未知の世界に憧れて

4歳で引っ越してきた国立市は一橋大学を中心とする小さな学生街で、戦後にベッドタウンとして急速に発展した街です。街はずれには昔からの神社や村落があって、南武線をこえて多摩丘陵に出ると一面の田んぼと畑でした。春は、ヒバリが鳴く空の下でドジョウやヘビを捕まえたものです。『十五少年漂流記』や『ガリバー旅行記』などの冒険小説に夢中になって、木の上に家を作ったり、戦時中の防空壕を探検したりするような野生児でした。テレビでも「少年ケニヤ」や「怪傑ハリマオ」など、アフリカやアジアを舞台にした探検ものが人気だった時代です。大人になって実際にそれらの国々を訪れるようになってみると、当時の作品には現地の人々に対する大きな誤解と偏見が含まれていたことがよく分かります。でもとにかくそれが、子供である僕に未知の大地を探検してみたいという強い憧れを抱かせたのです。

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実は日記を書き出すと止まらないという癖があって、小学校から中学校の間に膨大な量の日記を付けたんですよ。その日記好きが高じて、中学では演劇部で脚本を書いていました。文化祭用に宇宙が舞台となるシナリオを書いた記憶があります。ソ連のガガーリンが世界初の有人飛行を成し遂げ、その後アポロ11号が月面着陸に成功、世界中が宇宙に目を向けていた時代です。僕も探検より宇宙旅行だと思い始めて、作文に書いた将来の夢は宇宙飛行士でした。外国でも宇宙でもいいから、未知の世界に足を踏み入れてみたいという思いが常にあったのでしょう。

小学校時代。活発な子どもで、運動会ではいつも1番だった。どんな木でも登れる自信があり、近所の全ての木に登り尽くしてしまうほどの野生児だった。

「人間とは何か?」人生観を揺さぶられる

中学校のすぐ隣の国立高校に進みましたが、僕が入学した年は学校群制度学校群制度1967〜81年度に実施された公立高等学校の総合選抜制度。2~3校が一つの群を構成し、群ごとに合格者が選抜される制度。特定校へ志望者が集中し、高校間の学力差が拡大しつつある状況を改善するために実施された。国立高校は同程度の学力を持つ立川高校と組み合わされたために志望者が増加した。が実施された最初の年だったのです。都心から越境入学してくる学生が急増し、一つ上の学年とはまったく雰囲気が違っていました。越境入学してくるのは気位の高いペダンチックなやつばかりでしたが、スポーツでも討論でも彼らと競い合うのが面白かったですね。

ところが2年生になると安田講堂事件安田講堂事件1969年、全共闘派学生が東京大学の安田講堂を占拠し、機動隊との間で3日間にわたり攻防が行われた事件。が起こり、日本は学生運動時代に突入したのです。戦後の政治に対する不信感や競争社会への不満が学生の間で爆発し、全国の学校に運動の波が広がっていきました。一橋大学では学生集会やデモが行われ、国立高校でも授業はボイコットされ、進路指導もないような状態でした。あの時代はどこの高校でも、自分たちの手で社会を変えられると信じ、日本の政治を考えたり、日本人とは何か、人間とは何かを真剣に考えていましたね。若気の至りで、お互い傷つけ合うほど踏み込んだ議論もしました。でも結局のところ、当時の僕たちにはそれらの問いに答えを出すことはできなかったのです。「今日本で起こっていることに正面から向き合うべきだ」「自分自身をもっと見つめ直せ」といった周囲の雑音に次第に嫌気が差すようになり、3年生の11月頃になって京都大学を受けようと決心しました。京大は教科書さえ勉強していれば絶対に入れるし、入ってしまえば自由に好きなことができると聞いたのです。でも最大の理由は、東京を離れて周囲の環境や人間関係をリセットしてみたかったというところにありました。

高校時代にあまり良い思い出は残らなかったのですが、人間という存在もまた未知の世界だと気付かされた時期でした。

全てをゼロにして人類学に飛び込む

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晴れて京大理学部に合格して京都にやってきた時は、これまでの知り合いが全くいないことがすごく嬉しかったですね。新しいことを始めたいという気持ちが沸き上がっていました。それまでやったことがなかったノルディックスキー部に入り、冬は志賀高原のヒュッテに籠ってひたすら雪面を走るという生活を始めました。そして2回生の合宿のとき、双眼鏡で雪原のニホンザルを観察している先輩に会って、始めて京大の「サル学(人類学・霊長類学)」を知ったのです。同じころ『ゴリラとピグミーの森』という本をたまたま手にし、探検への憧れに再び火がついたところでした。人類学者の伊谷純一郎先生が、ゴリラやチンパンジーを訪ねて単独でアフリカを旅する探検記です。著者は京大理学部の先生だと気付き、自分もアフリカに行けるかも知れないと思いましたね。それに人類学は、高校時代に答えが出なかった「人間とは何か?」という問いに答えをくれる学問かもしれない。未知の大地への憧れと、人間という未知の存在への興味がそこで結びついて、雷に打たれたような気がしました。だから私は生物学が好きでサル学に入ったのではなく、人間から一歩離れて人間を見つめてみたくてサル学を志したのです。

さっそく伊谷先生がいる自然人類学教室を訪ねてみると、紫煙がもうもうと立ちこめて酒瓶が転がっているわ、机の上にあぐらをかいて昼間から花札をやっている学生がいるわで度肝を抜かれました。助教授の伊谷純一郎先生は腰の低い人で、初めて見た時は小遣いさんと間違ってしまったほどですが、話してみると非常に鋭くて怖い先生でしたね。専門は、サルの社会を研究する「霊長類社会学」と、自然に近い暮らしをしている人々の生態を研究する「生態人類学」でした。「サルの社会学」と「人間の生態学」って面白くありませんか。ふつう逆でしょう?これは、人間社会は霊長類の社会から進化してきたとする今西錦司今西錦司【いまにし・きんじ】
(1902年−1992年)
生態学者、動物社会学者、霊長類学者。競争ではなく棲み分けによる進化論を提唱した。ニホンザルやチンパンジーの社会構造を調査し、日本の霊長類学を確立した。京大山岳会、日本山岳会で登山家としても知られる。著書に『人間以前の社会』、『生物社会の論理』など。
先生の考えから来ています。社会を作るのは言葉と知性を持つ人間だけだと考えていた西洋の学者にとって、サルが人間社会の原型を持っているという今西先生たちの発想は当初は受け入れ難いものでした。しかし今西さんと教え子の伊谷さんたちの徹底的なフィールドワークによって、サルの社会構造が徐々に明らかになり、日本のサル学は世界に認められる学問になったのです。伊谷さんは調査を通じて新しい学説をどんどん出しており、1984年には「人類学のノーベル賞」と呼ばれるハックスリー賞を受賞します。それは霊長類が近親交配を回避する方法に着目した、社会構造の進化に関する学説でした。集団生活をするほとんどの霊長類は、メスが群れから出ていく父系社会か、オスが群れから出ていく母系社会を作ります。伊谷さんは近親交配の回避という力が、オスやメスが出て行く社会を進化させる鍵になったと指摘しました。それまで環境や食物に応じて単純に動くと考えられていたサルたちが、集団を維持するための巧妙な仕組みを持っていることを指摘したのです。

学生たちもこういった斬新な考え方に刺激されて、伊谷さんを超える学説を出したいという意欲に満ちていました。今でもそうですが、京都大学は自分で見て考えたことを尊重する精神的土壌があり、学生の研究にもオリジナリティの発揮を求めるのです。

サルを求めて日本列島を縦断

大学院ではまず色々な地域のニホンザルを見て歩きたいと思いました。伊谷先生と教授の池田次郎先生に相談すると、ニホンザルの形態の地域差を見て歩いたらどうだと言ってくれました。「その間に、君自身の面白いテーマを見つけたらいいだろう」とも。修士課程の2年間はニホンザルの外形特性を調べながら、北は下北半島から南は屋久島まで、全国9カ所のサルを訪ねました。見て歩くうちに彼らの形態よりも暮らしぶりに興味が移り、日本列島には野生と呼べる群れがほとんどないことに気付きました。人間がニホンザルに与えている影響が思ったより大きかったのです。観察できるサルは、観光地の餌付けザルか、人里に下りて田畑を荒らすようなサルだけで、山奥に住むサルは見られませんでした。野生のサルの社会は、仲間と協力して食物を探索し、平和に食べるという機能を持っているはずです。それを人の手で根本的に変えてしまっては、本当のサルの社会を見たことにはなりません。唯一、本来の野生の姿を残していたのが屋久島のサルでした。

屋久島に野生のサルの暮らしを追う

屋久島には人がほとんど入っていない原生林が残っていて、そこに棲むニホンザルは野生の暮らしをしていました。鬱蒼とした森は下草が生えないので見通しがよく、サルを観察しやすいという利点もあります。そこでは同学年の丸橋珠樹君(現・武蔵大学教授)が、エサに頼る「餌付け」ではなく、人の接近に慣れさせる「人付け」という方法で既に調査を始めていました。丸橋君はエチオピアへ調査に行くというので、彼が観察していた群れを引き継ぎ、先輩の黒田末寿さん(現・滋賀県立大学教授)と一緒に調査を始めました。

丸橋君から引き継いだのは「工事場群」と名付けられた47頭の群れでしたが、出てくるたびにサルの顔ぶれが変わり、全員が一度に現れるということがないのです。これは群れが分裂しつつある状態だとすぐに気付きました。餌付けザルの観察では、群れが分裂するのは100頭を超える大集団になってからだと言われていましたから、工事場群の分裂にはまだ知られていないメカニズムがあるはずです。急いでサルに名前を付けて調べていくと、なんと分裂した群れの一つがまた分裂したのです。実は、交尾期になると、単独行動をするオスが群れの外から大量にやってきて、発情したメスの一派を誘い出して分裂の契機を作っていたのです。単独行動をするオスが交尾期に大量に現れるのは、自分の群れでは交尾ができなくなるオスがいるためです。メスは、長年同じ群れにいるオスとは徐々に交尾をしなくなり、オスは新たな交尾相手を求めて群れから出て行くことになるのです。その後の継続調査から、オスの移動は分裂以外にも様々な社会変動を引き起こすことが分かってきました。影響力の強いオスが動くと、群れ間の力関係が崩れてしまうためです。例えば有力なオスが出て行って力を弱めた群れは、外部から現れたオスに乗っ取られたり、食物を十分に獲得できず弱体化、消滅しました(図1)。野生のサル達は、交尾相手の確保と食物を巡る争いの間でダイナミックに動いていました。

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屋久島ではじめて、野生のサルを追いかける面白さと自分で直接得たデータの説得力を体験しました。屋久島のあらゆるところを歩いて、サルと同じ所を登ったり下りたりしなくてはならないので大変でしたけれど。岩が滑り台みたいになっていて、ちょっと間違えたらもうおしまいだというような場所もありましたね。屋久島は、学生が少ないお金を出し合って調査隊を組み、開拓したフィールドです。伊谷さんが来てくれたことは一度もなく、自分たちで何でもやるという方法論が身につきました。今思い返して良かったと思うのは、お金がなかったために島に長期間住むようにしたことです。朝は暗いうちにオートバイで調査に出て、調査の後は夜釣りをしました。いい魚を釣って近所の家に持っていくと「よくやった」と飯や酒をご馳走してくれて、毎晩が宴会でしたね。地元の人たちとすっかり仲良くなって運動会に出たりもしました。僕たちのフィールドワークの第一の目的はニホンザルの野生の生活を知ることにあったわけですが、地域の自然や人々の冠婚葬祭を身をもって体験したことも「人間とは何か」についての考えを深めることにつながりました。

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大学院時代、屋久島で調査を始めたころ。サルを追って島中をくまなく歩いた。

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屋久島のサルとシカ。シカはよくサルの近くで見られ、サルが樹上から取り落とす木の実を食べる。

サルの群れ。屋久島のサルの群れ同士は、メスや採食場所をめぐって敵対的な関係にある。

オスザル。オスたちの力は群れの勢力を大きく左右する。

メスザル。発情期になると、外からやってきたオスに誘い出されたり、新たなオスを誘い入れたりして群れを動かす。

アカメガシワの実を食べるサル。彼らがいかに多くの食物を獲得できるかは、群れの勢力に影響される。

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(図1)屋久島のサルの群れの系統図。工事場群から派生した群れの系統を表した。メスが同じ群れのオスとの交尾を拒否することが、オスを移動させる契機となる。オスの移動は群れの分裂や乗っ取りなどの社会変動の引き金になる。

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卒業後、屋久島に再び調査に訪れたとき。

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94年の屋久島調査のとき。

アフリカ大陸へ

屋久島での経験はかけがえのないものでしたが、人間を見つめる材料としては、ニホンザルは少し遠すぎる気がしていました。よりヒトに近いゴリラやチンパンジーなどの類人猿を見てみたいと思っていた矢先、伊谷さんから「ゴリラをやってみないか」と言われたのです。京大近くの赤垣屋という居酒屋に研究室の仲間が集まっていたときのことでした。伊谷さん自身、1958年に今西先生とアフリカに行ってゴリラの調査を試みていたのですが、コンゴ動乱で断念してチンパンジーに調査対象を移してしまったのです。その間にアメリカからジョージ・シャラー博士ジョージ・B・シャラー【George Beals Schaller】
(1933年−)
アメリカの動物生態・行動学者。ゴリラ、ライオン、パンダなど数多くの野生動物を調査してその生態を明らかにすると共に、人類の活動によって野生動物の生存が脅かされていることを立証した。著書に『野生のパンダ』、『ゴリラの季節』など。
やダイアン・フォッシー博士ダイアン・フォッシー【Dian Fossey】
(1932年−1985年)
 アメリカの霊長類学者、動物行動学者。ルワンダのヴィルンガ火山群で18年間に渡りマウンテンゴリラの調査を行った。マウンテンゴリラの保護にも尽力したが、1985年、自身が森の中に設立したカリソケ研究センターで何者かに殺害された。1988年、その劇的な生涯をもとに、映画「愛は霧のかなたに」が制作された。著書に『霧のなかのゴリラ―マウンテンゴリラとの13年』。
がやって来て、ルワンダでマウンテンゴリラ研究への道が拓かれていました。伊谷さんも「夢だったゴリラをもう一度始めたい」と考えたのでしょう。実はそのころ、ヒガシローランドゴリラの保護を目的に作られたザイール(現・コンゴ共和国)のカフジ=ビエガ国立公園でも、観光客のためにゴリラを観察できるようにしているという噂が出ていました。

1978年、加納隆至先生(現・京都大学名誉教授)らの調査隊と一緒に憧れのアフリカに旅立ちました。キンシャサで皆と別れて一人でカフジ=ビエガ国立公園に向かったのですが、そこからが大変でした。飛行機はひどいポンコツばかりでなかなか飛びません。やっとのことで目的地にたどり着くと、現地に送っておいたバイクはぬかるみ道ですぐタイヤに泥が詰まり、思うように旅ができません。泥よけを曲げたり取ったりしながらやっとのことであちこち調査をして回りました。ところが国立公園の自然保護官が「調査はしてもいいが、観光用に人付けしているゴリラの群れを対象にしてはいけない」と言うのです。その自然保護官はディスクリベールという元ベルギー人で、運の悪いことに大の研究者嫌いだったのです。以前ゴリラの人付けを教わろうとヴィルンガのダイアン・フォッシー博士を訪ねた時に、こっぴどく追い返されたのを根に持っていたのでした。

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これは困ったと思い、国立公園の境界部に住んでいるピグミーを訪ねることにしました。そこで出会ったミサリという老人と彼の3人の息子に協力してもらい、テントを担いで600平方キロの高地部をまず踏査したのです。初めて足を踏み入れたアフリカの高地は、サイチョウやタラコウが飛び交い、見たことのない動植物に満ちていて目を見張りました。ピグミーの人たちともすぐに仲良くなりました。カフジ山が国立公園になったとき、ディスクリベールは森から追い出されたピグミーたちを優先的にトラッカー(案内人)として雇用していました。ディスクリベールは象撃ちの名手で、象を追うためによく彼らの協力を得ていたからです。そこでピグミー達が「山極にゴリラを見せてやりたい」とディスクリベールに頼み込み、ついにはストライキまでしてくれたのです。これにはさすがのディスクリベールも折れ、念願のゴリラを見に連れて行ってもらうことになりました。当時、自然人類学研究室では「酒とタバコをやれないとフィールドワークはできない」と言われていました。僕は毎晩ピグミーの人たちとタバコを回し呑みして土地の酒を酌み交わし、さんざん歌って踊ったものですからすぐに仲間にしてもらえたのです。日本列島を歩き回り、屋久島で地域の人と生活を共にした経験が生きましたね。

6か月間の調査で、過去に例のない42頭という大集団を観察し、群れの構成や人付けされた二集団の関係を論文にすることができました。ただ意外なことに、ゴリラにはマウンティングや毛づくろいなどの目立った社会交渉がほとんど見られず、彼らの社会はニホンザルより単純なのではないかとさえ思われたのです。ヒトに近い類人猿の社会は、当然ニホンザルより複雑だと思っていましたから、俄かには信じられませんでした。ゴリラが私たちの接近に緊張して本来の行動を示さなくなっているのかもしれないと思い、もっと人の接近に慣れたゴリラを見てみなくてはいけないと考えました。

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カフジ=ビエガ国立公園にて、ピグミーのトラッカーと。(本人:右)

ゴリラの国へ

ルワンダのヴィルンガ国立公園が、世界で最も間近にゴリラを観察できる研究サイトになっていました。「ゴリラになった女性」と言われるダイアン・フォッシーが、世界で初めてマウンテンゴリラの人付けに成功したのです。カフジの調査を終えた私は、ナイロビにある日本学術振興会の現地駐在員として滞在し、ヴィルンガに行くチャンスを狙うことにしました。そして幸運にも伊谷さんがフォッシー博士と引き合わせてくれ、マウンテンゴリラを見られることになったのです。

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ヴィルンガのカリソケ研究センターは標高3,000メートルの高地にありました。森は年じゅう霧に覆われていて、まるで音を吸い取られてしまったかのように静かな場所です。ゴリラと対面するには、私は一人で森に行かなくてはなりませんでした。カフジとは対照的に、ここでは黒人のトラッカーはゴリラに近づくことを許されていなかったのです。密猟者の多くは黒人だったので、ゴリラを黒人に慣れさせないようにするためのフォッシー博士の方針でした。白人でも黒人でもない僕はゴリラにどう判断されるのだろうと不安に思いながら恐る恐る進んで行き、パッと薮を開くと、なんとすぐ目の前にゴリラがいたのです。それはベートーベンと名付けられた大きなオスで、じっと僕を見たまま動きません。周りで遊んでいた子どもやメスたちもピタリと動きを止めました。本来ならばここで、「グフーム」というあいさつ音を出さなくてはいけないのですが、頭が真っ白になって声が出ません。すると、ベートーベンが深く低い声で「グフーム」とうなったのです。魔法が解けたように、子どもやメス達もそれまでしていたことを始めました。僕にはすごく長く感じられましたが、おそらく数十秒の出来事だったでしょう。今にして思うと、この出会いにゴリラという生きものの全てが凝縮されているのです。思い出すだけで胸が熱くなります。その瞬間もう僕は彼らの仲間になったのです。ベートーベンは初めて現れた僕を危険なものではないと認めてくれて、リーダーの判断をメスも子どもも信頼して行動したのです。

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そこからマウンテンゴリラとの付き合いが始まりました。観察を始めて間もなく感じたのは、ヴィルンガのゴリラもやはり社会交渉をめったに示さないということでした。結局、観察者の存在に関係なく、社会交渉を行わないのがゴリラの本質かもしれないと思い始めたのです。しかし調査を続けるうちに、彼らが相手の顔を覗き込んで自分の意思を伝えていることや、オス同士が擬似的な性交渉を行って関係を維持している(図2)ことなどが次々と見えてきて、ゴリラにも多様な行動文法と社会関係があることが分かってきました。ゴリラはニホンザルとは違い、個体間の優劣を表面化しない社会を作っていたのです。群れの要となるのは一頭のリーダーオスで、子供のけんかを平等な立場で仲裁し、敵からメスや子供たちを守り、群れを先導する役割を持っています。群れのメンバーはリーダーにあらゆる判断を委ねるので、優劣順位を作らなくてすむのです。私はそこに人間の家族の原型を見るような気がしました。

ゴリラのことを知れば知るほど面白くなり、あの頃は休むということを考えませんでしたね。朝は暗いうちに起きてストーブを焚き、弁当を作って誰にも会わずに森へ出かけました。そしてゴリラ語で話をしながら1日中ゴリラと過ごしたものです。国立公園の最高峰カリシンビ山は4,508mあり、山頂付近まで行くゴリラたちに付いて行くとキャンプに帰れず、よく森でひとり夜を明かしました。途中で象に会ったり、バッファローに追いかけ回されて樹の上に半日いたこともありましたね。あの生活はもう二度と送れないでしょう。1985年にダイアン・フォッシー博士が何者かに殺害され、カリソケ研究センターは森の外に置かれるようになったからです。

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カリソケ研究センターのスタッフたちと。

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ヴィルンガの最高峰カリシンビ山(4,508m)にて。ヴィルンガの森は足下にびっしり草が生い茂っていたので、ゴリラの足跡を追いやすかった。

カリソケ研究センターのキャビンで。研究者のプライバシーを守るため、各キャビンはお互い見えないように配置されていた。

マウンテンゴリラの群れ。群れは一頭のリーダーオスと多数のメス、そしてその子供たちからなる一つの家族である。

マウンテンゴリラの母子。赤ん坊が小さいうちは母親は肌身離さず世話を焼くが、離乳するとリーダーである父親に子供を託すようになる。

父親のベートーベンの背中をすべり台にして遊ぶ2歳のマギー。

ゴリラの子供たちは、レスリングや追いかけっこ、大人の胸たたきの真似などをして父親の側でよく遊ぶ。けんかやいじめが起こると、父親がすばやく仲裁に入る。

マウンテンゴリラのオス、ピーナツ。例外的に、血縁関係のないオスのみからなる集団を作った。彼らがオス同士で疑似的な性交渉を行って、集団を維持していることを発見した。

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(図2)オス集団(ピーナツ群)で観察された個体間関係。攻撃行動は年長者から年少者に向けられることが多いが、その分、年少者は他の年長者から庇護を受けられる。そのため群れの優劣順位が固定化することはない。
同性愛行動は年少者から年長者への誘いで起こることが多い。同性間の擬似的な性交渉が、オス集団の維持に重要な役割を果たしていることが分かる。

2010年、久しぶりに訪れたヴィルンガでマウンテンゴリラと。

二つの誓い

ヴィルンガでの継続調査は断念せざるを得ませんでした。誰がやったにせよ、フォッシー博士の不幸は現地に信頼できる仲間を作れなかったことにあります。彼女はゴリラと親密になればなるほど、ゴリラやゴリラの棲む自然を利用しようとする人間に憎しみを募らせ、対立を深めていきました。国立公園の政策方針で現地政府とも衝突していたし、厳しい取り締まりをして密猟者から憎まれ、現地の人々をゴリラから遠ざけようとしたことが人種差別と受け取られ、現地の従業員からも恨まれていました。追いつめられ孤独を感じていたのでしょう、よく一人でバーボンを大量に飲んでいました。このような悲劇が二度と起こらないように、私はこのとき二つの誓いを立てました。一つは現地の研究者を育てようということ、もう一つは現地の人の主導によるゴリラの保全運動を起こそうということです。

その頃私は、ゴリラとチンパンジーという二つの近縁な類人猿がどのようにして共存しているのか調べようと考えていました。人類の祖先が熱帯雨林から草原に進出したとき、始めはアウストラロピテクス属とホモ属という二属の近縁な人類が共存していたことが分っています。ゴリラとチンパンジーの共存から、初期人類の共存のヒントを得られるのではないかと思ったのです。調査地を探しまわった結果、最初に私を受け入れてくれたカフジ=ビエガ国立公園に戻ることにしました。この公園は標高600mの低地と標高3,000mの高地を含み、その両方にゴリラとチンパンジーが共存している興味深い場所です。気候も食物も異なる両方の場所で彼らが共存しているということは、彼らの社会構造の中に、環境が変わっても共存を維持できるしくみが備わっていると思ったのです。

最初に立てた誓いの通り、ソビエト連邦で学位を取ったばかりのムワンザ・ンドゥンダさんという現地の研究者を誘い、チンパンジーを担当してもらうことにしました。屋久島で一緒だった丸橋君、ゴリラや他の霊長類の形態特性を研究する浜田穣さん(現・京都大学教授)にも加わってもらいました。低地と高地では食物になる植物も大きく変わりますから、植物生態学者の湯本貴和君(現・京都大学教授)も誘いました。彼もまた屋久島で出会った仲間です。海外科学研究費の申請が通ったのはとても幸運でした。私は若くして隊長になり、自分が選んだ若手の仲間と新しいフィールドを開拓することができたのです。

ところが残念なことに、1991年にキンシャサで動乱が起こり、外務省が退去勧告を出したので、調査隊全員が引き上げざるを得ませんでした。1994年に隣国のルワンダで大虐殺が始まってからは短期の渡航すらできなくなり、調査拠点から200km離れた低地のフィールドは放棄せざるを得ませんでした。そんな中、現地の仲間の協力で何とか高地のフィールド調査は続けることができたのです。国立公園のトラッカー達が毎月植物を調査し、ゴリラとチンパンジーの採食ルートを追跡してデータを集めてくれました。そしてムワンザさんの後を引き継いだバサボセ・カニュニさんら現地の研究者と共同でそれを分析するという形で、1986年から今まで研究が続いてきたのです。

30年近くにわたるフィールド調査から、ゴリラとチンパンジーの共存のしくみが見えてきました。カフジ山ではゴリラもチンパンジーも果実をよく食べますが、果実の少ない季節になると、ゴリラは採食メニューを広げて草やタケノコを食べるようになります。一方のチンパンジーは、果実に加えて昆虫をよく食べるようになります。異なる食物を代用することで両者の共存が可能になっているのです。また果実の少ない季節に、チンパンジーは群れを離散させて少数のグループで食物を探すようになります。大勢で果実や昆虫を探すと、見つけたときに仲間同士で争いが起こるからでしょう。一方、ゴリラが代用食にする草やタケノコは豊富に見つかるので、一年を通して群れ社会が崩れることはありません。ゴリラとチンパンジーの共存は、異なる食物を選ばせただけでなく、異なる社会を作る契機にもなったと考えられるのです。

では人類の祖先たちが草原に進出したとき、何を食べ、どのような社会を作って共存していたのか。多くの人類の中でヒトへの進化を決めた食物や社会は何だったのか。それを探るのがこれからの課題です。

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カフジ=ビエガ国立公園の調査風景。現地の協力により、86年以来ずっと調査を継続している。(本人:左前)

ヒガシローランドゴリラの群れのリーダー、ニンジャと子供たち。内戦が勃発したとき、ニンジャは森に踏み入った兵隊に撃たれて死亡してしまった。

採食中のヒガシローランドゴリラの4歳の子供。

ヒガシローランドゴリラの母子。

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2000年のカフジ=ビエガ国立公園の調査にて。(本人:右)

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カフジ=ビエガ国立公園のスタッフと。(本人:左)

地域の主導でゴリラの森を守る

もう一つの誓いを一緒に実現してくれたのは、カフジ=ビエガ国立公園のツアーガイドのジョン・カヘークワという青年です。地域住民であり公園の職員でもあったカヘークワさんは、地元の知り合いを説得し、旅行会社やテレビ関係者に協力を要請して、NGOの設立を進めていったのです。1992年、ついに州政府に申請が認められ、地域主導でゴリラを保全するNGO「ポレポレ基金」が誕生しました。

ポレポレ基金の活動は、国立公園の周辺地域が抱える問題に向き合うことから始まりました。まず元・密猟者に観光客向けの民芸品を作る仕事に就いてもらいました。密猟者のほとんどは昔から森に暮らしてきた狩猟採集民・ピグミー達です。国立公園が作られたとき何の保証もなく森から追い出された彼らは、生活の場を失って保護区で禁止された狩猟を続けざるを得なかったのです。苗木を育成するためのセンターも設立されました。国立公園の周囲は完全にはげ山になっていて、生活に必要な木を得るために保護区の木が伐採されていました。そこで成長の早い樹種を3つ選んで苗木を育て、周辺の村に配る活動を始めたのです。

地域の子供達の教育にも力を注いできました。密猟が絶えないのは地域の人が法律を知らないためであり、何より地域の自然を知らないためです。カフジ山のゴリラは、世界的に有名なザイールの財産なのに、地元の人はゴリラを見たことすらありません。そこで子供達がゴリラやゴリラの棲む貴重な自然を知り、それが未来に託すべき財産だということを分かってもらえるような教育を始めました。私も日本から持って来たゴリラの映像を見せて、ゴリラってこんなに面白い動物なんだよと伝える授業をしています。 日本からこの活動を支援しようと、設立の翌年「ポレポレ基金日本支部」を作りました。ゴリラの民芸品や絵葉書を販売したり、催しを開いたりして寄付を集めています。私やバサボセさんが毎年ゴリラの状況を調査した結果をまとめ、寄付してくれた人たちに報告のニュースレターを送る活動をずっと続けてきました。

こうして国立公園のエコツーリズムを推進し、周辺の村の暮しが少しずつ豊かになるにつれて、人々の意識も変わってきました。地域の自然の美しさに気付き、それを尊重するようになったのです。また、ゴリラの置物やお面などの民芸品が観光客の人気を博したことは、自分たちが持つ伝統や文化を見つめ直すきっかけを作りました。地域が主体となった保全活動は、人々がこれまで暮らしてきた自然と文化を取り戻すことにつながったのです。

ポレポレ基金を一緒に立ち上げたジョン・カヘークワ氏。カヘークワ氏は設立以来ずっと代表を務め、私は顧問という形で携わっている。(本人:左)

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ポレポレ基金のメンバーと共に。現地の狩猟採集民たちもスタッフとして参加し、環境教育の場で活躍している(本人:前列右)

ヒガシローランドゴリラの群れのリーダー、チマヌーカ。よく人に慣れているチマヌーカの群れは、観光客の人気者。

内戦後に生まれた、チマヌーカの双子の子供たち。

民芸品製作の指導にあたってきたデビッド・ビシームワ氏と作った絵本、『ゴリラとあかいぼうし』(福音館書店)。

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環境教育の一環として、現地の小学校でゴリラの面白さを教えている。

「ヒトの隣人」ゴリラとの共生を目指して

内戦でいったんカフジから引き揚げ、家族を日本に帰した後、日本人研究者が滞在できる新しいフィールドを探し始めました。1994年からガボン共和国で海岸に隣接する熱帯雨林に棲むゴリラの調査を始めたのですが、立地が悪くてゴリラを追うことができなかったため、1999年に内陸のムカラバに移りました。そこへ教務補佐員の安藤智恵子さんや大学院生の岩田有史君を送り込み、現地に住み込んでもらってニシローランドゴリラの人付けを始め、2008年ごろにやっと成功しました。ニシローランドゴリラは、イギリスの研究グループが20年間調査を試みたフィールドをついに放棄したほど人付けが難しいのです。ニシローランドゴリラのすむアフリカ中部では、人々が積極的にゴリラやチンパンジーを狩って食べていたことが災いしています。

現在ニシローランドゴリラの人付けは我々のグループが一番進んでおり、これまで知られていなかった彼らの生態が明らかになってきました。ヴィルンガのマウンテンゴリラやカフジのヒガシローランドゴリラと大きく違うことに驚きましたね。彼らは非常に木登りが得意で、寝床も樹上に作ります。大きな発見は彼らが食べ物を分け合うことです。トレキュリア・アフリカーナという、ニシローランドゴリラが大好きなフットボール状の果実があるのですが、固くて子供の力では割れません。そこで大人のオスが割って地面に落とし、取らせてやるのです。さらに大人同士で果実を分け合う場面も観察されました。人間社会では、食べ物を分け合うことは社会関係の維持に重要な役割を果たします。ニシローランドゴリラの社会から、人間性の起源を探る大きなヒントが得られそうだと思っています。

ガボン共和国は、国土の80%以上を熱帯雨林が占め、ゴリラの住む豊かな環境がまだ多く残されています。固有種がとくに多く、高い生物多様性を誇るムカラバは、2002年に国立公園になりました。ポレポレ基金の活動から学んだことをこの地で活かせば、地域の人が生物を保全しながら利益を得て生きる道が拓けるはずです。ニシローランドゴリラのプロジェクトはSATREPSSATREPS (Science and Technology Research Partnership for Sustainable Development)国立研究開発法人科学技術振興機構(JST)と独立行政法人国際協力機構(JICA)が共同で実施するプログラム。国際社会が共同で取り組むべき研究課題(地球規模課題)を解決し、研究成果を社会に還元することを目指す。実施にあたっては、日本と開発途上国の研究者が共同研究を行う。の実施する「地球規模対応課題」に選ばれ、2009年から「野生生物と人間の共生を通じた熱帯林の生物多様性保全」という課題の政府間援助事業になりました。社会学者や人類学者など、生物の分野以外の研究者もフィールドに入って共同研究をすることになり、ゴリラを柱としたエコツーリズムの可能性が開けてきているところです。

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現在の自然は私たちだけで使ってしまうものではなく、未来の世代に付加価値をつけて渡さなくてはなりません。ゴリラのことを地域の人がよく知り、ゴリラと共に暮らす自然と文化を誇りに思ってほしい。そのために私たち研究者は調査を続けて、カフジやムカラバのゴリラの特徴を明らかにしていくつもりです。これからは、科学的な見地から政策に助言できる現地の研究者をもっと育てたいと思っています。ムワンザさんの後を引き継いだバサボセ・カニュニさんは、私の指導を受けながらチンパンジーの人付けに取り組み、京都大学で学位を取りました。彼のように、地域の自然を対象として学位を取った研究者は、アフリカではまだ珍しいのです。現在も私たちのグループでアフリカの留学生を何名か受け入れて、研究者の育成を進めています。

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ムカラバドゥドゥ国立公園近くのドゥサラ村の協力者と、プロジェクトメンバー。ムカラバでもゴリラ保全のNGOが既に発足している。(本人:後列右から4番目)

森を行進するニシローランドゴリラの群れ。

ニシローランドゴリラの3歳の子供。

駆けるニシローランドゴリラのオス。

探検から国際協力へ

日本のアフリカ研究は、今西先生と伊谷先生が1958年にアフリカに渡った時から始まりました。未踏の地を目指すそのころのアフリカ研究と比べて、今のアフリカ研究は全く違ったものになっています。研究を申し込む際は、ほとんどといっていいほど現地の政府から人材育成を頼まれますし、経済的なメリットを期待されることさえありますから、色々なことを引き受けなくてはならない時代です。昔は自然科学系の研究者といえば、野生動物や昆虫を追いかけ回したり、岩石や化石を掘る「変わり者」のイメージが強かったでしょう。それでも、僕自身もそうだったように、初めてやって来た研究者を現地の人たちは暖かく迎え入れてくれました。しかし今は、ちょっと変わった面白い研究者だけでは済まず、どの分野の研究者であれ現地に貢献できる種を残さなくてはならない段階に来ています。

ただ、学生の時代は研究対象にどっぷり浸かってやりたいことをやる時間が必要です。私は自分の学生には自然保護や公園管理という仕事には手を出させません。それは日本の学生でもアフリカの学生でも同じです。そういうことは私たちスタッフがやるから、まずはきちんと自分の研究をするようにと言っています。博士の学位取得はそれだけ重要なことなんです。学位は自分に一生付いて回るし、それについて責任と自負と、信用を持つべきである。だから、まずは研究を深めて自分が自信を持って主張できる世界を作る必要がある。私は指導者として、学生にはそれを手中に収めてほしいという方針を持っています。

研究はどこからヒントを得られるか分かりません。フィールドに行ったら、同じ分野の人だけではなく様々な人と接してほしいですね。そのために言葉も覚えなくてならないし、人と話すよう心掛けることが大切です。遊びの時間を多く持って、あまり効率よく時間を使わないほうがいいんですよ。求め続ける気持ちを失ってはいけないけれど、がむしゃらに結果を取りに行ってはいけません。研究対象に寄り添って邪魔をせずに眺め、自由に語らせなくてはいけないのです。そうすれば自分の知りたいことがきっと現れるはずです。いつか自然は微笑んでくれますよ。それが研究者として、最大の幸福を感じる瞬間です。

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