ウィルスを研究していたころ

医者になりたいという素直な気持ちで入った大阪大学医学部で、外科の久留勝教授の、前がん病変の話とがんの末期の痛みを止めるという話に強い影響を受けました。当時の痛みへの処置は痛覚神経を切るという乱暴な話でした。その中で先生は、患者の家族に了解を得て、脊髄の連続切片を取って痛覚伝導路を見るなど、痛みに科学的に挑んでいました。その姿勢に感銘を受け、外科の道に進もうと思ったのです。大学院ではまず、細胞の病理的研究をしている微生物病研究所感染病理部門の釜洞醇太郎教授のもとで基礎研究をすることになりました。ここで出会った一冊の本がルリア(ファージの遺伝学研究で1969年ノーベル賞受賞)の『一般ウィルス学』。体系的、理論的にウィルス遺伝学の基礎が述べられ、生物学が定量的に扱われており、それまで読んだ教科書とは違って思考の中にスッと入ってきました。何遍もくり返し読み、徹底的に合理的な研究をしようという気持ちになったのです。合理性の追求。これがその後ずっと私の研究を支える考え方となりました。

当時のウィルス研究は、バクテリアとそのウィルスであるファージの研究、つまり定量的な生物学研究の成果をもとに、動物ウィルスへと向かっていました。そこで早速、動物ウィルスがバクテリアの系のように合理的に捉えられるかということをテーマにしたのです。基本的には同じようにできそうだと見当がついたところで、その先のDNAのことが知りたくて、山口大学の柴谷篤弘教授のもとに国内留学しました。1957年、二重らせん構造が発見されてから4年、日本ではまだDNAに注目している生物研究者は少なかったころです。柴谷先生と江上不二夫先生(当時名古屋大学)共著のB5版のうすっぺらい本『核酸』が唯一の参考書という時代でしたから。

2ヶ月の研修の後、微生物病研究所に戻って早速実験しようと準備中、実験台に置いてあったアルコールの大びんの底が割れ、火のついたアルコールを浴びて半身大やけどを負ってしまいました。記憶のない1週間の後、「生きているんだ」という実感と共によみがえりました。

もう体力を使う外科にはもどれないと思っていたところを拾ってくれたのが、ウィルスのワクチンを研究していた微生物病研究所の奥野良臣先生でした。エンダース(54年ノーベル賞受賞)がはしかウィルスを発見し、病因を合理的に追う研究が始まったころで、助手になった私は、細胞病理学の手法を用い、それまでDNAウィルスと思われていたはしかウィルスがRNAウィルスだと推論し、その研究を始めました。

ところが、研究が軌道に乗り始めたころ、ポリオウィルスによる小児まひが大流行し、ソークワクチンでは間に合わないとうので、少量で効く生ウィルスワクチンを大量に緊急輸入することになったのです。危険性のチェックが日本ではまだできていなかったので、その態勢作りが緊急の課題となり、私もこの事態に協力するために、大学を出て、大阪府立公衆衛生研究所に転任しました。なりたての助教授の職を捨てて、61年から4年間、ポリオウィルスの中で温度によって感受性が変わる変異株の検定方法の確立など、ウィルスの遺伝学とその応用研究に取り組みました。人間の運命はわからないもので、この時の経験が後のがん遺伝子の発見に生かされることになります。

ルリアの「一般ウィルス学」。博士の研究スタイルに大きな影響を与えた。

ワシントン大学で。シャーレの中のがん細胞のフォーカス(集落)を毎日見続けた。

留学中に写した家族写真。海を越えて父親の米寿を祝うために送った。

がん研究を始める

そこへ、釜洞先生からがん研究を一緒にやらないかという声がかかり、私は、感染症や免疫のほうに興味があるからと言って抵抗したのですが、65年、結局大学へ戻りました。

20世紀の発がん研究は、細胞迷入説、化学物質発がん説、ウィルス発がん説などがそれぞれの正統性を主張しながら進められていました。化学発がんの研究としては、1915年、ウサギの耳に辛抱強くコールタールを塗りつづけた山極勝三郎(当時東京帝国大学教授)と市川厚一(当時東大院生)が人工的にがんを作り、30年にはイギリスのケンナウェイによってコールタールから発がん物質が採りだされました。一方、ウィルス感染説としては、1911年に、ラウス(66年ノーベル賞受賞)が、ニワトリの肉腫がウィルスによって生じることを発見して以来、藤波肉腫ウイルスなど最初は少しずつ、50年代に入ると、次から次へとがんウィルスが発見されるのです。

化学発がんでは、何がどこに働いてがんになるかを絞り込めず、解析が難しいだろう。ウイルスなら、確実に細胞をがん化するウイルスを選べば、入った遺伝子の働きを追跡できる。助手の羽倉明君(現大阪大学名誉教授)らと徹底的に議論をして、ウイルス発がんを研究しようと決めたのです。

がん細胞の性質は、非常に安定に受けつがれるので、そういう性質を発現する遺伝子が必ずあるはずだと思っていました。とくにラウス肉腫ウィルスのように、ウィルスが感染するとあっという間に細胞ががんになり、数日でがん細胞の塊が見えてくるような場合、ウィルスが細胞をがん化する遺伝子があるのなら、必ずつかまえられるはず。後は努力次第…。

しかし、残念ながら日本はまだラウス肉腫ウィルスの研究ができる状況ではありませんでした。遺伝学的に追うには、ウィルス感染のないニワトリの受精卵の胚の繊維芽細胞でテストしなければならないのですが、普通の卵には白血病ウィルスが混入していることが多いのです。細胞を培養するにもよい血清がなかった。日本では難しい。よい材料のあるアメリカに行くしかない状況でした。幸いフェローシップが取れて、ワシントン大学のピーター・フォークト博士のところに行くことができました。ピーターは、自由に研究させてくれたうえ、テクニシャン(研究助手)もつけようとしてくれたのですが、彼のテクニシャンに実験の態勢を整えてもらうだけで、研究は一人でやりました。

ウイルスの遺伝子が 発がんの原因で あることを証明した

『Jpn.j.Cancer Reserch』の表紙を飾った。

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温度感受性変異した肉腫ウィルスによる細胞の変化。
左/細胞に感染させ、35℃で培養すると、がん化して盛り上がった細胞が見える。
中/41.5℃にすると、正常な細胞に戻る。
右/35℃に戻すと、再びがん細胞が現れる。

がん遺伝子の発見

ねらいは、温度感受性変異株を採ること。ウィルス増殖中に変異物質を与えて、変異を起こさせたラウス肉腫ウィルスの中に、温度を変えるとがんを起こさせなくなる株が必ずあるはずだと信じての仕事でした。温度感受性の変異株を採れば、温度を変えるだけで、細胞をがん化させたり、正常な細胞に戻したりできる。

始めたころには、そんなこと…とずいぶん言われました。カリフォルニアに遊びに行ったついでに、ダルベッコ(75年ノーベル賞受賞)に話した時も「採れっこない」とはっきり言われましたが、自信があったので実験は続けました。はしかやポリオウィルスを扱っていた時に、実験動物の体温、培養細胞やウィルス増殖の温度設定が重要だということを体験していたからです。

実験を始めて2年目、試行錯誤の中で実験条件も整ってきました。36℃でできた肉腫で盛り上がったシャーレを温度管理のできる専用チェンバーに入れ、40.5℃にする。期待と不安の一晩を過ごした後、翌日チェンバーを開けるという繰り返しの中、ある日、盛り上がっていた肉腫が、わずかな痕跡を残しただけで消えていました。やった!と叫びたい思いを内に留め、誰にも言わず、もう一度温度を下げて、さらに一晩。肉腫が再び出現していました。完璧だった。それなのにフォークトに見せると、なかなか認めようとしない。細胞密度の少し高い痕跡を気にしたのですが、誰も成功していないのですから当然の反応でしょう。しかし、事実は事実であって疑う余地はありません。1年あまりで、ねらいの温度感受性のウィルスが採れたのです。68年初期のことでした。

皆ができるはずがないと言っていた変異ウィルスを採れると信じ、実際にこれほど早く取れたわけは、微生物病研究所や公衆衛生研究所での、一般ウィルスの体験が生きたのだと思います。ニワトリの体温は42度なのでその辺の温度を狙ったのです。医学は理屈通りにいかないことが多いと言われますし、確かにそういうところがあります。しかし、理屈通りにいかないのは自分の考えた理屈に何か欠陥があるので、それを見つければ新たな筋道が見えてくる。もう一つは、実験全体を全部自分でやって系統的に見ていたこと。初めての研究をする時は、実験をテクニシャン任せにしていたのでは、絶対成功しないと思います。

論文を書いて、1ヶ月半のバカンスに出かけました。車でアメリカを横断し、旅の途上で送られてきた原稿を校正し、ロンドンのICRF(インペリアル・キャンサー・リサーチ・ファウンデーション)に行くと、もう情報が入っていて変異株のセミナーを要求されました。情報伝達の早さに驚きましたね。論文が出たのは帰国後の69年ですが、がん遺伝子の存在を初めて証明したものとして、その後3~4年の間に関連の論文がたくさん出されました。

アメリカ滞在中にさらに、増殖はするけれど、がんを起こさせない欠損ウィルスも採っていました。細胞をがん化させる遺伝子がウィルスの増殖には不必要な遺伝子だったら、この遺伝子を抜いてもウィルスは増殖するはず。そう思って狙った変異株が採れたのです。

この変異株は、71年、デューズバーグが正常のウィルスに比べてゲノム(RNA)の長さが短いこと明らかにしました。そして、この欠損部分こそがん遺伝子だという推測のもとに、ステーランが逆転写酵素(RNAからDNAをつくる)を使って、欠損部分のcDNAを採り、がん遺伝子の解明が一気に進んでいきました。私はウィルスの中に細胞をがん化させる遺伝子を発見したのですが、その後、ステーラン、ビショップ、バーマス、フォークトがウィルスのがん遺伝子src(サーク)と相同な遺伝子が宿主細胞の中にもあることを発見します。つまり、正常細胞に、がん遺伝子の元の遺伝子、つまりがん原遺伝子があり、それががん化の原因になるか、その遺伝子をウィルスが取り込んで感染させるかのどちらかだという図式が見えてきました。サーク遺伝子と相同の配列は、ウズラ、シチメンチョウ、アヒル、エミュー、サケ、マウス、ウシ、ヒトと次々見つかりました。(ビショップとバーマスは89年ノーベル賞受賞)。

いったい、細胞にあるがん原遺伝子は正常な時に何をしているのか、がんは、細胞が生きるという本質に深くからみ合っている可能性がわかってきたわけで、ますます興味深くなる一方、難しくもなってきたといえます。

srcファミリー

豊島博士が発見したがん遺伝子と相同性の高いものがいくつか発見され、srcファミリーとしてまとめられた。博士はそのうち、yes,fyn,lyn,fgrを解析した。
上/これらのがん原遺伝子が、正常細胞の中でシグナル伝達に関わっていることを示すために、博士が使っていた図。
下/その構造。G:グリシン、K:リジン、Y:チロシン。右側の数字は、アミノ酸の数と分子量を示す。

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がん遺伝子の正常な時の機能の解明

細胞にがん原遺伝子があるかもしれないということは、私も早くから考えていたのですが、日本ではアイソトープが大量には使えないし、それを使う大掛かりな研究はできません。日本の設備でできることと考え、他のがん遺伝子を探し、医化学研究所の吉田光昭君や山本雅君らと一緒にいくつか発見しました。

トリ赤芽球症を起こすウィルスから見つけたがん遺伝子erbB(アーブB)を解析し、それのつくるタンパク質を調べてみたところ、タンパク質をリン酸化する機能ドメインをもっていました。さらに、脂肪に溶けやすいアミノ酸が連なった部分があり、これは、細胞を貫いて存在し、外からさまざまなシグナル物質を受け取って細胞内に伝えるレセプター(受容体)の可能性があります。なるほどと思いましたね。増殖の調節には受容体が関係しているって、筋が通っていますから。論文がアメリカの権威ある生物学の学術誌『セル』に掲載されたのは、最初に投稿してから1年後の83年秋でした。

2ヵ月後、イギリス王立がん研究所のウォーターフィールドから手紙が届きました。上皮成長因子のレセプターを解析したところ、そのアミノ酸の配列のかなりの部分がアーブBと一致したというのです。私たちの見つけたがん遺伝子は、細胞増殖因子のレセプター遺伝子から変異したものだということがわかったのです。彼の論文は、翌84年1月『ネイチャー』に発表されました。サル肉腫ウィルスのもっているシスがん遺伝子が、血小板増殖因子として働いているという発見に次ぐものでした。

当時は世界の第一線の研究者が本当に一日を争って研究していましたね。トリ赤芽球症の遺伝子は、デューズバーグもビショップも狙っていましたし。ところが日本ではまだ誰もがん遺伝子に手をつけていませんでした。私は、自分のテクニックで一番扱いやすいものに目をつけ、しかもそれまでとは違うものを探るという考え方で研究を続け、家畜衛生試験所の日原宏博士や清水武彦博士の協力で、レセプター型のがん遺伝子を最初に見つけたわけです。84年、対がん10ヵ年計画が始まり、日本でもがん研究に力が注がれるようになりました。その頃、アーブBのファミリー遺伝子として見つけたアーブB2は乳がんなどの診断に使われています。自分の研究したものが役に立つというのはうれしいものですね。

こうして、ウィルス、細胞のがん遺伝子が次々と解明されていきましたが、一方、がん遺伝子だけでは発がんは説明できないこともわかってきました。すでに、私の最初の発見と同じ69年、ハリス(オックスフォード大学)が、正常細胞に、がんの活性化を抑えるがん抑制遺伝子が存在していることを示唆していました。86年ごろからがん抑制遺伝子の研究が盛んになり、基礎では最後の共同研究者の秋山徹君(現東大分子細胞生物学研究所教授)はそのメカニズムを追求しています。がん研究を介して、がんだけでなく、脳も含め生体の複雑な調節機構の分子レベルでの解明が飛躍的に進んだのです。

がん遺伝子erbBは 上皮成長因子(EGF)の レセプター由来とわかった

(7)-a erbタンパク質と上皮成長因子のレセプターの比較。erbBタンパク質はEGFの結合とは無関係に細胞増殖のシグナルを出し続け、細胞をがん化すると考えられる。

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(7)-b erb2の遺伝子増幅で、がんかどうかを調べる。DNAが増えている部分が、より黒く見えている。T:腫瘍、N:正常、M:転移腫瘍

(7)-c erb2の抗体で染色すると正常乳腺細胞(下部の白い部分)は染まらないが、このがん細胞(上部の黒い部分)は染まっている。

がん治療へ

最近は、成人病センター、そして住友病院という現場が職場になり、がん治療のことを考えています。最初医者を目指した時の気持ちが戻ってきた気分です。研究を進めてきた姿勢と同じに、これまでやってきた生物学の目で素直に臨床を見たら、不合理なところが見えるでしょう。それが見えたら、その気持ちにできるだけ忠実に臨床に対する提言をしてみたい。

大切なのはまず、がんに対する抵抗力をつけることです。抗がん剤は免疫力を低下させるから免疫刺激剤と抗がん剤を一緒に使うという日本のシステムは、せっかく増殖を始めた免疫細胞が抗がん剤で殺されるので、理屈に合いません。また、今のがん免疫治療法は、他の治療が効かなくなった状況になってから使っていますが、それでは免疫がくたびれすぎで、なかなか活性を取り戻せません。まだ防ぎようのある時期に免疫治療をやれば、かなりのがんが抑えられるのではないかと思います。また、遺伝子治療にもいくつかの戦略があります。がん細胞を一旦採り出し、放射線で細胞を増殖できなくしたうえで、免疫を刺激するサイトカイン遺伝子と一緒に身体に戻す。そうすると元のがん細胞の抗原性を見つけて免疫細胞ができる。がん細胞にアボトーシス(細胞死)を起こさせる遺伝子を導入して細胞を死なせる治療も期待できる。また、がんに特異な抗原のペプチドや遺伝子で免疫を高めるなどいろいろ試みられています。

研究を深めることはもちろん重要ですが、それを通して見えてくる生命体の本質や医療上役に立つことを発信するのも研究者の役目でしょう。それで、社会に多少なりとも貢献できれば幸せだし、できることはやるというのが私の生き方なので、もうひと働き、現場に眼を向けた活動に力を入れ、がん治療が進むよう努力したいと思っています。

93年。大阪大学微生物病研究所の退官記念に駆けつけたワインバーグ博士(ホワイトヘッド研究所)と。

92年。日仏がんワークショップ(リヨン)で。左から3番目が、ステーラン博士。

93年。日本賞の分野選考委員長を努めた。

87年。医科学研究所ソフトボール大会。投手を務め、優勝した。

93年。微研の退官の日に研究室で。