不安感を楽しみへ
ブラームスヨハネス・ブラームス
【Johannes Brahms】
(1833-1897)ドイツの作曲家。ロマン派に属するが古典主義的でもある。作風は重厚であると同時に、他の素材に題材を求めず抽象的である。の室内楽を好んで聴くのですが、全体的に彼の曲の底流には絶えずanxiety(不安感)が流れており、そこがたまらなく魅力に感じます。私も小さな村から出発して、有田川下流の町の中学校に上がるとき、東京へ出るとき、そしてヨーロッパに向かうときは不安がよぎったものでした。一方、小さい頃から極めて好奇心が旺盛で、「人生、何とかなる」という前向きで楽天的な人間なものですから、不安感を新しいことに挑戦するための楽しみに変えることが出来たのかも知れません。そして、免疫に関わる分子を追う中で、世界中の仲間達、そして学生達と相互に作用し、お互いの成熟に繋がってきたのではないかと思っています。
小さな村からの出発
生まれたのは和歌山県、当時の有田郡五村(ごむら)です。山を隔てて5つの村があり、その1つの三瀬川が私の人生の出発点です。紀伊水道に注ぎ込む有田川の支流沿いで、紀伊山脈の山奥にその村はあります。有田はみかんで有名ですが、みかんは下流の暖かいところで栽培されるのであって、私が生まれた村では、炭焼きや材木商などが主なる職種で質素な生活が営まれていました。平家の落人が作ったと言われる小さな集落は、村全体が一つの家族の様で、そこに住む沢山の人々に育てて戴いた様に思います。私の名前は変わってますでしょ。親の考えた名前は健康を害し易いとのことで、村の祈祷師が付けてくれたと祖母から聞きました。今迄大病もせずに過ごせたのはそのお陰かと思っています(笑)。冬は降り積もった雪で雪合戦を楽しみ、夏休みにはカブトムシやクワガタなどさまざまな昆虫が生息する山深い秘密の場所を探し出し採集するのが大きな楽しみで、無数の昆虫が樹に群がる光景は、今でも忘れられません。
村長をしていた曾祖父が小学校を創ったそうで、以来、教育者の家庭です。父親は、私が高等学校を卒業する頃は、有田川の下流の町で中学校の校長をしていました。5つの村があるところで、そこに在った小学校の名は五郷(いさと)小学校という名前でした。一時期、三瀬川にあった分校で授業を受け、そこでは先生が2人しかおらず1年生~3年生、4年生~6年生が一緒に授業を受ける復々式学級も経験しました。自分の授業でない時は自習をするのですが、私は他の学年の授業にも興味があってつい質問してしまうのですが、咎められる訳でなく、先生が丁寧に答えてくれて、考えればとても大らかな学校生活でした。今でも同窓会などでその頃の友達に会いますが、みんな私を「たーちゃん」と呼んでくれます。とても懐かしく嬉しいですね。自宅から一番近い中学校でも山を越えた所にあり、私が小学生の頃、父はそこで教師をしていました。私が中学校に入る頃に転勤を申し出て、有田川の下流の町に引っ越しました。入学したのは、城跡があったことから鳥屋城(とやじょう)と名づけられた中学校です。山村の小さな小学校から町の中学校に通うのは、楽しみでもありましたが、同時に不安だった事を覚えています。でも中学生活は勉強はそっちのけで、テニス部の活動に明け暮れ、非常に楽しく過ごしたのを思い出します。
飄々とした学者への憧れ
村での子供時代は、大学はおろか高等学校のことも考えていませんでしたが、中学校時代に耐久(たいきゅう)高等学校の存在を知り、是非行ってみたくなりました。当時は子供の能力より、経済的に余裕があるか否かが進学する為の大きな要因でした。実家は質素でしたが、私の教育のことを考えて町に引っ越してくれた親に感謝しています。有田郡には高等学校が3つあり、他の2つは箕島(みのしま)と吉備(きび)(現・有田中央高校)です。箕島は、甲子園で優勝した有名校ですが、私の妹はプロ野球で活躍した東尾修投手の同級生で、彼は父が中学校の校長をしていた頃の教え子でもあるそうです。今の高等学校は大学の予備校的な面が多々ありますが、私が耐久高等学校で受けた教育はそれとは異なる印象深いものでした。この学校の設立者は、有名な「稲村の火」のモデルである濱口梧陵翁で、ヤマサ醤油の7代目の当主です。濱口翁は東京大学医学部の歴史にも関係があり、小石川の種痘所消失の時に大金を寄付したのです。今年、その耐久高等学校が創立160周年を迎え、私は11月の記念式典に講演者として招かれました。この様な機会に昔夢にまでみた学校から招いて戴き、色々な事が走馬灯の様に思い出され、いつしか目頭が熱くなるほど感激しました。高等学校ではテニス部と新聞部に所属していましたが、新聞部の部室に隣接しているコーラス部からはよくクラッシック音楽が聞こえて来ました。この時がクラシック音楽に初めて出逢った時です。それから夢中になってしまい、レコードプレイヤーが欲しくて、朝早くからみかん農家でアルバイトをし小さなレコードプレーヤーを買いました。そして初めて買ったレコードが、ブルーノ・ワルターブルーノ・ワルター
【Bruno Walter】
(1876-1962)ドイツの指揮者。20世紀を代表する指揮者の1人であり、演奏は微笑に例えられ感情を荒々しく出すことはなかった。指揮のベートーベンルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
【Ludwig van Beethoven】
(1770-1827)ドイツの作曲家。古典派の巨匠とされ、ロマン派の先駆けでもある。特に晩年の作風は堂々とした風格がある。の「運命」。私とクラシック音楽との長い「運命」の始まりです。
高校に入学したころは大学への進学などは深く考えていませんでしたが、担任の先生から「君だったら進学できるから頑張りなさい」と言われ、父親に相談しましたら、近くの国立大学という条件で進学の許しが出ました。育英会の奨学金を受ける必要がありましたから、3年生の夏にはクラブ活動を終え、勉強に専念しました。その年の秋でしたね、朝永振一郎朝永振一郎
(1906-1979)日本の物理学者。場の量子論での計算結果が無限大に発散することを防ぐ「繰り込み理論」を完成させ、量子電磁力学の発展に寄与したことにより1965年にノーベル物理学賞を受賞した。先生がノーベル物理学賞を受賞されたのは。当時、東京教育大学(後の筑波大学)理学部の教授でした。学長をなさった後だったと思います。その時に初めて、学者という職業の人を新聞やテレビで見たのです。ノーベル賞受賞よりも、朝永先生の端正なお姿から滲み出る飄々とした学者としての雰囲気に感動しました。そして、こういう人になりたい、近づきたいと強く思いました。最初の大きな転換期です。「蛍雪時代」という受験雑誌が私の唯一といってもいい情報源でしたが、そこに掲載された東京大学・東京工業大学・東京教育大学の学長の対談で、当時の東京教育大学の三輪知雄学長が生化学という新しい学問分野を強調されていました。こんな理由から、朝永先生がいらっしゃった理学部の生物学科を受験しました。
神田の旅館で雑魚寝をしての受験でしたが、何とか無事に入学を果たし、朝永先生の「物理学概論」の講義を受けることができました。やはり、とても素敵な方で感動しました。たまたまお手洗いで一緒になり、すごく緊張したのを覚えています(笑)。後に、東大医学部での系統講義を「免疫学概論」としたのは朝永先生の講義にあやかったものです。当時の東京教育大学には、朝永先生を始め、家永三郎家永三郎
(1913-2002)日本の歴史学者。1948年に「上代倭絵年表」と「上代倭絵全史」で学士院恩賜賞を受賞した。先生、美濃部亮吉美濃部亮吉
(1904-1984)日本の経済学者。政治家でもあり、元東京都知事と元参議院議員を歴任した。先生など蒼々たるメンバーがいらっしゃいました。いってみればアンチ東京大学というスタンスで、それが学問にも良い効果を生み出していたのでしょうね。しかしその後、筑波への移転問題が出るとともに、日本の大学全体で大きな学生運動のうねりが起き、和歌山の田舎から夢見ていた大学や学問の姿とは別の世界が見えてきて、がっかりしました。詳細は敢えて省きますが、結局一年留年しました。それでも、学者への夢を捨て去れず、大学院に進学して糖代謝を研究しましたが、なかなか自分の未来が見えにくい時代でした。
そんな時に、私の指導教官の1人で当時助手だった横浜康継先生(元・筑波大学教授、志津川町自然環境活用センタ-所長)が、イタリアのナポリ海洋研究所に派遣されました。そして横浜先生が、「谷口くん、世界は広いぞ。学問をするというよりは、広い世界をみて人生をリセットするためにイタリアに来ないか」と勧めて下さったのです。留学先の先生が、生活には困らない程度の研究奨学金で雇ってくれるというのです。それが後に恩師となるマッシモ・リボナッティ(Massimo Libonati)先生です。でも、一般的には、イタリアのナポリって研究するために行く場所とはあまり思えないですよね。南イタリアというと、アモーレ、マンジャーレ、カンターレというようなイメージが湧きますから。でも、私には何か新しい世界が広がるような気がして、すぐに決めました。当時の恩師であった猪川倫好先生(元・筑波大学教授)も温かく私の気持ちを受け入れ、励ましてくださいました。イタリアに行くにあたって両親は何も言いませんでしたが、母は涙を流していましたね。当時、ヨーロッパはそれほど遠い存在だったのだと思います。これが2つめの大きな転換期です。
ルネサンスを感じたナポリ
イタリアでは、リボナッティ先生は英語を話されましたが、周りの人は殆どイタリア語しか話さない。そういう環境で、ナポリ大学とナポリ海洋研究所を兼任し、主にナポリ海洋研究所で実験助手を務めました。ナポリ海洋研究所が国際的に有名な研究機関だということは、行って初めて知りました。免疫学の祖と言われているイリヤ・メチニコフイリヤ・イリイチ・メチニコフ
【Ilya Ilyich Mechnikov】
(1845-1916)ロシヤの微生物学者。白血球の食作用に関する免疫系での先駆的な研究を行い、1908年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。博士も、この研究所に一時期いたそうです。実は、免疫学の大発見には海洋研究所で行われているものがいくつかあります。シャルル・リシェシャルル・ロベール・リシェ
【Charles Robert Richet】
(1850-1935)フランスの生理学者。アレルギーの一種である抗原抗体反応によって、急激なショック症状となるアナフィラキシーショックの研究を行い、1913年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。博士によるアナフィラキシーショックの発見もそうですね。イタリアに移ってからの前半は、ウシの精液から精製したリボヌクレアーゼBS-1リボヌクレアーゼBS-1リボヌクレアーゼはリボ核酸(RNA)をオリゴあるいはモノヌクレオチドに分解するが、リボヌクレアーゼBS-1はDNA-RNA複合体に対しても活性がある酵素である。の生化学的研究を行いました。移ってから2ヶ月後の6月には、面白い結果が出つつありましたから学会発表となりました。ローマで開催された国内の学会で、私にとっては初めての学会参加でした。しかも、イタリア語で発表しなさいと言われて慌てました。リボナッティ先生が原稿を書いて下さり、それを読む練習をしました。原稿の中で理解できたのは「Prossima diapositiva per favore」、つまり「次のスライドをお願いします」という文章だけ。本人は、自分が何を話しているのかさっぱり解らないという発表でした。そんな雰囲気を察してか、質問はありませんでしたね(笑)。けれども発表を終えた私は、意気揚々となり興奮し、とても充実感を覚えました。
カルチャーショックとも言えるエピソードはかなりありました。同級生には女性が多く、異文化の交わりが多かった歴史からか、褐色の肌にグリーンの瞳など、みなさん綺麗でした。そんな彼女たちが聞くのです。「誰が一番すてき?」って。東洋からやってきた男性がどういう女性を美人と感じるのか興味があったのでしょうね。私はいつも「みんな素敵だよ」と言っていたのですが、ローマの学会の後トレビの泉近くのレストランで、いよいよ答えなければならない状況になりました。3人が花売りから真っ赤な薔薇を1本だけ買って、「タダ(私のニックネーム)、今日こそは答えてもらうわよ」って。そこで、薔薇を2本買い足し皆に渡しました。こんな具合で、日本では考えられないような、いろいろ素敵な経験をしたように思います。彼女らも含めてイタリアの友人たちは、本当の家族のように付き合ってくれました。私が生まれた村と同じくらい人情味豊かで、もう一度生まれ変わったような心地でしたね。
イタリアでのもう一つの思い出は、雲の上の人だと思っていたテノール歌手のマリオ・デル・モナコマリオ・デル・モナコ
【Mario Del Monaco】
(1915-1982)イタリアのテノール歌手。「黄金のトランペット」と呼ばれた輝かしい声を持ち、ドラマティックな役柄で高く評価された。など様々な芸術家に会ったことです。そして、ベルリン国立歌劇場でプリマドンナを務めた年配の友人から聞いた、ワルター、フルトヴェングラーヴィルヘルム・フルトヴェングラー
【Wilhelm Furtwängler】
(1886-1954)ドイツの指揮者。20世紀を代表する指揮者の1人であり、演奏はロマン派のスタイルを継承している。、カラヤンヘルベルト・フォン・カラヤン
【Herbert von Karajan】
(1908-1989)オーストリアの指揮者。20世紀を代表する指揮者の1人であり、クラシック音楽会の主要なポストに数多く就いていた。フルトヴェングラーの次にベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者を務めた。などとの思い出話です。友人の紹介で知り合った彼女はとても気品が漂う素敵な女性でした。ベルリン陥落後、モスクワに移送されたのですが、頑として踊ることを拒否したので送還されたとか。余生をイタリアで過ごしたわけですが、彼女が住むカプリ島の別荘に週末などに遊びにいきました。真っ青な海を見渡せる庭に身の丈半分ほどに生い茂ったバジルを摘んで、トマトソースと合わせたパスタを作ってくれるのです。ワインを飲みながら、当時の色々な話を聞かせてくれました。今話していても胸が熱くなるくらい素晴らしい思い出です。
イタリアでの後半は、RNAポリメラーゼRNAポリメラーゼリボヌクレオチドを重合させてRNAを合成する酵素である。の研究を行いました。脊椎動物の肝臓に相当する中腸腺をタコから採り、クロマトグラフィーでいくつかのRNAポリメラーゼを精製しました。そして、DNA依存性やα-アマニチンなどの毒素への感受性、金属イオンの種類によって活性度が異なることなど解析しました。RNAポリメラーゼは、私が学生時代に名取俊二先生(東京大学名誉教授)がエール大学でその活性を高める因子を発見されており、当時から興味があったので、この研究に携われて嬉しかったです。イタリアでのこれら一連の研究や、当地の多くの人達との出会いはその後の人生に大きな影響を与えていると思います。
瞬く間に2年が過ぎ、リボナッティ先生はずっとイタリアに居ても良いと言って下さったのですが、その頃には、朝永先生に刺激されての学者になりたいとう気持ちが一層大きくなっていました。そこで、学位を取るために彼に2つの研究室を紹介してもらいました。1つは彼が留学していたニューヨーク大学のセベロ・オチョアセベーロ・オチョア・デ・アルボルノス
【Severo Ochoa de Albornoz】
(1905-1993)スペイン出身のアメリカ合衆国の生化学者。タンパク質生合成とRNAウイルスの複製の研究を行い、1959年にRNAの合成に関する研究でノーベル生理学・医学賞を受賞した。の研究室、もう一つはそこで兄貴分だったチューリッヒ大学のチャールズ・ワイスマン(Charles Weissmann)のところです。オチョア先生は退官直前だったこともあり、ストックホルムの生化学会でワイスマン先生にインタビューを受けることになりました。しばらく経ってから研究助手としての採用を報せる手紙を戴きました。嬉しかったですね。けれども一方で、ためらいと不安もありました。彼が36歳で教授になったチューリッヒ大学の分子生物学研究所は、世界トップレベルの分子生物学の研究者が集まっていたからです。でも、そこで成果を出せなければ、学問をやってもどうせ大したことはないだろうと思い、決断しました。3つめの大きな転換期です。
分子生物学を修めたチューリッヒ
研究助手を経てチューリッヒ大学の大学院に在籍することになり、日本で発見されたファージQβというRNAウイルスの部位特異的変異導入をテーマにしました。1974年に、兄弟子にあたるリチャード・フラベル博士(イエール大学教授)らがファージQβの非翻訳領域への変異導入に成功していましたが、私は機能をもつ遺伝子配列に特異的変異を導入することを目指しました。それまでの遺伝学では、放射線などでランダムに変異を導入し、興味ある表現型に注目して遺伝型を解析していました。一方、私達が行ったのは狙った部分に変異を導入して、それが表現型にどのように影響を及ぼすかという逆遺伝学の方法です。つまり表現型から遺伝型ではなくて、遺伝型から表現型へアプローチする方法です。今ではDNAに点変異を導入することは広く行われており、その方法を開発したマイケル・スミス博士らが1993年にノーベル賞を受賞しました。けれども、RNAに対してではあるけれど、ワイスマン先生が逆遺伝学という概念を最初に考え、それを初めて実践したのだと思います。かなり困難なプロジェクトでしたので、この研究の成功によって、学問の世界でやっていけると思いました。ワイスマン先生の研究室が私の分子生物学の出発点だったのです。
他にも、ファージQβのRNAから逆転写酵素を使ってDNAを合成し、それをもったプラスミドをバクテリアに入れ、宿主のバクテリア内でRNAウイルスを増殖させることに成功しました。学位を取る少し前から始めた研究で、世界初の人工的ウイルス生成でした。私の一連の研究がうまくいったのは、ワイスマン先生との良い相互作用があったお陰だと思います。ともにクラッシック音楽が好きで、彼の居間でベートーベンの弦楽四重奏などを聴きながら一緒に論文を書いたこともあります。後に、私が帰国してからインターフェロンの研究で、ある意味では競争相手となった時期もありましたが、今日までずっと佳き信頼関係が続いています。
ワイスマン先生はチューリッヒ大学で学位を取った後に、ニューヨーク大学で分子生物学者としてのキャリアをスタートされました。彼は80歳になった今年、全ての職を辞されましたが、環を閉じるという意味で、最後に先生にとって学び舎であったニューヨーク大学で特別講演をして戴く事を私たち弟子が企画しました。そして、メトロポリタン歌劇場でお互いに大好きなワグナーの「指輪」を楽しみ、何度もディナーをご一緒しました。先生は実の父親とは別の、大変大きな存在です。
この研究室では、1つ大切なことを学びました。研究室には11カ国の国籍の人たちが集まっていましたが、私の英語力不足と新分野への理解不足などで、リサーチセミナーで最初は皆が何を言っているかさっぱり分かりませんでした。けれども、2人だけ解る人がいたんです。ワイスマン先生と、もう一人はプリンストン大学の教授で、サバティカルで滞在していたチャールス・ギルバーグ先生です。私は、彼らが相手にどうやって重要なポイントを解らせるかということに気を配って話している事を知り大変感激しました。つまり、自分の考えや解釈を、いかに聞き手の心にうまく投射するかに気を配って話していたのです。相手に何をどう伝えるか、はどの世界でも重要だと思います。実は、ハーバード留学時代にご縁ができたチェリストのヨーヨー・マヨーヨー・マ
【Yo-Yo Ma】
(1955-)アメリカ合衆国のチェリスト。世界的なチェロ奏者の1人であるとともに、ハーバード大学で人類学の学位を取得し、後に名誉博士号を授与される。さんと親しくしているのですが、コンサートも学会も講義も一方的ではなくて、聴衆との相互作用が大切だということなど話し合っています。
1978年、学位論文を仕上げる少し前に、エール大学のピーター・レンゲル教授のセミナーで、初めて免疫調節因子であるインターフェロン(IFN)という言葉を耳にしました。後にIFN以外に多くの免疫調節因子が見いだされ、サイトカインと総称されることになりました。レンゲル教授は、オチョアの研究室でワイスマン先生と同僚だった方で、IFNのパイオニア的存在です。このとき、IFNの実体は何か、IFN遺伝子のオン・オフはどのように制御されているのかという事に大変興味を持ちました。当時、IFNはがんの治療に繋がるかもしれないということで注目を浴びていましたが、微量にしか産生されない事からその実体は特定できていませんでした。遺伝子を発見できれば実体が解明され、大量のIFNを人工的に作り出す事が出来、そこからIFN研究の道が大きく拓けるだろうと考えられていました。そこでワイスマン先生に依頼され、私は白血球IFN(後に、IFN-αと改名)のmRNAの単離を始めました。この研究は、後に日本から来られた長田重一さん(京都大学教授)に引き継がれました。その頃に私はスイスで結婚式を挙げました。妻の洋子は日本からやってきたのですが、すぐに子供を授かりました。どうしても夫のそばで出産したいというので息子はチューリッヒ生まれです。息子はワイスマン先生にも随分と可愛がってもらいました。長田さんには妻と息子に会うため、よく車で病院まで送ってもらいました。長田ご夫妻とは、妻と4人でヤースというスイスのカードで遊んだことも懐かしい思い出です。その頃でしょうか、財団法人癌研究会癌研究所(癌研)の村松正實先生(元・埼玉医科大学ゲノム医学研究センター所長)から、ポストがあるから帰ってこないかというお誘いを戴いたのです。日本を発つ時に母が悲しんでいましたし、新しい家族のこともありましたので、そろそろ帰ろうかと考えていたところでした。そして、新しい環境に身を置くと新しい自分が見えてくるのではないかと思ったこと、そして日本で何ができるだろうという強い関心もあり帰国を決意しました。ところで、私の学位論文の表紙は、あのアインシュタイン博士の表紙と同型です。アインシュタインやレントゲンを輩出したこの大学では学生の教育も充実しており厳しかったですが、ここでの5年間が私にとって研究者として大きな転機になったと思います。分子生物学を学ぶため、ということで微分・積分学、熱力学あるいは有機化学など、再度勉強させられたり、、、もう今ではすっかり忘れましたが(笑)。
インターフェロン遺伝子を追って
日本に帰った私は、ワイスマン先生の研究室との競合を避けて、繊維芽細胞IFN(後に、IFN-βと改名)の研究を始めました。当時、IFN-αとIFN-βは抗原性が異なることが知られており、異なる遺伝子にコードされているだろうと予想されていました。IFN-βは合成したRNAの刺激でも産生される事が分かっていましたから、ウイルス感染ではなく、人工的な系でヒト遺伝子の制御に関する核心に迫れるのではないかとも考えていました。そこで当時、東レ(株)の基礎研究所にいらした小林茂保先生(故人)に協力をお願いして、IFN-βに関する遺伝子のクローニングを始めたのです。私がIFN研究の将来の展望をお伝えしたところ、小林先生はその場で協力を約束して下さいました。今から考えても、驚くほど早い決断でした。そして、P3という物理的封じ込め施設を使って、日本で最初のヒト遺伝子のクローニングを始めたのです。安全面を考慮して最も生育しにくい大腸菌を使わなければなりませんでしたから、国外の研究環境とのハンディキャップは大きかったですね。でも、大学院で習得した知識と技術、そして新しいアイデアを使いながら研究を進めました。そのアイデアとは、まず候補となる菌体のクローンを選び出し、その中から目的とするIFN-βをもったクローンを選び出すという2段階の選別法です。まず、ウイルスの2重鎖RNAと同様の免疫活性をもつPoly I:CPoly I:C二本鎖RNAと機能的に類似したポリイノシンポリシチジン酸。樹状細胞などの膜上にあるTLR3と相互作用し、ウイルス感染と同様にインターフェロンの産生を促す。で繊維芽細胞を刺激し、誘導されたmRNAをもとにして同位体で標識したcDNAを用意します。そのcDNAと刺激していない細胞のmRNAを反応させ、mRNAと複合体を作るものとそうでないcDNAを選り分けます。そして、誘導した株だけがもっているcDNAを使って、それと反応する菌体のコロニーを選び出すのです。そうやって選び出したクローンの中から、目的とするIFN-βをもったクローンを厳密に選び出す、これが2段階目です。こうして、約4000個の大腸菌株の中からIFN-βの遺伝子をもつ株を1つ、世界に先駆けて特定する事に成功しました。それが1979年の論文です。支援してくれた癌研の仲間はむろんですが、小林先生と彼の共同研究者の須藤哲央さん(先端融合研究所・研究主幹)には言葉に尽くせないほど感謝しています。
しばらく経って、その論文を読んだハーバード大学のマーク・プタシュニー教授から電話がありました。彼らのグループは大腸菌でタンパク質の生産法を確立していたので、その方法を応用して、組換えIFN-βの大量生産を実現しようという共同研究の申し入れでした。癌研の所長の菅野晴夫先生(癌研顧問)、生化学部長の村松正實先生の配慮で、半年ほどハーバード大学に出向くことになりました。東京でのIFN-βの仕事は大野茂男さん(横浜市立大学教授)が引き継いでくれました。同じ頃に、ワイスマン先生のラボで長田さんが中心となってIFN-αのクローニングに成功していたのですが、ある日先生と電話でお互いの成果を話し合っていたところ、彼らが構造解明していたIFN-αとIFN-βのどちらも166個のアミノ酸配列から成っていることが分かり、興味深いということになりました。そこでハーバード大学に向かう途中でチューリッヒに寄って、ワイスマン先生のご自宅で配列を比較し、議論をしたのです。かつてクラシック音楽を聴きながら、一緒に多くの論文を書いたあの居間です。大変、感慨深かったですね。その結果、2つには相同性があり、ファミリーを形成していることが分かりました。おそらく脊椎動物に進化した頃に、両遺伝子は分岐したのではないかと考え、ワイスマン先生と一緒に論文を書きました。「Nature」にLetterとして投稿したのですが、Articleとして掲載されました。私の人生でまだ1度しかない、珍しい経験です。今から考えればこの研究は、その後に発見される事になった沢山のサイトカインファミリーの最初の発見であり、感慨深いものがあります。
長年の友となるヨーヨー・マと知り合ったのは、ハーバード大学にいたこの頃です。ハーバード大学の教授の家での室内楽演奏を聴いたり、卓球を楽しんだりしました。その時は何もなく別れたのですが、日本に帰ってから連絡があったのです。「日本でのコンサートに来ないか」と。私の名前と癌研を覚えていてくれて、電話をかけてくれたのです。その時に彼が弾いた曲は、ブラームスの「バイオリンソナタ第3番」。バイオリンで弾いても難しい曲をチェロで弾いたのですが、素晴らしかったです。彼とはそれ以来の付き合いで、食事をしたり、科学や音楽を含む色々な話題について議論をしたりしています。ちなみに、彼がこのソナタを31年後、再び去る11月に演奏したときは感慨無量でした。コンサートの後食事しながら、昔語り合った芸術家あるいは科学者の生き方について、世阿弥の「風姿花伝」で述べられている内容の解釈などで話が弾みました。音楽や科学は西洋から始まっているわけではないという話をした事もあります。西洋は大陸として東洋と繋がっていて、昔から頻繁に文化の交流があったし、それを通して相互に発展してきたのではないかと。彼が、シルクロードアンサンブルという名の下に、西洋と東洋を繋ぐような色々な楽器とのアンサンブルを行っているのも、ひょっとしたらこのような背景が反映しているのかも知れません。しかし、親しくなると彼の音楽会に行ってもエンジョイできないような変な気分もありますね。自分の身内みたいな気がして、彼が音を間違えるのではないかと緊張するんですよ。むろんそんなことは彼には起こりえないとわかっているのですが(笑)。
さて、ハーバードでの研究を終えてからはIFN-β遺伝子の発現調節の解明に取り組むとともに、並行してもう一つ別のサイトカイン分子にも取り組みました。リンパ球を増殖させる分子で、後にインターロイキン-2(IL-2)と命名されるものです。当時、味の素(株)中央研究所の羽室淳爾さん(京都府立医科大学特任教授)から相談を受けました。それまでは、分子生物学が中心でしたが、この頃から免疫学により足を踏み入れ始めたのです。朝永先生は私が学問の世界に入るきっかけを、ワイスマン先生は私が学者として歩む為の基礎を与えてくれた先生ですが、羽室さんは私に免疫学における考え方を教えてくれた先生だと思っています。IL-2を高濃度で産生する細胞株がない上に、活性の定量的検定法がなかったので、遺伝子の同定は困難を極めました。細胞の培養と活性測定は味の素の研究所で行い、遺伝子の同定と翻訳産物の作製は癌研で行うという分担をしました。味の素の社員だった松井裕さんたちと共同で行った研究で、国際的に大変競争が激しかったのですが、幸いにも私たちはIL-2遺伝子を単離してその全構造を明らかにし、組換えIL-2の発現にも成功することが出来ました。1983年のことです。
その少し後です。大阪大学へ誘って戴いたのは。山村雄一総長(元・大阪大学総長・故人)が大阪大学に生命科学の先端施設として、岡田善雄先生(大阪大学名誉教授・故人)をセンター長とする細胞工学センターを構想されたのです。細胞と遺伝子を中心に据えた新しい研究を見据えた斬新な構想でした。癌研で部長に昇進させていただいたばかりでしたから複雑な気持ちもありましたが、新しいところに移れば新しい自分が見えてくるのではという大きな期待感がありました。故郷に近い大阪という土地柄の魅力と、阪神タイガースの大ファンだったことも後押ししました(笑)。何と言っても誘ってくださった先生方のお顔が輝いていたのが印象的でした。ということで、癌研にも承諾していただき、新天地に向かうことになりました。
研究者仲間や学生との相互作用
細胞工学センターには、細胞生物学者の岡田先生と内田驍先生(元・大阪大学教授・故人)、分子遺伝学者の松原謙一先生(大阪大学名誉教授)、そして免疫学者の岸本忠三先生(元・大阪大学総長)というエネルギーに満ちあふれた先生方がいらっしゃいました。このセンターに呼んで戴いたのは、岸本先生とのお付き合いがあったからですが、研究室が隣同士でしたから特にざっくばらんに楽しく過ごさせて戴きましたし、免疫学の多くを学ばせて戴きました。当時、岸本研でIL-6という新しいサイトカインの遺伝子研究に取り組んでいた平野俊夫さん(大阪大学総長)とは同じアパートに住んでいましたから、よもやま話をしながら山道を一緒に帰宅したものです。小さいけれど、大変機動力のある組織でした。自分の研究室だけが良くなればいいという感覚ではなく、細胞工学センター全体を良くしていこうという気持ちが強かったですね。平野さんがIL-6遺伝子を発見されたときは、まるで自分の成果のように嬉しく誇らしく思ったものです。山村先生がよくおっしゃっていた「天の時、地の利、人の和」という言葉があります。細胞工学と遺伝子工学を融合させる良い時期だったと思いますし、大阪は「やってみなはられ」という言葉に代表されるように、常に新しいものにチャレンジする良い土地柄でもあった。そして何よりも、研究者間の和が素晴らしかったですね。
当時は、バクテリアでの遺伝子の発現調節機構は解り始めていましたが、動物細胞は殆ど解明されていませんでした。私の研究室では、癌研で大野さんが解析を進めていたIFN-β遺伝子のプロモーター領域をとっかかりにして、そこに結合する因子を探索しました。当時助手だった藤田尚志さん(京都大学教授)と修士課程の大学院生だった宮本昌明さん(神戸大学准教授)が、後にIFN調節因子-1(IRF-1)と呼ばれる因子を発見しました。最初はサイトカイン調節因子-1と名付けて「Cell」に投稿したのですが、編集者の要望でやむなくIRF-1と命名しました。1988年のことです。間もなく、大学院生の原田久士さん(バージニア州立大学)がIRF-2を見いだし、今では9種類ものIRFファミリーが同定されています。IL-2に関しても、畠山昌則さん(東京大学教授)をはじめ、多くの人達の力で受容体の同定とクローニングをはじめとし、シグナル伝達の研究が進みました。
そして、1994年に東京大学医学部からのお話があったのです。石川隆俊(東京大学名誉教授)、廣川信隆(東京大学名誉教授)、清水孝雄(東京大学名誉教授)、といった蒼々たる医学部の先生方から、医学と東京大学医学部の将来、なぜ私を呼ぶのかについてお話を聞いているうちにその熱意に深く感銘し、心が大きく動きました。先生達の極めて深い見識と高い先見性にも感動しました。もう一つは、いつも新天地に移る時の動機付けになっている、新しい自分が見えてくるのではないか、という期待感がこの時もありました。同時に不安もありました。これまでは研究を通じて後進を育てましたが、今度は学部生の教育があるからです。免疫学の講義を系統的にやったことはありませんでしたから、講義の準備には随分時間をかけました。朝永先生の「物理学概論」にならって、「免疫学概論」と題して免疫学の歴史から最先端までの系統講義を行いました。学生諸君に早い時期から国際感覚を養ってもらう為に、親しい海外の研究者仲間にも講義を頼みましたが、彼らが手弁当で来てくれたのも印象的です。結局、東京大学医学部では17年間講義をしましたが、先ほど話しましたように、相互作用を大切にしながら「お互いに学び合う」を基本としてきたつもりです。したがって、私自身も豊かになれるという、それ迄にはなかった素晴らしい体験をさせて頂きました。
授業だけでなく研究でもいろいろな相互作用がありました。例えば、私の後任として教授に就任された高柳広さん(東京大学教授)は、関節リウマチや破骨細胞の専門家でしたが、私のラボに来てくれたときには、そこで免疫系と骨代謝に関する研究など新しい分野が展開し、私自身も多くを学びました。相互に作用して良い研究を進め、良い研究室を築いていく事が大切だと思います。私の研究室では、よく学生と一緒に論文を書きます。彼らが書いたものを私が直して返すのではなく、プロジェクターで映した文章を眺めながら、一緒に書いていくのです。タイトルとアブストラクトには言いたいことが簡潔に述べられているか、ディスカッションでは新しい事が主張出来ているかといった事を議論しながら進めます。その時、論理的に説明出来ているならば、むろん私と意見が違っても良いと考え、論文に採り入れます。一方、大学や日本の学術が抱えている問題を彼らと積極的に議論する様にも心がけています。自身の研究とは直接関係ないけれど、次の学問を担う人たちに常にそういう問題を考えて欲しいからです。将来的には、それが研究にも必ず生きてくると思います。ナポリからチューリッヒに移る時に、リボナッティ先生が空港で、「自分を追い越せない弟子を持つことは悲しいことである」というレオナルド・ダ・ビンチの言葉を贈って下さいました。東洋ならば、旬子の「出藍の誉れ。青は藍より出でてなお藍より青し」でしょうか。必ずしも論文や賞の数などで追い越すという意味ではなく、学生の皆さんには自分の個性を磨き、新分野を拓きながら魅力的な人生を歩んで欲しいと希います。
一方で、辛い経験をした学生もいたと思います。例えば大晦日に帰省した学生を、「こんな大切な時期に正月なんてあるか」と呼び戻した事もあります。もちろん、学生だけにやらせて私は家でお屠蘇を呑んでいるというのはいけませんから私も出てくるわけです。大切な時期にどれだけ集中して力を発揮するかということは非常に大切だと思います。学生の学位論文審査も学生の育成にとって極めて重要です。むろん主査としてじっくり読み、適切なアドバイスをし、より優れた学位論文となるよう助言しますし、時には不合格にした事もあります。「君の立場もよく理解しているつもりだが、私はこれで給料をもらっている。基準に達していない人を全て合格にしたら、私は給料をもらう訳にはいかない。これが私の仕事なんだから」と学生に言ったこともあります。自分の研究室の学生と他の研究室の学生を常に同等に大切に思い、かつフェアであることが大切だと思っています。
人を育てるために良い研究を
日本に帰ってきた頃は、学問の世界で生きる為、家族の為に良い研究をしなければと思っていました。でも、いつの頃からだったでしょうか、良い人を育てる為に良い研究をしなければならないと考えるようになりました。そして私自身も、学問は自分を成熟させる為の手段でもあるとも思い始めました。研究者ではなくて、朝永先生のような学者になりたいと思ってやってきました。学者は研究者ですけれど、それ以外の部分の器量あるいは度量といった部分を磨かなければなりません。そしてそれが磨かれたかどうかは、書いた論文からどんな香りがするか、どんな弟子が育ったか、どんな仲間が出来たか、どんなインパクトを社会に与えたかで見分けられるのではないかと思います。論文の数や受賞歴などで定量化されないものの中にこそ、学者あるいは人間の魅力があるのではないでしょうか。自己満足になる危険もあるけれど、他人の作った物差しに合わせるのではなく、自分の物差しを作っていくことが人生だと私は思うのです。そのためにも、辛い事や不安があっても常に自分を見失わず、自分のやっている事を楽しむことを忘れないことが肝要と思います。孔子曰く「これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず」。これからの若い方達にも、研究そして人生を楽しむ事を忘れず、自分自身の物差しを作ってもらいたいと願います。