「観る」ことが始まりで終わり

複雑で精巧な神経回路がどうして作られるのかと疑問に思った大学院生の時、その仕組みを分子や遺伝子のレベルで考える時代が来るのは遠い未来のように思えました。でも、とにかくやりたいと思ったことをやってみようと思い、ありふれた器具と顕微鏡を使って身近なイモリの脳を徹底的に観察したところ、神経細胞が脳の回路を作る時にどんな分子を使うのか見えてきたのです。その後、組換えDNA技術が使えるようになり、この研究がよい成果を生むことになります。以来、生きものをよく観察し、分子の仕組みを考え、実験をし、その結果をまた観察する。これをくり返してきました。発生学と分子生物学がともに進展する時代だったからこそできたことで、この時に研究生活を送れたことは幸運だったと感謝しています。

今は分子や遺伝子の情報があふれています。効率よく情報を集めて論理的に考え、実験で検証するというやり方が主流になり、生命科学研究は大勢のグループで大量のデータを出すものと思い込んでいる人さえいるような気がします。しかし人間の想像できることを越えて、生きものは複雑で柔軟な仕組みを持っています。これまでの実験結果に基づいて論理的に考えを進めるだけでは、生きものの中にある想像もできないことを見落とす危険があります。その危険を冒さないためには、やはり生きものをよく見ることです。「観る」が始まりであり、終わりなのです。

高校1年。泊まり込みで採集旅行へ。(左:本人)

信州の昆虫少年

生まれ育った信州の松本は、盆地も高い山もあってたくさんの昆虫がいるところです。僕が昆虫少年になったのは、小学校5年生の時。担任の先生が、休日も理科の実験や観察会を開く熱心な方で、教科書に岩石のことが出てくると授業をちょっとやって河原で石拾いをしたり、毎朝5時に生徒を集めて太陽が昇る方角の変化を記録したりしました。クラス全員が参加するのではなく、興味のある仲間だけが集まるのですが、おかげで僕は理科が大好きになりましたね。美ヶ原高原へのチョウの採集会にまでついて行ったのは、クラスで僕だけだったのですが、大きなミヤマカラスアゲハが山道を飛んでいくのを見て、すごいなあと思いました。それが虫好きの始まりで、今も虫がそばにいると落ち着きます。他に好きだったのは絵を描くこと。高校では美術部の先生に「お前の色使いは面白い」とほめられましたが、デッサンのような基礎は嫌いだったので、やっぱり生物クラブに入って朝から晩までチョウを相手にしていました。ただし僕の場合、採りに行くことよりも、見に行くこと、育てることのほうが好きで、地元にいるチョウを50種類くらい自分で卵から飼いましたね。標本を作って整理するのは苦手で、採集するのも、今年はどこが穴場だというような情報を仕入れてみんなで捕まえに行くよりも、何でもないところでたまたま珍しいチョウを見つける方が楽しかったのです。こういう生きものとの自然体のつきあい方が、後の研究生活にも出ているかもしれません。ただし高校までは頭の中は虫のことばかりで勉強はぜんぜんやらなかったので、受験のときにツケがきましたけどね。

京都大学をめざしたのは、深い考えがあるわけではなくクラスのみんなが大体関東の方に行くので、へそ曲がりとしては西に行こうと思ったのがまず一つ。もう一つは父です。父は師範学校を出た教師なのですが、本当は大学で哲学を勉強したかったらしく、家に西田幾多郎全集が揃っていました西田幾多郎哲学者。京都大学教授。多くの後進を育て、いわゆる「京都学派」のもととなった。。小さい頃は西田って誰だろうと思っていましたが、ひょっとするとその影響もあったかもしれません。浪人して理学部に入り、最初にやったことは、下宿でアオスジアゲハを何十匹も飼ったことです。信州にはいなかったアオスジアゲハがキャンパスの楠に集まっているのに感動しましたね。アオスジアゲハが羽化する時に赤い体液をまき散らすのを知らず、部屋を汚して下宿のおばさんにえらく怒られましたけどね。

伊勢湾で、三重県の高校と合同採集会。(後列左から3人目:本人)

大学受験用の証明写真

発生学との出会い

当時、まず理学部に進む学生が少数派で、中でも生物をやろうというのはほとんどいませんでした。動物学教室に進んだのは、同期生でたった5人。最初の授業、その5人が広い実習室に集まって先生を待っていると、石崎宏矩(現名古屋大学名誉教授) がイモリとカエルの卵を持って現れ、「この卵を発生させて、好きな時期に好きなように観察してスケッチし、1年後にレポートを出しなさい」と言われました。さすが大学の授業はひと味違って面白いと思いましたね。今西錦司先生今西錦司生態・人類学者。「すみ分け理論」を確立し、独自の進化論を提唱した。の人類学の授業も、体系的な講義ではないけれどアカデミックな感じがして好きでしたが、先生がすぐにアフリカに行ってしまわれ休講になりました。

卒業研究は4年生の前半と後半で違う分野に取り組めたので、始めは琵琶湖でのフナの生態研究に参加しました。フナが生育に伴いどのように餌場を変えるのか、夜、船で出て網ですくい、体長を測ったり胃の内容物を調べるのです。京都大学の生態学講座は日本の淡水魚類研究の中心で、テーマも面白かったのですが、集団で共同作業するのがあまり自分のスタイルには合わないとわかりました。それに実はカナヅチなので、夜、船から落ちたらどうしようといつもハラハラしていたのです。夏に大学院入試を終え、進学が決まってからの後半は、ショウジョウバエの発生遺伝学をやりました。生態学も発生学もまだ学問としては未熟な分野だけれども、発生には何か理屈がありそうだと考え、岡田節人先生(現JT生命誌研究館名誉顧問)の研究室に進みました。

晴れて京都大学に入学。清水寺で記念写真。

Scientist Library:
生命誌8号
『かつて絵描きだった』
石崎宏矩

幼虫から蛹、蛹から成虫へと変態する昆虫。蝶や虫の美しさに心をうばわれた少年が、…

Scientist Library:
生命誌30号
『ルイセンコの時代があった 生物学のイデオロギーの時代に』
岡田節人

生命誌では、科学を文化として捉え、薫り高い文化の中でこそ進められ、語られるものだと考えています。…

眼と脳をつなぐ不思議な仕組み

岡田先生は、発生過程で一つ一つの細胞が分化するということと、細胞が集まって社会を作るという2つの視点で発生学を進めようとしていました。僕の大学院のテーマはまず前者で、ニワトリ骨格筋を構成する白筋と赤筋がそれぞれ異なるタイプの呼吸酵素を持つことを利用し、どのタイプがいつ現れるかを調べて骨格筋分化の過程を探ろうとしたのです。ばらばらにした骨格筋から均一な細胞集団を培養し、酵素の精製を試みましたがなかなかうまくいきません。しかもあとから分かったのですが、どちらの酵素が作られるかは体内の酸素分圧によって決まるのであって、発生現象とはあまり関係なかったのです。残念な結果でしたが、岡田先生が出された「特定の細胞の子孫集団がどう分化していくか」に着目した研究テーマは、クローンクローン同じゲノムを持つ仲間のこと。ここでは、同じゲノムを持つ細胞集団をさす。という概念を発生生物学に持ち込んだ日本で最初の試みだったのです。

当時は大学紛争のまっただ中で、僕も修士課程の終わりから博士課程にかけてはあまり研究室に行かず、自分でいろいろな論文を読んで過ごすことが多くなりました。論文を読みながら自分なりに研究テーマを模索しているうちに、ニワトリ胚の網膜組織は、一度バラバラにしても、再び秩序だった構造を構成する能力があることを発見しました。視細胞、色素細胞、神経細胞といった複数の細胞種が、条件さえ整えば自然に組織を作るのです。そこで、細胞が作る社会というテーマの方に興味が移ったのです。

その頃最も感銘を受けたのは、マーカス・ジャコブソンというアメリカの神経学者の論文です。彼は、「眼の神経と脳の視覚中枢のつながり方に二次元的なパターンがある。例えば、網膜の背側から伸びる視神経は、必ず視覚中枢の腹側につながっている」と報告しました。眼と脳は別々の場所で発生し独立したプログラムで形作られるのに、網膜に並んだ視神経は軸索をのばして、遠く離れた視覚中枢(視蓋)の決まった場所に行き着くのです。これが、眼で捉えた像を脳が正しく認識できるための基本構造を作る、網膜・視蓋投射という仕組みです。生きものはものすごく不思議なことをやっている、将来絶対にこの仕組みを解こうと心に決めました。

大学院1年のとき。研究について真剣に考える。

先輩達と屋上で一服。

大学院2年、仲間と登った南アルプス。

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ニワトリ胚の網膜をバラバラにし、細胞塊を別の発生中の卵内で培養する実験。秩序だった網膜の層構造が再生される。

解剖学に追われる日々

大学院を出た後、幸い京都府立医科大学の助手になれました。博士課程の最後の年に結婚したのですが、仲人をお願いした江口吾郎先生(元熊本大学学長)のご自宅に結婚式の打ち合わせに伺ったとき、就職口があるけれどどうだと言われたのです。多分岡田先生が心配して、話をもってきて下さったのではないかと思っています。一も二もなく、お願いしました。

新しい研究室では好きなことをしてもいいと言われていたのですが、実験発生学のための器具も何もなく、細胞を培養できるようになるまで数年かかりました。さらに助手からすぐに「学内講師」という身分になり、医学教育に関わることになりました。解剖学の授業や実習を担当するため、肉眼レベルから電子顕微鏡レベルまで、ヒトの体を一から勉強しました。この知識は後から役に立ちましたが、時間の9割を教育のために費やさなければならず、研究テーマも定まらずつらかったですね。

そのときたまたま同じフロアにいらしたのが藤田晢也(現京都府立医科大学名誉教授)です。とても魅力的な方だったので、よく部屋を訪れて話をしましたが、その中で「神経科学には、複雑なものを複雑なまま取り扱う方法論が必要だ」と言われたのが印象的でした。複雑な生命現象を、ただシンプルなシステムに置き換えていけばよいものではない、ということを教えられ、ジャコブソンが見つけた網膜・視蓋投射のテーマに正面から取り組みたいと強く思うようになりました。

解剖学研究室には、僕に続いて京都大学から仲村春和君(現東北大学教授)、渡辺憲二君(現兵庫県立大学教授)が助手で入ってきました。実は解剖学の先生は医学部からはあまりなり手がいないんですね。少し余裕が出てきたので、思い切ってジャコブソンに手紙を書き、留学したいと頼んだら、ちょうどユタ大学に新しい研究室を作るから来ないかと返事がありました。念願だった神経発生学の本場に行けると、本当に嬉しかったですね。

移ったばかりの京都府立医大学で教室旅行。(左端:本人)

Scientist Library:
生命誌9号
『ホヤから私へ-脳と心の進化を追う』
藤田晢也

人間が頭で考えて突き詰めたことは、なぜ自然の法則に合致するのだろうか?…

夜の図書館でテーマ探し

ジャコブソンは僕を、客員教授の待遇で迎えてくれましたが、実は彼はそのとき、網膜・視蓋投射の研究から手を引こうとしていたのです。眼と視覚中枢を結ぶ回路形成は遺伝的な仕組みだけで決まっているのではないらしいという論文が別のグループから出て、研究者を驚かせていたのです。キンギョの視神経の再生の実験で、網膜の半分を取り除くと、生き残った半分の視神経は視覚中枢全体に投射し、逆に視覚中枢の半分を除去すると視神経が残った視覚中枢に投射し直すのです。神経回路の形成は、決められたプログラムどおりに投射の位置を決めるだけではないということです。これをみてジャコブソンは、あまりに複雑すぎると考えたようです。また、当時、堀田凱樹さん(現大学共同利用機関法人 情報・システム研究機構長)の研究室を出られた方がポスドクで来ており、アフリカツメガエルの脳の各領域の発生運命予定図を決める研究を開始していましたが、この研究がうまく行き始めたため、ジャコブソンの興味はそちらに移っていたのです。自分のやりたいことができないのでは長居は無用ですが、せっかく医学部の仕事から解放されたので、1年間はここでみっちり考えをまとめてみようと思いました。

昼間は研究室のテーマに沿った仕事を手伝い、夕食後は図書館にこもりました。日本に帰った時、お金も時間も人手も無い状況で、どうやったら自分が納得できる面白い仕事ができるかを、文献を読み一生懸命考えたのです。この機会を与えてくれたジャコブソンにはやはり感謝しています。最終的には考えがまとまりました。当時の神経回路の研究は、まだ神経細胞の一つ一つを見る方法がなかったので、できあがった神経に電気信号を流してつながっているかどうかを調べるだけでした。だから眼の神経が脳につながる過程はブラックボックスだったのです。この過程をちゃんと見ることができれば、これまでとは違うものが見えてくるのではないかと考えたのです。

与えられたテーマでの実験の合間に、神経細胞を標識して観察できる方法をいろいろ試してみました。HRPという西洋ワサビ由来の酵素は、動物細胞に取り込まれても安定に細胞内に存在し、外から色素化合物を加えると代謝反応をおこし、取り込んだ細胞だけが発色します。これが細胞の標識に使えるのではないかという噂を聞き、自分でも確かめ、良い感触をえました。そこで視神経にHRPを取り込ませ、網膜と視蓋をつなぐ回路をこの目で見てやろうと計画を立てました。

ジャコブソン博士のいるユタ大学に客員教授として招かれる。母親と3人の子どもと一緒に記念写真。

Scientist Library:
生命誌42号
『生きものの理論を探して』
堀田凱樹

子供時代はラジオ少年。だから生きものへの興味はメカニズム。ヒトもハエも基本は同じ..

ジャコブソン博士の自宅で。博士に抱っこしてもらっているのは次女。

京都府立医科大学の研究室。左は仲村春和助手(現東北大学教授)。

神経が見えた

帰国後、さっそく実験開始です。アメリカで使っていたアフリカツメガエルは、日本では買うのもお金がかかり飼うのも大変ですが、イモリなら必要な時に京都の北山の田んぼに行けばいくらでも捕まえられます。また、両生類は一般的に再生能力が高いのですが、特にイモリは視神経を切断して再生させる実験が容易でした。正常に発生した神経回路と、再生した神経回路の違いも見られると考え、まずはイモリを材料にすることにしました。HRPは1瓶が1万円で、2~3本あれば1年間実験できます。ガラスピペットとタングステンの針は自作、あとは顕微鏡があればできる安上がりな実験です。

細い視神経の一本一本に注射のできる精密装置があればいいのですが、もちろんそんな設備はありません。そこで、網膜のごく一部にHRPを投与することで限られた領域の視神経を標識し、この視神経が脳のどこにたどり着くかを知ろうと考えました。まず始めに、HRPで視神経を染める条件を確立しなければなりません。視神経を傷つけないように細心の注意を払いながら、イモリの光彩とレンズの隙間からガラスピペットを眼球に入れ、HRP溶液を注入しました。条件検討のために、まずは単純に網膜全体の視神経を標識しようとしたのです。渡辺君と一緒にいろいろな試みをやったのですが、視神経はぼんやりとしか染まらず、とても一本一本の視神経の行方を追跡できませんでした。ところがある日、視神経の一部がきれいにそまったサンプルが出きました。「よし、これでやれる」と喜んだのですが、再現性がありません。ふしぎなことに、ピペットの扱いが上手くなるほど視神経が染まらなくなっていくのです。あるとき,ピペットを差し込んだ側と反対の網膜が染まっているのを見て、はっと気づきました。ピペットを眼球に差し込む時、少し加減を誤ると網膜に傷を付けることがあります。実は良く染まっていたのは、少し傷が付いた視神経だったのです。これに気づけば後は楽勝で、網膜の様々な場所をわざと少し傷つけてHRPを取り込ませることで、それぞれの場所から視神経が伸びてゆく道筋を追跡し、網膜と視蓋との結合マップを容易に視覚化できるようになりました。3年間かけて、イモリとトノサマガエルの網膜・視蓋投射のマップを完成させました。それまで大まかにしかわからなかった神経回路を細胞レベルで見ることができ、しかもこの方法は簡単でお金もかからないので、世界中の研究者が一斉に取り入れました。

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イモリを用いて、眼と脳を結ぶ視神経の投射パターンの観察に初めて成功した。A,B,C,Dはそれぞれ、網膜の背側、腹側、鼻側、側頭側からの視神経が視覚中枢(点線で囲っただ円部分)のどこに伸びているかを示している。
Reprinted from Brain Res., 206, Fujisawa et al., 21-26, Copyright (1981), with permission from Elsevier

a piece of classic

網膜と視蓋との神経結合のマップが描けたので、次は再生した視神経が視蓋とつながる様子を調べました。イモリの口を開いて上あごに穴をあけ、視神経を切断すると数日で再生が始まります。完全に視蓋に投射し終わるまでさらに数週間から6ヶ月待って、再生した視神経を染めて見るのです。今考えると気の長い実験ですが、手術をして、待って、結果を見るというサイクルが医学部の教育を担当する僕たちにはちょうど良かったのですね。待ちに待った結果は驚きでした。再生した視神経は、正しい結合相手とは全く逆の方向に向かったのちに方向転換したり、あるいは行き過ぎてから戻ってくるものなど、たどり着く先は一つでもその道筋はまちまちだったのです。厳密に決まった経路をたどると思われていた神経細胞が、実は脳の中で試行錯誤を繰り返しながら進み、最後に正しい場所に行きつくという仕組みだとわかった時は、正直驚きましたね。

論文を投稿したら、査読者のコメントに「この研究は a piece of classicである」とありました。「古くさい研究」とけなされたのかなと早合点したのですが、英語に堪能な人に見せたら、一流だというすごいほめ言葉だよと言われ、一安心。実際この仕事は、神経発生学の教科書に、回路形成の古典的研究と並んで紹介されました。人も時間もお金もない状況でやった研究が認められて、とても嬉しかったですね。

その頃、回路形成の研究でめざましい成果を上げていたのが、バッタの発生を見ていたアメリカのグッドマンコーリー・グッドマン神経発生学者。現カリフォルニア大学教授。でした。昆虫は神経細胞の数が少なく、細胞体やシナプスのでき方に個体ごとのばらつきが少ないためパターン化して解析しやすいのです。バッタでは、神経細胞の軸索は特定の道筋に沿って進み、その道筋の先にある標的細胞とシナプスを作ります。したがってグッドマンは、正しい道筋を見いだすこと(pathfinding)がバッタの神経回路形成で重要であると考えました。一方僕の視神経の仕事からは、道筋ではなく、正しい標的を見つけること(target recognition)が回路形成の本質となります。後年彼とも議論したのですが、これはどちらの現象が100%効いているということではなく、両方の仕組みがあり、生物によってどちらかの役割を主にしているというのが本当のところでしょう。おそらく、もともと細胞数の少ない昆虫は、神経回路を作る時もあまりムダなことをしない方がよく、神経細胞に試行錯誤をさせるよりも、遺伝的に厳密な回路形成をした方が都合がよいのです。一方脊椎動物の神経系は、発生の時から非常に多くの細胞が生み出され、細かいことまで遺伝子で決めてしまおうとすると、エラーを防ぐ仕組みにかなりのエネルギーを使わなければならないでしょう。それよりも、たくさんの神経細胞の軸索がごく大雑把な位置に入り、これらのうち正しい標的にたどり着いた神経だけが最終的に残れば結果的に成功という方が、より効率がよいと思えます。神経回路の作られ方を実際に見ることで、このように、生きものの多様性とそれに合った形の作りかたのあることがわかってきます。

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背側網膜からの視神経を切断し、再生した視神経の走行経路を観察した。
再生した視神経は試行錯誤の末、最終的には全てが正しい位置にたどり着いている。

神経を導く分子を探す

イモリの再生研究の後、アフリカツメガエルで視神経の発生でも同じように回路形成の試行錯誤の仕組みがあることを確認しました。再生の場合も発生の場合も、視神経が脳の正しい場所にたどり着けるのは、神経細胞と脳細胞の間に分子のコミュニケーションがあるからに違いありません。視神経が一直線に目標に向かわないのは、周りを探りながら進むためで、視神経や視蓋の細胞表面にはそのような機能を担う膜分子が存在しているはずだと考えました。次の目標は、神経回路形成の仕組みを分子レベルで記述することです。

1980年代の始め、未知のタンパク質を探す方法として流行っていたのが、モノクローナル抗体を用いたスクリーニング法でしたモノクローナル抗体特定の抗原に結合する性質を持つ抗体は、生体や細胞に微量に存在する分子の検出・精製や、生体内のどこに特定の分子が存在するかを調べるために用いられ、生命科学研究での利用価値が高い。このような抗体は通常、ウサギなどに抗原となるタンパク質や組織を注射したのち、血清を回収することで得られる。また、マウスやラットに抗原を注射し、単離した免疫細胞をがん細胞と試験管内で融合させると、特定の抗体を産生し増殖し続ける細胞を作ることができる。このような単一細胞種由来の抗体をモノクローナル抗体とよぶ。。異種由来のタンパク質を動物に注射するとそれが抗原として認識され、免疫細胞が抗体を作ります。純粋なタンパク質の替わりにカエルの脳をすりつぶしてマウスに注射すると、脳に存在するさまざまなタンパク質が抗原となり、それらに反応する抗体を作る免疫細胞が多数現れます。その中から、神経回路形成に関わる分子が抗原となって作られた抗体を探すのです。砂浜に落ちた100円玉を拾うような途方もない計画ですが、とにかくやってみようと新しく助手として来た高木新君(現名古屋大学助教授)と研究を始めました。

アフリカツメガエルの視蓋をマウスに注射し、血液から免疫細胞を集めます。免疫細胞を一つ一つ培養した上澄み液には抗体が放出されており、これを視蓋の切片に反応させ抗体分子を染色すると、抗体が結合する抗原タンパク質が視蓋のどこにあるかがわかります。視蓋の中でも、視神経が通る領域など特異的な領域が染まれば、有望な候補となります。視蓋の切片をたくさん作り、回収した培養液を使って抗体染色を行い、顕微鏡で観察し有望なものがあると、すぐに免疫細胞をクローンとして分離する作業を1年間ほど続けました。ほとんどの場合、視蓋全体が染まるか、あるいは全く染まらないかで、神経細胞ではなくグリア細胞が染まることも多かったですね。結局、最初のスクリーニングで見つけてAの5番、Bの2番と番号を付けた二つが、視蓋の中で視神経がたどり着く狭い領域と、逆にそれ以外の場所とを相捕的に染め分ける抗体で、しかも詳しく見ると抗原となるタンパク質は細胞膜上に存在しているようでした。この2つに絞って解析することを決断し、スクリーニングを終えました。

視蓋に存在するこの未知のタンパク質は、見つけた順番をそのまま名前にしてA5、B2と呼んでいました。この2つが本当に回路形成に関わっているかは、遺伝子を操作してタンパク質が作られない個体を作り、神経に異常がないかを観察することでわかるはずです。幸いに名古屋大学理学部で新しい研究室を立ち上げることになり、動物を使った遺伝子組換え実験に取り組むことができました。

モノクローナル抗体のスクリーニングを担当した高木新助手(現名古屋大学助教授。右端)。(左端:本人)

熊本の発生生物学会で。左から、高橋淑子(現奈良先端科学技術大学院大学教授)、竹市雅俊(現理化学研究所発生・再生科学総合研究センター長)、本人。

分子の名付け親

医学部から理学部に移ると、以前とは違った意味で「教育」を意識しました。医学部でも学生さんが研究に参加して、いい論文をたくさん書いてくれたのですが、仮に研究がうまくいかなくても「お医者さん」が本業としてあるので、本人が食えなくなってしまうということはありません。しかし理学部では、博士課程の学生の仕事が失敗すれば大変です。責任重大だというプレッシャーがありましたが、幸いよい学生に恵まれ、研究は順調に進みました。
研究室を移ったのを機に、実験材料をカエルから思い切ってマウスに変えました。遺伝子の過剰発現(トランスジェニックマウス)と機能破壊(ノックアウトマウス)の両方の実験ができることと、やはりヒトを含む哺乳類の神経系に大きな興味があったからです。
1993年にスペインで開かれた神経発生学の国際シンポジウムで、カエルの研究から始めてマウスでも存在することがわかったB2、A5遺伝子の報告をしたところ、多くの研究者が興味を持ってくれました。その時は誰も予想していなかったのですが、実はその場には、神経発生学を大きく進展させることになるライバル達が一同に介していたのです。例えばアメリカのジョナサン・レイパーという研究者は、ニワトリの脳に発現するコラプシンという分泌タンパク質について報告したのですが、数年後、僕たちが見つけたA5とB2が共に、コラプシンの受容体として働くことがわかりました。回路形成に関わる分子が少しずつ発見され始めた頃で、みんな自分が見つけた分子に思い思いの名前を付け、未知の機能に迫ろうと切磋琢磨していたのです。

発表の後、「大事な分子なんだからA5、B2という記号でなく、ちゃんとした名前を付けたほうがいい」と言われ、帰国後さっそく研究室のみんなで考えました。どちらの分子も神経細胞がシナプスを作って層構造になっているところに発現するので、そのような細胞層をさすニューロパイル(neuropile)とプレキシフォーム・レイヤー(plexiform layer)という用語にちなみ、A5をニューロピリン(Neuropilin)、B2をプレキシン(Plexin)と名付けました。これが実はよかったのです。世界中の研究室でそれぞれ独立して行われていた研究が進み、別々に名付けられた遺伝子が実は同じものだったということになると、遺伝子名を統一しようという話が出てきます。先ほどのコラプシンという分子は、今では別の研究者がつけたセマフォリンという名前になっています。僕たちが見つけたプレキシンも、イタリアのグループが別のアプローチで見つけ、別の名称を付けていたのですが、あんまりいい名前ではないとみんなに思われたのか、今は僕たちが新しくつけた名前の方が正式名称として採用されています。自分のつけた名前が残るのは、やっぱり嬉しいものです。名前は大事ですね。

名古屋大学で研究室を立ち上げたメンバー。前列左から、木津川尚史(現大阪大学助教授)、平田たつみ(現国立遺伝学研究所助教授)。後列左端:本人。
後列左から2人目:川上厚志(現東京工業大学助教授)。後列右端:高木新(現名古屋大学助教授)。

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1993年、スペインで開催された国際学会の要旨集の表紙。神経発生学のその後10年をリードする研究者が一堂に会していた。

希有な偶然の連続

ニューロピリンが神経回路の形成に関わることは、ニューロピリン遺伝子を欠失させたノックアウトマウスの観察で決定的になりました。この実験は、大学院生だった木津川尚史君(現大阪大学助教授)が岡崎市にある基礎生物学研究所に出張して行ったのですが、待ちに待った最初のノックアウトマウスの結果を持ってきた時のことは忘れられません。「どうだった?」と聞くと、何かありそうな顔をしながら「うーん、まあこれを見て下さい」。渡された写真を見てびっくりしましたね。このマウスは、胚が成長しきらずに死んでしまうので視神経の異常はわかりません。ただ、それ以外の全身の末梢神経の束がバラバラになって、神経繊維がでたらめな方向に伸びているのは、はっきりわかりました。こんな表現型は今まで見たことがありません。ニューロピリンが働かないと、神経回路が正しくできないことが証明できたのです。今まで研究してきて、いちばん嬉しかったことの一つです。

この話には続きがあります。木津川君が出張していた基礎生物学研究所で、ほぼ同じ時期に、たまたま木津川君の隣の机にいた谷口雅彦さん(現札幌医科大学助教授)がセマフォリンのノックアウトマウスを作っていました。セマフォリンが細胞外に分泌されることはわかっていましたが、それを受けとめる受容体はまだ不明で、もちろんニューロピリンとセマフォリンが互いに関係があることなど思いも及びませんでした。ところが、出来上がったニューロピリンのノックアウトマウスと、セマフォリンのノックアウトマウスの表現型が殆ど同じであることに気づき、調べたところ、ニューロピリンがセマフォリンの受容体であったわけです。ニューロピリンを発現する神経はセマフォリンを避けるように伸びるので、セマフォリンがなくなるとニューロピリンを失った場合と同じように神経回路がでたらめになってしまうのです。さらに偶然は続くもので、実はニューロピリンは僕たちが見つけたもうひとつの分子プレキシンと複合体を形成して、セマフォリンのシグナルを伝え、神経細胞に軸索が進んではいけない方向を指示していることもわかってきました。

岡田先生の研究室で同期だった竹市雅俊さん竹市雅俊現理化学研究所発生・再生科学総合研究センター長。細胞接着分子カドヘリンの発見者。からも、「科学が進展する経過としては、実に希有な偶然の連続だ」と言われました。モノクローナル抗体によるスクリーニングでたまたま選び出した2つの分子が、実は機能的にも物理的にも深い関係にある分子で、研究がどんどん進んだのは僕にとって大変幸運でした。ライバルとの競争があり、常に僕たちが抜きんでていたわけではありませんが、大学院の時にやりたいと思った研究をずっと続けて、ついに遺伝子の機能にまでたどり着いたのです。神経発生の研究がいちばん面白く進展する時期に研究者を続け、その歴史に自分の足跡を残せたのは本当に幸せなことだと思います。

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ニューロピリンのノックアウトマウス。軸索を茶色く染めてみると、正常胚(左)ではきちんと束ねられている軸索が、ノックアウトマウスではバラバラになってしまった。

還暦祝い。

研究は頭を使わない?

退官後もしばらく研究を続けられるポストに就けたので、やり残した仕事を片づけています。今は時間が十分あるので、これまでのサンプルを見直してみて、ひょっとしたら面白いことが見つかるのではないかと思い自分でも実験を始めています。僕は教授になってからは自分で手を動かすことは無くなっていたのですが、どんなに忙しくても、学生が作ったサンプルは必ず自分でも見るようにしていました。実験結果から何を読み取れるかは、それまでにどれだけじっくり生きものを見て、知っているかにかかっています。特に実験がうまくいかなかった時、当初の予測にあわない結果となった時こそ研究の新たな発展のチャンスで、実験の結果だけを学生から聞いているだけでは、本当に大事なことを見落としてしまうと危惧していたからです。

僕たちの想像を超え、はるかに複雑でしなやかなシステムを備えているのが生きものです。脳の回路がどうやってできるかだって、今わかっている分子の組み合わせで解けるかというと、解けないことのほうが圧倒的に多いわけです。想像の範囲からはずれたことを見落とさないためには、まず生きものをよく見ることがやはり大事なのです。見ることが、始まりであり、終わりであり、また始まりです。

昆虫であれ神経細胞であれ、生きものを観察することがこれまでの僕の研究の原動力で、一日中やっていても飽きません。このあいだ久しぶりに岡田先生に会って「自分で実験をしています」と近況報告すると、「そりゃええこっちゃ。研究はいちばん頭使わんでええしな」と言われてしまいました。確かにその通りで、僕の研究スタイルは結局ずっと、自然体で生きものを見ることでした。

研究室旅行でも、「虫取りができる場所に」と必ず注文。

キャンパスの中に林がある名古屋大学では、カミキリムシがたくさんとれる。簡単に標本が作れて、かさばらないのがお気に入り。今も昔も、虫がそばにいると心が落ち着く。