幼少時代: 昆虫ハンティングと戦う遊び
父は大阪大学の医学部第三内科の出身で公衆衛生医をしていました。母方の私の祖父は阿波藩の御殿医家系で阪大医学部の1期生だったと聞いています。1954年、大阪の保健所に父親が勤務していた頃、長男として生まれました。その後は高知県や福井県へと父の異動で転々としました。母も本当は医者になりたかったけれど、女性がなるのは難しい時代だったようです。両親とも医者の家系でしたが、母から私が医者になることを強要されることはありませんでした。
高知の保育園児だった頃には昆虫採集に目覚めていたと聞いています。また、福井にいた幼少期はお城の跡地にトノサマバッタなどたくさんの昆虫がいたので採集に凝っていました。今でいうところのビオトープを庭に作って、バッタを放し飼いにしたり、川でフナを捕っては放流したりしていました。高知や福井で自然に恵まれていたこともあり、幼いころから自然と親しんだ生活をしていました。
父が厚生省に異動となり、小学校に入る頃には文京区での生活が始まります。東京の真ん中ではありましたが、住んでいた小日向台町は自然に恵まれた環境でした。お寺も多く、チョウ・セミ・トンボ・タマムシの採集に情熱を燃やしていました。ただ、昆虫少年として標本を収集するという趣味は強くなく、虫捕りハンターといった感じでした。日没前に現れるオニヤンマを確実に捕獲できる角度で待ち伏せして捕るとか、木にとまっているミンミンゼミを見つけたら瞬時に葉の形状や間隔を見抜いて、セミに察知されることなく素早く捕虫網で捕まえることに命を賭けていました。ハンティングの失敗と成功を繰り返すことで、生き物の動きや気持ちを理解して確実に捕らえることに凝っていました。家の近くに鳩山邸(現・鳩山会館)があったので、春の陽だまりに集まって来るカナヘビ捕りや落葉した後に見つけられるようになる冬に、蛾の繭採りに行っていました。また、鳩山邸は音羽の谷と小日向の台地の間の斜面にあったので缶蹴りをするには最高にスリリングで、若手の政治家が勉強会をやっている横でカランカランと缶蹴りをやって、よく怒られていたことを憶えています。缶蹴りで樹木に隠れる時には、樹木の形状に合わせてどのような姿勢で自然と融合するのかを常に考えながら隠れている少年でした。
小学時代の典型的な遊びといったら、独楽回しと野球でした。小日向神社で10人くらいの仲間を集めて2チームに分けて、独楽回しでの対決です。回っている独楽を手に乗せて、地面で回っている相手の独楽を爆撃して独楽の息の根を止めるのが快感でした。高速で回っている独楽を手の上に乗せても手に穴が開かないように、独楽の心棒を神社の土台の石でつやつやに磨いて、いつも怒られていましたね。当時は小日向神社からは後楽園のカクテル光線を観ることができました。ある日、小日向神社で野球をしていて、アウトだセーフだと喧嘩していたら「うちのお坊ちゃまに野球を教えてもらえませんか」と言われて、ついて行ったらその坊ちゃまは中村勘九郎(五代目)でした。ずっと歌舞伎漬けで、外で遊んでいる僕らに憧れた勘九郎に野球を教えることになったんです。他にも、服部半蔵の旧屋敷跡の斜面で、泥団子ぶつけとかをやっていました。水雷艦長といい、戦うスポーツがわれわれの遊びの基本でした。これらの原体験がその後の自然とスポーツを人生の二大テーマとした素地となったような気がします。

高知の保育園児だった頃。クロアゲハを捕まえて満足気な様子。
中学時代: 京都への憧れと『遺伝子の分子生物学』
母方の親戚はみんな京都だったので、夏休みは必ず京都に行きました。母の兄、私の伯父一家は京都の丹波橋に住んでいて、息子が3人いました。私には2歳上の姉が1人いましたが、この従兄の3人が私の5、6、10才上の、お兄さん的な存在でした。京都でも伯父や従兄に頼んで、東京で経験したことのないクマゼミ採りに連れっていってもらっていました。クマゼミほど手応えのあるセミ・ハンティングはありませんでした。東京の連中に見たこともないクマゼミを自慢したくて、伯父に聞いてお湯で眠らせてから新幹線に乗ったことがあります。ところが途中でクマゼミが目を覚まして新幹線の中で何十匹もがシャンシャンと大合唱を始めて肝をつぶしたことも苦い思い出として残っています。
京都の伯父と3人の従兄は全員サッカーをやっていました。伯父は登山もやっていました。その影響もあり、中2の春からは山登りを始めて、時間がある時には奥多摩の山々を次から次へと制覇していました。従兄達はエルヴィス・プレスリーやビートルズのレコードを聴いていて、東京では味わうことの無かった人生のテイストを京都で味わったことは、その後の自分の人生に大きな影響を与えてくれました。
そして、中学生になった時、京都からザ・フォーク・クルセダーズという音楽グルーブが『帰ってきたヨッパライ』という曲で衝撃的なデビューを果たします。東京ではありえない発想のハチャメチャな曲で、どうやったらこんな発想の曲が生まれるんだ!? 京都には未知との遭遇を体験させてくれる何かがあるに違いない!と感じたことは間違いありません。そして、『イムジン河』の発売禁止ののち、『青年は荒野をめざす』というレコードが発売されます。五木寛之の作詞に加藤和彦がメロディーをつけるのですが、後に、私が東京から離れて一人で京都に乗り込む時のイメージと重なる楽曲となりました。京都の方には失礼だけど、ザ・フォーク・クルセダーズみたいな意味不明な人たちが育つ<京都という荒野>に、1人で東京から乗り込んでいく気概を私に惹起した楽曲でした。
中学生時代、暇な時は神田の古本屋街に行っていろんな本を見て回りました。もともとは物理・化学少年で、ブルーバックスの物理化学シリーズや量子力学などを読んでいました。神田の書泉のブックマートというのができた頃、店の外に山積みになっていた『遺伝子の分子生物学』という本を手にしました。これが1968年、中学3年の時です。生意気ですよね。ジェームズ・ワトソンが書いた『Molecular Biology of the Gene』という本の、松原謙一さんと中村桂子さんと三浦謹一郎さんの監訳です。今まで博物学だったものがサイエンスとしての生物学になるということを、この中学生の時に感じ取っていたということになります。時代は変わるんだ、生物学の時代は変わるんだと。

高校時代: サッカーと過疎研究
1970年に東京教育大学附属高校(現 筑波大学附属高等学校)に入学し、京都の伯父と従兄らがやっていたサッカーというものが気になっていたので、サッカー部に入りました。今の東京12チャンネルができた頃で、その目玉番組として『三菱ダイヤモンド・サッカー』が始まりました。1970年のワールドカップの、予選から決勝に至るまでの全試合を1年以上にわたって放送していた番組で、世界にはこんなにも違うサッカーがあるのかということを目の当たりにします。最終的にはペレのいたブラジルが優勝、3度目の優勝で“ジュール・リメ杯”というワールドカップを永久保持します。そういう歴史的なワールドカップの全試合をテレビで観戦し、おかげでサッカークレージーになりました。
高校1年の時には過疎の研究をしました。米山俊直さんという京都大学の教授が『NHKブックス』で十津川という奈良の山奥の過疎について書かれていて、その研究をしようと私を含む同級生3人とで奈良の大塔村に行きました。夏の暑い時期に、五條からバスに乗って、つり橋を渡って、斜面にある家に泊めてもらい、五右衛門風呂に入りました。その家に犬みたいなのがいたのですが、よく見たらタヌキで。ちゃんと首輪をつけて、タヌキを飼っていて驚きました。この時の過疎研究で、日本の構造的・経済的な問題はあるにしても、子どもたちが故郷へ帰って来たくなる環境になっていないことも過疎の要因の一つだと感じました。議員さんたちは選挙権のあるお年寄りの言うことには耳を貸すものの、選挙権のない子どもに貸す耳はもたない構造的な問題もあると。この時の過疎研究の経験から、後に相生の農村地帯に少年少女のスポーツクラブチームをつくり、子どもに投資するとどうなるかということにチャレンジをすることとなります。
高校時代の奈良での過疎地研究は、その後農村地帯にスポーツクラブを設立し、三〇年以上運営することにつながった。(本人:右から二人目)
高校時代から現在まで、サッカーは人生で重要な存在に。(京大時代のゼックストンフットボールクラブでのワンシーン)
再生の研究者をめざして
高校3年生の時に神田の古本屋街で『自然』という雑誌に出会って、両面見開きのページに、京大の理学部に生物物理学教室の新しい教室ができたという紹介記事が書いてあったんです。2階が細胞レベル、3階がバクテリアやタンパク質レベルで、4階が分子・原子レベル、5階が数学や物理理論で生物学にアプローチするという、斬新なものでした。2階の細胞レベルのところに岡田節人さん、3階のバクテリアレベルのところに小関治男さん、タンパク質レベルのところには丸山工作さん、4階に分子・原子レベルの吉沢透さんと大西俊一さん、5階に理論物理学の湯川秀樹さんの門下生である寺本英さんがいると。それで、どんなところだろうって、高校3年の時に新幹線に乗って京大の生物物理学教室に潜り込みました。片っ端から部屋を開けていたらある所で授業をやっていたのです。潜りの高校生とばれないように襟を立てて入って、一番後ろに座りました。そしたらその授業が、大学院生向けの集中講義で。九州大学の山名清隆さんが、アフリカツメガエルを初めて見る大学院生に、これが新しいモデル生物ですと言って実物を見せながら、その卵を使ったRNAの転写制御の授業をやっていたのです。そのチューターが岡田節人さん(当時は京大・生物物理学教室の初代教授、後にJT生命誌研究館の初代館長)でした。この時初めて岡田さんの後ろ姿を見るわけです。授業中、パイプを吸っていました。その授業の中で『細胞の社会』という本の紹介があって。その『細胞の社会』で、イモリのレンズの再生について読んでしまったために、サッカーに代わる、わくわく感があるものとしてイモリのレンズの再生に燃えることになります。何たって、光を通さないように働いていた黒眼の細胞が、レンズが失ったことを感知して、逆に光を通す透明なレンズ細胞に変身(分化転換)してレンズを再生するのですから。そんなことができるなら、どんなものでも再生できるようになるのでは!となったわけです。それまでは、大学には行かずに職人になろうかとも思っていたのですが、この本を読んで、大学へ行って再生の研究者を目指そうと決意して、京大を受けることになります。
1972年11月24日初版の『細胞の社会』(講談社)。再生の研究者を目指すことになったきっかけの本。
あしたのための体質改善
1年目は受験に落ちて、自分との戦いが始まりました。研究者になるには自分の体質改善が必要だと思ったのです。中学の時はほとんどオール5で、極めて優秀な優等生でしたが、試験前にしか勉強しませんでした。しかし、研究者になるためには自分が面白いと思って、自分で勉強をやらなくてはいけない。良い成績を取るために勉強をするという姿勢から、自分を磨くために勉強するようにシフトしないと大学へ行っても意味がないだろうと。浪人1年目は、朝夕刊の配達と集金までやっていたので、疲れているし、もやもやしたものが常につきまとっていました。年に何回かある休刊日には朝刊を配ってから山に行き、山に泊まって翌朝に縦走を終えて帰ってきて夕刊を配るという熾烈な生活を強いて、自分を追い込むストイックな生活をしました。『少年マガジン』で連載していた『あしたのジョー』にも影響を受けて、2年目の浪人の時には自分を磨くために、あしたのために基礎からきちっとやりました。午前中は英語と国語を、午後に数学と理科をやる。新聞配達は辞めて、自分のために勉強するという精神を身に付けて、あっという間に偏差値は40から50、60となって最後は70で安定しました。日本史が好きだったので、理系なのに駿台の全国模試で全国1位を取りました。「面白いと思ったら自分でやる」という姿勢をこの時に身に付けた2年間は私の人生のターニングポイントとなり、京大の理学部へもスムーズに入ることができました。
泥酔の末プラナリアを知る
1975年、いよいよ京大に行きます。入学式の後の教務ガイダンスで261人の新入生相手に、なんと岡田節人さんが教務委員長として理学部の単位について説明していました。説明が終わってみんなが帰る中、私が岡田さんに「再生の研究がしたくて京大に来ました」と言ったら、細かいことは一切聞かずに、おもろいやつが来たと言って、「じゃあ研究室にこれから帰るからおまえ連れてくわ」と岡田研究室に連れて行ってくれました。
その日の夜に、研究員の安部真一さんという人がスナックに飲みに連れて行ってくれました。渡辺憲二という人のボトルを空っぽにしてしまって、ウイスキーなんかそんなに飲んだことがないから、酔い潰れてしまったんです。居候していた丹波橋の伯父さんの家に帰れなくなって、ボトルに書かれていた渡辺憲二さんの家に泊まることになりました。翌朝起きたら部屋中に花札やら麻雀牌、点数表が散っていてあまりにも汚かったので、一宿一飯の恩義で部屋を片付けて帰るんですが、片付けていた時、本棚の『Planarian Regeneration』という本が目に入りました。Holger Valdemar Brøndstedという人が書いた有名な本です。この時に、プラナリアという存在に出会いました。こんなやつもいるんだ、と印象に残っています。

先輩たちの技術指導
京都大学に入って1年目から岡田研に入り浸りました。特に1年目は、学費値上げ闘争があって、ストでほとんど授業がありませんでした。試験もないから、レポートだけ出せば単位になる。先生も、学生がストをしてくれた方が、授業も試験もしなくて研究に専念できるという感じでした。学生も誰も文句を言わない、先生も文句を言わない。試験も無く誰もがハッピーというのが京大でした。
昔は教授1、助教授1、それから助手が2名、技官が1名と、5人で1つの研究室を構成していたんですね。岡田節人教授、江口吾朗助教授、安田國雄さんと竹市雅俊さんの二人が助手で、それに岡本光正さんという技官の方がいました。研究室には、さらに秘書の方がいて、あとは大学院生と研修生です。院生も曲者ばかりで、ボトルを飲み干して泊まった部屋の渡辺憲二さんも4月までは岡田研の院生だったらしく、それに上田正道さん、浜田義雄さん、荒木正介さん、後に粘菌の研究をされて筑波大学の教授になられた漆原秀子さんらがいました。それに私を酔い潰してくれた研究員の安部真一さんがいました。
学部生時代の四年間は、大学院生たちが扱う動物の飼育を一手に引き受けて世話をしていました。イモリ、ゼノパス、マウス、ラット、チャイニーズハムスター、ウサギ。今思うと大学院生には大助かりだったでしょうね。動物の糞を90Lくらいの大きなバケツに貯めて、リヤカーに乗せて農学部の畑の近くの牛とか馬の糞を集めているところに持って行って捨てるのですが、板が一枚だけのところを踏み外してずぼっと糞の中に入ってしまうという、とんでもない経験もしました。臭い、汚い飼育室を水洗化して飼育環境を良くする工夫をして。飼育室に顕微鏡を持ち込み、カエルやイモリの初期胚の観察を岡本さんに教えてもらって、一日中発生の観察をしていました。
江口さんは真面目な人で、イモリのレンズの抜き方を伝授してくれました。当時はメスが高いから、片刃の貝印のカミソリを割って、グラインダーできれいに背中の部分だけ研いで、それを角膜に差し込んでぴっと切って、レンズをピンセットで抜く。角膜をいかにきれいに切開するかを教えてもらいました。安部さんには、イモリの野外採集を教わり、細胞培養のためのイモリの血清を集める手伝いをしていました。オヒデさんこと漆原さんからは、シャーレやピペット洗浄の仕方を習い、培養プラスチックに負けない乾熱滅菌したガラスシャーレの作り方を学びました。竹市さんには細胞の接着と解離の仕方を習いました。組織の細胞をばらばらにする方法については竹市さん直伝です。ストで授業がない頃は、岡田研に朝の8時半に通って、院生の浜やんこと浜田さんに、分子生物学の英語の教科書を一年かけて勉強させてもらったことが特に大きな糧となりました。『Molecular Biology of Eukaryotic Cells』、真核生物の分子生物学という本があって、大学2年の時から浜やんとマンツーマンで演習問題に取り組んで、英語の勉強にも分子生物学の勉強にもなりました。
院生の先輩方には食事にもよく連れて行ってもらって、先生の悪口を聞いたりして。そうやって、教養学部から大学院に行くまでの間に、たくさんの先輩方からいろいろな技術や院生の生き方について伝授していただきました。
院生の荒木さんは“理岳会”という山登りの会を作っていて、そこに私も入れてもらいました。厳冬期の鹿島槍に連れて行ってもらって、東尾根から登頂して、まさかの鹿島槍の北峰から40メートル、ザイルで懸垂下降するというとんでもない経験もさせてもらいました。
「理岳会」という山登りの会に入り、厳冬期の鹿島槍へ。登山用のロープで四〇メートル懸垂下降するというとんでもない経験をした。
カルチャーショック
一番強烈だったのは何といっても岡田節人さんです。ある日たばこの灰が落ちかけていたから、灰皿で受けるように差し出したんです。普通はありがとうって言うじゃないですか。岡田さんは違います。「そんなことに気を遣うやつはサイエンティストとして大成できない」って言うんです。これは驚いたけど言い得て妙な部分があって。教授は大学院生にバズーカを渡して、そのお城を攻めろと言っているのにもかかわらず、学生たちはシャベルでお堀に土を入れて埋めて汗かいて、しんどいしんどいとやっている。やっている気になっている。教授はバズーカもミサイルも渡しているのに、おまえらは一生懸命やっていると言う、と。
あと、岡田さんが、おまえこれどう思う?と聞いてきたら、東京で育った私はこういう考え方もあるし、こういう考え方もあります、みたいな事を言うわけです。そうすると、岡田さんが怒って、「おまえはいつもええ子ちゃんぶってる。それはみんなに嫌われないようにしているだけで、どっちの味方か分からん。それは官僚のやること、官僚の文化である」って言うんです。関西では0と100の人が話をして、それを聞きながら自分が60、40なのか、30、70なのか考える。それが人間の姿であり、それが人間の会話であると。一方、嫌われないために灰色になってしまう会話をするのが東京の文化であり、これは何も生まないと説教されました。
私はサイエンティストになる前は職人に憧れたという話を岡田さんにしたことがあって。その時に岡田さんが何を言ったかというと、おまえは職人とサイエンティストの違いを知っているかと。伝統工芸の師匠が30年かけたものは、お弟子さんも30年かけて経験を積んでいくのが職人の世界。サイエンティストは教授が30年かけたことを1週間、7日で教わり、残りの29年と358日を新しいことに使わなくてはならない。そうしないとサイエンスは進まない、と。要するに、教授は30年やった研究を、ちゃらんぽらんな若造に1週間で教えなきゃいけない。サイエンスは非情なのだ、と言うのです。おそるべし岡田節人。私の常識の範囲を完全に越えていました。大学受験で2浪して鍛えた私の精神性は、岡田節人さんによって完全に粉砕されました。
入学してすぐ、1年の時から岡田研に入れて、岡田さんを筆頭に東京ではあり得ないくらいキャラクターの濃い人たちと接して。京都に来た時のカルチャーショックは強烈でしたね。
大学院へ進学した時の岡田研のメンバー。左から岡田節人教授、近藤寿人助手、竹市雅俊助教授。
レンズ研究の出帯禁でプラナリアの道へ
1979年に大学院に進学すると、レンズの分化転換について本格的に遺伝子レベルでの研究を開始します。そして、1983年の博士3年の時に、基礎生物学研究所の教授に就任した江口吾朗研究室の助手になり、博士学位を取るとともに、イモリのレンズ再生の遺伝子レベルでの解析に取り組みました。そして、酒とともに、また人生が動きます。一九九〇年、江口研の忘年会で、当時江口研の助教授だった渡辺憲二さんから「四月から姫路工業大学の教授になるので、阿形も一緒に助教授として来ないか」と言われました。江口さんの許可を得ていると言うので受けることにしましたが、江口さんはそんなことは言った覚えがない!と。助教授と助手が揃って抜けるなんて許せないということで、レンズの再生のテーマは持ち出し禁止になりました。さてどうしようとなった時、渡辺さんの部屋で読んだ本を思い出し、「プラナリアの再生はどうか?」と提案しました。レンズ再生の研究が禁止になったことで、私たちの新天地、プラナリアの研究がはじまったのです。
姫路工業大学の理学部新設時のメンバー。(右から本人、渡辺憲二教授、Prof. Volker Schmid、織井秀文助手)
切っても切ってもプラナリアができる分子システム
姫路工業大学では、世界で初めて実験室で増やすことに成功した、GIというプラナリア株を使いました。渡辺さんが岐阜の入間川で採ってきた1匹から無性生殖(fission: 分裂)によって増やしたものです。私たちは、プラナリアのさまざまな細胞の分子マーカーをとっては、「細胞の社会」というコンセプトで、プラナリアの再生を細胞レベルで詳細に観察したのです。プラナリアにはある一定の大きさになったら自分で分裂して増え、また、10個に切ったら10匹になるという性質があります。プラナリアでもイモリと同じように細胞の分化転換能力があることで高い再生能力が発揮されるに違いないと渡辺・阿形の二人とも思ってプラナリアの再生研究をしていたのですが、どんなに分子マーカーを用いても分化転換は観察されませんでした。古くから、プラナリアは成体になっても、あらゆる種類の細胞になれる多能性幹細胞(neoblastと呼ばれる)を持っていることで高い再生能を保持していると考えられてきたのですが、結局、多能性の幹細胞を細胞選別装置(FACS)で精製することに成功し分子マーカーを取得したことで、われわれは分化転換屋さんから幹細胞屋さんへとシフトすることになります。そして、山中伸弥さんがiPS細胞(成体の分化細胞を幹細胞へリプログラミングした細胞)を作ったことで、人々はプラナリアが多能性幹細胞を使って切ったところからどうやって必要な場所に必要なものをつくるのかに着目するようになります。そして、われわれは「体の個々の細胞には番地みたいなものが付いていて、異なる番地の細胞が接すると途中の番地を埋めるように多能性幹細胞が反応することで再生が起きる」、すなわち、プラナリアは失われた部分のうち、まず先っぽの番地の細胞を作ることで、残っている細胞との間を埋めるように再生していくことを見出します。個体という多細胞生物の「細胞の社会」はこの座標のようなシステムによってコントロールされていることをプラナリアの再生研究から示すことができました。

岐阜県の入間川で採取したプラナリア株 GI
まず先っぽの細胞を作り、残っている細胞との間を埋めるように再生する。

絵本『切っても切ってもプラナリア』(岩波書店)
再生医療の提唱
一九九四年に『細胞工学』という雑誌で、『再生による治療の道を探る』という特集号を作りました。冒頭にはこう書いています。「(前略)高齢化社会を迎えた現代において、再生による組織や臓器の治療は大きな付加価値があると思われる。単に悪いものを治すという考えから一歩進んで、若返るという意味も込められている。不老不死までとは望まないが、せめて細胞のリフレッシュメントができればと思う方は多いのではないだろうか。ビールや酒を、体に良いわけがないと思いながらつい飲んでしまうが、再生する肝実質細胞のおかげで、細胞のリフレッシュメントと同時に精神のリフレッシュメントもできているのである。潜在化している再生能力を引き出して、いろんな組織を治療するとともにリフレッシュしてしまう。ひと仕事、定年後には、まず再生で細胞のリフレッシュメントを行ってから、身も心も新しくて第2の人生を復活させる。そんな時代もいいじゃないか」。この特集を見て最初に反応したのは京大の医学部長だった本庶佑さんと思われます。結核の研究所である胸部疾患研究所を再編成するためのアイデアとなったようで、「再生」の名を冠した再生医科学研究所をつくるきっかけの一つとなり、再生生物学が再生医療へと繋がり、全世界へと広がっていきます。
皮膚の細胞から、卵、精子が作れるとんでもない時代がやってきました。幹細胞である受精卵は自律的に位置情報をつくり、あらゆる細胞をつくりながら個体を形成していきます。一方で、ES細胞やiPS細胞といった幹細胞は、あらゆる細胞になれるものの、座標を自分では作れないので正常な個体へと成長することができないのです。細胞の社会には座標、位置情報システムがあり、プラナリアにもヒトにも座標をつくる遺伝子プログラムが備わっています。どのように発生をコントロールしているのかという点で、プラナリアの研究が注目されるようになったわけです。必要な場所に、必要なものを作る。プラナリアで示した細胞の位置情報のコンセプトとその分子メカニズムが、ヒトを含む多細胞生物の位置情報の理解をより深め、再生医療の未来へと繋がっていくことを期待しています。
プラナリア研究がもたらした意外な幸運
2023年にプラナリア研究の業績が評価され文化功労者として顕彰されました。その時の文化勲章の受賞者が元日本サッカー協会会長の川淵三郎さんで、皇居で開催された懇談会でお話しすることができたのです。川淵さんは、私にとって神様みたいな存在なので、大興奮。Jリーグ100年構想で全国にスポーツ文化を根付かせるという川淵さんのアイデアに共感して始めた30年以上の農村地帯での活動を、想像もしない形で伝えることができました。ご自身のSNSに、「Jリーグ理念の具現化にずっと地域社会で活動されていたことの話をお聞きして深く感銘を受けた。本当に嬉しかった。」と書いていただき、こんなに幸せなことはないと思いました。プラナリアとサッカーという人生で重要な2つがこのような形でつながる日が来るとは。再生医療で自分の膝も治療して、ずっとサッカーをプレーしたいですね。


1994年に兵庫県相生市矢野町にある小学校を全面天然芝化し、矢野スポーツクラブを創設。2025年の現在も新幹線で通い、監督としてクラブを運営している。







