用に結びつきやすい熱に安定な酵素、好熱菌の酵素はぴったりのテーマでした。
人から聞いただけの話なので、温泉から本当に生きものがとれるのかどうかあまり自信がなく、9月の秋分の日に誰にも言わずこっそり柄杓を持って伊豆の峰温泉に日帰りで行ってきました。ところが、不思議なことに、東京駅で江上不二夫先生にばったり出会ってしまったのです。困りましたが、温泉に遊びに行くとごまかしました(笑)。

目的地の伊豆の峰温泉は本屋の立ち読みで決めました。地下水がマグマで熱せられただけなので、少しNaClが多いくらいで、イエローストーンの温泉とよく似ています。案ずるより産むが易しで、なんと一回目で好熱菌がとれました。手もつけられないような熱い温泉からとれたのですから、感激でしたね。これが日本の温泉で初めてとれた微生物、好熱性細菌のThermus thermophillusです。この幸運を生かそうとすぐに実験をはじめました。

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Scientist Library:
生命誌18号
『タンパク質と私の研究遍歴』
今堀和友

タンパク質の構造解析から、酵素、そしてアルツハイマーの研究まで、テーマはダイナミックに変わった。。…

今堀研のメンバーと。(2列目右から2人目:今堀先生、右端:本人)

Thermus thermophillusを単離した伊豆峰温泉にて。

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好熱性細菌Thermus thermophillus
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伊豆峰温泉でみつけたこの好熱菌は生育温度の上限が85度と当時最も高いものでした。

好熱菌の生化学の全てが知りたい

好熱菌の生化学ならなんでもやりました。高温環境で暮らす生きもののしくみが知りたかったのです。生育温度の上限が85℃というのは当時発見されていた中で最も高く、体長2μm、外膜がある細胞膜をもっている点は分子生物学研究の王者、大腸菌とよく似ていました。こんなに似ているのに高温に耐えられるのはなぜだろう?似ているからよけい知りたいわけです。

まずはタンパク質合成を調べようと抽出液を使って無細胞系のタンパク質合成に挑戦したのですが、大腸菌のようにはうまくいきません。生化学反応で行き詰まったときは、生合成反応を活性化するポリアミンを入れてみると良いというアドバイスを同僚から受けて、実験してみたところ、本当にうまくいったんです。仲間というのはありがたいものです。あまりうまくいったので、ポリアミンに興味をもち、好熱菌のもつポリアミンの構造を片っ端から決めました。ポリアミンは生合成の活性化だけでなく、DNAや細胞膜の安定化などに幅広く活躍するんです。Thermusの15種類のポリアミンのうち、半分くらいは新規物質でした。新規物質をとると、慣用名をつける楽しみがあります。好熱菌だという事と主成分が分かるようにサーモスペルミン(Thermospermine)とかサーミン(Thermine)とかね。でも、そのうち考えるのが面倒になってしまって、油断していたら痛い目に合いました。Nのところに正の電荷をもった4級のアンモニウムで、結合の手が4つ伸びているポリアミンをみつけ、十字架に似ているからクロスアミンと名付けたのです。論文を投稿したところ、エディターからものすごい非難。宗教的に意味深い言葉とは知っていましたが予想以上の反応にびっくり。ですから残念なことにそのポリアミンには未だに慣用名がありません。

ポリアミンはDNA研究にも登場します。DNAのAやGは酸性にすると糖と塩基の結合が簡単に切れてDNAの背骨からはずれますが、RNAでは安定です。糖の2位にOHがあるだけの違いがこの差を生むのです。DNAの場合、室温、pH4で半減期が15分ほどと、かなりの速さでAもGも外れてしまいます。好熱菌は80℃位で暮らしているので速さはその30倍。AやGが外れると修復する必要があり変異が起きる確率が高くるはずなのに、実際にはそれほどの変異は起きません。なぜだろう。その理由のひとつがポリアミンにありました。ポリアミンは塩基性の強い化合物でDNAにしっかりと結合します。その結果、DNAが安定化してAやGが外れるのを抑えられるのです。好熱菌は人間が持たないタイプのポリアミンをたくさん持っていますが、DNAの耐熱性に役だっているのでしょう。

ThermusのDNAはGC含量が高く、動植物の場合の40%程度に対して70%もあります。水素結合がGC間の方がAT間よりも一本多いので、GC含量が高いDNAは熱に安定になります。アミノ酸を指定するコドンの3文字目は自由度がありますから、そこをGかCで埋めるとだいたいGC含量が70%くらいでしょう。ですからTherumusの生育温度、80℃くらいが生命体が存在できる限界だと思っていました。ところが、実はバクテリアのゲノムDNAは加熱しても熱変性が起こらないんです。DNAがスーパーコイルというねじれた輪ゴム状態になっており、水素結合がはずれないのでGC含量の問題ではない。後に90℃で暮らしながらGC含量が30%台前半という好熱菌も見つけました。

1972年から三菱化成生命科学研究所に移って、tRNAの研究もしました。渡辺公綱さん(現産総研生物情報解析センター長・生命誌12号)が好熱菌の培養温度を上げたら、t RNAの変性温度も上がるという妙なことをみつけたのです。なにか安定化のための物質を生産しているのだと予測したのですが、そうでなくtRNA自身の修飾が変化していることがわかり、これが安定性に大切であるという結果になりました。さらに宮澤辰雄先生(故人:東京大学名誉教授)の研究室で、NMR を使って立体構造の確認をしました。tRNAはクローバーの葉のような二次構造を持っていて、両側にあるループがまるでチョウが花にとまって羽を閉じる、ああいう格好をしていますね。高温で培養すると、この羽を閉じるところに新しく修飾が入り、回転の自由度がなくなって結合が安定するのです。自由度がなくなるのでエントロピー的には損をしますが、立体構造が維持されてはたらける。つまり、修飾された酵素は高温でうまくはたらくようになっているのです。低温で培養すると一部の分子でしか修飾が起こりません。培養温度を上げれば修飾された分子の数が増えるので、見かけ上、変性温度が上がるわけです。高温で培養するとほぼ100%のtRNAが修飾されます。好熱菌がまわりの環境を察知して対処するうまいしくみですね。

膜脂質も研究しました。好熱菌では極性基が違いますし、糖脂質が多い。ほとんどが不飽和脂肪酸よりも融点が高い飽和脂肪酸でした。膜の流動性の相転移温度も高温環境に適したものになっていましたね。

これは予想外だったのですが、Thermusは外来遺伝子を取り込みやすい性質がありました。配列が似ていればあっという間。研究者が非常によく使う大腸菌の遺伝子組み換えよりもはるかに簡単です。寒天プレートの上に導入したいDNAをまいておいて、その上に冷蔵庫で保存したThermusを加え、80℃の恒温機の中に入れればDNAがとりこまれてしまうので、本当に手間いらず。75℃以上で増殖する菌のうち遺伝子操作ができるのは、現実的にはThermusしかありません。さまざまな好熱菌で試した人たちがいますが、非常に効率が悪いようです。ただただ、運が良かったとしか言いようがない性質をもっていてくれたということですね。DNAがつるつる入ってしまうのですから。

それから、安定なタンパク質は結晶しやすいという性質を反映して好熱菌のタンパク質はとても結晶性がいい。イソプロピルリンゴ酸デヒドロゲナーゼなら素人でも2~3ミリのものが作れます。この結晶ができた頃、ある会議でタンパク質のX線結晶構造解析の専門家である勝部幸輝先生(現大阪大学名誉教授)とお会いする予定があり、ポケットに結晶を入れた試験管をしのばせて行きました。90年代の初めでタンパク質の結晶がとても貴重なときですから、勝部先生はそれはそれは興奮なさって、私に結晶をそっとしておくようにと言うんです。大阪に帰ったらすぐに学生にとりに行かせるから大事に保管してくださいと。実は勝部先生にお見せする前にポケットから落として結晶が割れてしまったのですが、本当はもっと大きい結晶があったとはその時とても言えませんでした(笑)。最終的には田中信夫先生(現東工大教授)と勝部先生の研究室で立体構造を解きました。

お分かりですよね。好熱菌ならなんでも。研究者にはDNAとかタンパク質など物質で専門を分けて考える人がいますが、好熱性という生きものとしての性質が知りたいと思ったら、どの物質がどのように関わっているか全体を見なければいけないでしょう。好熱菌だけで生化学の教科書を書いてみたいと思っています。

三菱化成生命科学研究所の前で。左から本人、江上不二夫先生。

アメリカで行われた三菱化成生命科学研究所の5周年パーティーにて(右から4人目:本人)

Experiment:
生命誌12号
『原始生命はいかにして
たんぱく質をつくったか?』
渡辺公綱

Thermus thermophillusのもつ酵素(イソプロピルリンゴ酸デヒドロゲナーゼ)の結晶。左上がX線回折写真。回折写真を解析して明らかになった立体構造の模型は研究室に飾ってあります。

やめられない好熱菌探し

新しい好熱菌探しはライフワークと言えるかもしれません。初めに分離したThermusは中性の熱湯で暮らす好熱菌ですが、他に酸性環境に耐える菌も探しました。DNAは酸性に弱いが、RNAはむしろアルカリに弱い。だから、酸性で高温な環境に暮らす生きものを探したらRNAを遺伝子として使う生きものが見つかるかなと思ったのです。でも、世の中それほど甘くはありません。今のところ、RNAを遺伝子としているのはウィルスだけ。RNAを遺伝子にする生きものは夢に終わりました。でも、好熱性、好酸性の古細菌発見という収穫がありました。分離は三菱化成生命科学研究所(現三菱化学生命科学研究所)にいたころやりましたが、基本的な性質は東工大に移ってから決めました。その名もSulfolobus tokodaiiです。生化学的な解析だけでなく、ゲノム解析など、幅広く研究しました。みつけたのはpH2.5~3くらいの箱根大湧谷の温泉。手が届く限りは柄杓ですくい、後は、細いチューブの先につりに使うおもりをつけて、ほうりなげます。嫌気性でとりたいときはこれに大きな太い注射器つけておき引くと、初めの部分を捨てれば、後の方はほとんど酸素に触れない状態でとれます。もう一つ、別府温泉のみょうばん泉のpH1近くのところでも探しました。酸性が強いので手にちょっとしたささくれがあるだけでも痛いんですよ。今では厚生省の指導により泉源に川の水を引いて中性に近づけているようです。

箱根の大湧谷で好熱菌の採集。ここで好熱性・好酸性古細菌Sulforobus tokodaiiを発見。

伊豆峰温泉にて。熱水が30メートルも吹き上がることがある。

Research:
生命誌40号
『原始の生命体と地球の姿』
山岸明彦

先生は好熱菌

遺伝という現象には多くの人が興味を持っていたのにメンデルだけが遺伝の法則を発見できたのは、一回の実験で一つの形質(色、形など)に注目する単純な系をつくったからです。好熱菌は高温という一つの要素だけに適応した単純な系ですから環境適応や進化の分子的機構が研究できる良い系であるはずです。

Thermusは遺伝子操作が簡単にできるのでゲノム上の遺伝子一つを抜いて大腸菌や枯草菌の相同な遺伝子をいれることができます。するとその遺伝子だけが高温環境に適応していないので、進化的に強い圧力がかかります。種が分かれるのには長い時間がかかりますが、遺伝子一つの進化ならすぐに起こるだろうと思って実験したところ、2晩くらいで変化してしまったのにはびっくりしましたね。遺伝子はある環境のもとでは安定だけれどちょっと環境が変わると簡単に変わるんですね。観測可能な時間で変化が起こるだろうとは期待していたのですがこんなに変わりやすいとは本当にびっくりです。

実験では一個のアミノ酸の変異で酵素の耐熱性が5℃上がりました。しかも、それらの変異を組み合わせると加算的に耐熱性が上がるのです。お互い足を引っ張ることはなく、7つの変異を合わせると25℃も上がるのです。変性温度が50℃から75℃になったら大きな変化ですよね。その上、高温で安定になったからといって酵素活性が下がることはなく、むしろ上がることさえありました。逆に好熱菌の遺伝子を大腸菌に入れて常温適応させる実験もしました。すると、常温での活性が上がるのですが、高温での安定性は変わりません。安定性と活性の直接的な関係は薄いようです。うまくいけば常温で充分な活性をもち、しかも熱に安定な酵素をつくれるということです。難しいのは常温での活性に加算性がないこと。酵素活性を上げようとする時、どうしたって活性中心のアミノ酸残基を変化させたくなるものですが、今回の研究で好熱菌は私たちに活性中心から遠い所に変異を入れた方が良いと教えてくれました。つまり、活性中心のアミノ酸残基を変えるのではなくちょっとずらすだけでいいのです。ほんのわずかな変化だから法則性がみつけづらいですね。

残念ですが、いまのタンパク質化学にはその法則性を見つけるだけのデータを出す技術がありません。有機化学者は原子を点で書きませんよね。原子はゆらいでいるわけですから、楕円形で示します。現在の実験技術では、タンパク質がどれくらいゆらいでいるのか、全くわかりません。ゆらぎの程度を表示できるような立体構造が分からないと、安定性や機能、活性の予言は難しいと思います。今とは次元の違う精度で構造を解かないとだめでしょうね。

Thermusはゲノムのサイズから見て2000個の遺伝子が熱安定なタンパクをつくっています。法則探しが難しいと分かったので、好熱菌を先生に着実にタンパク質のはたらきを調べて耐熱性のしくみを探る方が近道だと思っています。

科学者としてやりたいこと

三菱化成生命科学研究所には11年いて、その後、東工大へ移りました。江上不二夫先生が10年でターンオーバーしなさいと言っていたから、ほぼ忠実に守った形です。ちょうど、新しい学部を設立する話が持ち上がったところで、東工大とあまり縁の無かった私が中立の立場としてその交渉にあたることになりました。神奈川県のすずかけ台キャンパスに生命理工学部を作ったのですが、紆余曲折があり、東工大にいた12年のうちの8年位はこれに費やしましたね。その頃から高校生向けの生命科学セミナーなどもやっていました。当時は今ほど、一般向けセミナーが盛んではなかったのですが、そういうことを進んで引き受けていたのはNASAでの経験が大きいのかもしれません。NASAでは湯水のように研究費を使いましたが、その反面、自分の研究を一般の人に分かるように説明することがとても重要視されていました。生命の起源に関する研究をやっていると、よく宗教関係者が話を聞きに来るのですが、同僚が非常に丁寧に対応していたのを覚えています。国の税金を使っているのだから専門の言葉でなく易しい言葉で話して分かってもらわなくてはいけないという論理ですね。すっかり刷り込まれてしまいました。

東工大を定年まで勤めた後、その昔、一緒に真珠を埋めたあの水島昭二先生に声をかけて頂いて東京薬科大学での新しい学科づくりに参加しました。東京薬科大でも、一人一人を大事にする教育をめざしましたが、ひとりの教授が一学年7~8人も受け持たなくてはなりません。先生を総動員してその数ですから理想とはいえませんね。のんびりするつもりが、結構忙しい毎日です。

東京薬科大学生命科学部創設時につくった敷物。所在地、八王子の名産だった絹でできており、夕焼け小焼けの歌が生まれた地で生命科学の研究をすることを表すため、夕焼けとDNA二重らせんをイメージしている。

スイスの学会の際に奥様と。

混ざりものの微生物学

最近の好熱菌探しは、温泉や海底火山の熱水噴出口付近で行うのが流行です。もともと好熱菌は20世紀の前半に土や堆肥の中から発見され、主に土壌細菌として分類されていたのですが、皆が土の方を忘れてしまったので、今はこちらに注目しています。

土に注目するきっかけとなったのが、鹿児島県にある下水処理場の堆肥です。昔はたかだか80℃を超える程度だった堆肥の温度が今では軽く90℃を超えるとのこと。初めは測定の間違いかと思ったのですが、現地に見にいったら本当に95℃もありました。これはいい材料になると思い、以来、そこの堆肥で実験しています。有機物の分解速度がとても速く、匂いはありませんし、ネズミの死骸も6時間くらいで分解されます。後には毛が少し残るくらい。骨も完全になくなってしまいます。すごい分解能ですが、菌の単離はほとんどできませんでした。いわゆる難培養性の分離不可能な菌が主役のようです。

分解力が強いから、有機物は最終的に二酸化炭素、水、窒素ガス、アンモニアなどの気体となり飛んでいってしまいます。そのため堆肥のかさがいつまで経っても増えません。宇宙ステーションなど応用はいくらでも考えられますね。例えば、植物がつくるデンプンからポリマーをつくらせて、そのポリマーがゴミになったらこの堆肥で分解させる。最終的には二酸化炭素と水を出すから植物の光合成の材料になります。これで完全なリサイクルです。場所をとることだけが難点ですね。

今の研究室で2年ほど発酵させている堆肥には、かさは増えないのを良いことに、毎週野菜くずとネズミの死骸をあたえています。そうしないと中の菌も死んでしまいますからね。ただし、塩分はたまってくるようです。念のため、一部を凍結乾燥して保管しています。菌が分離できないので、さまざまな微生物が混ざった状態で酵素のはたらきを調べています。

単離した菌をいろいろな条件で培養していると、一代限りしか生きられないものがあります。微生物も他の仲間と社会を構成していて、一人っきりでは生きていけないものがたくさんいるようです。微生物学はパスツールとコッホから始まり、パスツールは発酵、コッホは病原菌の研究をし、どちらも純粋培養純粋培養一種類のみの生きもの、もしくは細胞を培養すること。滅菌、分離方法の確立によって可能になった。微生物の生理学的な研究をしたパスツールや、病原菌の特定をしたコッホらが確立した技術である。が基本にありました。その影響があってか、複数の微生物を一緒に培養するという技術が全く発達していません。純粋培養できる菌は全体の1%しかいないと言われていますから、混ざりもので培養する必要性がこれから出てくると思います。夢は新しい微生物学、混ざりものの微生物学をつくることですね。堆肥での培養が、その役に立ってくれそうです。微生物はいくらでも研究課題を与えてくれる面白い生きものですよ。役にも立ちますしね。

研究室のベランダにある、最近お気に入りの堆肥。90度にもなる堆肥の中には未知の微生物が混じり合い、有機物を分解しながら暮らす。