生きものと物質
私はもともと物理学の出身です。生物物理学という新しい学問に魅かれた時も、物質を理解するように生物を理解できると思っていました。多分多くの生物物理学者がそう期待したはずです。生命活動を担う物質の代表であるタンパク質に興味をもち、まずは物質としての特徴をできるだけ正しく知ろうとしました。しかしその研究が進めば進むほど、生物の歴史と共に進化してきた「生きものらしい」物質としてのタンパク質が気になりました。そう思って生物の側から見ていくと、今度はタンパク質の生きものらしさをより良く知るには、やはり物理化学の手法が必要だという気持ちが強くなるのです。こうして、物理学と生物学の間をいったりきたりの研究を続けてきました。
私にとっての生物物理学は、ある時は物理化学の法則に従うものとしてのタンパク質を、またある時は生きものらしさを象徴するものとしてのタンパク質を通して生物を理解しようとする試みなのです。
数学の先生に物言い
終戦の年には幼稚園でした。小学校に上がった時はスミ塗の教科書、翌年は表記がカタカナからひらがなに変わりました。いろんなことがころころ変わった時なので、子どもごころにも世の中の矛盾が見えてきました。それにもともと理屈っぽい子どもだったのでしょう。女の子なんだからとか、言わなくてもわかるでしょうという言われ方は大嫌いでした。納得できないことはいやで、論理に憧れたのです。中学に入ると、論理がしっかりして答えがぴたっとでる数学が好きになりました。学問の世界はいいなと思ったのも、高校の数学がきっかけ。平面の幾何学から空間幾何に進んだ時、「2つの直線が交わらない」という平行線の定義がどうなるか気になって先生に質問しました。この定義だと、空間の世界では交わらない限りどんな位置関係にある2直線でも平行ということになりますよね。この疑問をぶつけたら、普段は怖い顔をしている年配の先生が、ほうほうとにこやかになり、「これは物言いがついたな」と笑いながら答えてくださいました。どのような解説をされたのか今では思い出せませんが、疑問をもつことが評価るという実体験ができたことが嬉しかったことはおぼえています。
数学から物理に転向したのは、ソ連の人工衛星の影響です。「スプートニクショック」スプートニクショック1957年、史上初めての人工衛星打ち上げにソ連が成功し、冷戦状態にあった西側諸国に衝撃をもたらした。 として西側世界に衝撃を与えたわけですが、私も刺激を受け、純粋な数学よりは応用が利く物理学を学びたくなりました。ところが私の母はどちらかといえば昔風の人で、女が大学に行くなんてと思っていたようでした。そこで、お茶の水女子大学は女子高等師範学校だったのだから将来は教師になれる、お母さんも女学校時代はここを出た先生に習ったんでしょと説得し、認めてもらいました。父を早く亡くし、妹と私をいっしょうけんめい育ててくれた母を少しでも安心させたかったのです。お茶の水女子大理学部に進学することを数学の先生に報告したら、「よかったよかった」ととても喜んでくださいました。どうしてそう言ってくださったのか、今でも分かりませんが、ひょっとすると私は共学よりも女子大に向いていたことを見抜いていらしたのかもしれません。
物理学から生物物理へ
物理学科は12名の少人数クラスでした。女子大の存在意義が昨今では特に論議されていますが、自分の原点を振り返ると4年間の学部教育を女性だけで鍛えられたのはよかったと思っています。女性だけだとお互いを評価する目が厳しくなり切磋琢磨しますし、しかもそれと同時に同性だけの集団の気楽さもありのびのびとできました。ここで物理の基礎をみっちり学んだことは私の財産です。物理学の体系を身に付けたという実感をもつことができ、どこに行っても通用するという自信をもつことができたのです。 あるとき集中講義に、名古屋大学の大沢文夫教授(現名誉教授)が来て下さいました。日本の生物物理学の草分けで、当時取り組んでいらした筋収縮のメカニズムや、解明されたばかりのDNA二重らせん構造のことなどそれまで聞いたこともない話をして下さって面白かったですね。フランシス・クリックフランシス・クリックイギリスの分子生物学者。DNAの二重らせん構造の解明により、ワトソン、ウィルキンスらとともに1963年ノーベル賞医学生理学賞受賞。2004年7月死去。やライナス・ポーリングライナス・ポーリングアメリカの物理化学者。化学結合論、タンパク質立体構造の解明、分子進化概念の提唱など、多方面に活躍した。ノーベル化学賞、ノーベル平和賞受賞。、そして大沢文夫さんといった物理学者や化学者が生物学の問題に取り組んでいることにも衝撃を受けました。それで、生物物理学を勉強したいと思い、大学院への進学を決心して名古屋大学に行きました。
大沢さんは寺田寅彦寺田寅彦地球物理学者、文筆家。墨流しや線香花火などユニークなテーマの物理現象に取り組んだ。東京帝国大学教授。の孫弟子にあたる方で、自分は正統な物理学をやるつもりはないと宣言して生物物理を始められたのです。寺田門下らしく、自然現象をじっくり観察してそこから独特の理論を立てる方で、そういうところに憧れました。研究室で取り組んでいたのは筋収縮でしたが、私はいきなり複雑な生命現象に取り組むのでなく、基本から始めたいと思いました。そこで、高分子電解質の解析手法を応用し、アミノ酸がつながった単純な分子の電気的な性質をまず調べようとしました。大沢さんは理論家ですが、理論も実験も両方できるのが大事と常々おっしゃっていました。しかし私は精密な測定が苦手で、1日かけて実験器具を洗浄し、おそるおそる高価な試薬や試験管を使うのは向いていないのです。それに気づいたのが最初の挫折です。研究者になりたいと思っていましたが、将来結婚して家庭を持った時に朝から晩まで実験を続けるのは無理そうだという気持ちもありました。正直に悩みを大沢さんに打ち明けたら、早稲田大学の統計力学の先生を紹介してくださり、博士課程からは早稲田で理論研究を行いました。
東大で素粒子論を専攻していた夫(郷信広・現日本原子力研究所、奈良先端科学技術大学院大学客員教授)も、博士課程から小谷正雄先生(東京大学名誉教授、東京理科大学名誉教授。故人)の生物物理講座に移り、和田昭允先生(東京大学名誉教授、現ゲノム科学総合研究センター特別顧問)の助手になりました。本人は、通子に生物物理学を偵察させていたんだと格好をつけて言っていますが、私が名古屋大でやっていたことが気になって、自分もやりたくなったというのが本当のところだと、私は思っています。いずれにしても夫婦で生物物理に惹かれたというわけですね。
生体分子を計算する
博士課程では、溶液中の核酸が取りうる立体構造を統計的に解く数学的手法を開発しました。といっても対象は自然のDNAではなく、人工的に合成した単純な塩基構成の核酸モデルです。当時、DNAが遺伝物質の本体だということは分かっていましたが、塩基配列の並びなどは全然分かっていませんでしたし、DNAの立体構造と遺伝情報にどんな関係があるのかもわかりませんでした。科学は、その時に用いることのできる手法で新しい事柄を理解していくものです。電子の振る舞いを量子力学が解いたように、DNAの振る舞いを知るには統計力学の手法が有効ではないかと物理学者が考えるのはごく自然なことでした。それまでに物理化学が扱ってきた高分子から、生体分子である核酸やタンパク質へと移る過渡期だったのです。今は「バイオ」と名が付けば科学のあらゆる領域が関わってきますが、当時の生物物理は生物にどうやって取り組めばよいのか手探りしている時代でした。
私の研究も当時の生物物理の流れに沿ったものでしたが、溶液中のDNAを様々な構造を持つ集団ととらえ、その状態を数学的に記述した方法は統計物理学の分野で高く評価されました。しかも論文は私一人の単名で出したものでしたので、これ一つで学位審査もすんなり通りました。同じ問題を異なる手法で解決したフランスのド・ジェンヌ博士はその後ノーベル物理学賞を受賞しましたが、彼は日本の無名の研究者が同じ結果を出していたことを非常に気にしていたそうです。それを聞いた時はちょっと惜しかったなと思いましたが、結局私はそれっきりでその分野から離れたのです。
生体分子の振る舞いを数式できれいに記述するのは、言うなれば美意識の問題です。コンピュータを使えば膨大な計算ができ、そこそこの近似値が出せるわけですから、その時間を人間は人間にしか考えられないことを考える方がいいと割りきりました。数学は好きでしたが、それをがりがりとやるのは中学の時の延長のような気がして、自分としてはあまり進歩していない気分だということもありました。モデルでない実際の生体分子を扱ってみたくなり、多様な構造が機能と密接に結びついているタンパク質に目を向けました。大型コンピュータが思う存分使える生物物理学の研究室は残念ながら国内にはありませんでしたので、タンパク質の物理化学の先駆者であるコーネル大学化学科のハロルド・シェラガ教授の元に、夫と二人でポスドクとして留学しました。
Go! Go! Scheraga!
渡米を決心した理由は実はもう一つありました。自分が研究者としてやっていけるかどうかを見極めたかったのです。日本にいても女性研究者に職はなかったので、だったら先端をいくアメリカで自分をためしてみようと思いました。気軽に海外旅行ができなかった当時は、発表された論文をめぐって著者と手紙でやり取りとりをしたものですが、それを読むとみんなとても頭のいい人に見えるのです。そこでもまれてみれば自分の実力がはっきりわかるだろうと思ったのです。
アメリカで始めたのは、タンパク質の立体構造を考える上での基本となる、アミノ酸どうしの相互作用の解析です。最初から複雑なアミノ酸組成のタンパク質を計算するのは難しいので、一種のアミノ酸だけがつながった人工高分子をモデルとして使いました。ただし大ざっぱに相互作用の条件を決めず、アミノ酸を構成する原子のレベルから計算しました。これは普通の物理化学ではやらない計算ですが、タンパク質を構成する20種類のアミノ酸ごとに相互作用の特徴は異なるはずで、そこをいい加減なパラメーターの設定で済ますわけにはいかないと考えたのです。アミノ酸の原子組成を考慮した計算式を作り、ある程度数式を展開したら後はコンピュータに計算させました。夫の信広は量子力学を使った理論的な研究をしていましたが、ある時シェラガが二人の得意分野を合わせて共同研究をしてみないかと提案しました。それまで一緒に仕事をしたことは無かったのですが、これがうまくいって論文をたくさん書きました。ちなみにアメリカの研究室は、夫婦のように利害関係のあるポスドクを一緒に雇うことは普通はしません。二人が組んで何か不正をはたらくのを避けるという性悪説から来る発想なのですが、シェラガはそういう考えはなかったようです。シェラガ研での論文発表の著者名はGo,Go,Scheragaとなり、シェラガは語呂がいいと笑っていましたね。「こうやって名前を並べたかったから二人を雇ったんだ」とよく冗談を言っていました。
地味な仕事だったかもしれませんが、思う存分研究ができた3年間でした。大勢いた同僚ともよく議論し、自分の持っている力と相手の力を知ることもできました。確かにみんなすごいのですが、ある面に関しては自分の方が上だったりして、いくつかの能力を組み合わせて持っているのところが自分の利点だというところも見えてきました。これなら研究者として10年くらいはやっていけるだろうと思いながら帰国しました。
物理化学から生物学へ
ところが日本では、仕事探しから始めなければなりませんでした。幸い信広が九州大学の物理教室の助教授になれたのでついていきましたが、私の方は学術振興会の研究員から始め、任期が切れると授業料を払う研究生として残り、その後は非常勤講師で食いつなぐなど、なかなか落ち着けませんでした。帰国後もシェラガの研究室でやり残した仕事を夫と共著で出していたのですが、いつまでも夫婦で同じテーマを研究していてはいけないと思い始めました。
それまでの研究は、タンパク質の物理化学的な性質を見ていました。シェラガや信広は、その方法で突き詰めるタイプです。しかし、特定のアミノ酸が並ぶとなぜタンパク質は決まった形をとり、機能を持つのかという問題を、アミノ酸どうしの相互作用を解析して計算を重ねていくだけでは見えてこないことがある。生物進化の過程でなぜそのタンパク質が生まれてきたのかということを考えるのも重要だと気づいたのです。自分の基盤を物理化学から生物学に変えようと模索していたちょうどそのとき、九州大学の生物教室で数理生物学講座が新設されることになり、助手の募集がありました。
新講座のテーマは分子進化。木村資生先生 (生命誌3号) が中立説を提唱した頃で、ようやく生物学科にも理論研究の講座ができることになったのです。人生を変えるきっかけだと決心し、応募し幸い採用されました。新しい研究室では、京都大学の基礎物理学研究所から来られた松田博嗣教授(現名誉教授)が集団遺伝学、宮田隆助教授(現JT生命誌研究館顧問、京都大学名誉教授) (生命誌40号) がDNAの分子進化、そして私はタンパク質の分子進化を担当することになりました。助手なのに、3本柱の1つを担当できるわけで、一人前に扱われたのが嬉しかったですね。生物学を一から勉強するつもりで、タンパク質を見直していこうと思いました。
タンパク質の構造と進化をつなぐ
同じ形をとり、同じ働きを持つタンパク質でも、種が違えばそのアミノ酸構成は異なります。遠い関係にある種間ほどその違いは大きくなります。ただ、タンパク質の中には変わりやすいアミノ酸と変わりにくいアミノ酸がある。これは当時も知られていました。進化の過程で保存されている部分とそうでない部分があるというわけです。その選択基準は何なのか、アミノ酸の置換に制約をかけている実体は何か、そういう疑問からスタートしました。アミノ酸の変化と立体構造を重ねて考えると、明らかにタンパク質の表面(溶液中で水分子と接触する部分)は変化しやすく、内部は保存されています。タンパク質の内部はアミノ酸どうしが密に相互作用しており、1個が変わると全体の構造に影響するので変わりにくいのでしょう。タンパク質はかたまりとして進化する。それはどのように行われてきたのかと考えました。
1977年に遺伝子の中にイントロンイントロン
RNAとして転写されるが、スプライシングと呼ばれる反応によってmRNAからは取り除かれる配列。
参考:生命誌29号
イントロンに感染した真核生物のゲノム:大濱 武があるという発表がなされた時、研究室でのお茶のみ話でもその話題がとり上げられ、大いに議論されました。真核生物の遺伝子は、タンパク質の情報を持つエクソンとそれをつなぐイントロンで構成されるという事実は、原核生物を対象にしていた古典的な分子生物学の常識では考えられなかったことでした。最終的にタンパク質の情報とならない配列がなぜ進化の過程で失われなかったのか。一見タンパク質の立体構造とは無関係のようですが、非常に気になる発見でした。イントロンの起源について、アメリカのギルバート博士ウォルター・ギルバートアメリカの分子生物学者。DNA塩基配列決定法の開発により、1980年ノーベル化学賞受賞。はエクソンとは生物進化の初期にミニ遺伝子が存在した証拠であるといい、イギリスのブレイク博士コリン・ブレイクイギリスの生物物理学者。X線構造解析によりリゾチームの三次元構造を解明した。 は、タンパク質はピースが継ぎ合わされたものだという仮説を提唱していました。当時これらの説は根拠のない仮説と捉えられていましたが、タンパク質をひとかたまりとしか見ていなかった私にとって、実は部分に分かれているという説は魅力でした。しかしイントロンを立体構造と関連づけることには異論がありました。なぜなら、イントロンの挿入によって1つのヘリックス構造が2つのエクソンに分断されるというような例があったからです。私はイントロンの存在こそ物理化学では見えなかったタンパク質の生きものらしさではないかと考え、なんとかその意味を探ろうとしました。
モジュールが見えた!
立体構造とエクソン・イントロン構造が分かっていたヘモグロビンのデータを前に、あれこれ悩みました。タンパク質の立体構造を表現する方法として両眼で立体視する3Dのイラスト作成ツールがで始めたころで、そういうものが活用できないかなどと考えていましたが、あるとき、古典的な方法である距離地図のことを思い出しました。タンパク質を構成するアミノ酸に端から番号を付けてその数字をグラフの縦軸と横軸に並べ、例えば2番目と10番目の交点にはその2つのアミノ酸の距離を書き入れていくというものです。駅と駅の間の切符の値段を表示する運賃表のようなものですね。こうして作った表の中である距離より近い位置関係にあるアミノ酸ペアの交点を黒く塗りつぶすなどして、タンパク質の中でどのアミノ酸とどのアミノ酸が接近しているかという全体像が分かるようにするのです。
ヘモグロビンでこの距離地図を作ることを思いついた時、私は普通とは反対に、離れた距離にあるペアの方を黒く塗って目立たせてみました。近いペアに注目するか、遠いペアに注目するかは、同じデータの裏表の関係に過ぎません。しかしこの距離地図にイントロンの位置を重ねてみると、黒く塗った領域とイントロンの位置を示す線が相関を持つことがはっきりと見えたのです。
私が書いた距離地図では、黒い点はいくつかの集合となって現れました。そして黒点を含まない領域はイントロンとイントロンで挟まれたところだったのです。つまりエクソンがコードしているのは、空間的に近いアミノ酸ペアだけで構成されるコンパクトな構造だということです。この領域こそ立体構造を作る単位だと考えて、モジュールと名付けました。タンパク質はモジュールの組み合わせで進化したと考えたのです。
さっそく論文にして投稿しましたが、レビュアーからの反論やそれに対する再反論などのやりとりのため掲載までには時間がかかりました。でも、アイデアの発端となったギルバート博士に感謝の印として論文の草稿を送ったら、全く面識がなかった私に内容の詳細を尋ねる丁寧な手紙を下さったのです。おまけにそこには、私の知らなかった最新のデータもありました。苦労していた時だったので本当に嬉しかった。私が解析したウマのヘモグロビンでは、モジュールの境界が3つあるうち、端の2つはイントロン境界と一致していましたが、真ん中にはイントロンがなかったのです。私は祖先遺伝子には存在したイントロンが失われたためと推測していましたが、ギルバート博士はマメのヘモグロビン遺伝子を解析したグループがあなたの予想通りの位置にイントロンを見つけたと教えてくれたのです。自分の考えは間違っていなかったと、飛び上がりました。
モジュールの反響と実証
タンパク質がモジュール構造を持ち、イントロンはその境界にあることを確信していましたが、ヘモグロビンはたまたま一致していただけではないかという反論が出されたり、コンパクトな構造というのはどれだけ近いアミノ酸ペアの集まりのことなのかというクレームもつくなど、すんなりとは受け入れてもらえませんでした。納得してもらうには、物理化学的な研究でモジュール構造の存在を実証しなければならないと思いました。ただしこれは一人でやれる研究の規模を越えてしまいます。
モジュールの最初の論文を出して8年後、幸い名古屋大学で研究室を持てることになりました。助手から教授への大抜擢です。評価をもとに研究者の人事を行うのは女性であれ男性であれ難しいことに変わらないのですが、女性の場合は特に、業績として出した論文に複数の著者名が入っていると本人の貢献がどれだけあるのか疑われるようです。研究者人口の男女比はそもそも偏りがあるのですから、共同研究者がほとんど男性になってしまうのは本人のせいではないのですが。
私の場合、博士論文もそうでしたが、モジュールの論文も単名で書いていたので、本人の貢献が問題になることがなかったのが幸いしました。でも逆に、助手でしかも女性が一人で研究しているなんて相当攻撃的で偏屈なんじゃないかと思われたみたいです。出張で他の大学に行った時など、招待して下さった先生が懇親会の席でぽろっと「普通の方で安心しました」と言われたり。実は名古屋大学生物学科の教授だった大澤省三さん(現名古屋大学名誉教授、広島大学名誉教授、前JT生命誌研究館顧問) (生命誌2号) は、私が大学院生として生物物理にいた時に居室の向かいの部屋にいらしたのです。大沢文夫さんと大澤省三さんは、名前も近く部屋も近かったので時々混同される方もいたみたいで。多分大澤さんが、郷さんは別に変な人じゃないよと口添えして下さったのではないかと想像しています。
生物物理から生命観へ
進化は歴史上一度しか起こらなかったことですから、いくら説明できてもお話に過ぎないという面があります。しかしタンパク質がモジュールの組み合わせとして進化したという仮説は、モジュールの物理化学的な性質を明らかにすることでその確からしさを議論できます。イントロンの情報がなくても立体構造のデータだけからモジュール境界を決定できる方法を開発し、またモジュールの部分だけを合成してそれが単独でコンパクトな立体構造をとり、機能を持つことを示しました。DNAの情報から思いついたモジュールというアイデアを、物理化学の手法で確認していったわけです。タンパク質を物理と化学の法則に従う物質と見る時もあれば、生きものらしさの象徴と見る時もある。両方を行ったり来たりするのが私流の生物物理学です。
今はまた、生物学に戻っています。ゲノムの情報がどんどん出ているので、遺伝子のエクソン・イントロン構造のデータを網羅的に集めることができます。さらに、立体構造が明らかになったタンパク質の数も以前とは比べものになりません。モジュール構造とイントロンの位置の普遍性がもっとはっきり分かってくると期待しています。
ゲノムの世界は不思議です。DNAを単なる設計図と捉えるなら、暗号表にしたがってATGCの並びをアミノ酸の並びに変換してタンパク質ができるというだけで終わりです。しかし実際に生きていること、つまり生きものの表現型を考えると、どの遺伝子がはたらいて、どのようなタンパク質が生まれ、他のタンパク質とどういう関係を持って働くのかということが重要です。ここに自由自在な仕組みが使われているとしか思えません。
モジュールを思いついた時には、エクソンとイントロンの関係は厳密なもので決まり切ったものだと思っていました。しかし現在では、オルタナティブ・スプライシングオルタナティブ・スプライシングエクソン-イントロン構造を持つ遺伝子がスプライシングをうける際、全ての エクソンが使われるのではなくいくつかのエクソンを組み合わせた複数種のmRNAがつくられること。これにより、一つの遺伝子座から複数種のタンパク質が作られる。
といって、エクソンがイントロンのように振る舞うことで1つの遺伝子から多様なタンパク質が作られる仕組みが明らかになっています。タンパク質が作られるときのこのような柔軟さの意味は何なのか、オルタナティブ・スプライシングによって作られるタンパク質のパターンを全て調べ、実際生きものはどのようなモジュールの組み合わせを利用しているのかを解きたいと思っています。
最初は、タンパク質の進化を都合の良いものを作ってダメなものは捨てる過程と思っていましたが、一見ダメなものでも使い回していくということを積極的にしてきたのかもしれないと思うようになりました。これが生きものらしさなのではないかとも思っています。タンパク質という物質を見ていくと、機械論的ではない生命観が出てくる。今感じていることです。