チョウの絵がきっかけとなったがんの治療薬の研究
昔の話からでなく、現在、今のことから話したいんだ。面白くてしかたないし、これぞ生命誌と思っているから。
生涯テーマとしてきたがん研究に対して、1997年、日本国際賞という、たいそうな賞をいただいた。お祝いの会など大いなる時間と労力の無駄だと思っているので、文化勲章や外国の賞を受賞した時も、ほとんどやらなかった。周囲も私の性癖を理解しているので今度もパーティーはなしということになったが、何もないというわけにもいかないだろうとプレゼントを考えてくれた。日本賞にちなみ、チョウ好きの私のために、モンシロチョウの白い翅とマレーやフィリピン産の模様のない真っ赤なチョウの翅を使って日の丸を作ろうということになったようだ。ところが、外国産のチョウは高価なので、日の丸の大きさが最初考えていたより小さくなってしまった。モンシロチョウの方は自前で大量に飼育していたので幼虫が余ったと聞いて、これを無駄にはしたくないと実験を始めたんだ。
チョウは、完全変態、つまり幼虫とサナギと成虫の間でまったく形が変わる。これだけの変化をするには細胞が入れかわるわけで、そのためには細胞が死ななければならないはずだ。そこで、アオムシの中に、この細胞は殺し、この細胞は殺さないという調節機構があるに違いないと考えた。
幼虫の尻尾を切ると0.1ccほどの青い液体が出てきた。この中に調節のための物質があるだろうと思い、数匹分を遠心分離器にかけたら透明になった。この液体を培養していた胃がんの細胞にちょっと落としてみたところ、驚いたことに、6時間くらいで核が縮んで細胞が死んでしまった。増殖していた胃がん細胞にアポトーシスが起きたんだ。
10万倍に薄めても有効だった。数百匹のアオムシの液から、有効成分を精製し、アミノ酸の配列を決定し、そこから塩基配列を決めた。一端がADPリボシル化反応を触媒する塩基配列を持ち、真ん中はトリプシンに反応しやすく、反対の末端は糖脂質にくっついてリガンドになる性質をもっていた。このリガンドでがん細胞の表面の糖脂質にくっついて、細胞の中に取り込まれ(エンドサイトーシス)、DNAのグアニンと反応してADPリボシルグアニンを作ることをつきとめた。これが細胞変性の原因だろう。モンシロチョウ(学名ピエリシス属)のタンパク質なのでピエリシンと名付けた。どこにでもいるモンシロチョウが胃がん細胞という非常に強い細胞を殺す作用をもつタンパク質をもっているとは驚きだ。ここが自然の面白さ。チョウと胃がんの細胞なんて、僕が実験しなければ出会わなかったはずだよ。
今、がん細胞を殺す治療薬としてピエリシンが使えないかと考え、分子の形を変えたり、細胞の表面につく部分を変えたりしている。がん細胞の表面に特有の構造にだけくっつくようにすれば、正常な細胞とがん細胞を見分けて、がん細胞だけを確実に殺すことができるかもしれない。だから興奮しているわけだ。
おもしろいから研究してきた
論文をたくさん読んで、その時代の流れをつかみ、その中でこれをすべきだと考えて研究を始めるオーソドックスなやり方もあるが、こういうこともあるのじゃないかとあてずっぽうにやっているうちに桃源郷に入っていくやり方もある。今話した研究はこれだね。面白がってやっているうちに大好きなチョウと研究対象のがんと30年程前に発見に関与したADPリボシル化の反応という3つが結びついた。最近は科学が巨大化し、誰もこんなことしないから、最初は信じてもらえなかった。がん細胞に青虫の体液をポトンと落としたのは、たまたまがん細胞を培養していたからで、まったくの偶然。セレンディピティーだ。
医師になったばかりの時に、治らないがんの患者さんに出会い、がんはどうしてできるのか、正常細胞とどこが違うのかを研究しようと思い、半世紀も続けてきたが、評価されたいくつかの発見はだいたいあてずっぽうの研究だった。あまり理屈を考えないで面白がっている時のほうが新しいことが見つかるし、競争も少ない。人には説明できないけれど自分たちの心中では面白いということが一番確かなことのような気がする。それを追っていくんだ。
そういう人がいなくなっちゃったな、この頃。ニュートンもガリレオも、計画書を書き、それに従ってリンゴや振り子を見ていたわけじゃないだろう。ダーウィンだってファーブルだって、ガラパゴス島に行って変な動物がいるとか、近くの裏庭にも面白い昆虫の生活があるということが面白くてたまらなかったんだと思う。そのうち進化論が発酵してきたり、昆虫記が生まれる。今必要なのは、計画書ではなくサイエンスを楽しむ雰囲気だと思う。
長い間一緒に実験した人たちが今では部長さんや室長さんになり、またその下に若い人がいて、その人たちが面白がって研究しているので、今の私は自らを間接研究者と名付けているのだけどね。周りの人のおかげで楽しめている。
がんの基礎研究を目指す-東大医学部~癌研究所
1945年3月、旧制府立高等学校(第二次世界大戦後、学制が変わり、すぐ都立高等学校に変わった)を卒業して東大医学部に進学を決めた。虫が好きだけど、昆虫学では食えないし、徴兵猶予のことも考えてのことだ。東京大空襲、そして終戦の年だった。入学するとさっそく、焼夷弾による負傷者の傷口から緑色の膿が出ているのを見せられた。緑膿菌が繁殖していたのだ。私の中では、医学の道を歩んだことと戦争という時代が密接に関係している。生活面では、戦中戦後と栄養失調になるほどの空腹が続き、またいつ何が起きるかわからないという不確かさを知る中で、人は中身でしか判断しないという生き方を培った。
医学部の講義は退屈だったね。骨の名前など、覚えなければならない知識が膨大で、創造的な部分があまりに少ない。その不満を伝染病研究所(現東京大学医科学研究所)の福見三郎教授(ウィルス学)の下で解消した。先生は学生に好きなことをやらせてくれたので、発酵の時のピルビン酸の定量をした。富沢純一さん(前国立遺伝学研究所所長)や内田久雄さん(東大名誉教授)など、気鋭の若手が集まり、みな将来に対して高揚した気分をもっていた。
卒業後1年間のインターンを経て進路を決めるにあたり、新しい研究をやりたいと思い、日本で最初に化学物質でラットに肝がんを作り、吉田肉腫で有名な吉田富三博士(当時東北大学教授)のところに相談に行った。でも先生に友人のいる東大の方がよいだろうと言われて戻ったのだけれど、マイナー指向の私は人気のない放射線科を選んだ。医学部の主流とは違った雰囲気で、変わった逸材が集まっていて僕には居心地のよいところだった。中泉正徳教授と学内の風呂で裸のつきあいをしながら、独創的な研究の何たるかを教えてもらった。先生は、皮膚の表面の障害を最小限にし、病巣に放射線が集中する集光照射という斬新な技術を考案された人だ。
実は、最初に担当した患者さんは、陰茎がんが頭骨に転移していて、まもなく亡くなられたんだ。放射線の照射は進行がんを回復させる力はなく、受け持った患者さんが次々亡くなる。診療したのは短い間だったけれど、その後がんの研究をしたり、病院のあり方を考える時に、絶えずその患者さんのことが思い浮かぶ。
眠れない日が続き、がんの基礎研究をしなければと思うようになった。もともと生物学に関心があったので、がんを細胞レベル、分子レベルで、生物学的に研究しなければならないという思いが強くなった。そのころ生化学では核酸の最先端の研究が行われており、東大の生化学教室に通って、放射線照射が核酸にどんな影響を与えるかを調べた。
がん研究の第一人者だった癌研究会癌研究所中原和郎所長に就職を願い出たら、「人まねでない研究をする」ことを条件に54年、化学研究部に配属してもらえた。そこで、がんになるとやせて顔色が悪くなるという悪液質をもたらす物質を探す研究チームに加わった。その過程で、突然変異を誘発する(変異原性がある)ことが知られていた4NQOという物質に発がん作用があることを見つけたのだ。変異と発がんが結びついた。これがその後、化学発がんの研究に踏み込むきっかけとなった。
アメリカのがん研究を学ぶ-独創的な研究
56年、アメリカの国立癌研究所(NCI)のJ.グリーンスタイン博士から手紙が来た。先年来日の際に中原先生の命令でお世話をした縁だった。NCIで研究しないかという。年収は200万円以上。日本では月給2万数千円の時だから即決だ。
ワシントンの隣のベセスタという落ち着いた美しい町にNCIはあった。テーマは食物とがんの関係。がんを移植した動物に、組成をいろいろ変えた水溶性飼料を与えてその影響をみた。化学的に明確に定義できる組成が重要というのがグリーンスタイン博士の信念だった。当時、生化学の分野では酵素などの新しい発見が続いており、医学界でも栄養に関するテーマは人気がなかった。アメリカに来てまでどうしてこんなことをやらなければならないのかと不満だったが、一方で時流に乗らない、どっしりとした研究の大事さがだんだん解ってくるようにもなった。
ところが、2年目にグリーンスタイン博士が突然亡くなり、私は、オハイオ州クリーブランド市の、ウェスタンリザーブ大学に移った。生化学部門のハーランド・ウッド教授は、教授でも学生でも、義務と権利を明確にして尊重する。民主主義の理想が研究室にあった。これには大きな影響を受けた。
学会で発表される日本人の研究の多くは、外国のまねで情けなかったので、3年間の留学を終えて癌研に戻ることになった時、日本で独創的な研究をしようと強く思った。
分子レベルの研究-がんセンターへ
戦後、日本では結核対策が一段落し、関心はがんに移ったが、専門の研究機関は癌研しかなかったので、がん研究をより本格化するために、国立がんセンターを創設することになった。中原先生は、厚生省の作ろうとしているがんセンターには科学がないと否定的だったのに、ある日突然、「がんセンターの所長を引き受けた。君も来なさい」と言う。
62年、生化学部長として着任したがんセンターは、学閥がなく、若くてやる気のあるメンバーで構成されていた。以来40年以上、ここが仕事場になった。
60年代に入ってから、分子生物学によるがん研究が中心になっていく中で、私たちが見つけていた発がん物質4NQOが非常に役立った。4NQOは、動物だけでなく微生物でも代謝され、変異を起こすので、微生物で発がん機構を調べられたからだ。4NQOが細胞内で代謝され、DNAに結合したり、それを切断したりする過程を観察し、『Nature』に投稿すると、難なく掲載された。国産の発がん物質による研究が国際的に評価され、独創性が認められたんだね。
微生物に突然変異を起こすことで知られていたニトロソグアニジン(MNNG)も、4NQOと同じ理屈で、発がん作用があるのではないかとねらいをつけた。しかし、ラットへの皮下注射を繰り返したが結果がなかなか出ない。もうやめようと思って、助手の岡田好清君にラットの処分を頼んだところ、がんのようなものができていると知らせてくれた。腺維芽肉腫だった。
そこでMNNGをラットに飲ませて、内臓のがんを作る実験をした。餌に混ぜて食べさせるのが普通なのだが、忙しかったので、水に溶かして与えた。ところが餌のタンパク質と反応しない点がよかったらしい。みごと胃がんができた。がんは、肝臓にできるだろうと予測していたのだが、ちょうど、胃の手術をして胃に関心のあった藤村真示君がていねいに胃を見てくれたおかげだった。こちらの論文もいとも簡単に『Nature』に採用された。
MNNGによる胃がんは、国内ではなかなか胃がんと認められなかった。胃がんはたくさんの専門家がしのぎを削って研究していたのに、思いつきのような実験で成果が出てしまったことに反感があったのかもしれない。その中で、吉田富三博士は、これは胃がんだと評価してくださった。
遺伝子を傷つける物質によってがんができたということは、正常細胞の遺伝子の変化によってがん細胞ができるということだ。変異原物質が発がん物質だということがわかると、それまで動物発がん実験によって食品の安全性を確かめるのに長い時間がかかっていたのが、バクテリアに対して変異原性があるかどうかを調べるだけで発がん性が確かめられるようになった。71年にエームス博士(カリフォルニア大学、97年日本国際賞同時受賞)がサルモネラ菌を用いた効果的な発がん物質の検出法を考案したのは、この原理による。この方法はエームステストと呼ばれて、広く使われた。
その後のがん遺伝子の研究はよく知られている通り。世界での競争だ。私の研究を一言でまとめると、がん遺伝子研究のきっかけづくりということだ。
発がん性と変異原性
DNAに傷をつけるという事実に注目しながら、細胞内の反応の研究と、発がん物質探しの両面作戦をとった。まず遺伝子の指令でさまざまなタンパク質を合成していく過程での制御の乱れを見ようと考えた。遺伝子の修復過程に関係しているらしい物質を見つけ、その構造の解明は、他のグループと競うことになったが、結局ほとんど同時に、それがポリADPリボースであることを明らかにした。その一方で、研究室で干物を焼いて、魚の焼け焦げに強い変異原性を発見したのも今では思い出だ。
細胞のがん化には、最初に遺伝子を傷つける物質(イニシエーター)が働き、その後がん化を促進する物質(プロモーター)が働くという説が有力だったが、プロモーターとしては、ドイツで発見されたTPA(ホルボールエステル)しか研究されていなかった。そこで藤木博太君(国立がんセンター)と、いろいろ探したが、なかなかみつからない。何かの会議の合間に、隣り合わせた梅沢浜夫先生(元微生物科学研究所長)にかぶれを起こす物質はないだろうかとお聞きして、放線菌がつくるテレオシジンを教えてもらった。早速調べてみると、強いプロモーター活性をもっていることがわかった。
身近なものを面白そうだから試してみる。独自のものが見つかるのはそういう時だ。その壁を押してみると向こう側に忍者の抜け道があるかもしれないというイメージを持つこと、そして実際に押してみることだね。
80年代、がんセンターの研究方針として、がん遺伝子研究への方向転換を決めた。ワトソン(当時コールドスプリングハーバー研究所所長)が、細胞内にがん遺伝子が存在することを明快に示したウィグラー博士の論文原稿を見せてくれたのがきっかけだ。これは大変なことだと思い、早速センター内に勉強会を作って案を練り、方針を変更した。
84年、がんセンターの総長となり、政府の「対がん10年計画」と歩調を合わせ、がんの政策について考えることになった時、まず、併設の病院を来院しやすいものにしようと思った。既成の概念にとらわれず、自由に発想し、まず患者さんが何を求めているかを考えることから始めた。若いころに担当して救えなかった患者さんが原点だな。
自然は未知だから面白い
チョウとがんという双眼鏡で世界を見ているわけだよ。そうするといろいろなものが見える。例えばヒトリガのメスの卵巣にはがんを殺す強力な物質がある。ショウジョウバエの発生に関係した遺伝子が人間の胃がん発生に関係している。チョウもがんも興味をひくから研究している。未知だから面白い。そこからわかってきたことの中に有益なものがたくさんある。人類のための研究という理屈は後からくっついてくるものだ。日本賞をいただいたことで、長い間面白いと思ってきた2つが結びついたのは、運命のような感じがするね。
子供のころはチョウの採集はもちろんのこと、周りに田んぼがあったから、タガメやミズカマキリなど水性昆虫や藻類など何にでも関心を持った。自然には不思議なことが沢山ある。今飼っているウサギは、普通3年と言われるところを4年以上も生きている。セロリも新鮮な葉しか食べないので、老夫婦は茎を煮て食べる。ウサギも人間も同じということが一緒に暮らしているとわかる。自然は面白いことだらけだよ。論文には厳しく文句つけるけどね。サイエンスの生活は楽しく、研究の新事実には厳しくということかな。何より、研究を進めている若い人々が楽しそうに見えることが一番だな。(文責:高木章子)