へそ曲がり

まだ、自分史を語るほどの齢ではないつもりだが、研究生活を見直し、一人の人間が、なぜこういう仕事をしてきたかを語れたら嬉しい。私の場合、じつは失敗の繰り返しだったのだが、それが思いがけぬ成果を生んだ。今となってはそんな気がする。

小学生のころから理科好きで、電気関係に進みたいと思ったのは、鉛蓄電池の国産化を手掛けていた父の影響だと思う。鉛をかき回すボールミルに穴が開いていて、偶然酸化鉛ができたのが成功のきっかけだったという話を聞かされた。たまたま外から飛び込んできた青カビが微生物を溶かしたことから、フレミングがペニシリンを発見したのと同じような話である。大学時代、フランシス・ライアン(アメリカ)の特別講義で「セレンディピティー(serendipity)―――掘り出し物を見つける幸運」という言葉を初めて知った。先生は、生物学にはセレンディピティアスなことが多いと話してくれたのだが、その後の私の発見はどれも掘り出し物だった。

終戦前日の1945年8月14日、家の前に防空壕を掘っていて、今日はここまでと途中で止めにしていた。その夜に空襲があり、爆風でガラスが飛び散り、家の中が泥だらけになった。翌朝掘った穴をひょいと覗いたら、そこに爆弾が落ちていた。もしあそこに入っていたら…。なかったかもしれない人生をどう生きればいいだろう。中学1年生だったが、しばらくはそんなことばかり考えていた。終戦を挟んで、軍国主義から手のひらを返したように自由を教える先生にだまされたという感じもあって、身についたのが権威に対する反抗心だ。そのへんからへそ曲がりが始まった。

東大を受けて失敗。浪人中は音楽を聴いたり、絵を見る楽しみも覚えたが、とにかく懸命に勉強して次の年に合格した。しかし、頭のいいやつがいっぱいいるのに嫌気がさして、電気なんかやめようという気になった。そして、食糧事情がよくなかったし、ここなら食べられるだろうと思って農芸化学に決めた。好きで選んだのではなく、食うために入ったと言うほうが当たっている。

大学ではアマチュア無線に夢中。手作りの無線機しかない時代だった。

1958年、パデュー大学で。日本では珍しかったTシャツを着ている。

理化学研究所の研究風景。研究室にアルコールはかかさなかった。うまくいかないと、机の上をお酒で清めた。

コウジカビを溶かす菌の発見

大学院は、酒の研究で有名な坂口謹一郎先生の研究室だった。先生は、皇居の歌会始めの召人になられた文人だったし、味のある方だったが、ろくに研究指導はしてくれなかった。先生とはそんなものかもしれない。ただ、よく覚えているのは、微生物は、形一つとってみても、さまざまだということ、つまり生物の種の多様性を教わったことだ。今ではどこでも多様性、多様性だが、当時としては大事な指摘だった。

大学院のテーマはコウジカビの自己消化。コウジカビは日本酒の味がするはずだから、そこを研究しろと言われた。私としてはもう少しまともなテーマが欲しかった。方法も自分で考えろと言われ、じつはふてくされながら、いろいろなコウジカビを採ってきて三角フラスコで生育させ、なんとなく分析していた。

ある朝実験室に来てみると、そのうちの一本が、昨日までふわふわとした綿のようなカビだったのに、すっかり溶けて白濁している。意味はわからないけれど、何かが起きているに違いないと大騒ぎして研究室中を回っていると、「もしかしたらフレミングと同じ幸運かもしれないよ」という先輩がいた。おれの実験の腕はそれほど悪くないと抵抗したが、ひょっとして、と顕微鏡で見てみると、バクテリアが生えていた。これがカビを溶かしているかもしれないと、液を取り出してコウジカビに入れると見事に溶けた。天にも舞い上がる気持ちだった。

まさにフレミングと同じ。実験途中で、コウジカビを溶かすバクテリアが空気中から飛び込んできたのだった。しかも非常に運がよかったのは、1種類しか入っていなかったことだ。単離した微生物は、コウジカビを必ず溶かした。

そうなるといい気なものだ。「『ネイチャー』(イギリスの権威ある科学雑誌)に出すといいよ」とたきつける人がいて、知らないから恐れることなく投稿したら、通ってしまった。まさにセンディピティー。アメリカのコフラー教授(パデュー大学)から菌をくれという手紙がきたが、坂口先生は、「菌はやらない。お前が向こうで一緒に仕事をするならいい」とおっしゃった。私の将来を考えてくださったのだ。

翌1958年、コフラー教授のもとへ留学した。私が発見し、アメリカで研究した酵素はβ-1:3、グルカナーゼと名付けられ、ついこの間まで遺伝子組み換え用に使われていた。当時の日本では、そんなものでカビが溶けるはずがないとほとんど信用されなかった。『ネイチャー』を見る日本人は何人もいなかった時代であり、DNAもあまり話題になっていなかった。アメリカに渡ってみると、ワトソンの講演に大勢の人がおしかけ、ジャック・モノーのオペロン説の講演、ベンザーの生物物理の講義など、分子生物学が堰を切ったように新しい流れを作っており、それにじかに触れた私は、圧倒された。

留学中接した一人のドイツ人研究者ゴチュリンク博士が後の私に大きな影響を与えた。彼はハイデルベルグ大学で学位をとり、音楽にも美術にも文学にも造詣が深く、サイエンスはフィロソフィーの一部分であるから、サイエンスを研究するならフィロソフィーの勉強もしなければならないと話してくれた。それがヨーロッパ文化に深く根付いた考え方なのだと知って驚いた。彼の影響を受けた私は、研究を途中でさぼって、3ヶ月間ヨーロッパで美術館や寺院や音楽会めぐりをした。この時の気持ちこそカルチャーショックそのものだったと思う。

堀越博士が見つけた 極限微生物
古細菌。「微生物には丸いものもあれば長いのもある」と早くから種の多様性を説いていた坂口教授に、「三角とは言いませんでしたよね」と報告した。
好アルカリ性細菌
有機溶媒の中でも生育できる細菌。50%のトルエンの中でも平気

行き詰まり―再びヨーロッパ放浪へ

帰国後、理化学研究所に入ったが、カビの研究は生育させるのに時間がかかるので、方向転換を求めて1966年、再び海を渡り、カリフォルニア大学で枯草菌の研究を始めた。1年半して帰国したが、アメリカでできたことが当時の日本ではできなかった。30代半ばを過ぎてこのあたりで芽を出さなかったらどうしようもないと焦れば焦るほど何もできない。何をやっても面白くなかった。

1968年、世界を見てくると言って再びヨーロッパへ飛び出し、あてもなく美術館や教会をめぐり、建物と彫刻を眺めた。当時、外貨は自由に持てなかったし、日本人はほとんどいなかった。どういう生き方をしたらよいのだろう。こうやって、後世まで残るような絵画や建物を作る人がいるのに、今のおれは一体何をしているんだ。やっていることは結局人の物まねだ。

11月、フローレンスで一日中建物や絵を見、いい加減疲れてピティ宮殿の裏庭で夕暮れの街をボーッと眺めていた。今さらまったく新しい学問を作ることなんてできない。おれの一生はこれでおしまいかなと鬱々としながら街を見ているうちに、ふとこんな考えが浮かんだ。ルネッサンスのころ日本は室町時代。日本とフローレンスにまったく違った文化があった。お互い知らないからそうなったのだ。

微生物の世界はどうだろう。現在の微生物学は、100年前のパスツールに始まり、新しい微生物を探す時にも、pHや養分などの条件が決まっている。みんなそれを正しいと信じ、それ以外の条件は見ようともしない。本当にそうだろうか。もしかすると微生物にも違った文化圏があるかもしれない。変わった条件で生える微生物がいたなら面白いではないか。それはなんだろう。

これが始まりだった。私は、微生物の生存条件を考えてみた。じつは、少し変わった条件に眼をつける人はすでにいた。高温、低温、酸性は手をつけられていた。一つだけ、だれも気づいていない条件があった。アルカリ性で生育させたらどうなるか…。

サイクロデキストリン
分子模型。赤が酸素。白が水素、黒が炭素。
構造式。
サイクロデキストリンを使った商品の数々。

フローレンスの夕暮れ((c)PPS)

好アルカリ性細菌の発見

日本へ帰ると、フローレンスでの直感を頼りに、肉汁に炭酸ソーダをいれてアルカリ性にした培地を作り、理化学研究所の庭から土を採ってきてその中に入れ、37℃に保った。翌朝、透明だった20本の試験管がみな濁っていた。微生物が増えたにちがいない。しかし、だれも信用しない。なにせ夕べ酔っ払ってやったことだから、本当に炭酸ソーダを入れたかどうか。自分でも少しあやしかったのでpHを測ると、針は目盛り10を超えるところを指した。好アルカリ性細菌の発見である。

20本の試験管が全部濁っているということは、アルカリを好む微生物はたくさんいるということではないか。実際に調べてみると、日本中どこにでもいた。パスツールの実験書どおりに実験すると、培地は中性から酸性なので好アルカリ性細菌は生えてこない。それで、だれもその存在に気がつかなかったのである。

この細菌は、pH12という極端なアルカリ性でもタンパク質分解酵素を作ることもわかったので学会で発表した。大反響を期待したのだが、ものの見事にまったくない。報告を書いてもまるでだめ。私の人格がよくないせいじゃないかと笑うほかなかった。

パスツールの言葉に、「科学の進歩を一番遅らせるのは、こうあるはずだという考えをもつことだ」とある。そのパスツール自身が、微生物に対して示した指摘が、この研究の世界でネックになっていたのだから皮肉なものだ。へそ曲がりも悪くない。そう思うのだがどうだろう。

基礎研究から応用へ

ちょっと環境を変えただけで、驚いたことに新しい微生物の世界が出現したのである。その微生物は、それまで知られていなかった性質の酵素をたくさん作ることがわかったので、この酵素を使った応用研究をしようと決めた。

当面2つの酵素を探した。アルカリ性でタンパク質を分解する酵素(アルカリプロテアーゼ)と、アルカリ性でデンプンを分解する酵素(アルカリアミラーゼ)を洗剤に利用できないかと考えたのだ。始めて半年くらいで2つとも見つかった。とくに、デンプンをアルカリ性で分解する酵素は、世界中の人が一生懸命探していて見つからなかったものだった。新しい世界のもつ豊かな可能性を示すものであり、気分のよい仕事だった。

しかし、これらはみな商業的には失敗だった。アルカリプロテアーゼの場合は、ちょうど第一次オイルショックにぶつかって、経済活動が落ち込み、新規事業は抑制されてしまったのだ。今では世界中でこの酵素を使った洗剤が作られているが、残念ながら私の特許はもう切れてしまっている。

アルカリアミラーゼの場合も、洗剤用としての商品開発は中止になったが、この酵素の作用を調べているうちに、これがデンプンを分解してサイクロデキストリンという有用な化合物を効率よく作ることがわかった。これはドーナツ状に穴が開いていて、その中は疎水性なので油性のものを取り入れて分子カプセルを作る。中に入れるものを変えればいろいろな分子カプセルができて広く応用できる。実際に、生わさび、臭い取りのチューインガム、家庭用洗剤、シャンプーなどが作られた。今では身の回りの食べ物に多く使われており、アルコールの分子カプセルは防腐剤に取って代わった。特許料を研究費にできればよかったのだが、これも急速な商品化は特許が切れてからだった。

セルロースを分解するアルカリセルラーゼとうい酵素も採れた。これで人間の排泄物の繊維質を分解して、浄化槽をきれいにする研究をした。2年の苦労が実って、大成功。成績抜群だった。ところが、世の中は高度成長期であっという間に日本中が水洗トイレになってしまい、浄化槽は要らなくなってしまった。ただし、これには後日譚があって、あるとき洗剤会社の人がやってきて、5~6年そのままにしておいたアルカリセルラーゼを、洗剤に使いたいという。布を軟らかくして汚れを落としやすくするというのだ。この洗剤は今日本で一番よく売れているが、これもやっぱり、あっというまに特許の期限が切れてしまった。

科学技術立国とよく言われるが、基礎研究の成果を企業にまでつないでいくシステムが日本は弱いとつくづく思う。私個人の問題ではなく、日本の社会の問題として真剣に考えて欲しい。

英国バイオテクノロジー協会から金メダルが贈られ、ロイヤルソサエティで講演した。右はケント公。

「しんかい6500」(写真=海洋科学技術センター)

海洋化学技術センターで。「しんかい2000」で潜り、無事母艦に戻った時。

夢を食う男

フローレンスでのロマンティックな話から始まった研究だが、特許の係争に巻き込まれたり、人間の欲望の渦に入ったり。もうやりたくないと言って騒いだこともあった。個人の体験としていろいろなことがあったが、はっきり言えることは、この酵素の応用の成功は、世界的に大きなインパクトを与えたということだ。なぜアルカリ性でなければこれらの微生物が生えないのかを研究する新しい分野が開け、今は多くの研究者がこの問題に取り組んでいる。ひっくり返して言うと、なぜ多くの生物は中性でなければ生育できないのかということである。また、進化の中、これらの微生物はどのような過程でアルカリ性で生育できる能力を獲得したか。この中には、もっと違った性質の酵素があるのではないか。興味深いテーマだ。それと同時に、変わった条件下に棲んでいる微生物を見つけ、それを応用する新しい工業も生まれてきた。

フローレンスの夕暮れに感じた直感から30年。好アルカリ性細菌の発見が一つのきっかけになって、世界中で変わった微生物を探す研究が一つの動きになったのを見ると何ともいえない喜びを感じる。

海底にもいろいろな微生物がいる。1万1000mの深海というとんでもない極限環境にいる微生物を研究して、遺伝子資源、あるいは微生物資源として利用する研究。1000気圧という高圧下でなければ生育できないもの。110℃の高温を好むものなど驚くような生物がいるし、地下2000mを越える地中の岩石にも微生物はいる。次の問いは、地球外生命がいるかどうか。

稲わらを描いたモネの絵を見ると、稲わらが、赤に塗られていたり、黄色だったり黒だったりする。稲わらはかくあるべしという考えに縛られていたらこうは描けなかっただろう。そこにどう色を塗るか、どういう絵を描くか。キャンパスが描く人によって何色にも変わっていく。サイエンスも研究する人の感性によって大きく変わっていく。

サイエンスとはまた、直感とロマンと実行だと思う。夢を食う男と言われることがあるが、ロマンがない科学者になってしまったらおしまいだ。これからも、海の底から地球外生命まで、さまざまな生命現象を見ていこうと思う。まだまだ食いたい夢はたくさんある。

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98年1月に極限微生物の国際学会を主催したときのポスター。

堀越博士は、極限生物をテーマにした科学誌“Extremophiles”をドイツで創刊し、そのチーフエディターを務めている。