基礎と臨床
医学には二つの道があります、一つは個人の技術で患者を助けるという、いわゆる名医への道です。もう一つは、基礎的な研究を治療に結びつける道で、これはペニシリンの発見のように時代を超えて多くの人を助ける力があります。最初は基礎医学の道に進もうと決めていたのですが、免疫学の講義で惹きつけられた先生がたまたま内科の教授でした。そこで、臨床医として仕事を始めました。でも結局は免疫学者になり、新しい現象を発見するという道を歩みました。ただし臨床で患者さんと接しながら、それを治療に結びつける方法を探ることは忘れず、その成果が、今年から世界中で使われることが決まった新薬開発につながったのです。
北里柴三郎やパスツールらが活躍した近代医学の発展の初期には、研究と治療は近い関係でした。現代では基礎と臨床は分業しています。でも、両者は結びつけなければいけない、それが課題です。僕の場合は、基礎と臨床を行ったり来たりして、自分の中で二つを結びつけることができたわけで、幸せに思っています。研究者としては変わった経歴ですが、結果的にはそれが良かったと今は思います。
野口英世と湯川秀樹
大阪の富田林に生まれて、ずっと大阪育ち。どこでしゃべる時も河内弁で通してます。一人っ子で、大人からちやほやされて育ったようですね。3歳の時、祖父が毎日唱えていたお経「正信偈」を暗唱し始め、祖父は「この子は富田林で終わる子やない」と喜んだそうです。自分もほめられたのがわかって調子に乗ったんでしょう、叔父の結婚式で大勢の人が集まった時に、突然お経を唱えて、つまみ出されたのを覚えています。
中学生のとき、原因不明で度々動悸が激しくなるようになり、夜も眠れず体調を崩して大阪大学病院で調べてもらいました。検査しても、原因はわからない。今になれば、生身の人間は1つか2つ正常からはずれる値が出るもんだと言えるけれど、その時はそんな呑気な気持ちにはなれず、結局、中学は半分くらいしか登校できなかったんですよ。
高校に入っても1学期は休みがち。出席しても用心して運動もしない日々でしたが、担任の体育の先生が「いっぺんグラウンドを走ってみい」と声をかけてくれて、放課後も一緒に走ってくれたのです。最初はすぐ息切れしましたが、だんだんと走れる距離が延び、「おれかてやればできるんや」と自信がつきました。
小学生の時には「野口英世のような研究者になりたい」と作文に書いていましたが、湯川秀樹博士の日本人初のノーベル賞に出会い、現代のヒーローに惹かれましたよ。高校の先生から東京大学の受験を勧められ、そこで理論物理を学ぶという将来を考えました。しかし病弱な僕が家を離れるのを心配し、また若い時に医学生に憧れていた父親は猛反対して医学部行きを主張。いつもは物静かな父と衝突しました。最後には自分の好きな道に行くのは仕方がないと思ってくれたようですが、僕も考えたあげくに、結局医学部に決めました。地元の大阪大学を選び、以来半世紀、僕はそこで学び、働くことになるわけです。
山村先生との出会い
医学部に入ったものの、専門用語を暗記するだけの講義は幻滅以外のなにものでもない。もともと研究者志向でしたから、遺伝学で登場したDNAの話には興奮しましたね。当時の阪大で分子生物学をやっているのは微生物学研究所だということを知り、夏休みには実験のお手伝いをさせてもらいましたよ。
医学部卒業の1年前、人生を変える出会いがありました。内科の教授として九州大学から来られたばかりの山村雄一先生(元大阪大総長、故人)が、自分の体を守るはずの免疫が自分の体を攻撃してしまう「自己免疫疾患」という病気について講義をされたのです。山村先生は、結核菌の感染による肺の空洞化は、結核菌そのものが原因ではなく、免疫の過剰反応によってできることを突き止められた方です。症状の記述に終わらずその仕組みに迫る内容に、医学にこんな世界があるのかと感動し、自分にはこの先生しかいないとほれ込んでしまいました。卒業後1年間のインターン(実地研修)で分厚い内科学の教科書を原書で精読し、山村先生のおられる第三内科への入局を果たしました。臨床の教室でしたが、山村先生は基礎研究も重視される方で、まずは基礎的な科学の修業をしてこいと理学部に1年間「留学」を命じられました。
大学病院の医局に所属する大学院生は、授業料を払って研究をしながら、仕事として患者さんの治療も担当します。僕も、免疫の研究をしながら患者さんを診る生活を始めました。当時の免疫学の主流は、リンパ球が産生する抗体の構造を調べることでした。抗体にはIgGやIgAなど5つの種類がありますが、僕がたまたま受け持った患者さんに、IgMを産生するリンパ球ががん化する骨髄腫の方がおられたのです。大量のIgMでねばねばになった血液を入れ替える治療をする傍ら、その血液からIgMを精製して構造を決めたのが最初の仕事になりました。
研究一筋に
無給とはいえ、大学病院の医師である以上、患者さんが一番大事です。容体が悪くなった人がいると、「どうしてそうなったんか、どうすればいいんやろか」と考え、調べ、見落としていることはないかと、そのことで頭がいっぱいになります。研究のことを考える余裕はありません。臨床が嫌になったわけではないのですが、やはり自分は研究をしたいと山村先生にお願いすると、僕の気持ちを汲んで、お前は研究の道に行けと、アレルギー研究でトップを走るジョーンズホプキンズ大学の石坂公成教授(現ラホイヤ・アレルギー免疫研究所名誉所長)の研究室への留学を勧めて下さいました。石坂先生は、免疫の過剰反応であるアレルギーの原因が、IgEという抗体がつくられるためであると突き止められ、日本人で最もノーベル賞に近いと言われた方です。
僕が渡米した時、免疫学にさらなる発見がありました。これまで抗体をつくる免疫細胞は単にリンパ球とだけ呼ばれていたのですが、そのリンパ球に実はB細胞とT細胞の2種類があることがわかり、「抗体はリンパ球がつくる」という単純な解釈が通用しなくなったのです。それぞれの細胞が何をしているのかという問いの下での、研究競争が始まりました。
僕と石坂先生は、T細胞がなんらかの因子を放出する結果、B細胞が抗体をつくり始めるという仮説を立て、検証を始めました。T細胞の培養液を精製してB細胞の培養液に加え、抗体が現れるかどうかを測定する実験を2年間繰り返したんです。ついに抗体を検出した時は石坂先生と大喜びしましたね。1週間の実験の成果が日曜日に判明するので、毎週日曜日の午後は石坂先生と議論を重ねるのがとっておきの楽しみでした。議論の過程で、どちらも考えていなかった全く新しいアイデアが浮かんでくるのです。優秀な人といると、自分も独創的な研究ができること思い知らされました。
その後石坂先生は京都大学に招聘され、僕にも誘いがありましたが、山村先生の強い意向もあり、帰国後は阪大の助手になりました。
教授に就任
戻ってきた内科の研究室は、大所帯なのに共有の机しかなく、場所の取り合いをしながら実験をしたのはいい思い出です。こういう環境で「ほかの奴にまけたらあかん」と頑張れるのが僕の性分なので実験は進めましたが、実験器具の貧弱さには米国との差をあらためて実感しましたね。山村先生にお願いして、細胞の培養器などを少しずつそろえてもらいましたけれど。
T細胞とB細胞のはたらきをさらに詳しく研究するため、これらの細胞が大量に増殖している組織を探していたら、研究に興味を持ってくれたスローン・ケタリングがん研究所の当時の所長ロバート・グッド博士が、私をスローンに毎年夏の2ヶ月招いてくれました。彼の研究所には、リンパ球系のがん細胞がたくさん集められていたのです。ありがたい提案を受けて彼の研究室へ行ってみると、グッド博士はまさに「研究の鬼」で、毎日「新しいことはあったか」と研究状況の具体的な報告を求めました。特に僕は博士の自宅で寝起きしていましたから、食事の時間も質問を浴びせられ、心休まるヒマがありません。幸いプレッシャーに負けることもなく、T細胞と一緒に培養すると抗体をつくり始める特殊なB細胞を発見できました。この細胞が、その後のT細胞が放出する因子の発見につながったのです。
グッド博士の研究所には次の年も短期滞在し、3年目の夏、博士から研究員になるよう誘われました。一流の研究環境にずっと身をおけることに気持ちがぐらついているのを知った山村先生が一計を案じ、医学部に新設された修士課程の教授に僕を抜擢したんです。研究以外に学生への講義という仕事が加わって時間的には大変でしたが、かつて山村先生の講義に僕が感動したように、医学や生命科学の素人である新入生が免疫の面白さ、重要さをわかり、関心をもって欲しいと一所懸命に務めました。
病気を知っていることを活かせ
ちょうど免疫学の研究が急速に進展した頃で、それまでの細胞を対象とした研究から、遺伝子を明らかにする時代に移り、新しい技術に乗り遅れた研究者は退場していきました。僕は細胞の研究をやってきたわけで、そのままだったら退場者候補だったでしょうが、幸い自分が旧い人間であることを自覚していました。当時阪大にいた本庶佑さん(現京都大学医学部客員教授)のもとに大学院生の審良静男君(現大阪大学免疫学フロンティア研究センター拠点長)を派遣し、内科の医局員には分子生物学を積極的に学ばせました。
大阪大学の学長になられた山村先生は新しい生命科学のセンターを作る構想を練られ、細胞工学の先駆者である岡田善雄先生(名誉教授、故人)をセンター長に、松原謙一教授(現名誉教授)らを招聘して細胞工学センターを設立しました。僕もその翌年に医学部から移籍し、新しい時代に活躍できる人間になろうともがいたのが、今ではなつかしいですね。
僕たちのグループはみんな、臨床を経験してから研究を始めた仲間で、研究人生の最初から分子生物学に没頭してきた研究者と同じことをやって勝てるはずはないと考えました。「我々の強みはなんや。病気を知っていることであり、患者を知っていることや」と言い続けたのは、常に病気との関係で分子生物学を進め、難しいことかもしれないけれど、基礎研究を必ず治療に結びつけるのだという意気込みを忘れないためです。
遺伝子競争
T細胞がB細胞に抗体を作らせる際、T細胞が少なくとも2つのタンパク質を放出していることがわかり、このうちの1つに絞って遺伝子の解明を急ぎました。インターフェロンインターフェロンウイルスの感染などに応答して細胞がつくる、抗ウイルス作用を持つタンパク質の総称。がん細胞の増殖を抑制する作用もあり、遺伝子組換えで産生されたインターフェロンは臨床薬としても用いられている。の遺伝子を世界で初めて捉えた谷口維紹教授(現東京大学教授)に遺伝子を扱う技術を教えてもらい、助教授の平野俊夫さん(現教授、医学部長)を中心に、助手の菊谷仁さん(現教授、微生物学研究所長)、大学院生の田賀哲也君(現熊本大学教授)らが必死で頑張りました。でも、なかなかうまくいかないんです。
ここで先行したのが、分子生物学を熟知していた本庶さんです。2つの因子のうち1つの遺伝子をあっさり単離したという情報を聞いた時は呆然としましたよ。僕らが追っている遺伝子が、彼の見つけたものと同じか似たようなものだったら研究の新味はありません。半年遅れでなんとか遺伝子にたどり着きましたが、論文が掲載されるまでは不安でしたね。ところが、1986年の8月、本庶さんとわれわれの論文が同時にネイチャーに掲載されたんです。本庶さんは、現在ではインターロイキン4 (IL-4)とインターロイキン5 (IL-5)と呼ばれるタンパク質の遺伝子を、一方われわれは、インターロイキン6 (IL-6)という別のタンパク質の遺伝子をつきとめており、それぞれが一番乗りだったのです。その夏の研究室旅行では、ビールを掛け合って喜びました。
インターロイキンの六男坊
インターロイキンは、白血球(Leucocyte)の細胞間(inter-)ではたらく分子であり、そのうち正体がはっきりわかったものに順に番号がつけられていました。本庶さんも僕たちも免疫を制御する遺伝子を解明したとして、注目されたわけです。
ところが、IL-6のはたらきを調べていくうちに、この分子は免疫以外にも生体のさまざまな反応に関係する重要なはたらきをもっていることがわかってきました。例えば、ミエローマというリンパ球のがんを引き起こす「ミエローマ増殖因子」の正体はIL-6。感染症などに反応して肝細胞に急性期タンパク質をつくらせる命令因子もIL-6。関節炎など免疫による炎症反応の引き金になるのもIL-6という具合です。こうなると、6番目という名前に似合わず、インターロイキンの中で1番注目される分子となり、世界中からIL-6の遺伝子や論文についての問い合わせが殺到しました。
流行を追わず、重箱の隅をつつかず
IL-6の多彩な機能がわかってきたので、IL-6がはたらく肝臓や血液でのまだ明らかになっていない生理的な役割を見つけようと考えるのが当然の方向でしょう。でもそれは他の誰でもが考えることです。実際にそのような周辺を広げる研究が一つの流行になりました。僕たちのグループは、研究資金が潤沢なわけでもなく、自由に時間を使える研究員が大勢いるわけでもありません。どうしてもやらなければならない、一番大事なことしかやってはならないのだと自分に言い聞かせました。そして、IL-6が大事な役者だとわかった以上、それが細胞にどのように作用するのかという基本のメカニズムの解明に集中すべきだと決めました。つまり、受け手側の細胞に存在するはずの、IL-6受容体の探索です。
方針を決めた後はよそ見をせず、受容体の単離から、細胞内にその刺激を伝えるシグナル分子の解明まで突き進みました。最初は競争していたライバルたちも、「岸本軍団には勝てない」と次々にあきらめ、最後は独走状態でしたね。後に医薬品の開発を行う際も、基本的な発見についてはすべてわれわれが権利を持っていると認められ、製薬会社との共同研究も非常にスムーズにいきました。
流行を追わず、自分の研究を継続することが発展の早道だと確信していますが、重箱の隅に行かないようにしなければならない。そこが難しいところです。それを避けるには、流行を追うのとは違う意味で、時代の潮流から離れていないかを常に気にする必要があります。世界の研究者と議論し、自分の研究を常に発信し続けることが大事ですね。今でも夢に見ることがあるんですよ。海外の学会に発表をしに行って、さあ自分の番だと演台にあがって客席を見渡すと誰もいない。「俺の研究はもう時代遅れで見放されたんか」と冷や汗をかいて目が覚めるんです。現役時代は、相当にプレッシャーを受けていたんだと改めて思います。
人を育てる
山村先生は、「ノーベル賞級の研究をしても教科書に一行残るだけや。しかし人を育てたら、その人はまたその次の人を育て、自分の考えが拡大再生産されて伝わっていく」とよく言われていました。
僕の研究室はお金や設備に恵まれていたわけではありませんでしたが、本庶さんや谷口さんといった一流の研究者と議論できる環境にあり、熱意を持った若い人が研究に参加してくれました。ただ、みんな今になって、「先生いい老人にならはりましたねえ。あのころの先生の厳しさはよう覚えてますよ」と言ってきます。9時を過ぎて研究室に来ようものなら「お前今日は病気か」と問いただし、昼過ぎにでも現れようものなら「親が死んだんか」と言ったんだそうですよ。ある時は廊下にまで響く声で「お前が消えるか遺伝子が消えるかどっちやー」と怒鳴ったとかね。厳しい口調になったのは、僕もみんなも懸命に考え、働いて成果を生み出しているのだという自信があったからです。結果として、優秀な研究者がどんどん育ってくれたのは大きな自慢ですよ。
現在、年間何億の研究費がついて、何十人もの研究員を集めるというプロジェクト研究が普通に行われています。一番の問題は、お金があると、頭を使うことなく、できることは何でもやってしまうことです。誰も考えなくなってしまう。聖徳太子だって同時に話を聞けるのは8人だと言われているじゃありませんか。何十人もの研究員がいてどないするんやと言いたいですね。大事なのは、やることをきちんと考えて、研究すべきことを決めること。そして若い人材を集めたら、お互い十分にディスカッションできる環境を整えることです。
キシモトの回診日
細胞工学センターでずっと研究を続けるつもりでしたが、医学部から再び古巣の第三内科に戻ってくるようにと要請をされました。臨床の現場から遠ざかっていたので最初は断り、同僚も反対したのですが、しだいに医師として過ごした医学部が気になり始めたんです。医学生に新しい免疫学を伝えたかったし、これまでの研究を治療につなげるには、やはり自分の眼でもう一度病気を診なきゃいかんのじゃないかと思ったのです。迷った末に、引き受けました。
自分の入院体験で、医師の来ない休日が不安だったことを思い出し、担当医にはなるべく病室に頻繁に出入りするようにと言いました。僕が回診する時は、病状に関わらずどこかいいところを見つけて患者さんを励ますことを心がけました。精神的な負担をとりのぞくことで、免疫系が十分にはたらき、症状が和らぐかもしれません。次第に毎週金曜日の回診の日が楽しみになり、海外出張でも必ず木曜には帰国するスケジュールを組みました。最初は「キシモトに臨床医が務まるのか」と驚いていた海外の友人にも、「金曜日はキシモトの回診日」と知れ渡ったようです。
研究を治療へ
病気とIL-6の関係で最初にわかったのが、原因不明と言われてきた発熱や関節炎など、免疫による炎症反応を示す患者にIL-6を大量に放出する細胞が存在することです。IL-6はバランスが崩れると様々な細胞に作用する毒となり、全身症状をおこしてしまうわけです。さらに原因不明とされてきた慢性関節リウマチも、IL-6が免疫細胞に作用することが引き金になっていました。これは、免疫が異常にはたらいて自分の関節を攻撃してしまう病気で、放っておくとひざの関節が破壊されて寝たきりになってしまいます。今のところ外科手術などの対処法しかありません。もしIL-6が関わっているのならば、理論的に症状を静める治療法を開発できるかもしれないと考えて、それに向けての研究を進めようと考えました。
患部の細胞ではIL-6の受容体がはたらいているはずですから、この受容体に結合する抗体を作製して投与し、受容体にフタをしてしまえば、IL-6の作用が中和され病気の進行を止められるというアイデアが浮かびました。遺伝子組換え技術で有用な抗体を設計する抗体医薬という考え方は1990年代からありましたが、その標的としてIL-6に目をつけたのです。
小規模な臨床試験で効果を確かめ、基礎研究の時から共同研究をしていた中外製薬と連携して大規模な臨床試験と大量生産の技術開発をしました。このとき、IL-6関係の特許をおさえていたことがポイントだったんですよ。世界中で使われる薬にするための産業化は企業の役割ですが、そこに研究者が話を持ち込むには「ここまでわれわれは先行した研究を行っています」と言わなければならない。それは、その場その場で流行を追うのではなく、徹底した基礎研究をやり続けた者にしかできないことです。これができたことは、ちょっとした誇りです。
2008年4月、抗IL-6受容体抗体がアクテムラという商品名で厚生労働省の認可を受け、近くアメリカ食品医薬品局やヨーロッパでの認可も下りる予定です。関節リウマチの他、発熱や肝脾腫脹等強い全身症状を呈する若年性特発性関節炎や、リンパ節が腫れて発熱や貧血などの症状が出るキャッスルマン病など、原因がわからず特効薬のなかった病気にも効果を示すことがわかっています。数年後にはこの薬が1000億円をこえるブロックバスター(大型新薬)になるとの試算もありますが、金額の多寡ではありません。30年続けた研究が、とうとう世界中の多くの人を助ける普通の薬になったということは、率直にとてもうれしいですね。人を育てたことの他に、もう一つ世に残せるものができたのですから。
基礎研究が種を生む
基礎研究にも医薬開発にもはやり廃りがあり、今はまさに抗体医薬の方法論が主流になっています。何を標的に抗体医薬を作るかというタネを持っている研究は実は少ないのです。日本の製薬会社は慌てて外国のベンチャー企業を買収したりしていますが、そういうやり方では本当に開発が成功するかどうか怪しいという気がします。
そもそも近代医学は、北里柴三郎の血清療法、パスツールのワクチンなど免疫反応を医療に活かすことから始まりました。この長い医学の歴史の中で良い薬を生み出す近道は、基礎に徹することです。最近の産学連携の議論では、研究をすぐに応用につなげろ、大学はビジネスのシーズを育てろと言うひとが多いのですが、「あほちゃいますか」と思いますね。流行を追っていても本質の研究がなければ特許もとれません。自分が大事だと思うことを研究し、成果を着実に積み上げていって、最終的に役に立つことは何かと考えていけばいいのです。「大きな種は継続した研究から生まれる。真髄をついた研究はいつかはちゃんと役に立つんや」と言いたいですね。
(文責:編集部)