歴史と文学に興味をもった少年時代
生まれは滋賀県の愛知川(えちがわ)です。家は代々続いた医家で、私は8代目です。父は地元で開業医をしていました。その頃の開業医は、昼夜関係なく電話がかかってきていましたので、父は深夜、早朝も往診していました。子供心にも、医者って大変だなと思いながら父を見ていました。父は大学卒業後間もなく軍医としてフィリピンに送られ、米軍にジャングルへと追いやられ九死に一生を得て帰国したと聞いています。父は、学生時代に生理学の教室に出入りしており、帰国後も医学研究に強い憧れを持っていましたが、生活のために開業を余儀なくされ残念がっていました。父は「研究者の仕事は、偉い先生も学生もなく公平だからいい」とか「教科書に書いてあってもそのまま信じてはダメ。自分の目で確かめないと」とよく話してくれました。私が研究者になったのは、そういう父親の研究への憧れも大きく働いたのではないかと思います。もっとも、研究はいいというのは抽象的な話で、それがどんなものなのか知る由はありませんでした。
生物学者の多くが昆虫少年やラジオ少年だったと聞きますが、私はどちらでもありませんでした。小学校の夏休みの宿題でセミやチョウを集めるなど人並みにはやりましたけれど、医者の長男として育てられ、川など危ない場所には行ってはいけないと言われていたのです。おまけに小学3年の時に急性腎炎で半年間休学してからは益々ひ弱になってしまい、本を読んで過ごすことが多くなりました。大正時代の教養主義からか、家には様々な文学全集があり、小学校時代は子ども向けの万葉集から始まって、落窪物語や宇津保物語などを読んでいました。日本の歴史が好きでした。中学校時代は、建築で有名なメレルヴォーリズメレル・ヴォーリズ(1880-1964)キリスト教伝道のため1905年(明治38年)に来日し、全国で教会や学校、ホテルなど1600件にものぼる建物を設計した。代表的なものとして、同志社大学啓明館・アーモスト館、関西学院大学や神戸女学院大学の建築物群がある。その活動分野は幅広く、建築から医療、教育、社会事業までおよぶ。が作った近江兄弟社学園で学びました。これはキリスト教主義の学校で母がプロテスタントでここに通ったのですね。聖書を読み、神の存在について考えたりしました。そのあと高校は彦根東という県立高校に進み、夏目漱石、芥川龍之介、志賀直哉などを手当たり次第に読みました。とくに、永井荷風
永井荷風(ながい・かふう)(1879-1959)小説家。当代文明への嫌悪を語りながら、江戸戯作の世界に隠れ、花柳界など下層狭斜の風俗を描いた。『断腸亭日乗』は荷風37歳にあたる大正6年9月16日が第1日目で、それから死ぬ前日まで続いた日記。の文体が好きでした。今でも文体に惹かれ、時々『断腸亭日乗』をひもとくことがあります。ですから、文章を書くのは苦になりません。結局は医学部に入りますが、高校3年生の一学期までは文学部に行こうかと思っていたくらいです。でも、自分で小説や詩を書くことはなかったですね。ただ読むのが好きで創造性がなかったと思いますから、文学部に行っていたら大変だったでしょうね。
生化学との出会い
私が育った時代は、大学生は古典的教養を持って然るべきと言う時代でしたから、高校生のときから教養を広げたいと思っていました。そこで、京都大学入学後、岩波100冊の本シリーズを読み、ゲーテやヘッセ、シュトルムなどの作品をドイツ語の原文で読みました。後述する当時の政治状況もあり、英書でジョージ・オーウェルジョージ・オーウェル(1903-1950)イギリスの作家。全体主義を諷刺した寓話「動物農園」、反ユートピア的な作品「一九八四年」のほか、「カタロニア賛歌」などの著作がある。の『Homage to Catalonia』や『1984』などを読みました。この頃はまだ、生きものへの興味は持っていませんでした。大学一回生の生物学の講義は、下鴨神社で樹々をみたり大学構内の植物を集めるだけでしたので、全く魅力を感じませんでした。二回生になって、生態学の原田英司(京都大学教授・故人)先生が私たちの生物学の担当になり、医学部生がDNAも細胞も知らないのは大変だということで、専門の生態学そっちのけで細胞生物学の講義をしてくれたのです。鞭毛が9+2の微小管構造を持つこともこの時初めて知りました。基本的な体の構造や機能を知ると同時に、生きものには共通性があることを知り、生物学に興味が出てきました。この頃から、文学だけでなく『細菌の性と遺伝』や岩波が出した『現代の生物学』というシリーズの生物学の本も読むようになりました。
医学部進学を控えた2回生の2月、大学紛争が始まりストライキに突入しました。70年安保や多発する公害の中で、日本を変えるには革命しかないと思っている若者が多くいました。確かに、そのときの日本はいろんな矛盾をかかえていましたし、彼らは真剣でした。しかし、私は社会矛盾を解くには即革命だという短絡的な考えには抵抗がありました。機動隊にゲバ棒や鉄パイプで対抗し、ヘルメットをかぶって石を投げるという彼らの行動を見て、他人を傷つけてもいいだけの真理がそこにあるかという疑問を持ちました。「紅旗征戎非吾事」という藤原定家の言葉がありますが、不安な時代の中、何があったとしても揺るぎない検証可能な事実をベースに生きたいという気持が強くなりました。
その年の12月にやっと紛争が終わり、翌年から解剖学の授業が始まりました。解剖学では、胸を開くと、脊柱や血管、気管、胸腺など個別の組織がある。それは理解できましたが、全体としてそれを縦隔と呼ぶことが腑に落ちなかったのを覚えています。機能と切り離して構造だけを覚えることが苦手で、試験に出ても答えられなかったんですよ。生物学が好きな人は形態が好きな人が多いですが、私は形態が苦手で、後に臨床医になってもレントゲン写真の画像を読むのが下手でした。パタン認識ができずに本当に医者に向いてるのだろうかと悩みました。でも、医学はそれらも含めて一つの体系をなしていますので、医学研究はこれらの概念を駆使して行われています。今になってみると苦手な形態学も習って良かったと思っています。その頃に、後に師事する医化学教室の早石修先生(京都大学名誉教授、財団法人大阪バイオサイエンス研究所理事長)の講義が始まりました。早石先生のことを初めて知ったのは高校生の時です。父が新聞で見つけて説明してくれたことを覚えていて、講義を楽しみにしていました。アブラハム・ホワイトらが書いた『Principle of Biochemistry』という英語の教科書でしたので、予習するにもいちいち辞書を引かなきゃならない。おまけに初めて出会う言葉が多く、なかなか頭に入らなかったですね。読んでいて白々と夜が明けることもしばしばでした。この苦労のお陰で、生化学は物質を基盤にして生物原理、生体事象を解き明かすことができそうだと気付いたのです。私にとっては、中学高校の生物学は現象と形態の記載以上の何者でもなく、解剖学も頭から形態と名前を覚えることは苦手でした。大学に入ってやっと自分に向いている学問に出会ったのです。
モノに触れ、親しむ
この頃、早石先生の教室で第3の核酸が発見されたという新聞記事が出て驚きました。これは後に、DNA修復を助けるポリADPリボースとわかるのですが、これでいよいよ生化学への関心が高まり、実験がしたくなりました。早石研ですでに実験をしていた同級生の岡純君(国立健康・栄養研究所名誉所員)に聞くと、ポリADPリボースの研究をされているのは上田國寬先生(京都大学名誉教授)とのことでした。岡君に連れて行ってもらったその日に上田先生から「実験をやってみますか」と聞かれ、アルコールの酸化を触媒するアルコール脱水素酵素(ADH)の分析手法を習いました。ADHが働いたときに生じるNADHの量を340nmの吸光度で計り、モル吸光係数の概念を教えてもらいました。
基礎的な実験でしたが、感動しましたね。今考えると、ADHの反応は先生ご自身のお仕事ではなかったので、我々学生のためにわざわざ実演してくださったのですね。感動した私は早速、上田先生に弟子入りして先生の研究を手伝うことにしました。先生はその頃、ポリADPリボースが修飾する核タンパク質の同定とポリADPリボースを分解する核内酵素の研究をされており、岡くんがすでに後者を手伝っていたので、私は前者を手伝うことになりました。この実験では、基質であるNADの放射性標識体が必要になるのですが、当時はまだ売っていなかったので自分で作りました。このころは、朝から晩まで実験に熱中する生活でしたね。標識したNADを加えた細胞を培養し、NADが取り込まれた核タンパク質を分けるんです。追いかけていたタンパク質は、ヒストンらしいと推測されていたので、ヒストンを塩酸で抽出し、カラムで分離しました。ヒストンの種類が豊富なことや、当時はよい技術がなかったこともあって、この同定は困難を極めました。一方岡君は、ポリADPリボースを分解する酵素の活性測定をしていました。この酵素はリン酸ジエステルの部分を切断すると推測されていましたが、その証拠がなかったのです。私の実験では、タンパク質に結合した標識重合体が大量にできますので、これを酵素で切ってみたら活性が同定できると考え、上田先生に提案し実験をしました。約半年かかって、酵素はリン酸ジエステルの部分ではなく、リボースとリボースの間のグリコシド結合を切断することを発見しました。確認実験を終え、丁度夏休みだったので、岡君と二人で旅に出ました。2ヶ月後、ラボに帰ってくると様子が変です。私たちの調べた酵素が国立がんセンターの杉村隆先生(国立がんセンター名誉総長)のところでも同定され、Journal of Biological Chemistryに載ったというのです。私たちは学生だったのであまり気になりませんでしたが、上田先生はショックだったでしょうね。見てみると、黒板に“Today is the first day of the rest of your life.”という言葉がありました。早石先生がやって来られて「がっかりするな。また次があるよ」とこれを書かれたのです。この一件で、サイエンスには競争があることを知りました。
臨床を経て医化学へ
私が学生だった時代は、医学部4年のうち2年半がストライキというひどい状況で、後半はものすごく忙しくなりました。夏休みもなく、毎週試験でだんだん実験もできなくなりました。その間に、ハンス・セリエの書いた『夢から発見へ』を読んだのです。この本は、何のために実験するのかというところから始まり、ノートの記入法、論文の書き方、学会の発表方法などが書いてある当時としては珍しい本でした。セリエはストレスという言葉を初めて使った人で、普通、病気の人が亡くなればその原因を探ります。肺がんで亡くなれば肺を見るし、胃がんなら胃を見るというふうに特定の臓器だけを見ますよね。でもセリエは、病気が人体に及ぼす共通性を探したのです。そして、消耗性疾患で亡くなった人は必ず副腎が萎縮していることを明らかにし、これがストレスによるものだと発表します。今では、ストレスという言葉はいろいろな意味で使われていますが、これが生理学でいう本来のストレスです。この時代に共通性を見ているのは本当にすごい事ですし、偉大な研究者だと思います。この本は、個体全体を見ることの大事さとともに、医学にどう向き合うか、どう問いかけ、どう実験をデザインするかなど大きな示唆を与えてくれました。良い本に巡り会えたと思います。
ところで、いよいよ医学部を卒業するという時に、早石先生が岡君と中尾一和君(京都大学医学研究科教授)と私の三人を蕎麦屋に連れて行って下さり、大学院進学を勧められました。しかし、医学部に入ったのに臨床を経験しないのは何か忘れ物をするような気がしたので、内科で研修することにしました。同じ病気でも一人一人違うことを痛感しましたね。患者さんと向き合う中で、病気の進行につれ患者さんの体や心に様々な症状が現れる、このメカニズムを解き明かしたいと思いましたが、そのころの臨床医学のレベルでは、このような解析は難しいと思いました。また、日々違った患者さんの相手をして、その対応に追われて一生を過ごして満足して死ねるかとも考えたんです。そして、何らかの形でも永遠に残るものを発見できれば、悔いなく死ねると思い至りました。キリスト教には親しみましたが、神の存在は否定していましたからこんなこと考えたんですかね。京大病院での研修医生活も終わりに近づいた頃、岡君が医化学教室の山本尚三先生(徳島大学名誉教授、現、京都女子大学教授)に話しに行くから一緒に行こうと誘ってくれました。そこには早石先生もいらして、「君等どうする。うちの教室に来るか?」と聞かれました。患者さんを見るのは嫌いではありませんでしたが、岡君が「はい」と答えたその勢いで、付いてきた私まで医化学教室の大学院に入ろうと決めたのです。
上田先生はスタンフォード大学のアーサー・ コーンバーグ博士(Arthur Kornberg)のところに留学されてたので、ニューヨークから帰国されたばかりの高井克治先生(東京大学名誉教授)にご指導いただきました。最初の1年間はベンゾピレンという発癌物質の活性化メカニズムを研究しました。ベンゾピレンは、芳香族の多環系化合物で動物に与えると癌ができます。その過程に酸素が関わっていると予想されていたので、それを確かめようとしたのです。そんな物質を何の保護もなしに扱っていたので、とても恐かったですね。本来だったら発癌をテストするバイオアッセイと並行して活性化メカニズムを調べるのですが、早石研ではそういうことを考えてなかったのです。危ないので止めたいと思っている頃、発がん性をテストするAmes testや発がん物質の活性化にP450が関わってることなどが報告されて、早石先生から研究を中止するお許しがでました。ホッとしました。このことから、早石先生も実験に関するすべてをご存知なわけではなく、自分の実験はあくまで自分で考えることが大事なのだと気づきました。次に、高井先生の下、宇城啓至さん(三重短期大学教授)、野田洋一さん(滋賀医大学教授)と私の三人で、ニューヨークから高井先生が持ち帰られた緑膿菌の新規トリプトファン分解酵素の反応の同定と新規代謝経路の決定を始めました。まず、酵素精製に精を出しました。とにかく、精製を始めたら最終的な目的物を得るまで三日三晩昼夜働き続けるのです。早石研ではそれが普通でした。その甲斐あって酵素を単一にまで精製でき、その触媒活性と物理的性質を同定できたんです。また、この酵素から生じる代謝物を、元素分析、融点測定、UV、ガスクロマトグラフィー質量分析法、IR、NMRなどの分析手法を使って同定し、有機合成した化合物と性質を照らし合わせ、確かにその物質であることを証明しました。「立体異性体であっても融点が違うから、両方とも調べなさい」と早石先生に言われて、化学的な手法を叩き込まれました。大学院の4年間、そのテーマで研究しながら、得るものも多かったですが、一方もっと自分の医学の勉強をいかせる研究がしたいと思いました。
大学院を終えたら留学するのが当たり前の時代でしたので、どこに留学するかを仲間とよく話しました。当時盛んになり始めていた研究は、成長因子、高脂血症、そして、プロスタグランジン(PG)です。早石研の山本先生がPG研究を行っておられたこともあり、私は興味を持ちました。PG研究は1970年前後に急速な発展を見せた分野で、化学を中心としたスウェーデンのベンクト・サミュエルソンのグループと、薬理学を中心とした英国のジョン・ベイン(John Vane)のグループがこの分野を牽引していました。私は、その中でバイオアッセイを用いてPGの様々な生理活性や新規のPGを同定するベインの研究に強く惹かれました。彼は、後の1982年、アスピリンの作用機構の発見やプロスタサイクリンの発見でノーベル生理学・医学賞を受賞します。彼はその他にも同様の手法でアンギオテンシン転換酵素(ACE)の研究で名を成し、降圧薬であるACE阻害薬は彼の指導で作られたものです。彼がどうやって次々に生理学的に重要なことを発見しているかを知りたくて、ベインに手紙を出したのですが、私の前には700人近い応募者がいるとのことで、断わられてしまいました。その時、日付を書かないで手紙を出し、返事に“Thank you for your undated letter”と返事をもらったのも忘れられない思い出です。あきらめきれずに早石先生に相談すると、「今度ロンドンに行ったときにジョンに話してやるよ」と言って下さり、そのお陰で700人近い応募者を飛び越えて留学が決まったのです。
留学先での苦悩を日本で生かす
留学先であるウェルカム研究所は製薬会社の研究所で、ロンドン南郊の緑に溢れた牧歌的なところにありました。初代所長は、神経伝達物質のアセチルコリンを発見し、1936年にノーベル生理学・医学賞を受賞したヘンリー・デールで、英国の基礎研究の伝統が根付いた所でした。ベインに「何をやったら良いか?」と尋ねたところ、「なにをやってもかまわないから、自分で考えなさい。」と言われました。非常に困りましたね。最初手をつけたSRS-Aという物質の同定の研究はサミュエルソンらのグループに先を越されてしまいました。せっかく英国まで来たのに目覚ましい成果も出ず、将来の方向も見えずに悩んでいました。一年半が経ったころ、15-リポキシゲナーゼという酵素の研究で苦労しているときに、早石先生が学会参加のために英国に来られ、PGと脳の研究を始めたので手伝いに帰ってきて欲しいと言われたのです。このお誘いを有り難く受けましたが、その時に早石先生から「論文は書けているかい?留学中に一つでも論文を書かないといけないよ。」と言われ、15-リポキシゲナーゼの部分複製の論文を書き上げました。留学中に大きな仕事を成し遂げることはできませんでしたが、ベインの人となりと研究をみて、“様々な生理現象に自分なりの見方をもつこと、これをもって、薬物や毒素を用いて生体の機能を解析し、生体の作用のメカニズムやそれに関わる分子を発見するということの重要性”を学んだと思います。留学しても青い鳥はいませんでしたが、こうなったら、学んだやり方で自分で探すしか無いなと思い、日本に戻りました。
PGD2の生理活性を追いかけて
早石研の助手になって、教室の方針の下、それまであまり知られていなかったPGD2の生理作用の研究を行いました。このテーマは、清水孝雄先生(東京大学特任教授)が始められたのですが、私と入れ替わりに留学に出られるため引き継いだのです。早石先生は、このPGの生理的役割を明らかにするのが大事だと考えておられ、べインのところにいた私を戻されたのでした。この時期は、私にとって、PGD2の生理作用を次々と調べる列挙の時代でした。大学院生や共同研究者と一緒にPGD2を血小板や細胞、平滑筋に加えたり、脳内に注入したりして作用を調べました。また、それらの系で様々なPGD2誘導体を比較検討しました。私たちが明らかにしたPGD2の作用には次のようなものがあります。まずは、抗ヒト血小板凝縮作用です。血小板が活性化している時には血漿でPGD2が生成され、ヒトではそれが血小板の凝集を抑制していていること、また血小板にはそれを分解する酵素があることを渡邉毅さん(福島医大教授)と一緒に示しました。2つ目は、早石先生が最も関心を持っておられた中枢作用で、大学院生の大心池俊哉くん(故人)とヒトの脳でPGD2を測定し、その存在を確認しました。次いで、上野隆司くんがラットにPGD2を注入し、それが体温低下を起こすこと、ラットが眠ってしまうことを発見しました。PGD2の睡眠誘導作用はこのあと早石先生の大きなテーマになります。3つ目は培養細胞に対する増殖抑制作用です。いくつかのPGが細胞増殖に様々な効果を発揮することは知られていましたが、PGD2の報告例はありませんでした。福島雅典博士(先端医療振興財団 臨床研究情報センター長)と調べたところ、PGD2が濃度依存的に培養白血病細胞などの増殖を阻害することがわかったのです。私たちは、さらにPGD2が培養液中で脱水されてできる9-デオキシΔ9-PGD2とこれがさらに2重結合の再編成を起こしてできる9-デオキシΔ9, Δ12-13,14-ジヒドロPGD2が、より強い増殖抑制活性を示すことを見出し報告しました。これらの結果をもとに、私たちはΔ9-PGD2をPGJ2と命名します。こうして1983年に早石先生が御退官されるまでの3年間、助手として忙しく過ごしました。振り返るとこの期間は独立した研究者になるための助走期間だったと思います。
プロスタノイド受容体研究の開始とその展開
早石先生の御退官後は、自分のプロジェクトを進めました。自由に出来る反面、良いも悪いも自分次第で、このころから急に肩凝りが出始めましたね。肩凝りは今も続いています。上記のPGD2の生理活性を様々な誘導体で調べていくうち、PGの作用を介達する受容体がある筈と思うようになりました。しかし、受容体研究には、アゴニストとアンタゴニストアゴニストとアンタゴニスト受容体との結合により受容体の構造変化をもたらし、つづいて数々の生理作用を示す物質をアゴニストという。一方、受容体に結合してアゴニストの効果を阻害するが、それ自体は受容体と結合しても効果を発揮できない物質をアンタゴニストという。という拮抗作用を示す2つの物質が必要ですが、当時PGD2作用に拮抗する薬物はありませんでした。それを求めて出会ったのが、プロスタノイドの一つ、トロンボキサンA2です。これは、極めて不安定な物質ですが、強力な血小板活性化能を示し、脳梗塞や心筋梗塞などの血栓症の原因物質とされていました。このため、この作用に拮抗するTXA2類縁体構造をもつ物質がいくつかの製薬会社で作られていました。これらの会社から類縁体を入手し受容体の同定と精製を開始しました。まずは類縁体の放射性標識体を作り、それと結合する活性をヒト血小板で見出しました。次に、前後5カ年を費やしてこの活性を指標にヒト血小板より結合タンパク質を均一にまで精製して部分アミノ酸配列を決定し、cDNAクローニングによって、それがトロンボキサン受容体であることを証明しました。1991年のことです。これは、プロスタノイドに受容体が存在することを世界で初めて明らかにした研究です。
この研究をもとに、京大薬学部の市川厚先生(武庫川女子大学教授)と共同で、その他のプロスタノイド受容体のクローニングを開始しました。市川先生は肥満細胞を研究しておられ、肥満細胞が活性化される際にPGD2が大量に産生されることから、プロスタノイド受容体に関心を持っておられました。最終的には、プロスタノイドには遺伝子の異なる8種の受容体(PGD受容体、PGE受容体のEP1サブタイプ、EP2サブタイプ、EP3サブタイプとEP4サブタイプ、PGF受容体、PGI受容体及びトロンボキサン受容体)があることを明らかにしました。ついで、これら受容体の生理や病態生理での役割を知りたいと思い、それぞれの受容体に対する遺伝子欠損マウスの作成を思い立ちました。とは言っても経験がないのでどうしたらいいかわかりません。そこで、マウス遺伝学に詳しい同級生の西川伸一君(生命誌研究館顧問)に聞き、クラウス・ラジェウスキーのところから帰ってきた吉田進昭さん(東大医科研教授)を紹介してもらいました。彼のところに共同研究者を送り込んで、技術を習ったのです。こうして出来た遺伝子欠損マウスを様々な病態モデルとして、個体の生理と病態生理におけるプロスタノイドの役割を解析しました。このようにして、例えば、リポ多糖(LPS)やサイトカインによる発熱ではPGE2-EP3受容体経路が必須であること、また、妊娠末期の黄体ではPGF2α-FP受容体経路が活性化され陣痛のスイッチとして働くことなど様々なPGの役割を同定できました。トロンボキサン受容体研究を出発点として、プロスタノイドの多様な作用の詳細を明らかにしていったのです。
プロスタノイドの研究で今興味を持っていることはストレス行動での役割です。プロスタグランジンは炎症分子ですが、それが心理ストレスによって脳で生産され引き起こされる行動を制御していると考えています。例えば、EP1受容体欠損マウスは高い位置からでも平気でジャンプします。普通のマウスは断崖拒否反応といって高い場所に置くとうずくまって飛びません。あるいは、2匹の雄マウスをケージに入れて下から電気ショックを流すと、マウス同士は喧嘩を始めます。このとき、喧嘩を始めるまでの時間と喧嘩の回数をはかると、普通のマウスよりEP1欠損マウスのほうが早く喧嘩を始めるし回数も多いのです。また、1日に1回大きい体をもつICRマウスに出会わせイジメを受け続けたマウスは10日間ほどで社会逃避反応を示します。これに抗鬱薬が効くことから、これはマウスの鬱状態を表すと考えられています。この敗北ストレスによる社会逃避反応もEP1欠損マウスでは欠如しています。このことに興味をもつのは、これが、心理刺激が分子に変換される例だと考えているからです。普通、炎症は物理的、化学的刺激で起こりますが、私たちは、鬱状態は心理的刺激が脳内で炎症類似の反応を起こしていると考え、PGを含む炎症分子のこの過程での働きを明らかにしようと考えています。これができれば、全く新しい機序での抗鬱薬も夢ではありません。
何をやっても時間は過ぎる:沼先生をあっと言わせる研究を
話しは少し前後しますが、1985年の4月に薬理学教室に助手として移り助教授になりました。そのころに、分子神経科学の創始者の一人である沼正作先生(故人・元京都大学医学部教授)から電話があり、「成宮さん今どんな研究をしていますか」と聞かれたので、「トロンボキサン受容体の研究です」と答えました。そしたら、「なんでそんなことをやってるんですか。あなたの研究の経緯から言って大事なのはわかりますが、どうせGタンパク連関受容体でしょう。何をやっても時間は過ぎるのだからもっと大事なことしなさい」って言われたんです。自分としては、受容体を研究してPGの生理学的意義を明らかにしようと思っていたので動じることはありませんでしたが、同時に、これを機会に沼先生を超える研究をしようと考えました。沼先生はそのころ受容体やチャネル、ポンプなど細胞膜を介して細胞の中にシグナルを伝える分子を次々に明らかにしておられました。当時、花盛りの分野でしたが、細胞内に伝わったシグナルがどのようにして細胞反応を引き起こすのかは分かっていませんでした。私は、細胞内シグナルが細胞反応に変換されるメカニズムを明らかにしようと思いました。
研究を進めるにあたって、学生時代に行なったADPリボースの仕事、とくに、本庶佑先生(京都大学名誉教授)のジフテリア毒素の研究を思い出しました。私が学生の頃、本庶先生はジフテリア毒素がADPリボシル化酵素であり、ペプチド伸長因子を修飾してタンパク質合成を阻害することを見出されていました。それ以来、コレラ毒素や百日咳毒素など細菌毒素によるシグナル伝達素子のADPリボシル化が次々と報告され、シグナル伝達の研究に大いに貢献したのです。
私もこういうツールをとろうと思って論文を調べていたら、ランス シンプソンのMolecular Pharmacology of Botulinum Toxin and Tenaus Toxinという総説に出会いました。そこには、ボツリヌス毒素がフグ毒の約1000倍の効力を持つと書かれていたんです。フグ毒は1対1でチャネルに結合して働きます。その1000倍も効力が高いボツリヌス毒素は触媒活性をもっているに違いないと思いました。それをとってみようと思って、当時奈良医大助手だった大橋康広君を連れて、ボツリヌス毒素の大家である坂口玄二先生(当時大阪府立大学獣医学部教授)を訪ね、ボツリヌス毒素の扱いを習いました。毒素評品を用いて実験をしたところ、すぐにGTP結合タンパク質と推定できる21 Kdの分子がADP-リボシル化されることを見つけました。GTP結合タンパク質が神経伝達物質に関係するという論文が出始めた頃でしたから、これを用いて分泌の分子機構と低分子量Gタンパク質の役割を解明できると喜びました。しかし、後にわかるのですが、見ていたのは神経毒素でなくボツリヌス菌体外酵素(C3)の活性だったのです。後に神経毒素の活性はタンパク分解酵素であることが報告されました。少し残念でしたが、大事なことが隠れているに違いないと思い、当時第二内科から来ていた森井成人君(現在、森井内科クリニック院長)に均一にまで精製してもらいました。アミノ酸配列をみると、1985年にパスカル マドゥールとリチャード アクセルが見つけたGTP結合タンパク質Rhoであることがわかったのです。つまりC3はRhoを基質とする酵素だったのです。それなら、この作用や経路を詳しく調べてみようということで、C3を様々な細胞内に投与して細胞形態を見ました。すると、多くの細胞で細胞の球形化や数珠状突起の形成が見られました。加えて、神経由来の細胞にC3投与すると、元々小豆状の細胞体が広がり神経突起ができてくるのです。ただこの時点では、これらの現象が何を意味するかはわかりませんでした。
私たちがC3の基質がRhoだと同定したことはヨーロッパまできこえ、アラン ホールがRhoの研究に入ってきました。彼はRasがん遺伝子を研究していたことから、Rasの活性化変異にあたる変異をRhoに挿入しその表現型を観察しました。1989年に英国に行った時アランを尋ねてその写真を見せてもらいました。細胞が八手の葉っぱみたいな突起を出して強く収縮しているのが見えました。この時は2人ともそれが何を意味しているか分かりませんでした。帰国後もそのイメージが頭に焼き付いていました。あるときに、ふとこれがアクチンとミオシンから成るストレスファイバーの過剰収縮であること気づきました。アランも同じようにそのことに気づき、これがRhoがインテグリンを含む細胞接着斑とここから発するストレスファイバーの形成を誘導する分子スイッチであるという概念に発展しました。私たちはこの頃、東大の馬渕一誠先生と共同でC3を用い、Rhoが核分裂と細胞質分裂を繋ぐリンカーであり、アクトミオシンからなる収縮環の誘導を起こして細胞質分裂を遂行することを明らかにしました。これらのことから、Rhoが細胞で時空間依存的にアクトミオシン束の形成を起こすという概念が出来あがっていったのです。
残った問題はRhoが如何にしてアクトミオシン束を形成するかでした。私たちは、90年代の中頃にこの問題に取り組み、Rhoの作用を介達するエフェクタータンパク質としてROCKやmDiaを同定しました。ROCKはRhoによって活性化されるリン酸化酵素で、ミオシン脱リン酸化酵素やLIMキナーゼをリン酸化し、アクトミオシンの収縮を起こすのに加えて、アクチンが脱重合するのを抑制します。このROCKを細胞内で発現させると、アクトミオシンが過剰に収縮することがわかりました。一方、mDiaはアクチン重合を促進し繊維化アクチンを増やします。また、mDiaはRacを介して細胞の伸長を引き起こします。すなわち、これら2分子が協調したり拮抗して細胞の形を決定することがわかってきました。こうして細胞形態の変化を分子のはたらきで説明できるようになったのです。また、Rho-ROCK経路が血管や気管平滑筋の収縮や細胞の悪性化、あるいは、神経細胞の突起退縮に関与することもわかってきました。これらの研究で役立ったのが、吉富製薬が血管平滑筋弛緩薬として開発したY-27632です。私たちは、これがROCKの阻害薬であることを発見し、この薬物は世界の1000カ所以上でRho-ROCK 経路の役割を解明するのに使われています。また、脊髄を損傷後の軸索再生や抗緑内障薬として開発が考えられています。
医学の変遷と創薬
以上、私は自分の研究で幸いにもRhoとプロスタノイド受容体という2つの独立した研究分野を立ち上げることが出来ました。研究者として幸せなことですし、大きな喜びと誇りを感じています。この間、医学を取り巻く環境もずいぶん変わりました。いまでは、基礎医学と生物学は一体化しています。また、基礎医学と臨床医学の垣根が低くなり、病気を分子で語る事が出来るようになっています。生物学に違和感を持っていた私もRhoの研究を通して酵母や線虫、ショウジョウバエなどの生物学に親しみました。自分が送ってきた研究生活を振り返ってみますと、研究にはそれぞれ時代精神、世代精神が反映されていると思います。例えば、早石先生の時代は化学から出発されたので、化学反応や酵素の新規性が何よりも大切だったと思います。沼先生は、良くジャンピエールシャンジューの話をされましたが、アロステリック効果を含む蛋白質の構造と機能が大きな課題だったように思います。いまの構造生物学の時代を見られてどんな感想を持たれるかお聞きしたかったと思います。私たちの時代はと考えてみると、生体事象、生物事象、生理過程を分子で説明する時代であったと考えます。若い人達に大切なのは、今の時代の中で考えるのではなく、今の時代が次にどこに行くのかを考える事、その中で基本的で本質的な問題を見つける事です。研究室の若い人達には、この事をいつも話して、私を越える研究をしてくれる事を奨励しています。
私が個人の研究とは別に今力を入れて取り組んでいるのが産学連携による創薬です。医学部のミッションは、次世代の医師と医学研究者を養成すること、研究によって医学の知を広げる事の2つに加えて、得られた知を使って新規の医療をつくりあげることがあります。3番目のミッションは、イノベーションといえますが、その一つが創薬です。上述したように、医学の基礎と臨床は一体化して、病気を分子の言葉で語るようになってきました。この認識の上に立って、私が学部長のときに始めたのがアステラス製薬との恊働事業のAKプロジェクトで、免疫難病や慢性炎症に対する薬を作るのが目標です。また、AKプロジェクトをモデルにした産学連携を他社にも呼びかけて作ったのがMIC(メディカルイノベーションセンター)です。ここでは、武田薬品、田辺三菱製薬、大日本住友製薬、塩野義製薬の四社が、各々別々の疾患領域で京都大学医学研究科と共同研究を展開しています。薬を作って上市まで辿り着くのは、基礎研究の成果があれば必ずできるというような簡単なものではありません。また、大学だけでも製薬会社だけでも出来ません。ヒトゲノムの配列が決定され、ゲノム情報さえあれば分子標的薬ができると思われ、製薬会社はすべてこの方向に動きましたが、この方法では、ゲノム上の分子に対する薬は作れても、その薬をどのように使用していいか分かりません。このためには医学と恊働しなくてはなりません。ある場合には、ゲノム情報を創薬に利用するためには、シグナル伝達の経路をはっきりさせなくてはならないのです。時間も労力もお金もかかります。AKプロジェクトの標語は“Best drugs on best science”で、私はオリジナルな薬はオリジナルな研究からしか生じないと考えています。AKやMICの活動から創薬の成功モデルをつくり、人類の福祉に貢献したいと考えています。