昆虫と絵画好きの少年時代

昭和8年、名古屋の生まれです。生家は木製の機械部品をつくる工場を営んでいましたが、五男坊の私は父から「おまえが家業を継ぐことはないのだから、好きなことをして生きなさい」と言われていました。父は自然や生きものが好きで庭で様々な動物を飼い、よく私を山に連れて行ってくれました。その影響もあってか、小学生の頃からチョウやトンボなど昆虫採集に明け暮れていました。もう一つ得意だったのが絵を描くことです。学校での評価も高かったので、ある時、画家になりたいとの思いを父に打ち明けたところ「横山大観になるくらいの才能がなければ食べてはいけないぞ」と諭され、諦めました。

高校時代、将来について大いに悩みました。生きものが好きだからといって、生物学者になっても当時の日本では食べていけるはずはないと思ったのです。自分の力で生活できる道を考え、医者を志すことにしました。聖書を読みはじめたのも悩み多きこの頃です。人生の道しるべを求めてのことでしたが、次第に内容に惹きこまれ、特に旧約聖書の世界に夢中になりました。その後、大学に入学してから出会い、生涯の仕事となった発生学はキリスト教と深い因縁のある分野ですから、不思議な縁を感じます。教会には通わず終いでしたが、今でも小説を読む感覚で聖書を時々手にとります。

 

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16歳の時の昆虫図鑑の模写。幼い頃からチョウやトンボが好きだった。

絵の依頼がつないだ恩師との縁

当時、医学部に進むには、先ず医学進学コースで教養課程を過ごすことが必要でした(この制度は2年で廃止)。名古屋大学の医学進学コースに入学しましたが、同級生のほとんどが医者の子どもで、家業を継ぐことがほぼ決まっているからか、あまり真剣に学んでいるようには見えません。医家出身でない私は彼らより苦労が多いことは明らかです。どうせなら、好きなことで苦労したい。高校の時に諦めた生物学者への思いが再び湧き上がってきました。当時の名古屋大学では、教養課程で学部の先生方がかなり専門的な授業をして下さっていたので、2年生の時、理学部生物学科の佐藤忠雄先生(名古屋大学名誉教授、故人)による組織学・比較解剖学の授業をうけました。生体の構造を知り、改めて生きものそのものへの興味が増しました。

ある時、佐藤先生に研究室に呼ばれ「君に本の挿絵を頼みたい」と言われました。佐藤先生は東大を卒業後にドイツに留学し、発生学の大家ハンス・シュペーマンハンス・シュペーマン【Hans Spemann】[1869 – 1941]ドイツの発生生物学者。ヒルデ・マンゴルドとともにイモリ胚の移植実験を行い形成体(オーガナイザー)作用を発見した。これにより、1935年ノーベル生理学・医学賞を受賞している。の弟子となった方です。シュペーマンの一番弟子であり、シュペーマンの伝記を執筆したオットー・マンゴルドオットー・マンゴルド【Otto Mangold】[1891 – 1962]ドイツの発生生物学者。イモリ卵の融合実験や神経板の誘導に関わる研究を行った。妻のヒルデ・マンゴルドもシュペーマンに師事した発生生物学者であったが1924年に26歳の若さで亡くなった。との親交もあった佐藤先生はこの伝記の日本語訳を進めていらしたのです。2つの挿絵に手を加え、さらにシュペーマンの自宅の絵も描いて欲しいとおっしゃるのです。黄色に変色した小さな写真を私に手渡されてね。「君の解剖図は非常に立派だ。ぜひ挿絵を描いてほしい。」こんなところで絵の才能が生かせるとは思いもしなかったことでしたから、喜んで引き受けました。

佐藤先生は福井松平家の直系で、昭和天皇と同級でしたので小姓のようなお役目として小学6年生までを皇居で過ごされたのでした。そのお育ちから、立ち居振る舞いもどこか私たちと違い、近寄りがたい雰囲気がありみんな怖がっていました。ところが、挿絵のお仕事を通して、人間味のあふれる先生の人柄がわかるようになりました。ご自身は多くを語られませんでしたが、先生の思想には多難な時代背景が影響していると感じています。ドイツに留学されていた1920年代から30年代はナチスが台頭し、少しずつ社会が変わってゆく時期でした。研究室の中にはヒットラーに信服していった科学者がいる一方で、ユダヤ系の仲間はアメリカへ亡命していくなど穏やかでない時代だったわけです。11年間の留学からの帰国後は、世界中が戦争に巻き込まれた時代になります。日本もドイツも敗戦し国や社会に絶望を感じ、人間とは何かを深く考え続けていらしたのだと思います。もともと生家は日蓮宗だったそうですが、私が出会った時には敬虔なキリスト教徒でした。佐藤先生の科学者としての姿勢、一人の人間としての人格に強く惹かれ、生物学科への転向を決意しました。

挿絵は、法政大学出版局の編集者が気に入って「名古屋にこんなに腕の立つ画工がいるのですか?」と聞かれたと佐藤先生が嬉しそうに教えてくださいました。そして、「君は医学の道を進むのだから残念だけどこれでさよならだね」とおっしゃるのです。「実は生物学科に変わること決めました」と告げると大変驚かれましたが、決して私の研究室に来なさいとはおっしゃいませんでした。先生のそういう面を知り、一層魅力を感じて弟子入りしたのです。

大学4年生の頃。生物学科の同級生は9人、先生は生徒の倍以上いらっしゃりとても恵まれた環境だった。(本人:左)

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佐藤先生に依頼されて描いたシュペーマンの家。『発生生理学への道―ハンス・シュペーマンの生涯と業績』(O.マンゴルド著、佐藤忠雄翻訳・法政大学出版局)に掲載された。

生涯の研究テーマと出会う

佐藤先生は、ドイツ留学時代からイモリの水晶体水晶体動物の眼にあるカメラのレンズにあたる組織。他の動物組織にくらべ、タンパク質の含有量が著しく高く、その大部分を水溶性タンパク質クリスタリンが占めている。クリスタリンが透明タンパク質として機能することで、水晶体のはたらきが保たれている。再生の研究をされていました。これは、1895年 にドイツ人のウォルフ(Gustav Wolff)が論文を発表して以来連綿と続けられてきた古典的なテーマで、その萌芽である眼の再生研究は18世紀から論文が残っています。そもそも再生研究は実験発生学の源流といえる、古い歴史をもつ分野です。生きものはすべて神様の創造物であるという考えが浸透したキリスト教社会では、受精卵からの初期発生過程を操作する研究はタブーとされていたのです。その一方で完成した個体を扱う再生研究は18世紀初頭から科学的に行われていました。

ひと口に再生現象と言っても動物種や器官によってきわめて多様です。その中でも水晶体の再生は、傷が部分的に修復されるのでなく、水晶体を失ったところから、丸ごと新たにつくられるという特殊な現象として注目されていました。佐藤先生は研究テーマを自由に決めなさいとおっしゃいましたが、私はウォルフの論文以来の研究に興味を抱き、水晶体の再生を選びました。この時、卒業研究のテーマとして2つの論文が渡されました。一つは先生ご自身のもの、もう一つはイタリア人のポリツァー(G.Politzer)が佐藤先生の結論を否定しているものでした。どちらが正しいか決着をつけなさいというわけです。水晶体の再生では瞳の黒い部分(虹彩色素上皮細胞)から再生細胞が供給されること、再生はかならず背側(上縁部)から起こることが観察されていました。そこで当時の研究者は、どうして虹彩の一部からしか再生が起こらないのかという問いに関心を寄せていたのです。佐藤先生は眼と視神経の立体的な位置関係によって、再生場所が決定することを移植実験から演繹されていました。それに対して、ポリツァーは単眼奇形(一つ眼)のイモリで虹彩の側面から水晶体が再生しているものを見つけ、視神経の位置と再生部位は関係ないと反論していたのです。

これは、「大変なことになった」と思いました。そもそも単眼奇形のイモリなんて見たこともありません。途方にくれましたが、マンゴルドの1931年の論文に手術で単眼奇形を作ることができるとあるのを見つけました。発生の早い時期に胚の神経板を切り開き、将来、眼になる領域(脊索前板)の一部を取り除くのです。それからは夜を徹して、1年間で約5000個もの胚を手術しました。奇形度の異なる個体がたくさん生まれたので、それぞれどこから水晶体が再生してくるのか実験しました。その結果、奇形度に応じてさまざまな場所から再生が起こるけれど、そこに規則性が見えてきました。視神経ができない単眼奇形の場合、再生場所は限定されず虹彩の全周で再生が起こるのですが、視神経をもつ単眼奇形では佐藤先生がおっしゃるように必ず視神経と最も離れたところから再生するのです。

先生に報告すると、非常に喜ばれ早速ドイツ語で論文を書こうと言われました。教養部で2年習っただけの語学力では無理だと思いましたが、1ページずつでもいいから持ってきなさいとおっしゃるので、辞書を片手に一生懸命書いて持っていきました。先生の手が入り真っ赤になって戻ってくるというやりとりを何度もくり返していたある日、ついに「わかった、まずは日本語で書いてきなさい」とおっしゃって、私を隣に座らせドイツ語を教えながら論文を書き上げてくださいました。この時、序論からどのように組み立てていけばいいのか、論文を書くうえで大事なことをすべて教わりました。先生からの提案で著者の記載は「Sato and Eguchi」となっています。先生が責任者として後ろに名前つけるのが通例ですが、佐藤先生は「論文にするのは手伝ったが、実験は100パーセント君がやった仕事で責任者は君だよ。でも、自分で自分の論文の欠点を正すということは非常に喜ばしいことなので、私の名前も書かせてくれ」とおっしゃったのです。この言葉を聞き私はますます先生に惚れ込みました。その後、私が佐藤先生の下で発表した論文は、すべて単著にしてくださいました。

正直に言えば、卒業研究のテーマをいただいた時は「なぜ佐藤先生とポリツァーはお互いに重箱のすみをつつきあうような研究をしているのだろう?」 と感じ、はじめは夢中にはなれませんでした。しかし、細かい作業を要する大変な実験をくり返すうちに、次第に水晶体再生研究の世界に引き込まれていったのです。次の実験として先生からさらに細かな点を検証する技巧的なテーマを提案されました。それをやりかけていた時期にちょうど先生の兄弟弟子であるヨハネス・ホルトフレーターヨハネス・ホルトフレーター【Johannes Friedrich Karl Holtfreter】[1901 – 1992]ドイツ出身の発生生物学者。ハンス・シュペーマンに師事し、カイザー・ウィルヘルム研究所所員、ミュンヘン大学教授などを経て、米国へ渡りロチェスター大学教授となった。形成体(オーガナイザー)の誘導作用についての研究や、細胞同士の親和性の研究を行った。が研究室を訪ねてきました。食事をご一緒した時のことです。彼は突然、私の前で佐藤先生に向かって「江口のような優秀な人材に、今のような仕事をさせていてはいかん。これはおまえさんの趣味みたいなもんだ」と発言したのです。先生はさびしそうに「そうか」と一言おっしゃいました。佐藤先生の下で一流の研究者同士の会話を直接聞く機会に度々恵まれ、随分と勉強になりました。その時行っていた実験は途中でやめることになりましたが、私はその後も水晶体の再生研究を生涯の研究テーマとして50年以上続けました。多様な再生現象の一つといえども、その中には計り知れない拡がりと複雑さとがあり、一旦その世界を見てしまった以上他のテーマに移る気がしなかったのです。

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イモリの水晶体再生 絵:江口吾朗

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正常な眼をもつイモリ個体と、胚の手術によって生まれた奇形度の異なる単眼奇形の個体の比較。(江口,動物学雑誌1957および未発表による)

絵:江口吾朗、出典:『水晶体の再生―組織細胞の分化転換』(江口吾朗著・岩波書店)

古典的再生研究と電子顕微鏡技術の融合

水晶体の再生過程で細胞を供給する虹彩色素上皮細胞は、メラニン色素の合成を特徴とする黒い細胞です。分化した黒目の細胞が、全く特徴が異なる透明なレンズの細胞へと変身するのですから、一度発現した形質を失わなければなりません。私はその過程を精緻に観察するために、研究室にある光学顕微鏡ではなく電子顕微鏡を使いたいと考えました。当時としては大変高額な機器で、生物学研究の予算は微々たるものでしたから相当なおねだりです。佐藤先生は、四苦八苦して研究費を通してくださって、小型の電子顕微鏡が研究室に設置されました。

電子顕微鏡で固定した試料から像を得るだけでは静的な解析にしかなりません。再生過程で刻々と変わる細胞の実態を捉える、動的な解析がしたかった私は観察の工夫を常に考えていました。水晶体摘出後に時間を追って多数の試料をつくり解析すると色素上皮細胞の形態の著しい変化と、それに伴う細胞内小器官の変化がみえました。例えば、核は球状に肥大化し小胞体やリボソームが急増します。写真からリボソームの個数を計測し経時変化を定量的に示す解析にも成功しました。また、細胞内の色素顆粒が徐々に移動して細胞外へと放出され、それを遊走性の細胞が貪食するという、細胞同士の関わり合いも見えてきました。さらに誰もやっていない観察に挑もうと、一つの固定試料から極薄の連続切片を60枚ほどこしらえて写真を撮りました。それを1枚ずつ重ねていき、細胞内の三次元構造を手作業で再構成し描き出したのです。ここから、誰も見たことがなかったミトコンドリアのダイナミックな変化が明らかになりました。色素上皮細胞のミトコンドリアは粒状ですが、水晶体の細胞へと分化を始める時は、大型できわめて複雑な形態に変化していくのです。先生はこれらの成果を高く評価してくださいました。世界に先駆けて水晶体再生研究に電子顕微鏡を導入し、独自の成果を出せたことを私自身も今でも誇りに思っています。自分が指導する立場になって実感しましたが、人を育てる時にはあれこれ教えず、自ら考えてやらせるのが一番です。きちんと見て大事なところだけ舵取りをすればよいのです。

1963年からサルモネラ菌のべん毛研究をしていた朝倉昌さん(名古屋大学名誉教授、故人)と共同研究を始めました。名古屋大学の食堂でたまたま隣同士になりお互いの研究の話をしたことがきっかけです。細菌の運動器官であるべん毛の繊維はタンパク質フラジェリンが連なったチューブ構造をしています。朝倉さんはべん毛の形成過程はある種の結晶化だと予想し、試験官の中でべん毛の断片から全体を再構築することを試みていました。そこに私の電子顕微鏡解析の技術が役立ったのです。試験管の中でべん毛の成長過程を連続的に追跡したところ、べん毛の小さな断片を足がかりにフラジェリン分子が集まり、完全に再構築することがわかりました。フラジェリン分子はべん毛の中心の空洞を通って先端へと運ばれ、一方向に重合し成長していくことも見えてきました。この共同研究は水晶体の研究と並行して1968年まで続け、当時、日本のべん毛研究の先駆者だった遺伝研の飯野徹雄さん(東京大学名誉教授、故人)と3人で論文を3つ出しました。専門の異なる者同士が議論しながら研究を進めてゆく経験は大きな糧になりました。

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アカハライモリの虹彩色素上皮細胞の水晶体細胞への変身の過程で電子顕微鏡によって観察される細胞構造の変化の概要。No:核小体、N:細胞核(Eguchi, Embryologia 1964の図を改変)

絵:江口吾朗、出典:『水晶体の再生―組織細胞の分化転換』(江口吾朗著・岩波書店)

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水晶体への分化を始めた細胞で観察された大型で複雑なミトコンドリア。連続超薄切片像から再構成し描いた。Lp:細胞質構造、N:細胞核

絵:江口吾朗、出典:『水晶体の再生―組織細胞の分化転換』(江口吾朗著・岩波書店)

米国での決意

1964年、アメリカ・カーネギー発生学研究所所長のジェームズ・エバート(James D. Ebert)に呼ばれ、研究発表をする機会を得ました。発展途上国から将来性ある発生生物学者を招待する企画で、日本の代表に選ばれたのです。すでに論文を8つほど発表してはいたものの、まだ博士号をとっていませんでした。佐藤先生に「学位がないと外国では一人前に見なされないから、出発までに取得しなさい」と言われ、出発までになんとか間に合わせました。教授の先生方が応援してくださったおかげです。

カーネギー研究所で電子顕微鏡での再生研究の成果を中心に発表したところ驚くべきことが起きたのです。質疑応答を終えた私のところに先生方が次々と集まり口々に「私のところで働かないか?」とおっしゃったのです。まるでプロ野球選手の契約交渉みたいに、「月に800ドルでどうだ?」とか「ほかはいくら出すと言っているかい?」という調子で破格の待遇を示されましたが、即答は控えました。一つ疑問に思うことがあったからです。当時、日本の若手研究者がたくさんアメリカへ渡っており、すぐに論文が出てすごいなあと感心しながらも、帰国後は元気がなくなり成果が出なくなってしまうのです。いったいどういうことなのか、自分の目で確かめないかんと思いました。

カーネギーでの発表後、いくつかの研究室のセミナーによばれ、謝礼も貯まったので「もうしばらくアメリカにいさせてください」と佐藤先生に電報で頼みました。そして、1カ月ほど東海岸の大学を巡り、日本人のポスドク生活を見てまわりました。わかったことは、日本人は英語があまり得意でなく社交も下手だが、勤勉で雇い主にとって実に好都合な働き手だということです。留学先のテーマに合わせて研究しながら、日本で培ってきたものをすべて吐き出してしまうのです。2、3年で契約を終えて帰国し、短期間で成果を出そうとすれば留学時代と同じテーマを続けることになりますが、資金が潤沢な本家アメリカには勝ち目がなく、研究の世界から姿を消してしまうわけです。私は誘いをすべて断りました。2度とアメリカからお呼びがかからなくてもいい、日本でしかできない仕事をしなければいかん。Made in Japanの研究でいこうと決めたのです。その時、改めて再生研究を続けることの意義を実感しました。当時の日本の再生学は世界に冠たるもので、佐藤先生だけでなく岡田要さんなど優秀な先生方がいらしたからです。

世界で初めての分化転換の証明

京都大学の竹内郁夫さん(現・基礎生物学研究所名誉教授)から電話がありました。新設される生物物理学教室に助教授としてきて欲しいと岡田節人さん(JT生命誌研究館名誉顧問、故人)が言っているが、来る気はあるかというのです。岡田さんは私の電子顕微鏡を使った再生研究と、べん毛研究の成果を高く評価してくれていたのです。しかし、なぜ直接連絡をしてこないのかと尋ねると、名古屋大学を度々訪れていた岡田さんは私たちの研究室のことを「カビの生えたような古めかしい研究をしている人たち」などと陰でおっしゃていたと言うのです。そんなことを言った手前「懺悔しないと電話はかけられない」と竹内さんにたのんだのだそうです。岡田さんは国際的な情報収集能力と、研究の本質を見るするどい眼力をもつ科学者であると同時に、非常に人間臭い方でした。若い時から学会などで会っていましたが、派手な格好と巧みな話術で目立つ存在でしたから、優秀な人だが信用ができないと思い、はっきり言って苦手なタイプでした。実は、私がカーネギーに滞在中にその岡田さんがエバートの研究室に留学を始め、1週間同じ部屋に泊まることになってしまったのですよ。一緒に暮らすと人間の本質が見えてくるものです。この時に自分は岡田さんを随分と誤解をしていたのだと気づきました。この体験がなければ私は岡田さんの誘いを断っていたでしょうね。1968年に京都大学へと移ることにしました。この時、学生だった竹市雅俊君(現・理化学研究所多細胞システム研究センター チームリーダー)も一緒についてきました。水晶体再生の研究は岡田研の中心テーマとなり、ここで私の研究は新たに展開していきました。

京大は学生運動の真っ只中でした。しかも私は理学部の学生委員長として学生との対話の責任者に任命されてしまい、研究どころではない大変な毎日です。そこで、時間がなくてもできることを工夫しましたね。水晶体再生で虹彩色素上皮細胞が水晶体の細胞になる過程については、個体を用いた研究や眼の器官培養によって詳細な観察事実が蓄積していました。しかし、これらは状況証拠にすぎず、本当に黒目の細胞がレンズの細胞へと変身していることの証明にはなりません。証明するには、完全に単離された細胞を出発点とする細胞培養系で追跡するしかありません。岡田研ではさまざまな細胞を培養する実験系が展開されており、最先端の技術がありました。細胞は生かしておくだけでも大変で、培養液や培養条件の確立には細胞の機嫌を見る熟練した眼と知識が不可欠なのです。

イモリの細胞は培養が非常に難しく、なかなかその方法が確立できませんでした。培養が簡単なニワトリだったら上手くいくかもしれないと思い、単離した黒い虹彩色素上皮細胞を培養して観察し続けたところ、100日後に見事に透明な水晶体細胞になることを捉えたのです。「やった、本当にレンズができた!」と喜んでいるところに、岡田さんがやってきました。そんな単純な実験で上手くいくわけはないと思っていたようで最初は受け入れてくれませんでしたが、私の克明な実験ノートを見て結果に納得してくれました。この結果を1973年に発表しました。動物のからだの中では組織や器官に応じて分化した細胞が、独自のはたらきを維持し個体を支えています。細胞の運命が決まっていない未分化な状態から分化した細胞への変化は一方通行で、後戻りしないというのが当時の常識でしたが、私たちは分化した細胞がその形質をいったん失い別のタイプの細胞へと変身する「分化転換」を世界で初めて証明したのです。細胞分化の本質に迫る成果であり、後にiPS細胞の発見などにつながる幹細胞生物学の展開の源流にもなりました。

続いてイモリの細胞での分化転換の証明に挑みました。イモリの細胞は増殖するまでに長い時間がかかるうえに、炭みたいに真っ黒で、生きているのか死んでいるのかも分かりづらいため忍耐がいる作業でした。我慢してしつこく観察を続けたら色素を吐き出して分裂をはじめやがてレンズの細胞になったのですよ。さらに神経細胞にもなることをつきとめました。ニワトリの細胞培養には、二酸化炭素の供給が必須ですが、イモリには必要ありません。変温動物か恒温動物かという、生き方の違いによって細胞の性質も違うのです。人間様の考えをおしつけず、細胞そのものを丹念に観察し、あちらの声に耳を傾けることが大事なのです。そうすればきちんと答えてくれます。

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培養系で色素細胞がレンズの細胞へと変身することを確認した実験。絵:江口吾朗

イモリのレンズを食べる寄生虫の発見

イモリがレンズを再生できるようになったきっかけは、レンズを失うこと意外に考えられないでしょう。ところで、実験室ではいとも簡単にレンズを再生するのに、自然界では再生過程のイモリを見かけないのはなぜだろう。こう考えた時、「そういえば、採集の時にいちいち確認していなかったな」と気づき実験材料のアカハライモリを採集しながら、日本各地で調査を行ったのです。1960年代のことです。リュックの中に倍率10倍の小さな顕微鏡を入れての行脚を続け、愛知県と福井県で再生した水晶体をもったイモリを見つけました。研究室で水晶体を取るときは角膜を切るので痕が残りますが、そのような外傷はなく内的要因によってレンズを失ったことは明らかでした。眼の中の水晶体だけを失うということが、自然界でも起こりうるのです。

原因を探る調査を続け、私はイモリの水晶体に生息する寄生虫を発見しました。これは、偏形動物の吸虫類(トレマトーダ)の一種で、水晶体の中に生息して柔らかい繊維を溶解吸収し、ついには水晶体そのものを退化させてしまうのです。種の同定もできず、生活史の詳細も未だ不明ですが、寄生虫と宿主の関係は、その種が地球上に出現して以来の長いお付き合いのはずです。この関わり合いの中でイモリの見事な再生能力が維持されてきたと私は考えています。

イモリは何度レンズを再生できるのか?

1976年に京都大学を離れて名古屋大学教授となり、1983年から定年まで基礎生物学研究所の教授を勤めました。その間に私は爬虫類を含む複数の脊椎動物の色素上皮細胞の分化能を試験し、脊椎動物の色素上皮細胞は潜在的にレンズまたは神経細胞に分化転換する能力を保持していると結論づけました。私たちヒトは水晶体の再生能力をもってはいませんが、ヒトの色素上皮細胞はレンズへの分化転換能をもっているのです。分化転換のしくみを岡田研出身の研究者たちが遺伝子解析から追い、安田國雄さん(現・奈良先端科学技術大学院大学名誉教授)と近藤寿人さん(現・京都産業大学教授)のグループがそれぞれレンズを作るタンパク質クリスタリンの転写制御因子を見つけてくれました。

実は私には学生の時からずっと取り組みたかったけれど手をつけられずにいた問いがありました。「イモリは何度水晶体を再生できるのか?」です。再生するためには原料が必要でそれは永劫あるはずはないと思ったのです。例えば、人間の皮膚で細胞が入れ替わる生理的再生も若い時は数ヶ月周期ですが、歳をとるとだんだん長くなり、やがてほとんど起きなくなります。水晶体再生も同じように再生回数や加齢の影響をうけるはずだと私は考えていました。イモリの水晶体は1度摘出してから再生し元の大きさになるまでほぼ1年かかるので、同じ個体を使うと1年に1回程度しか実験ができず、この研究には長い時間が必要です。性急な成果が求められる大学や研究所で取り組むのは難しいと諦めていましたが、実体顕微鏡とイモリさえあればいいのでお金はかかりません。そこで引退後の仕事にしました。

1994年、愛知県岡崎市で採取した30匹のイモリに1回目の手術を行いました。その後、私は思いがけず熊本大学の学長に任命され、イモリとともに引っ越しをしました。それからは、自宅のリビングに水槽を置き、妻の幸子(故人)に世話をしてもらいながら実験を続け、手術したレンズは遺伝子解析ができるよう全部冷凍保存しました。そして、16年かけて18回もの手術を行い、イモリはおよそ30歳に達しました。

17回目と18回目の再生水晶体を若いイモリ個体の正常な水晶体と比較したところ、組織構造には違いがないことがわかりました。さらに、名古屋大学時代の弟子であるパナジオティス・トニス(Panagiotis A Tsonis、当時デイトン大学教授、故人)の力を借りて、クリスタリンとその転写制御因子のmRNAの発現量をみたところ、17回目、18回目の再生をしたイモリと1回もレンズ再生を経験していない若いイモリでほぼ同じという結果が出たのです。予想に反しイモリのレンズ再生能力は、再生回数や老化の影響を受けないことがわかったわけです。 2011年に論文を発表すると、竹市君が早速連絡をくれ「僕が学生の時から先生がこの研究をしたいとおっしゃっていたのを覚えていますよ」と言ってくれました。

イモリの水晶体は何度でも同じように再生できることがわかりましたが、手足や尻尾の再生には限りがあります。18年目に19回目のレンズ再生をしたイモリをつかい、トニスたちが水晶体と尻尾の遺伝子発現を比較する網羅的な解析をしてくれました。一度もレンズ再生を経験していない若いイモリと比較した結果、やはり水晶体は再生を繰り返した加齢イモリでも若いイモリと変わらない転写プログラムを示し、再生回数や年齢に影響を受けない頑健なしくみをもつことがわかりました。対照的に一度も再生を経験していない尻尾は加齢に特徴的な遺伝子発現を示しました。必要なタンパク質をつくるための転写プログラムがきちんとはたらけば、原料は枯渇せず何度でも同じように再生ができるということが見えてきたのです。ゲノム研究が進んだことによって、ゲノム中の遺伝子以外の領域が転写調節などの機能をもつことがわかってきていますよね。哺乳類の中でヒトが進化してきた歴史をみても、新しい遺伝子の獲得などほとんどありません。遺伝子の使い方が変わったのです。再生現象もそれと同じで、遺伝子の使い方の工夫で実現していると言えるのです。18年に及ぶ実験と網羅的な遺伝子発現の比較から再生現象の本質を示すことができました。

イモリはこの地球上にこの姿で現れてから約3億年の間、姿形を変えずに続いてきました。イモリゲノムはヒトゲノムの約20倍の長さがあります。無駄なものを溜め込んでいるように思うかもしれませんが、そうではないのです。自分たちがこれからも今までと同じように生き抜いていくために必要なものなのです。「いつイモリは降参するのだろう?」という素朴な問いから出発した研究の結果、レンズ再生に関してイモリは降参しないことに加えて、なぜ降参しないのかという意味がわかり、これで満足と思える成果にたどりつくことができました。

研究者にとって大切なこと

いい研究者になるのに一番大切なことは、一緒に過ごす人を選ぶことです。科学は人間がやるものです。誰を師と仰ぐのか、誰と一緒に研究するのかが非常に重要です。次に、問題意識をもつこと。自分の問いは何か、何を知ろうと思っているのかをはっきりさせなければいけません。それが決まれば、解くためにどういう技術がいるかを検討し、それが自分にない場合はどうすればいいかと策を練る。それをさえ克服したらいい研究者になれるはずですよ。

佐藤先生との出会いから始まった研究生活を振り返り、改めて実感するのは、生きものの個体を扱う研究は生きもの自身が現象の真髄を語ってくれるということです。遺伝子をみればその遺伝子の歴史はわかるかもしれませんが、種の歴史を知るためには、個体そのものを見つめなければいけません。研究者に必要なことは彼らにまなざしを向け続けることなのです。私は長年イモリを使い再生現象を追ってきました。イモリという動物は再生現象の本質を語ってくれる動物なのだとつくづく思います。

日本産アカハライモリのリトグラフ 作:江口吾朗

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97年に岡田節人さん(1列目前列左から5人目)が開催したシンポジウム「発生生物学の半世紀」にて。弟子の竹市雅俊君(2列目左から5人目)とは名古屋大学から一緒に岡田研に移った長い付き合いだ。(本人:2列目左から7人目)

学長は職員と学生を合わせて2万人を抱える経営者だ。研究現場を離れ、大学運営という新しい現場での挑戦だった。