生物学の道へ

京都東山七条下る。近所の智積院の境内にはキリギリスやセミ、ヒキガエルやイモリがいくらでもいた。

入学した京都ニ中は、海軍兵学校や陸軍士官学校への合格率が高いと評判の学校だったが、どうも肌に合わない。そのころ政府が、戦争のためには科学が大事だと言い出し、理科教育の特別学級を東京、広島、金沢と京都に置いた。京都の場合は、京都一中(現洛北高校)に設置され、湯川秀樹さん、駒井卓さんなど、京都大学の一流の先生が教育計画を立案した。応募して合格し、自由な雰囲気の中、「敵性語」といわれた英語を勉強するチャンスにも恵まれ、学徒動員もなく、楽しい中学時代を過ごすことができた。

担任の奥野春男先生は、日本で初めて珪藻を電子顕微鏡で分類し、その成果をドイツで出版した研究者。子供にも正当な解剖や生理を教えてくれた。鴨川からカエルをとってきて実験と称していたずらをよくやったが、先生の研究する心はしっかり受けとめていたと思う。

京大の研究生だった岡本一先生も印象に残っている。先生が、密閉容器の中で石英の砂とアルミの粉を混ぜて火を付けるとケイ素の結晶ができるというので、職員室から湯飲みを持ち出し、石英とアルミを入れて運動場の真ん中で試してみると、爆発はするが結晶らしいものはできない。そこでまた湯呑みを拝借する。とうとう職員室中の湯呑みをみな壊してしまい、えらく怒られた。

そんなふうにして、半分お遊びで科学を勉強したのだけれど、そこで身についたものは大きかったと思う。

京大に入学した時は、生化学をやりたいと思ったが、そのためにはまず動物や植物をしっかり勉強しておきなさいと言われ、動物学科に進んだ。ところが体系だった勉強の仕方は教えてもらえず、ぬえをつかむようなものだった。自分の動物学の勉強法を作らなければならない。どう勉強するか、何を目的とするか、いろいろ悩んだ結果、到達したのは、生物学は「生体の物理学」でなければいけないということだった。法則を作って演繹していく学問だ。

三高時代に読んだ『動物細胞の増殖と分化』(藤井隆著)に培養細胞の行動や、シュペーマンの実験発生学のことが書いてあり、細胞は面白い、核と細胞質の関係が非常に重要だという印象をもっていたので、それをやろうと思った。

指導教官の高谷博助教授には「どうやって調べるのや?」と言われた。じつはアメリカでは核移植も行われていたのだけれど、京大には古い本しかない。進駐軍の司令官が作ったクルーガー図書館というのが四条烏丸にあってアメリカの雑誌や科学の本を置いていたので、そこで勉強した。

そしてやはり、発生の本質は核と細胞質の相互作用にあるという考えに達し、以来ずっとそれを続けることになった。

1950年。京都大学学部生の頃、京都一中の同級生たちと一緒に(前列中央)。左端は、三宅章雄・現カメリーノ大学(イタリア)教授。

55年。修士修了の頃(左)。右は、小谷穣一現大阪女子大学名誉教授。

60年。甲南大学講師だった。

67年。エール大学留学中。R.ピーダーセン(現カリフォルニア大学教授)と。

甲南からアメリカへ

高谷先生は、神戸の甲南高等学校で岡田節人生命誌研究館館長や故金谷晴夫元基礎生物学研究所所長を育てた方で、甲南大学の教授の時、助手にしていただいた。しかし、一緒にいた間、私は先生の真の偉さに気がつかなかった。先生はよく「科学は人間である」「これと思った人の追試をしなさい」と言われた。しかし、日本の甲南という田舎の大学で、世界に通用する科学なのかどうか、という疑問がいつもあった。

ところが、1966年アメリカに留学して、エール大学でマーカート研究室に入り、マーカートの言葉に「あ、高谷先生と同じだ」ということが多くて驚いた。

マーカートの研究室では最初、ペンギンの発生に関係する酵素の分析を手伝ったが、一つ論文ができたところで、「君の好きなことをやりなさい」と言われた。ニ、三アイディアをもっていくと、日本でもできる安上がりの仕事にしたらどうかと言う。とても現実的な対応だ。夢は夢、その中から現実性の高いものを選んでいくのが本当の選択だと教えられた。それで、若い時からの夢である核と細胞質の相互作用が、卵の成熟の時にどのように起きるかをテーマにすることにした。これだったら、材料はカエル。あとはガラス管と顕微鏡とリンガー液リンガー液イオン組成、浸透圧、PHなどが血清と同じで、生理学的実験に用いられる。リンゲルが1882年にカエルの実験で初めて処方した。があればできる。しかも、たった一つの卵細胞が一つの方向に変化していくのを追っていけばよいのだから、系としても簡単だった。

卵成熟は、卵巣内にある卵母細胞(第一減数分裂前期で止まっている)が、受精可能になるために減数分裂を再開して第二減数分裂に至るまでの過程であり、細胞の反応の中で一番込み入った、しかし、もっとも大切なところだ(図5)。卵巣内で卵母細胞が充分に成熟することが細胞の分裂に不可欠であることは、今世紀の始めから知られていた。1939年にはハイルブランが卵成熟を体外で起こさせることに成功し、研究の重要性はますます強く認識されるようになっていた。

64年、ロシアのデトラフが、卵成熟しつつある卵細胞の中に核を移植した時に起こる変化を追う実験をやり、それが印象に残っていた。ここで高谷先生の言われた言葉が役に立った。「その領域で一番重要で興味があると思う論文の追試をしろ。その結果は必ずしも著者の言っている通りにならないから、なぜ違うのかという食い違いの分析から研究をスタートするといい」

私は、デトラフの追試をした。結果は、果たせるかな、違った。

卵の成熟という 重要なイベント
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受精可能な卵ができるまでには、長い時間がかかる。まず、卵原細胞という小さな細胞が卵黄などを取り込んで成長し、第1減数分裂の前期で一旦停止する。雌が性的に成熟すると、ホルモン刺激により減数分裂が再開されるが、第2減数分裂の中期で再び停止し、受精可能な状態になって産卵(排卵)される。この過程を卵成熟と呼ぶ。(カエル、ヒトなどの脊椎動物について示した図)
成熟前
マウスの卵巣から取り出した未成熟の卵母細胞。中央の円形物は卵核胞(卵母細胞の核)。その中の小球は仁。
成熟後
培養によって成熟したマウスの卵細胞。矢印は、染色体の集合を示す。頂点にある小球は第一極体。

卵成熟促進物質の発見

デトラフの実験は、カエルの卵母細胞から濾胞濾胞多くの細胞からなる完全に閉じた胞状構造をいい、ここでは、卵巣内で卵を包んでいる部分(卵胞)。を取り除き、リンガー液の中に入れ、そこへカエルの脳下垂体をすりつぶして混ぜると、脳下垂体のホルモンが卵に作用して、卵が成熟するというものだった。

ところがやってみると、うまくいく時と、うまくいかない時がある。うまくいかないのはなぜか?卵母細胞のまわりには多数の濾胞細胞があるのだが、それを完全にとってしまうとダメとわかった。ていねいにやるとダメということは実験ではよくあることだ。

デトラフは、濾胞に気づかずにいたけれど、脳下垂体ホルモンはどうもそれに働いているらしい。確認のため、濾胞を完全に取り除いた卵細胞に濾胞をもう一度混ぜ、そこへ脳下垂体を入れると、卵成熟が起こった。脳下垂体は濾胞に働き、濾胞から出るホルモンが卵細胞を成熟させるに違いないと考えた。

濾胞から出るのはどんなホルモンか? あてずっぽうに濾胞から出そうなホルモンをテストしたところ、運よくプロジェステロンが見つかった。

ところがプロジェステロンを卵の中に注射しても効かない。表面をプロジェステロンに触れさせたときだけ卵成熟が起きる。核が変化して卵が成熟するのだから、表面と核の間に仲介する物質があるはずだ。

そこで、プロジェステロンで処理した卵の細胞質を、未処理の細胞に注射してみると、成熟が起きたのである。この時はまさにやった!と思った。細胞質の中で何かが働いているのである。卵成熟促進物質MPF(マチュレーション・プロモーティング・ファクター)と名付けた。

69年。始めてから2ヶ月だった。軌道に乗ると自分でも驚くほど順調に成果が出てくる。そういう時があるものだ。しかし、その間働きづめで、妻はとうとう掛け捨ての生命保険を掛けた。

なんでも調子よくいくとはかぎらない。MPFを取り出して、実体をつかまえようという仕事を始めたら苦労の連続になった。トロント大学に移ってヒョウガエルを使って始めたこの仕事は、少しもうまくいかない。結局、卵をすりつぶしてはだめだという、なんとも簡単なことがわかるのに5年もかかってしまった。卵をつぶさずに、そのまま分けるにはどうするか。昔ハーベイが、ウニの成熟卵を遠心分離機にかけると、軽いものから重いものへと層になって分かれるということを示していたのを思い出した。その方法でやってみると、一番上が脂、次に可溶性部分、ジェル、ミトコンドリア、一番下に重い卵黄がくる。

5層を一つずつチェックしていくと、幸い可溶性のところにMPFの活性があったので、強い遠心力をかけると、卵がつぶれてMPFが出てくることがわかった。ようやく抽出法がわかったのが74年。5年間の暗いトンネルからパッと抜け出たこの時ほど晴れ晴れした気持ちを味わったことはない。抽出液を卵に注射して、翌朝真っ先に結果を見るのだが、ずーっと失敗続きでがっくり。それが、ある朝成熟していた時は、人生の中で一番興奮し、喜びを感じた。科学者としてこの喜びは一度味わったら忘れられないものだ。

しかし、精製でまた困難にぶつかった。私たちの旧式のクロマトグラフィークロマトグラフィー吸着剤を入れたカラムの中へ混合溶液を流し込み、吸着力の違いによって混合物を分離する方法。では、時間がかかって活性が無くなってしまうのだ。クロマトグラフィーの感度がよくなり、私の弟子のM.ローカが精製に成功したのが14年後の88年だった。20年近い仕事である。

MPFの発見
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(1)卵母細胞を脳下垂体ホルモンを加えたリンガ一液中で培養すると、成熟が起きる。
(2)濾胞を取り除くと成熟は起きない。
(3)濾胞を加えると成熟が起きる。
(4)卵母細胞をプロジェステロンを加えた溶液に浸すと、成熟する。
(5)プロジェステロンを細胞質に注射しても成熟しない。こうした実験から増井博士は卵成熟に必要な物質としてMPFを見つけた。
(左)未成熟の卵(アフリカツメガエル)。(右)成熟した卵。卵核胞が崩壊して白く見える。(撮影=古野伸明・九州大学)
MPFは核の分裂を促進する。(上)カエル未成熟卵母細胞内に移植された脳細胞の核は間期に留まっている。(下)カエル成熟卵細胞内に移植された脳細胞の核は、細胞質に生じたMPFによって染色体凝縮を起こし、中期に入る。
核や細胞質移植に使用した目盛りの入ったピペット。あとは顕微鏡とピンセットという簡単な装置でこの発見はなされた。

普遍的な仕組みの解明へ

69年にMPFを見つけた時は、とくに騒がれなかったし、私自身、ちょっと面白いものを見つけたくらいに思っていた。マーカートも、急ぐことはないと思っていたらしく、論文の原稿を1年も机の引き出しに入れたままだった。トロントから催促の手紙を書いて、71年になってようやく論文になった。最近は一刻を争う競争になっているけれど、本当はこのくらい余裕のある仕事で勝負したいものだ。

80年代後半になり、酵母菌の細胞周期についてのL.ハートウェルやP.ナースの分子遺伝学的研究などからMPF関連の発見が続々現れ、また、カエルの卵母細胞以外の動物細胞でも、細胞分裂の際にMPFが出現することが明らかになり、急速に注目されるようになった。

その後、M.ローカ、J.マラー、T.ハント、J.ルーダマンなどの分子生物学者たちの研究によって、精製したMPFは2つのプロテインキナーゼ活性キナーゼリン酸化させることによってその分子の働きを変化させる酵素。をもったタンパク質の複合体だということがわかった。驚くべきことに、その一方は、P.ナースが分裂酵母から見つけた細胞周期を調整するタンパク質、cdc2と同じ。もう一方は、T.ハント、J.ルーダマンによって二枚貝やウニ卵で、その後キンギョ、ヒトデ、酵母などで見つかり、細胞周期に同調してその量が変化することがわかっていたサイクリンだったのだ。

私自身は最初は、酵母の細胞分裂と、両生類の卵の成熟がつながるなんて思いもしなかったのだが、このときはあらゆる生物の基本がつながっていることを実感した。MPFは、卵成熟だけでなく、体細胞を含むすべての細胞の分裂を制御する基本的な調節タンパク質だったというわけだMPFは、今ではメタフェーズ・プロモーティング・ファクター(M期促進因子)という意味で使われることもある。細胞分裂のM期(分裂期)への進行を引き起こす物質という意味である。

核と細胞質の相互作用によって発生を説明したいという、研究者としてのスタートの時からの願いがかなえられる道がはっきりとつき、しかもそれは卵から体細胞までをつなぐものになりそうだということになった。

MPFはあらゆる 真核細胞の分裂を制御する

MPFは、カエルだけでなく、マウスやキンギョ、ヒトデや、ユリなどの植物の卵の減数分裂や、体細胞分裂でも働いていることが発見され、普遍的な細胞分裂促進因子であることがわかってきている。
(左)たまねぎの根の先端の細胞分裂((c)OPO)
(右)真核細胞の細胞周期
一般に、間期に細胞は大きくなり、分裂期(M期)に増大が止まり、核及び、細胞が分裂する。間期の一部、S期にDNAの複製が起きる。MPF(サイクリンとcdc2の複合体)が働くとM期に入り、分裂が始まる。

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無細胞系

80年代の初め、私も流行の分子生物学からの解析を考え、友人のところに3ヶ月技術を習いに行った。だが、グラントをとるのに一生懸命で、お金をどんどん使わなければならないような研究は、私の性分にも、その時私がおかれていた条件にも合わないと思い、私の出発点である形態学的な観察へ戻った。

卵成熟の際には、減数分裂のために染色体が凝縮する。そこで、MPFの活性を検出する簡単な方法として、抽出した卵細胞の細胞質に精子核を入れるというモデル系を考えた。

核を入れる細胞質にMPFの活性があれば、核は凝縮して染色体をつくる。卵母細胞にMPFを注射してその活性をみる方法では、染色体ができるまでに一晩待たなければならなかったが、この系だと30分でわかる。簡単さが利点となり、MPFの活性を制御する酵素など、細胞周期の調節に関わる分子の解析に、大いに使われることになった。

しかし、この系は、実際の細胞をコントロールしている複雑なところを全部切り捨てているから、必要最小限の基本的なことがわかるだけだ。単純な系によって、いろいろな発見ができ、それらの現象は普遍的なものとして体細胞にまで適応できたけれど、細胞内で起きている本来の姿を見ようとするなら、もう一度生きている細胞そのものに帰らなければならない。

本当の細胞は、成長と分裂が密接に関係している。この関係が今後の大きなテーマになるだろう。たとえば、がんの異常増殖も、成長と分裂のバランスの問題と捉えることもできる。私は、細胞の表面積と細胞周期の長さが反比例することを見つけているが、周期を制御する細胞増殖因子が表面の受容体と結合して、その反応によって表面近くのタンパク質をリン酸化し細胞増殖を制御することは、これを裏付けていると思う。

科学はこうして進んでいくのだ。問題に答えると、その解答がすぐ新しい問題になる。今私は、分子についてわかった基本的な答をもとに、生きている細胞という問題に向かっている。細胞は、その分化の仕組みについても、ゲノムの一部分の解読のたんなる集合ではつかめない複雑な雲をつかむような存在だが、科学は必ずそこにつながる道をもつ。私はそう信じている。

CSFの発見
受精前の卵はどうして分裂しないのか。増井博士は、カエル未受精卵より抽出した細胞質を、2細胞期の胚の一方の割球に注射した。注射されなかった割球は正常に分裂したが、注射されたほうの割球は分裂を停止した。そのことから、未受精卵には、分裂を停止させる物質があると考え、細胞分裂抑制因子(CSF)と名付けた。現在では、CSFは、がん原遺伝子の一つ、c-mosがつくるタンパク質であることがわかっている。
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MPFもCSFも、すべての真核細胞に普遍的な調節タンパク質であることがわかり、世界中で研究が行われるようになった。突然に多くの人の手で研究が行われるようになった80年代終わり頃の様子を、増井博士が描いた図(Masui,Y.,A Quest for cytoplasmic factors that control the cell cycle,Progress in Cell Cycle Research,L.Meijer et al.eds,Plenum Press,New York & London,1996,vol.2:1-13より)

サイエンスは人間

アメリカに行って感じたのは、医学部などでは若い研究員が使用人のように考えられており、研究能力を育てるのではなく、成果を上げることばかり期待される研究室が多いことだった。しかし、幸いマーカートは違っていた。最初に言われたのは、ここはアート・アンド・サイエンス、文理学部なのだから、月給は研究のために支払われているのではない、教育のためにおまえの月給が出ていることを忘れてはいかん、ということだった。人を育てないと科学は進歩しない。私自身も、よい師に出会って育てられたのだ。

サイエンスは高谷先生が言われたように、結局人間の問題なのだ。大事なのは、計算が上手にできるとか、頭脳や手が器用に働くなどということではない。むしろ不器用な人間が、そこで問題を克服しようとして努力する、人間のねばりであり、対象を愛する気持ちである。そういう努力や、研究に対する愛が大事だということを、高谷先生は「人間だ」と表現されたのだと思う。

日本、アメリカ、カナダと3つの国で生活をしてきたが、カナダが一番のんびりしていて自分に合っている。自分の考えで、ああでもない、こうでもないとやっていける。回り道をしても、元にもどっても、だれも何も言わずに自由にしてくれる。もし急がされていたら、MPFの抽出に5年もかけられず、こんな面白い展開はなかっただろう。

97年、かつて研究室をともにしたメンバーと。左端はW.ワッサーマン。後列中央は、M.ローカ。

77年、ウッズホールのMBLで金谷晴夫(元基礎生物学研究所所長)と。

90年スイス・ローザンヌで。ゼノパスミーティングの時。右端は、G.ヘドリック(カリフォルニア大学教授)。

90年、マーカートの家を訪れて。左はC.L.マーカート。