佐渡の自然の中で
佐渡島の中心部、国仲平野の真ん中にある金井町で生まれました。大佐渡山脈と小佐渡山脈に挟まれていましたから、四季折々の山の変化を感じましたね。小さい頃から特に昆虫が好きで、採集してたくさんの標本をつくりました。サドマイマイカブリをドンデン山で見つけたときはうれしかったですね。JT生命誌研究館で大澤省三先生(名古屋大学名誉教授、元・JT生命誌研究館顧問)が研究されたオサムシの一種です。標本をたくさん作り整理もされていたので、中学から高校に上がる時かな、佐渡博物館に寄付しました。
僕の家では小学校4年生になると子供に畑が与えられ、好きなものを植えるんです。祭りで買ったナスやスイカを兄たちと一緒に植えるのですが、最初はなかなかうまく育てられませんでした。6年生の時、その畑で友達と2人で自由研究をしたんです。子供の仕事は草むしりですから、夏になると暑くて大変で、何とかしてこの草むしりをしなくてもいいようにと考えましてね。農業試験場で除草剤をもらい、畑を区切ってどの薬がどれくらい効くかを調べました。人生で初めての実験です。その他にも、気温の変化や天気図を記録したりするなど自然に目を向けて日々を過ごしました。ですから、生物学に進んだのはごく自然な流れでした。
中学2年生の頃だったでしょうか。高校教師をしていた叔父がトキの研究もしていたので、トキを見に連れて行ってくれました。体長は70~80センチ、羽を広げると1メートルにもなる。まさにトキ色で、明け方の青い空に飛んでいく姿を見て、その美しさに感動したことを今でも鮮明に覚えています。美しいトキを何とかして残したいと思い、種として存続していくためには何羽ぐらい必要なんだろうとよく考えましたね。中学校からバドミントンを始めましたが、高校では生物クラブにも所属しました。顧問の先生が郷土の自然をとても良くご存知で、日曜日にいろいろな場所の生きものを見せてくださいました。その先生に憧れて、自分も佐渡の高校の先生になり、研究テーマをもって生徒たちに教えたいと考えました。それで、東京教育大学(後の筑波大学)に入学したのです。
発生生物学との出会い
大学1年生の夏休みにリュックサックを背負って、1週間ほどかけて佐渡中を歩き回ったことがあります。人が行ける場所はほとんど行ったと思いますね。まだ電気が通ってない新穂村にも行き、ユキツバキの原種を見つけました。佐渡は相川・西三川などの金銀山が有名ですが、メノウや黒曜石、赤玉石などもあり鉱物資源が豊富な土地です。宝石が自然の中にごく当たり前にゴロゴロあり、それを海の中に投げたりしていました。生きものも含めて、佐渡で暮らしていた頃には当たり前と思っていた自然が、実は非常に貴重なものだったんだなと今は思いますね。
東京教育大学の理学部・動物学専攻には、進化論の啓蒙活動に貢献された丘英通先生やカブトガニ研究の第一人者・関口晃一先生(筑波大学名誉教授)、ホヤ研究の渡辺浩先生(筑波大学名誉教授)がいらっしゃいました。どなたも、派手ではありませんが画期的な実験をされていましたね。僕のついた渡辺先生は、独特の教育法をもっていらっしゃいました。下田の臨海実験所で、「キクイタボヤを採ってこい」とおっしゃるわけ。もちろん僕はキクイタボヤなんか見たこともないし、海の中を見ても何が何だかさっぱり分からない。マンジュウボヤやマメイタボヤ、あるいは良く似たイタボヤを持っていくと、「違う、私が求めているのはキクイタボヤ、学名Botryllus botrylloidesだ」とおっしゃるんです。やっと干潮期の岩場でキクイタボヤを見つけて持って行くと、にっこり笑って「うん、これだ」。実験室に材料をそろえてテーマを与えられるのではなく、自然の中から自分で生きものを採集して研究を始める大切さを教わったのです。キクイタボヤの飼育についても同じで、実験材料を良い状態で活かすことが研究の基本だということを学びました。卒業研究ではホヤの免疫学を選択したのですが、この時の様々なホヤを見分ける経験がとても役立ちましたね。卒業研究ではまずホヤをすりつぶし、遠心分離機にかけて上澄みを採取しました。そして、何種類かのホヤから採った上澄みをウサギに注射して抗体を作らせ、その抗体を使ってホヤの種特異的なタンパク質を見つけるのです。形態だけではなく、分子レベルでそれぞれのホヤの違いを調べるとても興味深いテーマでした。卒業研究の頃、ある進学校で教育実習をしました。自分なりにいろいろと工夫し、面白い実験を交えて指導したのですが、生徒たちはおとなしい。実習終了時の感想文に、「実験は面白かったけれど、もっと大学進学に役立つ授業をしてほしい」とあって、これにはがっかりしましたね。それで、大学院に行って研究をしようと決意したのです。
何を研究するかについては随分悩み、本をたくさん読みました。その時、神田の古本屋で出会ったのが、ハンス・シュペーマンハンス・シュペーマン
(1869-1941)ドイツの発生学者。動物の胚においてオーガナイザー(形成体)を発見し、1935年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。著『発生生理学への道』(佐藤忠雄訳)です。本の中には何人もの人が赤線を引いたりコメントをしたりしていました。この人たちはこういう箇所に注目したり、こう考えたりしているんだなと随分勉強になりました。その時、思い出したのです。佐渡にいた頃に一番面白いと思ったのは、産み落とされたカエルの卵が一斉に孵って、オタマジャクシになって泳ぎ出す、その変化だったと。さらにこの本を読み進むうちに、発生過程は最初から決まっているのではなく、初期に中心的な役割を果たすオーガナイザー(形成体)オーガナイザー(形成体)胚の一部であり、まだ分化していない他の部分に働きかけ、特定の分化(部域を伴う)を引き起こす機能領域のこと。という部分の働きによって決まっていくのだと1924年に分かったのです。シュペーマンはそれを見いだして、1935年にノーベル生理学・医学賞を受賞していましたから、この過程はすべて解決済みだろうとその時は思いました。ところが、藤井隆先生(東京大学教授・故人)の『細胞の増殖と分化』に、誘導を担う特定の物質があるはずだと書かれていたのです。まだそれは発見されていないということですね。そこで藤井先生を訪ね、誘導物質を探す研究をしたいと申し出たのです。でも先生は、「大学院では無理だ」とおっしゃった。1967年でしたから、シュペーマンのオーガナイザー発見後、世界中の多くの人が次は誘導物質だと考えて研究を始めてから約40年が経っていたことになります。それだけやっても見つからず、皆が手を引き始めていた時だったのです。京大と東大の教授を歴任した後に国立科学博物館館長をされていた岡田要先生も、「特定の物質はない。誘導は多数の物質によって進むのだ」とおっしゃっていました。「チョークの粉だって神経を誘導するよ」と。偉い先生がそう公言されるわけですから、皆一斉にそのテーマから離れていったのです。結局、藤井先生からは、「もし本当に誘導物質を探したければ、まずはきちんと実験手法を身に付けなさい」と言われ、大学院ではウニの発生を研究しました。
大学院が終わる頃に、自分は本当に誘導物質を探す研究をしたいのかと自問しましてね。やっぱりやりたかった。精力的に誘導物質を探していらっしゃった九州大学の川上泉先生に話を聞きに行ったところ、「学会でも相手にされないし、30年間科研費を貰えなかった」とおっしゃるのです。再び悩みましたね。そうこうするうちに仲間は就職が決まりましたが、私は就職口がありませんでした。どうしても誘導物質を探すテーマを諦められなかったので、論文を読んで、世界中でそのテーマを本格的にやっている研究者を探しました。そして、ドイツのハインツ・ティーデマン(Heinz Tiedemann)先生(ドイツ・ベルリン自由大学教授)を見つけたのです。ティーデマン先生は、1931年に黄色酵素の性質と製造法の発見によって、ノーベル生理学・医学賞を受賞したオットー・ハインリッヒ・ワールブルク博士の弟子です。ワールブルク博士には5人の弟子がいて、そのうち2人がノーベル賞を受賞しています。例えば、1953年にクレブス・サイクルの発見でノーベル生理学・医学賞を受賞したハンス・アドルフ・クレブス博士ですね。一方、ティーデマン先生の奥さんはシュペーマン博士の弟子でしたから、ティーデマンご夫妻の先生は2人ともノーベル賞受賞者なんです。そういう環境の中で40年間誘導物質を探し続けているティーデマン先生に、自分もそれを探したいという手紙を送りました。幸い、日本に職がないのなら研究員として採用するという返事がきました。そこで、3月の31日に日本を発って、4月1日からドイツ・ベルリン自由大学分子生物学研究所で働き始めたのです。
ベルリン自由大学の分子生物学研究所で
その研究所は誘導物質研究の中心で、ドイツ政府が多額の研究費を出していました。でも、ドイツではイモリは保護動物になっており、採集に行っても少ししか採れないのです。日本なら2時間で1500匹は採れるのに、ドイツだと車であちこちを転々として1週間かけても1000匹くらいしか採れない。生活水が流れ込む場所には全くいませんから、研究材料としてとても貴重でした。採ってきたイモリに自然産卵をさせ、生まれた貴重な卵の個数は実験室の表に書いておくんです。それを朝の9時頃にいらしたティーデマン先生がご覧になるという習慣でした。私は朝の6時半頃に来て、3人組になってニワトリの胚から誘導物質の抽出を進めるのです。分離操作の各段階で活性をチェックしながら、ピロリン酸などを加えて遠心機にかけるという操作を繰り返し、より純度の高いものへと精製していくのです。毎日、毎日、同じ操作を繰り返し、同じものを少しずつ集めて、3ヶ月くらいかけてある程度集まったら次の精製段階へと進みます。4月の初めから7月の終わりまでは、抽出物での誘導テストです。ティーデマン先生の奥さんがイモリの胚に手術をして、1年間かけて集めた抽出物を順次試していくのです。この期間は、ほとんど徹夜に近い状態でしたね。僕も、自分で胚の手術をしたり誘導のテストをしたかったのですが、先ほども言ったように実験材料のイモリの卵はとても貴重でしたからなかなか扱わせてもらえません。ティーデマン先生の奥さんの実験が終わり、次にハールハーバー教授、グルンツ助教授が使い、2人とも要らないときだけ余った卵(胚)をもらえるのです。普通は1度に80〜100個くらいの卵を使うのですが、4〜5個しか余っていませんでした。そんな中で少しずつ実験データを集めていったのです。
あるとき、初期胚の内胚葉胚葉動物の個体発生の原腸胚期に出現する、上皮的な構造の細胞層のこと。内と外、さらにその間に位置する3層からなり、それぞれを内胚葉、外胚葉、中胚葉という。部分を切り出して、その塊を未分化の外胚葉でサンドイッチ状にくるんだところ分化が起こり、しかも左右違うものになるという結果が出ました。ティーデマン先生に見せにいったら、「実験できるじゃないか」ととても喜んでくださいましてね。さらにデータをまとめてもっていったら、論文にして下さったのです。著者にAsashimaと入れていただき、嬉しかったですね。それからは、ニワトリ胚から抽出物の精製が終わるとすぐに実験ができるようになりました。おかげで手術や組織検定の仕方も含めてすべて自分でできるようになりました。2年半が経った頃、かつて指導教官の1人だった秋田康一先生(元・茨城大学学長・故人)が、ヨーロッパでの生化学会に出席された時に私のところに立ち寄られました。そして、「横浜市立大学で助教授を公募しているから応募してみたらどうだ」とおっしゃったのです。運良く採用され、その年の10月に日本に帰ってきました。1974年のことです。
もらい物と手作りの実験室で
いざ赴任してみると、月曜日から土曜日まで、しかも朝から晩まで授業と実習びっしりです。研究どころじゃありませんでした。授業では生化学や発生生物学を教えていましたが、医学部の学生も講義にでてきており、また他大学を出て編入学してきた学生がたくさんいました。30歳の僕より年上の学生もいたりして、そういう人が教室の前の方に並んで聞いているわけです。あるとき生化学の授業でミトコンドリアの呼吸鎖の話をしたら、みんながやたらと質問するわけですよ。若い僕をためすわけね。大体の質問には答えられたんだけれども、どうしても1つだけ答えられない質問があった。授業が終わった後に一生懸命に調べたんだけれども分からない。それで、その学生に「どうして君はそんなに詳しいの?」って聞いたら、「僕の博士学位論文のテーマです」なんて答えるんですよ。そんなこともありましたね。
平日は時間がありませんでしたから、土日に研究しました。けれども研究費は少なく、満足な実験施設もなく、助手もいません。ドイツと比べると天と地ほどの差ですよ。でも、やっぱり誘導物質を探したかった。名古屋大学を退官された発生生物学の山田常雄先生(名古屋大学教授・故人)が日本を離れるときに、たくさんの文献を林雄次郎先生(東京教育大学教授・故人)に渡され、林先生がそれらの膨大な文献をすべて僕に譲ってくださったんです。生きものは構造と機能を持って初めて生きものなのだと考え、それらの文献を構造と機能に徹底的にこだわりながら読みました。すると、先に出てきたチョークの粉で神経ができたという結果も、神経細胞ができたのであって、神経細胞が集まった組織構造や器官ができたわけではなかったのです。そういう目で文献を丁寧に読んでみると、本物といえる結果は少ししかない。まだ自分がやる余地がある、チャンスはあると確信しました。
もちろんイモリは自分で採りに行きましたし、風呂桶屋から風呂桶をもらって飼育に使いました。サンプルを保存する冷蔵庫は電気屋から中古をもらってきました。無菌操作用のクリーンベンチは、透明のビニールシートを天井から吊るして、その内側に紫外線ランプを取り付けて作りました。そうやって実験室を整えていったのです。まず試したのは、藤井先生が本の中で書いていらしたヒキガエルの背中と腹側の部分。ヒキガエルをたくさん集めることはできないので、医学部の解剖学実習で使ったものを譲ってもらいました。横浜市立大学以外にも東大や帝京大学、日本大学などいろんなところからもらいました。ヒキガエルの皮膚は硬かったですね。細かく刻んでさらにブレンダーですりつぶすのですが、誘導活性は思ったほどないし、硬くて少ししか集められませんでした。次はラットの骨髄、その次はヒト由来のヒーラ細胞、そしてラットの肝臓からも誘導物質を探しました。その頃からだんだんと実験の感覚がつかめてきましたね。
同じ頃に、九州大学の川上泉先生がフナの浮き袋で誘導効果を見いだされましたので、それも試しました。どうしてフナの浮き袋なんだろうと思って川上先生に尋ねたところ、「誘導物質は細胞間で働いているはずだ。フナの浮き袋は細胞間物質の塊のようなものだ」とおっしゃったのです。そこで僕も静岡の湖を拠点にする漁師に頼んで、たくさんのフナをもらいました。フナの浮き袋も硬かったですね。でもヒキガエルの経験がありましたから、1回に500匹くらいのフナの浮き袋を扱いました。フナで困ったのは、大きさの違うフナから取った浮き袋で活性が違ったことです。さらに、季節によっても違いました。なかでも一番困ったのは、精製後の抽出液を電気泳動して銀染色やクマシーブルーで染まったバンドではなく、染まらなかった部分から取り出したものに活性があったことです。学会で発表すると、「バンドのないところに活性があるのはおかしい。それは本物じゃないんじゃないか」と指摘されました。後で分かるのですが、濃度が低すぎて当時の方法では検出できなかったのです。さらに、「フナの浮き袋から取り出した物質を、イモリやカエルの胚に加えて誘導があったというが、違う生物種に効くのは変じゃないか」という指摘もありました。これも後で分かることですが、誘導物質には生物種間でかなりの相同性があったのです。でも何も分かっていなかったのですから、当時は厳しい質問でした。
一方で、僕の学会発表には偉い先生方が集まって来られるのです。中でも、名古屋大学の石崎宏距先生(名古屋大学名誉教授)にはすごく厳しい質問を浴びせられました。カイコからボンビキシンという脳ホルモンを発見された世界的にもとても偉い先生です。ある学会で石崎先生がパッと手を挙げて、「浅島くんは長いあいだ誘導物質を研究しているけれど、去年と今年でどれだけ違うんですか。活性はどれだけ上がっているんですか」と尋ねられたのです。そこで僕は「スライドにも示したとおり、去年より10%上がっています。去年と同じスライドは1枚も使っていません。」ときっぱり言いました。若気の至りですね。次の年の学会で発表後に石崎先生に呼ばれて、「君に対して厳しい質問をするのはなぜだと思う?」と聞かれたのです。「分かりません」と答えると、「私の退官までの10年間で誘導物質にチャレンジできるかどうかを君に問うていたんだ。でも、やっぱりとても難しいテーマだと分かった」とおっしゃったわけ。名古屋大学には先程も話した発生生物学の山田常雄先生が教授でいらして、そこは日本の誘導物質研究の中心でした。林雄次郎先生の他に弟子には岡崎令治先生(名古屋大学教授・故人)や大澤省三先生など蒼々たるメンバーがいて、石崎先生もその1人でした。さらに石崎先生はこう続けられた。「君が誘導物質を見つけたと言ったとき僕は信じるけれども、それが確実に1つの物質だということをきちんと証明してほしい。僕はもうできないから君に託すよ」。この先生は、本当に誘導物質を研究したいんだなと思いましたね。
アクチビンの発見
いろいろなサンプルを試し、背索や筋肉など形態的に分化していくことを示すことができるようになり、誘導物質があることは学会でも徐々に認められ始めました。でも、物質の同定には至りません。フナの浮き袋より大量に得られるものはないかと考えましてね。医学部や癌センター、あるいは製薬会社に頼んで細胞株の培養上清をかたっぱしから試したのです。その結果、K562あるいはTHP-1という白血病由来の細胞株に誘導効果があったのです。そこで、高速液体クロマトグラフィークロマトグラフィ物質の質量や電荷などを利用して、混ざり合った試料から特定の物質を分離・精製するための方法。高速液体クロマトグラフィーでは、カラムと呼ばれる円柱状の管に高速で溶媒を流すことによって、分離の能力を向上させている。DEAEカラムクロマトグラフィーでは、弱陰イオン性のジエチルアミノエチル(diethylaminoethyl)をもった交換体をカラムに充填し、電荷の違いを利用して目的の物質を分離する。を使って精製していったのですが、最後の最後で消えてしまいました。今でも良く覚えているのですが、ティーデマン先生のところでも半年かけて集めたサンプルを DEAEカラムクロマトグラフィーで精製したところ、最後の最後で消えてしまうということがあったのです。12月23日のことでした。朝から始めたのですが、夜になってもDEAEカラムクロマトグラフィーに入れたサンプルから活性のあるものが出て来ない。吸光度を計るなどして徹底的に皆で探しました。さらにティーデマン先生が、「DEAEカラムクロマトグラフィーのカラムに入れる前には活性があったのに無くなったということは、カラムの樹脂にくっついたんじゃないか」とおっしゃったので、カラムから樹脂を全部出して様々な方法で抽出操作をしました。でも結局見つからなくて、クリスマスイブはそれで終わりました。暗いクリスマスイブでしたよ。半年間が無駄になってしまったんですからね。その体験をハッと思いだして、あのときカラムの中に無かったのだから、物質は出てきているはずだと。精製の段階で分解したのか、複合体になっていたものがバラバラになって活性が消失したのかとも考えました。さらに溶液を集めるガラス管にくっついているのではないかとも考えたのです。そこで、あらかじめガラス管をアルブミンで処理して物質が付かないようにしたところ、溶液に活性がばっちり出たんですよ。それがアクチビンです。嬉しかったですね。1988年のことです。
一方で、アクチビンの濃度によって筋肉に分化したり血球ができたりするものですからそれを調べる必要がありました。そこで、系統的にアクチビンの濃度を変えて未分化の細胞に与えてみました。すると、低濃度では血球や体腔上皮などの腹側の中胚葉が、中濃度では筋肉などの中間の中胚葉が、そして高濃度では「形づくりのセンター」である脊索ができあがることがわかりました(図17)。さらに高濃度では拍動する心臓までもできました。アクチビンという1つの物質が、中胚葉の全ての部位を誘導することが明らかになったのです。論文を投稿したのが1989年2月です。その後、アクチビンを受け取る受容体にはⅠ型が2種類とⅡ型が4種類あって、それぞれアクチビンとの結合し易さが異なることが明らかになりました。アクチビンが低濃度の時には結合し易い受容体だけが結合し、高濃度になると結合しにくい受容体もアクチビンと結合して細胞内に信号を送るのです。こうして、アクチビンの濃度差によってできあがる器官(臓器)の違いが生まれるのです。さらに、アクチビンにはAとBがあり、アクチビンAはカエルとヒトで約85%、Bが約95%と生物種間で相同性があることもわかりました。学会で頻繁に指摘された、「種が違うものに効くのはおかしい」という問いにはこれで答えられたわけです。
その年の9月にティーデマン先生を訪ねてセミナーを行い、「アクチビンというタンパク質が、中胚葉の誘導物質だと思います」と報告しました。とても喜んでくださいましてね。「間違いなさそうだ」とおっしゃって下さった。その足でオランダでの国際学会に出席しました。誘導物質がその学会でのメインテーマだったんです。それまではM-ファクターやP-ファクターなどと呼ばれていたものを、僕がいきなりアミノ酸の配列を提示して、アクチビンという具体的なタンパク質名を提示したものだからみんなびっくりしましたね。一方で不思議なこともありました。口頭発表と同時にポスター発表もしていたのですが、イギリスの研究者達はポスターの前で自分らだけで議論して話しかけてくれないのです。後で分かったことですが、その頃アメリカではアメリカ国立衛生研究所(NIH)が多額の研究費を使って誘導物質を探していましたし、イギリスは国家プロジェクトとして誘導物質の探索を進めていたからだったのです。そんな中、1990年の2月に僕たちの論文が出ました。6月にはイギリスのジム・スミスらの、8月にはアメリカのダグラス・メルトンらの論文が出ました。そして、60年以上ずっと混乱していた誘導物質の研究が、アクチビンという1つの物質に集約したのです。嬉しかったですね。ティーデマン先生がニワトリ胚から得た因子も調べたのですが、それも同じ物質だということが分かって共著の論文を9月に発表しました。弟子として、大変嬉しかったです。国家プロジェクトなどの大きな研究グループと競争して、タッチの差とはいえ、1人で対抗できたことも誇りに思いました。もちろん、長い間、いろいろな人の協力があったからできたことですが。
実は、このような大きな国家プロジェクトが始まったのには背景があったのです。1985年に米国科学アカデミーが、世界中の誘導物質研究者を集めてクローズドの会議を開きました。ノーベル医学・生理学賞を受賞したジェラルド・モーリス・エデルマン、この分野の大御所のヨハネス・フリードリッヒ・カール・ホルトフレーターら著名な研究者がいましたし、ティーデマン先生も僕も呼ばれました。そして誘導物質が本当に存在するのかということを、泊まり込みで激しく議論したのです。その時に一番責められたのがティーデマン先生。「およその分子量まで決定しているのに、なぜ何年間も配列が決まらないんだ」と問い詰められました。余りにも質問者が激しく詰め寄るものだから、その夜に先生は倒れてしまったほどです。僕も、「銀染色などのバンドの無い部分にどうして活性があるんだ」と問い詰められました。この会議に参加して思いましたね。これからアメリカは、本気で誘導物質を探し始めるだろうと。これは急がなきゃならない。そう思って、先程もお話したように大量に集められる細胞株の培養上清に狙いをつけたのです。アメリカだけでなく、その後イギリス・オランダ他各国が大掛かりなプロジェクトを始めましたし、アクチビンが見つかってからはものすごい勢いで誘導物質の研究が進みました。分子生物学を専門とする研究者もどんどん参入してきて、それまで静かだった分野がガラリと変わってしまいました。正直驚きましたね。僕としては遺伝子を取るのではなく、誘導物質の濃度勾配の概念や臓器を作るなど、むしろ他の研究者があまり手をつけない基礎的な方向に研究を進めました。さらに、アクチビンに加えてビタミンAの誘導体であるレチノイン酸を混ぜ合わせて与えると、初めて未分化細胞から腎臓の尿細管と膵臓もできるようになりました。ところでアクチビンの同定を一番評価して下さったのは、学会で厳しい質問あびせた石崎先生です。アクチビンの論文が出た1990年に、日本動物学会賞に推薦してくださいました。夢のまた夢の賞です。言葉だけではなく、形にしてくださったのがとても有り難かった。一番厳しかった先生が、実は一番優しかったのです。僕も後進に対してそうありたいと思っています。
自然を体験して変わる
東京大学に移ったのが1993年です。横浜市立大学の学長だった高杉暹先生と懇親にされていた東大の木村武二先生が、高杉先生を通して僕に声をかけてくださったのです。高杉先生からも「歳を取ると家が近くになるのは良いよ」と冗談まじりに助言をいただきました。その頃、横浜市立大学にも大学院ができる目処が立っていましたから、残ったほうが自由に研究をできるんじゃないかとも思ったのですが、イモリの飼育小屋を作ってもらうことを条件に、東大の教養学部に移りました。ところが研究室は狭く、助手もいない。おまけに研究費も少なかったから、また電気屋に行って中古の冷蔵庫をもらったりしました。横浜と違ったのは、東大の近くは留学生が多いので中古がすぐに無くなることでしたね。ですから電気屋から電話があったら、大急ぎでリヤカーを引っ張って、走って取りに行くわけですよ。今の学生は設備がないと研究できないと言うけれど、そんなものなくてもできるんですよ。要はアイデア。そして、本当にやろうと思う熱情ですね。情熱を超えた熱情です。情熱があれば一定のところまで行けるけれども、物事を成し遂げるためには、どうしても自分でやってみたいという心の底から湧き上がってくる熱情が必要です。僕が取り組んだ問題も、60年以上も多くの研究者が取り組んでうまくいかなかったテーマですから、情熱だけじゃ足りません。うなされるような取り組みが必要ですよ。
今でも研究室の仲間達と一緒に、新潟県の村上市に泊まりがけでイモリ採りに出かけますが、あるとき学生がこう言ったんです。「先生、そんなに大変な思いして行くよりは、業者から買えば良いじゃないですか」。すぐ学生に言ったの。「物じゃないんだ、生きものなんだ。イモリがどういうところにいて、どういう生活をしているかを見る事が大切なんだ」。学生が最初に採ってくるのは、雄のイモリばかり。雌はなかなか見えるところに姿を現さないんですね。そういう自然との関係性や行動の違いは、イモリ採りに行って初めて分かる事です。網の中にはタガメやドジョウ、ミズスマシやアメンボなんかが入っているわけ。そういった生きもの達と一緒にイモリは暮らしていることが分かるのです。アメンボを見て「先生、どうしてアメンボは水の上を飛べるんでしょうか」という質問には、「持って帰って自分で調べたらいいじゃないか」と答えます。すると学生はイモリの実験そっちのけで、アメンボの足の先を顕微鏡で見たり、先を切ってみたり、水に洗剤を入れてみたりするのです。そうやって生きもの全体の面白さに目が向き始めるのです。業者から買ってしまったら、そういうことは無いわけですね。そのようにして生きものに興味をもつと、今までイモリの世話をちゃんとやらなかった学生が良く世話をするように変わるのです。学生時代にホヤで教育されたことを僕もやっているんですね。
ある年、真冬にイモリを採りに行きました。学生達は、イモリは冬眠していてビタッっと動かずにいると思っているんですね。ところが雪をかき分けて水の中を覗き込むと、1000匹くらいのイモリ達が集まってモゾモゾモゾモゾとうごめいている。イモリ玉ですね。雄は尻尾あたりが濃い青色になって、婚姻色をギンギラギンに出しているの。それはもう、学生達の想像を遥かに超えているわけ。ウワッと思うわけ。こうして心の底から面白いと思えるものに出会い、熱情を持って取り組む事が大切なのです。イモリ採りが終わると、みんなで温泉につかって美味しいものを食べて、お酒を呑みます。そして、お互いに膝を交えて話し合う。すると、今まで自分だけに閉じこもって実験をしていた学生が、困った時には仲間同士あるいは教官に相談したりしてつながりが生まれてくるのです。さらに、新潟は米所ですから美味しい酒蔵に見学に行ったり、漆器として知られる村上堆朱を知ったりすると、城下町としての村上市の文化にも目を向けるようになるのです。このようなつながりは、イモリを採りに行ったからこそ生まれるものですね。ヒトの歴史は700万年、イモリは氷河期を乗り越えて3億年。ヒトは体温が4℃ほど下がれば意識を失いますが、イモリはピンピンしています。肢や尾を切断したり、眼のレンズを除去しても再び元に戻す高い再生能力をもっています。そして、イモリやカエルで得たアクチビンの誘導能力や器官形成の仕組みが、実はマウスのES細胞やヒトのES細胞にも同じ効果を示すこともわかってきました。脊椎動物の発生や器官形成の仕組みに、変わらない類似性があるのです。僕らはもっともっと生きものから学ばなければなりません。ヒトも他の生きものと共存し、多様性とそれぞれの生きものを知るナチュラル・ヒストリーの考え方が大切なのです。