絵描きから生物学者に

初対面の人で、私の職業を言いあてる人は少ない。「強いて言えば大学の先生?でもちょっと変だし…。何だろ」となる。

1953年、京都大学理学部に入学したとき、私を迎えた研究室の人たちも変なやつが来たととまどったようであった。じつは私は画家の卵だったのである。

私の父は日本画家(画号光瑤)であった。花鳥画をレパートリーとした父の集めた野鳥や蝶の標本に囲まれて育った。それらをスケッチし、父の写生行にくっついていく幼少時代であった。やがて絵描きになることが当然のように育った。それが中学に行く頃から、自然科学にあこがれを感じるようになり、旧制第三高等学校への進学を唯一の進路と思うようになっていた。

ある日、筆で巻紙にしたためた長尺の手紙を父から渡された。おまえは、今では科学者になりたいと思っているようだが、つらつらおまえの性格を見るにつけ、絵描きになることも今一度真剣に考えなおしてみてはどうかと思う、一言で言えばそういうことを、さまざまの観点から延々と論じ、綿々と綴ってあった。単純に俺の跡を継げ、というおしつけではなく、子の進路を思う切々とした真情に、心はゆれた。いろいろな先生方と相談して進路を決めたほうがよいと、数学の秋月康夫、国文学の佐々木信綱、画家の小野竹喬といった大先生を紹介してくれた。しかし、こんな大先生の話はいくら何でも中学3年生には重すぎる。ただただ消化不良。1年後には相談相手の父親がポックリ死んでしまった。このあまりにも方向の違う2つの進路の選択に頭は空転し、悶々とした日が続くことになった。

結局、京都美術専門学校(京都市立芸術大学の前身)に入り、絵の道のプロをめざした。しかし、論理の欠落した絵描きの世界はどうも居心地が悪い。卒業後、画家の修行は続けながら京大の理学部に入り直した。どちらも実践すればひとりでに答は出ようというわけである。実験をしていると心の落ち着く自分に、こっちのほうが向いているのではないか、と徐々に傾いた。とどめは、上村松篁先生の一言だった。「私は楽しゅうて描いてるんや。鳥見るときれいや。描きたい。それだけや」。ああ、自分は絵描きではない――目からうろこが落ちた。画家への道は放擲した。

石崎博士の学徒動員に際して、父が形見としての思いをこめて表装した博士5歳の時の絵。

自作の昆虫標本の前で。6歳。父親の画室にあった蛾の標本の美しさが博士の心を捉え、自分でも昆虫採集や標本作りに熱中するようになる。

父の集めた珍しい野鳥の剥製をスケッチしている。

父、光瑤画『雪山花信』の前で。光瑤は竹内栖鳳門下の琳派の流れをくむ画人だった。

市川教授の情熱

昆虫の変態には、脳から分泌される前胸腺刺激ホルモン=PTTH、前胸腺の分泌するエクダイソン、アラタ体から出る幼若ホルモンの、3つのホルモンが関与していることがわかっていた。エクダイソンと幼若ホルモンはすでに精製、構造決定の寸前になっていた。

私の所属した動物発生学講座の市川衞教授は、PTTHが前胸腺を刺激してエクダイソンを放出させるという研究成果を得ながら、当時の昆虫ホルモン学界の大御所ウィリアムス(ハーバード大学)に発表の段階で遅れをとり、無念の涙をのんでいた。そのため、今度は構造決定を是が非でもわが手でというのが彼の悲願となっていた。

脳ホルモンの精製、構造解析には膨大な金と労力が必要だ。戦後すぐの日本では資金的、その他どの面からみてもおぼつかず、市川の心情を理解しながらも、誰もやりたがらなかった。

これからの生物学はケミカルな、物質を相手にしたものでなければならないというのが、研究生活に入ったばかりだった私の、青臭い青年の気負いであった。その思いにはピッタリである。やれるところまでやればいいじゃないかと、挑戦することにした。

市川衛博士。前胸腺刺激ホルモン(PTTH)の構造決定の悲願を石崎博士に託した。

京大助手時代。脳ホルモンを取り出してひたすら活性を調べる毎日。この頃はほとんど一人でやっていた。

ウィリアムスを抜く

脱皮直後の蛹から脳を取り除くと、ホルモンの供給が絶たれ、成虫への分化が停止する。この除脳休眠蛹に注射した検体にPTTHが含まれていれば、発生が再開して羽化するはずである。

ホルモンの抽出源としては、大量に入手可能なカイコを使用し、羽化を促すかどうかを調べるためには、病気に強く、飼育が簡単なエリサンの蛹を使うことにした。エリサンはヤママユガ科の一種だが、エリサンの除脳蛹にカイコの脳を移植すると、羽化が誘導されることがわかっていた。カイコもエリサンも同じ物質が羽化を促すと思われた。後になって、それが大変な間違いだと気づくのだが…。

ウィリアムスは、セクロピアサンの脳からPTTHの抽出を試みたが成功せず、「脳から活性を示すに足る量のホルモンを抽出することは事実上不可能である」と論文に書いていた。誰もがそれを信じていた。私はそれが本当かどうかを確かめるところから始めた。カイコの脳から水で抽出した物質をエリサン除脳蛹に注射したところ、何のことはない、あっけなく成虫分化が引き起こされてしまったのである。ウィリアムスとの違いの“みそ”は、セクロピアサンとエリサンの性質の違いにあることが、後になってわかった。この結果は1961年の『ネイチャー』に発表され、大きな話題になった。ウィリアムスの論文を鵜呑みにしていたら、この仕事は始まらなかっただろう。

この論文の出る直前の、大磯で開かれた国際比較内分泌学会で、私はたまたまウィリアムスと食卓で隣りあわせた。「君は何を研究しているのか」「カイコのPTTHの精製をしている」と答えると、何も出るまい、東洋の若僧が生意気な、というふうだった。「水で簡単に活性物質が抽出される」と説明すると、ウィリアムスは矢継ぎ早に細部についての質問を連発したあと「おまえの取ったものは本物だ。おまえは正しい」と絶叫し、立ち上がって固く私の手を握った。

『Naiture』vol.191,pp.933-934,1961年。
誰もが信じていたウィリアムスの説をくつがえした論文。

昆虫ホルモンの権威ウィリアムスが京都を訪れた時のスナップ。生まれたばかりの長女と。ボンビキシンが単離された時、成人式を迎えていた。

前橋の蚕種会社から大量にもらい受けた交尾後の雄蛾は、ダンボールにつめて、いったん製菓会社の倉庫で冷凍し、農閑期に農家の主婦を雇ってカイコの頭を切り取った。

田村教授との出会い

ホルモンを精製するには、抽出物の純度を飛躍的に高めねばならない。そのためには、膨大な量のカイコの脳をつぶす必要があった。

カイコは、蚕糸業で名高い京都府綾部市の郡是製糸(株)と蚕試綾部支場に、汽車に乗って仕入れに行った。エリサンの食草のヒマは動物学教室の中庭で栽培し、人工肥料は高いので天秤棒で肥桶をかついで人糞を運んだ。顕微鏡下で、カイコの脳をつまんで引っ張り出す。少し慣れれば1匹につき数秒で取り出せる。毎日10~12時間、体が動かなくなるまで取り続けて、1000個。それをフリーザーに入れて保存し、2万個たまるごとに一回実験をした。

純度を上げる過程で、この物質がたんぱく質であることもわかり、これも『ネイチャー』を飾った。しかし、構造解析というゴールに到達するまでには、されに純度を上げねばならない。20万個の脳を使って、9000倍の比活性上昇までいったが、これ以上は一人の生物学者の能力の限界を超えていた。

あきらめていた私に手をさしのべたのは田村三郎教授(東大農芸化学科)である。天然物有機化学の専門家である田村は、以前からカイコの変態ホルモンに関心をもっており、PTTHの構造解明は日本人の手でぜひ成しとげたいと熱っぽく語った。

ほどなく田村は退官したが、鈴木昭憲教授が跡を継ぎ、私は名古屋大学に籍を移した。すべての精製作業は東大で行ない、凍結乾燥標本が速達で送られてくる。私はエリサンを飼って除脳蛹をつくり、活性の有無を東大に報告する。もはや、なまじの量の抽出材料ではお話にならず、東大グループは、前橋の蚕種会社から年間1000万匹のカイコの頭の入手ルートを確保した。

これだけの材料と力を投入して、単離に成功したのは、1982年。一匹のカイコに含まれるホルモンは、わずか数ナノグラムとわかった。ただちにアミノ酸配列の決定が始められ、4年後、ついに一次構造が決定された。この精製、構造決定は、主として長澤寛道博士(東大海洋研教授、当時は農芸化学科院生)の不屈の努力に負うた。研究を始めてから26年たっていた。

左:カイコ 右:エリサン

カイコ終齢幼虫。「食べるわ食べるわ、世話が大変」

エリサン除脳蛹。「これをけちっては良い仕事にならない」

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カイコの脳に含まれる2つのホルモン。 カイコの脳はPTTHのほかに、エリサンの前胸腺を刺激してエクダイソンを分泌させるボンビキシンをつくっている。PTTHはやや側方の2対の細胞(左)、ボンビキシンは中央部4対の神経分泌細胞(右)で作られる(それぞれのホルモンが赤く染められている) 。

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ヒトインシュリンに似たホルモンが昆虫にもあった。
ボンピキシンは、ヒトインシュリンと同じく、A,B2本の異なるペプチド鎖からできていて、そのアミノ酸配列にはインシュリンと数十%の相同性が見られる。人の糖尿病にかかわる膵臓ホルモンと、カイコの変態にかかわる脳ホルモンが、同じ祖先分子から進化してきたことを明確に示し、ホルモンの進化を考える人たちのあいだに大きな衝撃を与えた。

思わぬ展開

アミノ酸配列の解明から、このホルモンは驚くべきことに、脊椎動物のインシュリン族ペプチドと高い相同性をもつことがわかった。私たちの仕事は、脊椎動物以外で、インシュリン族ペプチドの存在をその構造から直接的に証明した最初のものとなった。

しかし、得られた純品をカイコの除脳蛹に注射してみたところ何の効果もなく、カイコは眠り続けるのみ・・・・・・。

カイコの脳の粗抽出液中には、カイコだけに効く分子量2万2000のペプチドと、エリサンのみに効く分子量4000のペプチドが混在していて、精製の途中で分離し、われわれは後者を追いかけていたのである。カイコで活性検定をしていた蚕糸試験場の小林勝利博士らのグループが2万という数字を出していた。私たちのデータと大きく食い違っており、ずっと不審に思いながら、大きい数字は夾雑物をくっつけている場合があると考えると、われわれが正しいに違いないと自信をもっていた。じつは、彼らの捉えていたほうが、真性のカイコのPTTHだったのだ。私たちがカイコのPTTHと思いこみ、追いつめたホルモンは、カイコの学名ボンビックス・モリにちなんで新たにボンビキシンと名づけられた。

気をとりなおして再び数百万匹のカイコの頭を集め、本物のPTTHを精製し、ついに構造決定にたどり着いたのは、1990年のことである。この仕事は片岡宏誌博士(東大助教授、当時院生)の奮闘による。紆余曲折はあったが、PTTHとボンビキシンの二つの脳ホルモンを得ることができたのである。

ストラスブールの無脊椎動物ホルモン学会で(1983年)。

30年にわたった研究に対して日本学士院賞が贈られた(鈴木昭憲、石崎宏矩共同受賞)。

画家だった頃。個展会場で。多少デカダンに染まっていた。

個展を開いた時の新聞評。「頑固な作品」と評されている。

3次元構造

PTTHのアミノ酸配列を見ると、何となしに脊椎動物の成長因子(グロウス・ファクター)と似ている。立体構造のキーを握るべきSS結合の位置や疎水性、親水性アミノ酸の位置がそっくりなのである。たまたま隣の研究室の郷通子教授が非常に興味をもち、3次元構造のモデリングを行った。それは成長因子の構造とよく一致していた。カイコの脳ホルモンは、脊椎動物の初期発生の誘導にかかわる重要な物質として今話題の成長因子と祖先を共有しているのだ。生物現象というのはあちこちで、がんじがらめに網の目みたいにつながっていて、古典的な話が突然最先端に結びついたりする。

生物学の時の流れを踏まえたうえで、このテーマを冷たく眺め直せば、つくづく古くさいことをやってきたものだと思う。この手の仕事は意気込みしかない。ようするに、馬鹿に徹するかどうかである。多くの研究者がPTTHの解明にチャレンジし、挫折した。私たちがこのホルモンの研究に徹し切っていなければ、現在、そしておそらくは10年たっても、この重要な分子の構造は解明されていなかっただろう。少しは誇ってもよいように思う。

京都大学の助手時代、助教授だった岡田節人先生(現生命誌研究館館長)に、「カイコの首切っていったい何がわかるんや」と聞かれたことがあった。現象の重要さ、そこにかかわる分子の重要性は十分認識したうえでの、より深い哲学的な問いかけであった。私は「おもしろいからやっているんや。哲学的な大構築はなくてもええのや」と居直った。岡田は拍子抜けしたような苦笑をもらした。今、「私は楽しゅうてたまらんから描いとるんや。それだけや」という上村松篁先生の言葉を思い出す。30年研究を続けて松篁先生と似た境地を得られたのは、幸せなことだったと思う。

私にはやはり、絵描きとしての資質が多少眠っているらしい。昨年、名大を退官後、私は半分絵描きに戻っている。サイエンティストでも芸術家でもない、ただ物好きの目で、蝶や蛾を描き始めている。

アメリカ留学時代に登ったワシントン州の山。カメラを担いで一人冬山にも登る。絵への欲求を写真で満たした。

キノコに寄生するキノコバエの分類は退官後のもう一つのテーマ。緑の中にいると、にこにこしてしまう。

美の対象にも科学の対象にもならない虫の姿を描き出したいという。