前向き指向
積極的な前向き指向で怠惰とは無縁。こういう生活こそすがすがしく望ましいという感覚が、経験によって体の中に植えつけられている。
少年時代は江田島の海軍兵学校で学んだ。敗戦の年の空襲で、対岸の呉の街が燃えた時の赤色は今も目に残っている。この時家は焼けたが、幸い両親は無事だった。戦時の緊張感と戦後の自由な世界の両方を体験した世代であり、やろうと思えばなんだってできるのだという気持ちが今もある。
高知高校から大阪大学医学部に入学して、まず覚えたのは麻雀とたばこ。一方、ヨット部を再建し、夏休みには帆をはった2隻のカッターで満月の夜西宮を出港し、明石海峡を抜け、家島群島、小豆島、四国へ渡って、鳴門をぐるっと回って帰ってきた。配給の米を集め、食料を持ち込んでの航行だ。医学部の学生ばかり30人ほどだったので、製薬会社からもらった薬を積んで、無医村で患者さんの家を回ったり、地元の青年団とダンスパーティーを楽しんだ。ほとんどお金を使わず1ヵ月暮らせるのを体験し、大阪人の才覚はすごいものだと感心した。
細胞融合を発見
開業医になるつもりで博士号取得のために微生物病研究所に入った。それが1953年、ワトソン・クリックのDNA二重らせんの論文が出た年だ。日本にも少しずつ分子生物学が入ってきて、大腸菌にファージ(大腸菌に感染するウィルス)を感染させて、遺伝の基本を解いていく研究が始まった頃だった。
私の入った研究室は、動物ウィルス、とくにインフルエンザウィルスを取り扱っていた。このウィルスは、孵化し始めて10~11日の鶏卵の漿尿(しょうにょうまく)膜に植えることで容易に増やせる。が、大腸菌とファージの系のように定量的な解析をするにはまったく不向きだった。この不自由さを解決する工夫から、私の研究生活がスタートした。試行錯誤の末、漿尿膜を付けたまま打ち抜いた卵殻片を試験管に入れて培養する実験系の工夫で、孵化鶏卵そのものを使う不自由さを少し解消することができた。
ちょうどその頃、病理学の宮地徹先生が、アメリカからエールリッヒ腹水ガン細胞を持ち帰っていた。このガンは、マウスの腹腔中で細胞が一個ずつばらばらの状態で増えるので、卵殻打ち抜き系よりさらに定量実験に便利だった。しかし残念なことに、野生型のインフルエンザウィルスをこのガン細胞に吸着させて増殖させようとしても、増えてくれない。ウィルス探しをした結果、アッカーマン変異株(NWS)だけがこの細胞で増えてくれた。腹水ガン――NWSという工夫で、定量実験の確立という初期の目的を一応達成し、腹水から採取した細胞を用いてウィルス感染初期現象の定量実験を始めた。
当時欧米各国では、H.イーグルが液体培地を開発し、それに血清を加えて細胞を培養するという基本技術を確立し、個体から分離した体細胞を1個の自律性単位として取り扱う技術が一般化していたが、敗戦国日本では、細胞の培養など高嶺の花だった頃のことである。しかし、細胞培養が簡単にできなかったことがかえって、人為的細胞融合を初めて観察する偶然に結びついたのだと思う。
私は、ちょっとした遊び心で、このインフルエンザウィルス(NWS)を腹水ガンを発生させたネズミのお腹の中に、直接打ち込んでみた。すると、驚いたことに、ガンを発生したネズミの大きかったお腹がへっこんだ。ガンが消えたのである。ウィルスでガンが治せるかもしれない・・・。これは驚天動地のことであった。他の株でも試みたが、野生のインフルエンザウィルスは無効だった。
手元にもう一つ別のウィルスがあった。私が微研に入った年に分離されていた自前のウィルスで、当時Zウイルスと仮称されていたものである。孵化鶏卵の中でインフルエンザウィルスの10倍以上にも増え、超遠心器に掛けると多量に採れた。後にセンダイウィルス(HVJ)と名付けられたものである。このウィルスは、赤血球と反応させると、溶血活性といって、赤血球が破裂して内部が流出してしまう現象が起きることが知られていた。私は、大腸菌の表面に大量のファージを吸着させると瞬間的に溶菌することを思い出し、ふんだんに使えるセンダイウィルスを、通常の1000倍くらいの濃度で、腹水ガンを発生させたネズミに打ち込んでみた。ガン細胞が溶けるかもしれない・・・。
打って1日目だった。まったく予想外のことが起こっていた。お腹の中から見たこともないような大きな細胞が出てきたのである。さっそく顕微鏡で見ると、何十個もの核が1個の細胞の中に車輪状に並んでいる。時間を見ると、わずか1時間ほどで起きているので、細胞の中の核が分裂して増えたと考えるには短時間すぎる。とすると、細胞と細胞が融合したのだとしか考えられなかった・・・。
開発されたばかりの位相差顕微鏡の第1号が使えたので、融合の過程を確かめようと思ったが、細胞培養の技術はない。研究費の乏しい時代で、ゴミ捨て場に捨ててあった細菌培養の箱をこっそり拾い、キャンバスをはり、ヒーターを入れてこたつのサーモスタットをくっつけ、その中に顕微鏡をセットした。そこに混ぜ合わせたガン細胞とウィルスをすばやく置いて観察すると、細胞どうしがあっという間に融合するのが見えた。連続写真を撮り、細胞融合を証明できた時には最初の発見から2年が経っていた。初めに考えたガンのウィルス治療は、ヒトの多くのガンである固形ガンに不向きであることがわかって放棄した。
細胞の時代へ
細胞融合の発見を阪大の英文の医学雑誌に発表したのが57年。世界で最初の報告だった。62年には「エクスメータル・セル・リサーチ」というスウェーデンの科学雑誌にまとまった形で発表した。外国では、細胞培養が一般化して新しい実験技術が待ち望まれていた、ちょうどそういう時期だった。論文はずいぶん外国の人に読まれ、センダイウィルスによる細胞融合を利用した研究が次々と発表された。なかでも65年に、イギリスのハリスとワトキンスが発表した異種動物由来の細胞融合は大いに話題になり、それを契機にして、細胞融合は欧米で爆発的な流行になり、体細胞遺伝学が確立していくのである。見返してやろうにも、日本では細胞培養の歴史が浅く、変異細胞のストックもないので、細胞融合ができても、それを利用した実験を行なうのは容易ではなかった。しかも周りはあまり面白がってくれず、「微生物病研究所で細胞融合などやっていても生きていけないぞ」などと言われる始末だった。結局、臨床へ行く計画を変更したのは、自分で見つけてしまった細胞融合をほったらかすわけにいかなくなったからである。正直言って苦しい時代だった。しかし、細胞培養の方法を一から勉強し、変異細胞も自分でつくり、この野郎めと意地をはって融合をやったことが、その後、日本でも体細胞遺伝学、さらに細胞工学という新しい分野が生まれる元になったのだと思う。
67年、ようやく、細胞が融合する時に細胞周期の異なる細胞を融合させると、核の周期の同調が起きるという結果を発表し、溜飲を下げた。その直後、カーネギー生物研究所を訪れた時、所長のジェームズ・エバート博士が、外国で次々と新しい仕事が生まれることについて「細胞融合の発見者のあなたにとって、大切に育てた愛娘を嫁にやったような心境でしょう」とねぎらってくださった。
細胞融合は、2つの遺伝的に異なる細胞を1つに融合させ、遺伝的性質が混ざり合った雑種細胞を生み出す。自然界では雑種をつくれるのは生殖細胞だけであり、しかもそれは同種のものだけだ。ところが体細胞どうしの融合は異種でも起こるので、たとえばヒトとネズミの遺伝的性質を受け継いだ新しい細胞をつくることもできる。
雑種細胞をつくることで、お互いの細胞に新しい現象が起こり、それを解析することでさまざまな問題に対する答えや新しいアプローチが見えてくる。それが体細胞遺伝学の真髄であり、その影響はじつに広い範囲に及んだ。細胞の分化制御や遺伝病の研究や染色体地図作成も進み、さらに遺伝子操作を含む分子遺伝学からの方法論が加わって、80年代からバイオサイエンスの巨大な学問領域に展開していくのである。
私は、ヒトの実験遺伝学ができたらいいと早くから思っていたので、細胞融合で遺伝病の研究ができるのは非常にうれしかった。同じ遺伝病でも遺伝子の変異が違う場所で起こっていることがあるので、2つの家系から採ってきた細胞を融合させると、それぞれの遺伝子が補い合って正常になる場合がある(相補性)。昔から西洋でよく知られていた「色素性乾皮症」という遺伝病は、太陽光線にあたると皮膚に強い炎症が起こり皮膚ガンに移行する難病だが、74年以来、オランダ、アメリカ、日本などの細胞融合を使ったテストの結果、お互いに補い合う変異が9つ見つかった。私たちの研究室でも、当時助教授だった田中亀代次君(現細胞工学センター教授)の努力で、そのうちでももっとも症状の強い色素性乾皮症を起こす変異の遺伝子を明らかにできた。
もともとは、細胞培養ができない状況で始めたウィルスの研究だったが、それが細胞融合の発見につながり、やがて大きな分野へと広がった。自然科学では偶然がブレークスルーのきっかけを与えてくれる面白さがある。細胞融合はその典型的な例だった。
細胞工学
話はさかのぼるが、細胞融合を56年の日本ウィルス学会で発表した後、故野島徳吉先生(当時京大ウィルス病研究所)が「君の仕事は細胞工学だなあ」とつぶやかれた。ウィルス学会といえばその頃は病気の話ばかりで、私の話に皆がきょとん。こっちは元気が出ない。そんな私を野島先生が力づけてくださったわけである。
自然科学は、未知のものにまず名前をつけることから展開するものらしい。それ以来、私には、研究を発想するうえで、工学――細胞の遺伝的性質を人為的に変えることによって生じる新たな機能を利用する――という言葉が意識の中にあった。後に独立して新しい研究部門を主宰したのだが、これを契機により自由な細胞工学的方向に進むことになる。野島先生のつぶやきが、私の思考の広がりを助けてくださっていたのだと思う。
この時代、多くの大学が紛争の波に洗われていた中で、微研は平穏を保っていた。たまたま紛争から避難してきた大阪市立大学の古沢満助教授(現第一製薬中央研究所)と、大学院の山泉克君(現熊本大学教授)とで始めた研究の成果が、「赤血球ゴースト法」である。
たんぱく質などの高分子物質を、まずヘモグロビンを抜いた赤血球(ゴーストと呼ぶ)に入れておく。この赤血球ゴーストをセンダイウィルスを使って培養細胞に融合させると、高分子物質が細胞に導入される。この方法で、試験管の中ではなく、生きている細胞の複雑な環境下で高分子の機能を解析することができるようになった。
74年に『ネイチャー』に発表したが、後に『ニューサイエンティスト』(イギリスの科学雑誌)誌上に、“Wooden Horse Method”と名づけて紹介された。城内(生体細胞)に送り込まれたトロイの木馬(赤血球)の中に兵(高分子物質)が潜んでいたという連想だった。
その後、故内田驍助教授(当時)がウィルスの構造を模した高分子物質導入法を開発した。人工リポソーム内に導入したい物質を封印し、リポソームの表面にはウィルス外膜に分布する融合反応誘発たんぱく質を植え付けておく。この基本形を元にして生体内の組織細胞に遺伝子やたんぱく質を導入するプロジェクトが意識されてくる。新設の細胞工学センターに移ってから、金田安史助手(現細胞生体工学センター助教授)も加わってラットの肝臓でヒトインシュリンを作らせる実験に成功したのもその一つである。
その次の工夫が「HVJリポソーム法」である。これには金在萬助教授(現京都薬科大学教授)によるウィルスの加齢現象の観察が役立った。この方法によってヒトにしか発症しないB型肝炎ウィルスの遺伝子の一部をラットに導入して肝炎を発症させる実験に成功した。遺伝子治療研究では、遺伝子などの運搬体の研究が世界各国で進められているが、「HVJリポソーム法」が、今のところ日本から発信された唯一の実用的導入法である。
赤血球ゴースト法
HVJリボゾーム法(電子顕微鏡による観察)
実学が基本
私は、父親の願いもあって、医者を志した。結局基礎医学の道を進むことになったが、研究生活を通して、生きた細胞への人為的操作ということをやってきたなかで、常に病気治療ということは頭を離れなかった。研究の成果が、遺伝子治療などに少しでも役立つならば、若い頃の志が、実を結んだことになる。自分の研究のなかでは治療というところまでいかなかったものも、次の世代に受け継がれ研究が進められているのは、うれしい限りである。
現在、ライフサイエンス振興財団の経営に携わることになって、ようやく実社会のしくみがわかってきた。半官半民の組織であるこの財団は、生命科学を研究の面でも、また、応用の面でも推進していこうという団体である。故山村雄一先生(元大阪大学総長)の念願を引き継いで理事長になったが、けっして経営は楽ではない。しかし、ここで、若いころヨット部で習いおぼえた大阪方式のしたたかさを大いに役立てている。これまで研究生活一本でやってきたが、好きなことのできる研究者はじつに恵まれた存在だと改めて感じている。
現在のもう一つの関心は子供たちの教育だ。情報化時代になって、なんでも「虚学」になってしまっているようで気になる。実学をベースにしなければいけない。その点、教育委員をしている高知県の水産高校で会った髪を染めた若者たちは希望をもたせてくれる。自分で表現しようとしているからだ。彼らを応援したい。若い人たちが将来に向かって夢を抱けるようにすることが今の願いだ。