2010年編む
今橋さんの江戸の博物図譜をめぐる研究は、生命誌を語る大事な視点の一つと受け止め、関心を持ってきました。とくに最近の秋田蘭画「不忍池図」の解読は、大胆な仮説を緻密に検証していく科学的な方法に科学と芸術の重なりという言葉を越えたものを感じ、お話をお願いしました。自然科学の方と親しくしていらっしゃると思っていましたのに、初めての機会とか。それもあってか語り合うべきテーマが続々登場し、一度では整理しきれないという状態でした。でも、見て、考えて、表現することによって知ができ上っていく過程を追うというところに共通点が見出せた気がして、今後話を深めて行きたいと思っています。(中村桂子)
今橋理子(いまはし・りこ)
1964年東京都生まれ。学習院大学大学院人文科学研究科哲学専攻博士課程修了。日本学術振興会特別研究員、東海大学文学部専任講師を経て、現在、学習院女子大学国際文化交流学部教授。秋田蘭画から花鳥画、動物画などの実証研究を通して、絵画作品の歴史的な意味を明らかにする。著書に『江戸の花鳥画』『秋田蘭画の近代』ほか多数。
今橋 | 白状しますと、今日は予習せずにまっさらな状態でお迎えしています。きちんとお話を進められるかどうか、どきどき感とわくわく感が半々です(笑)。 |
中村 | 私もまっさらでお伺いしました。御著書を読み、ぜひ直接お話を伺いたいと思いまして。 |
今橋 | お送りいただいた年刊号とカードを拝見して驚きました。心をこめて作ってらっしゃるなあと思いまして。今やインターネットでの発信は普通のことになっていますが、作り手の方から伝わってくる体温が希薄です。季刊生命誌は本当に作っていらっしゃる方たちの気概を感じます。 |
中村 | 研究館は小さなグループですが、自分たちが大事に思うことをコツコツ進めていますので、そうおっしゃっていただけるとありがたく思います。実は私は今橋さんのお仕事に体温と気概を感じています。 |
今橋 | そこに飾っている絵は、かつてこの学習院女子大学の構内に植生されていたソメイヨシノから作り出した浮世絵版画です。ソメイヨシノから作った版画は、おそらく日本で唯一だと思います。 |
中村 | そのお話、まさに体温と気概の実例ですね。 |
今橋 | ここの場所はもともと尾張徳川家の下屋敷で、明治になって陸軍に接収されて近衛騎兵連隊が置かれました。私の研究室があるこの建物は士官の宿舎で、ソメイヨシノの桜並木はすぐその南側です。切られた桜もその一角に植えられていました。太平洋戦争の折、特に昭和20年5月25日の東京の空襲では付近(新宿区戸山町)一帯がひどく被害を受けましたが、この場所は奇跡的に焼け残ったのです。ここから出兵し命を落とした兵士もたくさんいます。そうした人たちを見送ってきた桜ですが、耐震を考慮した新校舎の設置のために伐採がきまったのです。 ソメイヨシノは明治以降の政策で植生が始まり、軍国主義が加速する時代には全国的に一斉に植えられました。開花を迎える春は見事ですが寿命を迎える時期も同時で、寿命は六、七十年といわれていますので、今全国で戦後に植え直されたソメイヨシノは寿命を迎えています。 |
中村 | クローンですものね。 |
今橋 | 園芸家によると、伐採後のソメイヨシノは材木はおろか薪や灰としても使えず、産業廃棄物扱いなのだそうです。このキャンパスの桜は伐らなくてはならないとしても、それまでの歴史を考えると何かをしなければと思い、有志の同僚と桜再生プロジェクトを立ち上げました。その一つがソメイヨシノで浮世絵版画を作ることでした。お恥ずかしいことに、私は桜なら何でも版木になると思っていたのですが、日本の版画は伝統的に樹齢80年以上のヤマザクラしか用いないのです。 |
中村 | 版画材として見た時、どこが違うのですか。 |
今橋 | ヤマザクラは実生ですので、徐々に太くなるために木目が非常に詰まっています。版画材になるには早くても80年はかかるために、現在ではほとんどを輸入材に頼っています。ソメイヨシノは接ぎ木で増やしますので、短期間で太く成長しますが、木目は密ではなく、だいたい曲がった形に育つので、材木として使えないと思われていたのです。 日本の「伝統工芸品」と謳われているものは、経済産業省の規定で材料は国産が前提です。かつて全国に自生していたヤマザクラに代わってソメイヨシノが植えられるようになり、国産材が手に入らなくなってしまい、浮世絵版画は伝統工芸品の枠から除外され、彫師や摺師などの職人さんは保護されてきませんでした。しかも輸入材はほとんどが合板ですので、若い彫師の方の中には、いわゆる無垢の一枚板を彫ったことのない方もいます。 京都の木版専門の出版社・芸艸堂の前会長・本田正明さんが職人さんの伝統を守り、若い人も育つようにと、長く経産省にはたらきかけて、私たちのプロジェクトが完成した2007年頃、浮世絵版画が伝統工芸品の範疇に入ることになりました。版画の実物をお目に掛けますね。 |
今橋 | こちらは主版、浮世絵版画を刷る際の最も大事な版木です。版木の厚みも伝統的に決まっているそうです。 |
中村 | 思ったより彫りが浅いですね。それにしてもこれはとてもしっかりした木ですね。 |
今橋 | 木目の詰まった、重い木です。今回伐採した10本のうち、最も老木で加工が難しいと思われていた2本がこの版木になりました。しかも、樹齢は100年を軽く経ていたのです。桜の部材は非常に狂いやすく、主版の上下には「はしばみ」という別の板を組み込んで、ある程度反りを抑えます。この技術を持つ専門の板屋さんがかつては何百人といたそうですが、10年ほど前に最後の方が廃業されて途絶えてしまいました。それを残念がられた芸艸堂の本田さんが、同様の技術を持つ江戸指物師の木村年男さん(荒川区在住・伝統工芸士)に依頼し、指物の技術によって復活させたのです。その成形の技術がなければ、生木から版木をつくり出すことはできませんでした。 |
中村 | 細かい技術の積み重ねで一枚の版画ができあがる。私たちの生活の中には、他にもそのような技術がたくさんあったのに、それを消している場面がたくさんあって気になりますね |
今橋 | 版木は全部で10枚成形し、作品一枚当たり30回刷ってできあがりました。彫師も、摺師もそれぞれお1人にお願いし、初摺り(初版)は400部刷りましたので、摺師ひとりで1万2千回も刷ってつくる計算です。 |
中村 | これは木目がとてもきれいに出ていますね。 |
今橋 | このうっすらとした木目は初摺りのみで、何度も刷っているうちに絵具が木目の中に入ってしまうと見えなくなります。和紙は越前生漉奉書です。大判錦絵に必要な厚みのある紙を漉ける方は、福井県在住の九代目岩野市兵衛(人間国宝)さんだけとお聞きしています。 こうして版木から完全復刻しました。刷り上がったばかりの浮世絵版画がいかに美しいものかを知っていただけるかと思います。どうぞ直に触ってみて下さい。 |
中村 | 木目、厚み、手触りなどすべてがあっての浮世絵版画ということがわかります。この技術が消えつつあることに、美術関係の方は問題を感じていらっしゃるわけでしょう。 |
今橋 | 当然ながら古い作品は大事にするのですが、作り手が途絶えることには何の手だてもしていませんね。私自身このプロジェクトを始めるまで、現在の浮世絵版画製作の現状を知りませんでした。 |
中村 | 生命誌では、生きものを基本に考えるということを提案しており、生きものにはさまざまな特徴がありますが、基本の基本は「続く」ということなのです。しかも「変わりながら続く」。この2、3年「生きもの上陸大作戦」を扱ってきたのですが、この挑戦には考えさせられることがたくさんあります。上陸した5億年前から現在までに5回も絶滅が起きています。その原因は、隕石のように外からの要因もあれば、マントルの運動が大陸移動や火山噴火を引き起こすなど、地球自身のエネルギーもあります。近年、人間の行動で生態系を壊したうえで、「生物多様性」、「美しい地球」という言葉がよく使われるようになりましたが、この星は本来そう生やさしいものではありません。 |
今橋 | 地球や生命体は脆弱ではないということですか。 |
中村 | ええ。絶滅や破壊が何度も起きてきたのですが、その中で続いてきた強さを生かすことが大事です。地球に対して後ろめたい気持があるものですから、美化した言い方をして本質に向き合っていないのではないでしょうか。 |
今橋 | 生命体をこの文明社会の中で、人間の叡智を結集して生かし続いていこうとすることが、次第に単なる欲望に変わってしまったことが現代の悲劇ですね。「美しい地球」をお題目にすれば免罪符となる風潮があるのは、困ったことと私も思います。言葉として生命を理解していれば良いということではありませんよね。 桜再生プロジェクトを思い立ったのは、日本人が桜に長く美を見出してきたことと関わっています。日本では「花といえば桜」というように、ある種のステレオタイプではありますが、たとえば満開の桜のもとで小学校の入学式を迎えたというように、人生のターニングポイントと結びついて、大事な記憶を想起させます。外国の方に、こういうものがあるかと訊ねても、日本人の桜ほどの思い入れのあるものは…。 |
中村 | 南から北まで桜前線が動いている間、皆がそれを追って花を楽しみ、散るのを惜しみますものね。 |
今橋 | 風景の喪失がアイデンティティの喪失につながるということは、人文研究でもよく言われています。ここは大学という教育の場であり、ここで学んだ学生たちの記憶は一定期間共有され、しかし次第に忘れられていきます。だからこそ、卒業した後でも共有される思い出のトポスとして、桜並木の風景の痕跡を残したいと思い、プロジェクトを企画しました。資金はゼロでしたが、卒業生をはじめとする多くの方々に版画を買って頂くことで、残った桜並木を保存するための資金ができました。木版画は版木そのものの歴史を刷り込むことでもある…というプロジェクトの意図は、版画を手にしていただく方に十分に伝わったと思います。 |
中村 | お話を伺っていて、その思いはとてもよくわかりましたので伝わると思います。素晴らしいプロジェクトですね。 |
今橋 | これまでは廃材でしかなかったソメイヨシノを、材木として再利用できる可能性と、それによって伝統文化を活気づける可能性が出てきました。命をつなぐというと大げさですが、さらに今後何らかに生かされたらいいなあ、というのが私の願いです。 ソメイヨシノについて教えてくださった京都の桜守・佐野籐右衛門さんに、完成した版画を謹呈しましたら仰天されて、「自分はどれほどたくさんのソメイヨシノを伐らせ燃やしてきたかわからないので、感動的だ」とおっしゃって下さいました。 「編む」というお題でこの対談のお話を頂いたときに、私自身はこの桜再生プロジェクトのことをまず思いました。これを思いついたのは、江戸絵画だけでなく、博物学を研究したことが非常に大きかったと思っています。 |
中村 | まさに、その組合せのご研究が私にとってはとても魅力的なのです。博物学に関心を持たれた経緯は…。 |
今橋 | 博物学との出会いは偶然のようなものでして、もともとは秋田蘭画派(註1)を研究しようとしました。秋田蘭画派は18世紀末の前衛ですので、前衛は伝統をやり尽くさないと辿り着けません。江戸の後期には科学と芸術が融合した博物学が身分や職業を問わず行き渡り、中国から入ってきた写実的な南蘋派(註2)の絵画が話題になっていました。まずはそうした時代背景を知り、江戸の人々が自然界をどういう眼差しで見ていたのかを知る必要があったのです。 江戸の博物学で特に大事にされていたのは言語情報です。あるものを見て情報として文字を寄せる時に、単に客観的な観察記録だけではなく、過去に遡って本草学や中国の文献などからの、言語的な情報を収集しようとする意思がはたらき、記述の上で絵と言葉を併置して博物図譜を成立させようとする。そういうものがごく自然にあったことが見えてきました。 註1:秋田蘭画 江戸中期の洋風画の一派。平賀源内に洋画法を指南された秋田藩士・小田野直武を中心に、秋田藩主佐竹曙山、角館城代佐竹義躬ら秋田藩ゆかりの武士たちが日本画の伝統的画材を用いて制作した。同時代の蘭癖大名たちから愛されたが、直武の早逝によりわずか6、7年で途絶える。日本洋画の先駆として司馬江漢らにも影響。 註2:南蘋派 江戸中期〜後期に流行した中国花鳥画の流れを汲む日本画の一流派。1731(享保16)年に長崎に来航した清の画家、沈南蘋(生没年不詳)の画法を伝える。江戸では宋紫石がこれにを広め秋田蘭画に影響を与える。花鳥画を主とし、迫真的な写実描法に特徴がある。 註3:名物学 書物に表された「名」が、どのような「事物」に相当するのかを調べ、両者の関係を、実体と言語の両方によって理解することを目指す古来の学問。本草学や博物学の前身。 |
中村 | まず見るということ、過去の知識を知るということは科学の方法ですが、その表現に言語と絵を重ね合わせているところがとても興味を惹きます。それは日本特有のことですか。 |
今橋 | 博物学そのものの性質です。日本の場合は一種の名物学(註3)に相当しますが、まず対象となるものが記紀万葉の世界ではどうであったかを最初に考えて、歌の言葉として使われているものと、今現実にあるものがどのような関係にあるのかを考えます。 |
中村 | 古典と比較するところから始まる、それが学問だということですか。 |
今橋 | ええ。古い名前と今伝わっている名前と、何が同じで何が違ってきているのか。さらに地方ごとの名前を知ろうとして、方言も収集するわけです。博物学の担い手は、科学者であると同時に手元に万巻の書を置いて、文学に精通していなければできません。 江戸の博物学の隆盛は、西洋の影響かとよく聞かれますが、ナチュラル・ヒストリーという学問そのものの基本的な思考の在り方は、地域性をほとんど抜きにして、世界中で同時多発的に現れるのです。 |
中村 | 身の周りの生きものには誰でも関心を持ったでしょうから、それはわかります。博物学と聞くと、プリニウスの博物誌を思い起こし、ヨーロッパで始まったものという印象がありますが、各地の活動を博物学として見ることが大事ですね。万葉に始まり、平安時代の歌にも虫や花がたくさん詠まれていますが、それを博物学としてまとめる動きは、江戸時代を待たなくてはならなかったわけですか。 |
今橋 | 博物学は江戸時代に盛んになりましたが、少なくとも500年ほど前の室町時代には博物図譜の類に入るものが残されてきています。日本で最も古い百科事典の一つが、平安時代中期につくられた『和名類聚抄』ですが、現在この絵図は伝わっていません。しかし博物学的な視点で編まれた書物ですから、絵画と言語の両方による記述がまったくなかったとは言い切れないと思います。 中国から入ってきた「生写」という言葉は、記録の上では450年前から500年前まで遡れますが、動詞として使うと「生き写す」になります。自然に向き合い、何かに写し記録しようとする日本人の姿勢は、「生写」が始まりと言えるのではないかと思います。 |
中村 | 自然と向き合うと、自ずと絵と言葉が一体になった記述をすると考えられるのですね。 |
今橋 | ええ。今、絵のことを「絵画」と言いますが、「画」という字は旧字体で見ますと「畫」です。もともと日本には「書画」という言葉しかなく、文字を描くことと絵を描くことを分けていなかった。英語の「ディスクリプション」が、絵による描写と言葉による描写の両方を表すことに極めて近い感覚だと思います。「絵画」という独立した言葉が生まれたのは明治以降なのです。 文字で書くということは、言葉で表したことを情報として集める作業です。18世紀の八代将軍吉宗の時代には、西洋から大量の情報が入ってきたことに加えて、諸藩で起きた経済危機を契機に、殖産興業政策の一環として各地の自然物の徹底的な調査が行われました。情報が広範になり、人の行き来と共に情報の流通が盛んになったことが、江戸の博物学の隆盛に結びついたと思います。 |
中村 | 経済危機ともつながっているとは、現代にも参考になる動きですね。物事の見方が多面的になり、同じものを見ても、あちらの地域ではこうだと納得して受け入れたのですね。 19世紀から20世紀にかけての科学は絵という表現を遠ざけて、数と式を基本に表現してきました。今はだんだん変わりつつありますが、生命誌研究館を始めた20年ほど前の論文では、絵は付け加え程度の扱いで、その絵を信じて表現しても間違えてしまうことがありました。たとえば虫を見るにも、ハエもハチもゴキブリも…と一つ一つ考え出すときりがありませんから、「昆虫」というモデルを考えて数と言葉で表現することで科学は進歩しました。多様なものに眼を向ける博物学的な性質を捨てることで、急速な進歩をしたと言えるかもしれません。 しかし、数と式に特化した科学が本当に自然を語っているのかと問うと、どうもそうではない。また、そうした科学が次々に生み出してきた技術は自然と合わない。20世紀が終わる頃に、この2つの行き詰まりが見えてきて、多様性が見直されています。でも、ただ「生物多様性」と唱えたところで何の解決にもなりません。多様性は複雑ですし、扱う方法論もまだ少ないので、じっくり考えることから始めなければなりません。 |
今橋 | 方法論は対象によって全部異なりますよね。 |
中村 | ええ。本来書画は一体だったというお話を伺って、19世紀から20世紀の科学は絵という表現を遠ざけてきたことで、知として欠けたものを作ってきたのではないかと思いました。かつて一体化していた絵と言葉で語ることを、思考の方法や表現の方法にもう一回取り戻すことが、総合的な知の創出に不可欠なのかもしれません。 |
今橋 | 知は一人の人間のものではなく、それ以前の人々の記憶や努力の蓄積によってつくられるもので、芸術もその叡智の上に成り立つと思っています。博物学では、伝承されてきた情報をどう整理し、次の時代に受け継いでいくかを始めに考えるのです。 江戸の博物図譜にある鳥の絵を見ますと、100年という時間を経てまったく同じ絵が残されていることがよく見られるのです。これは一体どういうことなのかと、最初は悩みました。実は、「いついつ写生す」という言葉がどちらの絵にもあって、それがどの時点での写生を示すのかがわからないのです。 現代人の感覚ではコピーをくり返すと質は落ちますし、模倣は即ち剽窃であり、時代が下って模倣をくり返すほど罪深いような感覚になりますが、江戸の博物図譜を見ている限りそうした感覚はありません。驚くべきことに100年経っても絵の質が落ちていない例が非常にたくさん見受けられます。この質を保つ感覚は何なのかと。 ヨーロッパの博物学と日本の博物学の違いは、ヨーロッパではある分野を専門にした画家がいるのに対し、日本では大名などに仕えた狩野派のような奥絵師が、主人の求めに応じて豪奢な室内装飾を描く一方、博物図譜の仕事も請け負ったということです。芸術と科学を分けていなかったのです。奥絵師の家系では、狩野派なら狩野派の芸術の質を落とさないという使命があるので、粉本(ふんぽん)という絵手本を代々受け継ぎ、それを正確に描きます。粉本には、「鶴に松」のような定型的な画題だけでなく、写生図も含まれます。粉本は日常的に絵師によって描き写され、各地の大名家に仕える狩野派の絵師の手元にも置かれていたので、200年経っても九州と東北で同じ質の同じ図柄の図譜が存在することは当たり前でしたし、その当たり前さが江戸期の博物学の水準の高さを示しています。絵図だけでなく文字の部分も書き写され、文字情報としても情報が共有されるわけです。情報の蓄積と伝承ということでは、200年前も現代と変わらないものを持っていたのだと思います。 |
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中村 | しかも、描かれたものの質がまったく落ちていないということは、描いている人自身がそれをわかっていたのでしょうね。今はコピーアンドペーストをすれば何も考えなくてもコピーできますが、模写は見なければ描けませんよね。 | ||
今橋 | 見て、思考して描いていたのでしょう。 | ||
中村 | もしお手本が違うなと思ったら、違うふうに描いたでしょうけれど、それはみごとなものだったのでしょうね。自分で考えて、納得したから心を込めて描いたからこそ、きちんと伝わっているのだと思うのです。 情報とおっしゃいましたが、今の社会は表現ということなしに単に情報を伝えればいいかのような風潮がありますでしょう。ドキュメンタリー作家の藤本幸久さんに、新聞記者の方が「この情報化社会にそんなものを作る意味は何ですか」とお聞きになったら、「私は情報でなく表現をしています」とおっしゃいました。単に伝えるのではなく表現しているから、質が保てるわけです。科学の世界で暮らす中で、表現がとても大事だと思うようになりました。情報も人間が入り、考えて表現しなければ、本当に意味のある伝承にはならないと思うのです。 |
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今橋 | 先ほど「生き写す」という言葉についてお話しましたが、東洋の美学の概念の中に「写意」という言葉がありまして、それは長らく画家自身の意識を反映して描くことと思われていましたが、その意は自然が持っている生命体の有り様であり、そこから受けるものなのです。 註4:近衛家熈 (1667-1736) |
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中村 | なるほど。自然の持つもの、対象が語っていることを描くのですね。 | ||
今橋 | その意を如何に写すか。対象の形の持つ美や趣を含めて心に会得し、それが描けて初めて「生き写す」ことができると家熈は言っているのです。描く側の心が写意を受けとめなければ、どんなに精密に描かれても伝承されていくことは不可能です。不思議ですが、それが芸術だけが持つものなのかなと思います。 | ||
中村 | 写意は芸術だけではないと思うのですよ。科学でも、特に生きものを知ろうとしたら…。 | ||
今橋 | なるほど、先生、そこをぜひ伺いたいです。 | ||
中村 | たとえば、ここにいる虫が何を語っているかを知ろうとする。19世紀、20世紀型の科学は、時計を分解するのと同じようにバラバラにして部品を理解しようとしてきました。それは数式と言葉だけでできたと思います。しかし、本当に生きものを知ろうとしたら、全体で何を語っているかを問わないと決してわかりません。そこで生命誌を始めたのですが、「誌」には「描き出す」という意味も込めています。まさに「写意」ではないかと思うのです。 | ||
今橋 | 今のお話は、18世紀初めに『養生訓』を書いた貝原益軒(註5)の考え方にも通じます。朱子学の世界観に、物事を極め尽くして真理に至る「格物致知」というものがありますが、私が思うに最終的に目指しているのは宇宙規模の世界であり、そこに至るために一つ一つの物事を丁寧に行うことの大事さを語っていて、博物学にとっても重要な考え方です。
註5:貝原益軒 (1630-1714) |
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中村 | その通りです。生命誌はまさにそれを求めています。 | ||
今橋 | しかも江戸の人々の格物致知は実証的に、能動的にその中に入っていくことを念頭に置いていますので、机上の空論に終わらない。同じ植物の絵が何百年も描き継がれるのは、前に描いた人の見たものに共感するからこそで、その共感なくしては受け継がれません。 | ||
中村 | そうですね。知りたいのは、一つ一つの植物であり、更にはその向こう側にある宇宙であり世界だというのは、いつの世も同じですよね。池田晶子さん(註6)が、大人は子供に社会を教えようとするけれど、子供が本当に知りたいのは社会ではなく世界だと書いていて、なるほどと思いました。 絵を描くにしても、研究するにしても、芸術や科学は世界を見たいと思ってやっているわけですが、この頃は「世界を見たい」と言っても中々許してくれません。「社会を考えなさい」とよく叱られますが、社会と世界は違うのです。 註6:池田晶子 (1960-2007) |
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今橋 | 世界を知りたいという思いは、社会を成り立たせるために必要なことですね。 | ||
中村 | おっしゃる通りです。基礎に世界観がないと、社会はめちゃくちゃになるでしょう。 | ||
今橋 | 私たちが研究している芸術は、それ自体では世界を救えませんし、ある意味では科学以上にごくつぶしなところがあるんです。 | ||
中村 | お互いごくつぶし。でもね、「世界を知りたい」と言ってどうしていけないのと思いませんか。 | ||
今橋 | ええ。近衛家熈の周囲の証言を見ると、朝4時に起きて夜中の12時近くまで働いて、寝る時間もないくらい忙しかったとあります。そこで、『花木真寫』はそうした中の息抜きで作られたのだろうと思われがちですが、そうではないのです。儒教に経世済民という考え方がありますが、これは自然の中に身を投げ出し、そこからいかに民と共に生きる真理を汲み取るかを考えたのです。家熈もこうした思いの一端から『花木真寫』を作ったのではないかと考えています。 |
中村 | 『花木真寫』は魅力的な草花がみごとに描かれていますね。水引草は私の家にもたくさん生えていて可愛いけれど、根っこがとても深くて取るのが大変なんです。この葉っぱのこの感じがまさに水引草で、そこまで思いました。 | |||
今橋 | 近衛家熈はお花を生けるのがとても上手で、「花を生ける時には、そのものが持っている最も美しく見えるところを大切に」と言っています。単に美しく飾るのではなく、葉っぱの虫食いの部分も一つの景色になる。まるで本物の花を貼り付けたような美しさがありますね。私は彼のシャガの花の絵が大好きです。 | |||
中村 | これもまた生命力がすごいですよね。うちの庭にありますが、ちょっと油断しているとウワーって増える。 | |||
今橋 | 小学校3年生くらいの遠足で埼玉県の方に行った時に、この花を初めて見て、あまりに綺麗だったので、根っこがほんの少しついたものを家に持ち帰り、母に頼んで育ててもらいましたが、今も増えています。 | |||
中村 | すぐ増えるでしょ、でも綺麗ですよね。ここにあるのは、そういう感じの花ばっかり。 | |||
今橋 | 何年見ていても見飽きませんね。これほど質の高い植物写生図はこれ以前にはなく、歴史上突然に現れたような形で残っています。厳密には近衛家熙の他に、1、2名の手が入っているようですが、本来なら絵師に描かせればよいものを、なぜ自分で描いたのかはちょっと謎です。 | |||
中村 | やっぱり描きたかった、表現したかったんでしょうね。 | |||
今橋 | この図譜のすごいところは、水中で生きている状態の魚を描こうとしたところで、こちらの鯛は虹色をしていますが、この色は泳いでいる時の色で、水から上がって一分もしないうちに失われるそうです。おそらく生け簀のようなもので観察したのでしょう。魚の他に鳥と植物の図譜もあり、余白には漢名と和名、ときに地方の情報が記載されています。特に朝顔は多様で、一つの軸から違う花が咲いているものがあります。 註7:松平頼恭 (1711-1771) 註8:平賀源内 (1728-1779) 江戸中期の博物学者、戯作者。もと讃岐藩士であったが脱藩。蘭学や本草学を研究し、初めて火浣布(かかんぷ)を織り、寒暖計を模造、エレキテルを自製したことは有名。後に戯作・浄瑠璃の分野でも才能を発揮し、銅山開発で秋田藩に招聘された際には小田野直武に洋画法を伝授した。 |
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中村 | 実はそれがトランスポゾン(註9)という動く遺伝子によるということがわかっているのです。この朝顔はたぶんもともと紫色で、遺伝子が飛ぶと白くなり、一つの株に異なる色の組合せの花が咲くわけです。昔の人はそうしたしくみは知らなくても、実際に色々な花が咲く様子を見て、様々な組み合わせを作ったのでしょう。このような日本の伝統を科学の眼で解いていく面白さ、こういう形で芸術・科学・日常が一体化していくといいと思っています。
註9:トランスポゾン 【transposon】 |
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今橋 | 科学的にはそういう仕組みになっているのですね。藩ごとに工夫を凝らして、朝顔や椿など数え切れないほどの変わりの品種が作られました。 | |||
中村 | 今でも熊本城では肥後菊展をやりますでしょ。高さをコントロールするのは大変だったと思いますが、あの栽培術を継いできたわけですね。 | |||
今橋 | 幕末期にヨーロッパから来日した人が「日本人は変わった植物を好むらしいので、ぜひそれを見たい」と希望すると、数日のち町の普通の長屋に連れて行かれ、その小さな中庭でみごとな変わり咲きの菊を見せられ、園芸家でもない一般の庶民がこうした栽培を行うことに非常に驚いたそうです。江戸の博物学の雰囲気がよく伝わるエピソードで、誰もがごく普通に生活の中で博物学への関心を持っていたことがわかります。 江戸の博物学は非常に質が高く、絵画技術も含めて質の高い作品が残されているにも関わらず、ヨーロッパやアメリカではその事実がほとんど知られていません。またヨーロッパやアメリカでは博物図譜が普通に画集として書店で売られていますが、日本ではほとんど見あたりません。 |
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中村 | もったいないですね。 | |||
今橋 | もっと知られていくべきだと思います。こうしたものは宗教や民族性を抜きにしても語ることができますし、文化財であると同時に、今の時代に歴史がそのまま生きているようなものでもありますから。 |
中村 | 今橋さんと言えば秋田蘭画。『秋田蘭画の近代』(註10)を拝読し、「不忍池図」(秋田県立近代美術館蔵)に、アリが這っているのには驚きました。
註10:『秋田蘭画の近代 小田野直武「不忍池図」を読む』 今橋理子著。東京大学出版会、2009年4月刊。 |
今橋 | 私も最初は気付かず、丹念に作品を見ていたらアリがいたのです。先生はあの絵の実物をご覧になっていますか。 |
中村 | いえ、見てないんです。 |
今橋 | では、ぜひ科学者の目で見て頂きたいです。非常に大きい絵で、作品から後ろに下った位置から見ると実物大のアリは肉眼では見えません。では、何のためにアリが描かれたのか。画家が不必要なものを入れ込むわけがなく、なぜかを考え続けて20年以上が経ちました。 江戸でも18世紀には眼鏡絵(註11)のように、レンズを使って絵を鑑賞していたことが知られています。そうした道具だけでなく、絵と向き合う空間そのものの設えを推察する必要があります。また当時、遠眼鏡と同じような視覚で風景を楽しむことができた仕掛けの一つが円窓です。 考えてみれば、「不忍池図」を遠眼鏡で見てはいけないという法はないわけですね。しかもこの絵自体が浮絵(註12)の構成法と一致している。そこで、実際に絵全体を見渡せる距離から作品をレンズで覗いて見ました。その時に使ったレンズの倍率はたしか10倍くらいでしたが、はっきりとアリが見えました。まさにこれは虫眼鏡を覗いた視覚とまったく同じで、「これだ」と確信しました。 このような実証方法は、これまでの美術史の概念からするとかなり非常識なことですが、かつてこの絵がいかなる空間の中で鑑賞されていたのかなど、具体的な周辺の事実を固め、彼らの時代に降りていって、彼らの感覚を追体験する試みをしたのです。これはけっして無理な想像力ではありません。ある物理学の先生が、この推理が科学者の仮説の立て方と似ていると仰っていたと聞き、思ってもみなかったことですので、とてもびっくりしました。 註11:眼鏡絵 覗き眼鏡、覗きからくりなど凸レンズを用いた装置を通して見る玩具絵。西洋画の透視遠近法を用いた合理的な空間表現を特色とする。 註12:浮絵 遠近法を応用し、実景が浮き出して見えるように描いた絵。浮世絵風景版画の範疇に入り、眼鏡絵などにも用いた。 |
「不忍池図」小田野直武、秋田県立近代美術館蔵 絵にカーソルを合わせてみてください
中村 | 私もこの本を拝読してそう思いました。思考の仕方が科学者と似ていて、読んでいて楽しいのです。今橋さんのお仕事の面白さはそこにありますよね。 |
今橋 | ありがとうございます。中村先生にそう言って頂けると。芸術と科学を分けないという秋田蘭画の領域が、図らずもそれを私に教えてくれたのだと思います。人文系、理系と考え方を分けてしまうこと自体が私たちの思考を狭めているのかなと思います。 作者の小田野直武(註13)は、平賀源内に師事する一方で沈南蘋流の宋紫石から漢画を学びましたので、洋画と漢画を折衷したと見る向きもありますが、私は折衷するだけでは彼の芸術には辿り着けなかったと思うのです。 註13:小田野直武 (1749-1780) |
中村 | さきほど秋田蘭画は伝統を踏まえての前衛とおっしゃいましたが、折衷ではなく革新的なところは具体的にはどこでしょうか。 |
今橋 | 一つは既存の東洋画であるという範疇は崩さずに、しかし見る者に新鮮さを与える視覚とは何かを考え続けた結果がここにあるのだと思います。 |
中村 | なるほど。それは直武の思考ですか。 |
今橋 | そう考えてよいと思います。直武は32歳で亡くなっていますので、彼の残した洋風画作品は、日本画として新しい世界を模索した途中であり、彼はさらにその先を見据えていたのかもしれません。 |
中村 | なるほど。それが見られないのはちょっと残念ですね。でも今も伝統を踏まえながらの革新を必要とする時だと思いますので。 |
今橋 | そうですね。私もそのことがわかってきたのは、明治の近代日本画のことを自分なりに勉強し始めた時です。明治20、30年代を生きようとした芸術家は、最初に日本画を描くのか洋画なのかの選択を迫られ、壁に突き当たり非常に悩みました。洋画を選んだのに日本画を取り入れようとする画家もいれば、日本画を選びながら洋画塾にも通って学ぼうとする人たちもいました。その一人であった平福百穂(註14)は、秋田蘭画派の研究をすることで、自分の芸術を見出しました。百穂は秋田の角館の生まれで、単に小田野直武と同郷人だからこれに共感したのではなく…。
註14:平福百穂 (1877-1933) |
中村 | 自分の悩みに真摯に向き合う中で秋田蘭画と出会ったのですね。 |
今橋 | 日本画の中で洋画をやろうとすることの難しさや、新しい時代の要請の中で自分の芸術をどうつくっていくかという、ギリギリのところで葛藤があったと思います。江戸の中期に小田野直武が洋画を始めようとした時も、明治時代に平福百穂たちが日本画をやろうとした時も、時代は違っていても、各々の時代の要請があり、乗り越えなくてはならない壁があった…その難しさは同じこととして感じられたのではないでしょうか。 |
中村 | なるほど。絵画は長い伝統があり、日本画・洋画という区分けが徹底していたからそうした悩みがあったのであり、それを乗り越えるのは容易でない。でも、同じ絵画なのだから重なるところはありますよね。 |
今橋 | 同じですね。描くということでは。私自身もかつて絵描きになりたい時期があり、最初は洋画、次に日本画をやって、どちらも挫折しましたが、洋画と日本画でこんなにも基礎的にやることが違うのかとびっくりしました。 |
中村 | まったく異なることをしているわけではないゆえに、葛藤があったのですね。科学には「日本科学」というものはなく、すべて共通と考えられていますから、そうした葛藤はなく西洋から入ってきた科学を受け入れました。でも、本当に自然を見ようとしたら、自分の手法や立ち位置についてもっと悩まなければいけないということに気がつき、実は今悩んでいます。 |
今橋 | なるほど。実は「不忍池図」を考える上で大事なことがもう一つ、直武は「用をなすもの」を描くべきという使命がありました。それは直武の藩主の佐竹曙山(註15)が『画法綱領』という西洋画論の冒頭で、「画ノ用タルヤ似タルヲ貴ブ」と述べています。「用タル」の意味に議論はありますが、広い意味での実用性と、その実用に不可欠な科学をどう芸術に入れ込むかということを、秋田蘭画派、特に小田野直武は自分に課せられた使命と考えたと思います。直武は建築学関係の洋書もかなり見ていた痕跡があり、これは推察ですが藩主の曙山のために日本最初の和洋建築である屋敷の設計もしていたようです。 直武は武士ですが、一族の中には眼科医がいました。『解体新書』の挿絵を描くに至ったのはまったくの偶然でしたが、科学とは無縁ではない生い立ちがあった可能性が指摘されています。一方で芸術家的な感性を持っているわけで、そこをどう融合していくかという悩みが彼の中にはあったと思います。直武はいわゆる職業画家ではなかったので、藩から俸禄をもらい絵の修行をしていました。藩主の庇護があったとはいえ、その使命もあり、相当な苦労があったでしょう。その情熱は計り知れないものだったと思います。ですから、私たちがアリを発見できるその瞬間は、彼の科学者としての姿勢が汲み取れると思います。また、アリが描かれていることは、そこに一つの宇宙観が表われていると感じます。 註15:佐竹曙山 (1748-1785) |
中村 | 一つの絵の向こうにみごとな物語が描き出せる。お話を聞いているだけでわくわくするので、それを読み解く過程は大変だったでしょうが、楽しかったでしょうね。そこまで行くと、今橋さんにとって小田野直武という存在は。 |
今橋 | マスコミ受けするのは、「心の恋人」という答でしょうね(笑)。たぶん一生憧れ続ける人ではあると思います。初めて彼の絵を見たとき、一瞬思考回路が止まって組み替えることを要求されるようでした。ただ池があって花があるだけで、でも本当に美しい。なぜこんな絵を描いたのか。彼自身が生前に残した言葉は、『解体新書』に四角四面に書いたようなものしかありません。下級武士に生まれて、たまたま平賀源内に見出されて、当時としては考えられないような昇進をし、周囲の軋轢も相当あった中で、彼自身は自分の人生をどう受け入れたのだろう。できれば絵からその人が残した言葉を聴いてみたいと思っています。実際聞けたのかと言われると、聞けたような気がしますというところ(笑)。秋田の角館には小田野直武の小さなお墓が残っていて、その前で手を合わせると素直に「先生」という言葉で呼びかけたくなるような、自分の中では一人の本当に敬愛する先達になっています。たぶん生涯、後姿を追いながら江戸文化と芸術を考えていきたいと思っています。 何の知識もなく作品そのものから受ける感動や感覚はもちろん大事ですが、知識によってその世界をより一層十全なものとして感じることができるのは本当に楽しいです。 |
長らく十八世紀の江戸時代博物図譜や花鳥画の研究に従事し、江戸時代人の自然への眼差しを追い続けてきた私であるが、中村先生のような自然科学をご専門とする研究者と対話するという機会はこれまでなかったため、とても新鮮な体験であった。しかし今回の対談では、少なくとも私自身は共通の「入り口」を探し当てるだけで、およそ2時間という対談時間ではあまりに短かったように感じている。ルネサンス期のレオナルド・ダ・ヴィンチを引き合いに出すまでもなく、日本でもかつて科学と芸術という二つの分野は共に重なり合い、人間の想像力(創造力)をかき立て続けていた。その意味では、現代の諸学問はあまりに分化されすぎてはいないか──。江戸の植物画譜の画集を前に中村先生と交わした会話をいま思い出しながら、「核心」となるべき問題は、実はここから始まるのだと強く思っている。(今橋理子)