楽天家の末っ子
東京深川の教員寮で、小学校教師の両親と男の子3人がちゃぶ台を囲んで食事をしている。それが子ども時代の記憶です。昭和25年に愛媛の松山で産まれましたが、1年ほどで、両親が青雲の志をもって上京したんです。時は朝鮮特需で経済が右肩上がりの時代です。僕は末っ子で兄たちとは8つと6つ離れていましたから遊び相手にはならず、兄たちが飼っていた伝書鳩の世話を手伝う役目でした。小学校4年生の時、千葉県の船橋に家を建てて引っ越しました。父が3人の子どもの勉強部屋兼書斎を作り、そこにブリタニカの百科事典や世界美術、日本の歴史、世界の歴史などの全集を並べたのです。そこが僕のお気に入りの場所になりました。小学校はそのまま深川で1時間以上かけて通学しており、近所に友達がいなかったんです。しかも両親が働いて鍵っ子でしたから自ずと書物が友達になりました。百科事典を眺めたり、全集を片っ端から手に取ってみたり。兄たちが2メートル四方の大きな鳥小屋を作ってインコやブンチョウ、ジュウシマツなどの小鳥からキジやチャボまでいろいろな鳥を飼っていたので、ここでも鳥の面倒をみていました。ハムスターやリス、ヘビも飼いましたね。歳の離れた兄たちとの共通の話題はもっぱら動物のことでした。周囲は自然だらけですから、夏には虫取りをし、あぜ道でカエルやザリガニを捕まえました。まあ普通の男の子です。
中学校は都内の両国中学に進みました。実は、中学1年の終わる春に母を亡くしています。当時は反抗期で病床の母を思いやることができなかったのが今も心残りです。すでに大学を出て建設会社に勤めていた長兄が母親代わりに食事や弁当を作ってくれました。末っ子が不憫だったのか、トランペットやフルートも買ってくれて、楽器も楽しみましたね。高校は両国高校、旧府立三中です。公立の小学校、中学校、高校を出て、国立大学に行く。当時は国立大学の月謝が千円ですから、それ以上の親孝行はないわけです。特に東京大学に行きたいと思ったことはないけれど、下町のできる子たちがみんなそうするように両国高校に行って東大に行くものだと思っていました。高校生になっても学校が好きで、どの教科も大好きだったんです。こんなの珍しいかな。当時は受験に9科目必要でしたけど、なんでもおもしろく苦になりませんでした。こうやっていつまでも勉強を続けられたらいいなと、それが夢でした。イメージしたのは高校の世界史に出てくるギリシャの哲人です。白い服を着てなんかこうぞろぞろと歩きながら森羅万象を語る。よし、これになろうとね。数学も物理も面白いけど、数学者や物理学者になりたい訳ではない。きっと哲学だろうと思いました。受験勉強が忙しくて実は哲学書なんて読んだこともないのに大学の志望は哲学にしたのです。同級生は医者だ弁護士だと言っていたけれど、そんな気持ち理解できませんでしたね。1960年代は経済成長期ですから就職のことは心配していなかったのです。父も兄達も戦争の苦労を知っているので、末っ子には好きにさせてくれたのだと思います。

2歳半松山にて。末っ子でかわいがられた。

小学校入学前。江東区立明治小学校に通った。

高校の修学旅行で京都へ。
学部は「山岳部」
東大を受験するつもりだったのに、その年は例の安田講堂事件の影響で東大の入試が中止、京都大学を受けました。京大に入らなければ霊長類の研究をすることはなかっただろうから、これも神様の采配です。ところが入学式に行ってみると総長がいるべき演壇は、ヘルメットをかぶった学生で占拠されている。全学ストで授業は全部中止です。そこで岩倉の農家に下宿していた下宿生で勉強会することになったのですが、そのテキストが「共産党宣言」。驚きましたね。みんな気分は革命家だったんでしょう。普通に勉強していた高校生がさあ大学に入ったはいいが、学問的方向づけはないまま、いきなり学生運動に直面させられました。僕たちは国に保証された特権的なエリートで、一方にベトナムで戦争をしている若者がいる。それをどう思うかと問われました。いやが上にも社会の問題を意識せざる得ない状況です。良心的な子ほど深く受け止めて悩んだと思います。その中で僕は山岳部に出会ったんです。高校時代も山岳部でしたから、授業がないなら山に登ろうと。京大の山岳部は中途半端ではない。毎月毎月山行合宿があり、1年120日山へ行きます。残りのうちの120日はそのための訓練です。毎日夕方大文字山を走って登る。他にやることがないから、日々次の山行に向けて体を鍛えていました。そうやって1年を過ごして2回生になるころには授業が再開したのですが、哲学というのが自分が想像していたものと全然違うことに驚きました。デカルトがこういったとかプラトンがこういったということを習うのですが、僕は彼らが言っている中身、この世界がどうなっているかを知りたかった。その上、哲学科に行くには、教養部の間にドイツ語とフランス語とギリシャ語とラテン語をマスターするように言われたんです。僕は言語学者になりたいのではないと思いましたが、実際それができる人が同級生にいる。これはショックでした。大学の学問は受験勉強とは違うということにようやく気づいた、パラダイムシフトです。僕が学問としてやりたいと思ってきたことは、学問でもなんでもなかったんです。呆然としますよね。学問についてガツンと一撃ですから。それで心のよりどころは山岳部です。同じように呆然としている子が集まってきていたんです。自然の中にどっぷり身を置きながら、ある種の緊張感をもって山へ登り無事帰ってくるという、達成感。そちらの方が、自分が生きているということが実感できたんです。
今の研究につながることは全て山岳部で学んだと思います。京大山岳部には初登頂の精神というのが脈々と受け継がれてるんです。未踏の山、未踏の沢、未踏の尾根を調べ、文献や地図や航空写真を集めて研究し、目標を定めます。山岳部が掲げている標語はパイオニアワーク。まだ誰も行っていないところに行くことが重要でした。結局一年留年して5年生まで毎月毎月山に行っていました。5年生の時にヒマラヤの世界で3番目に高い山カンチェンジュンガ、その西峰であるヤルン・カン(8505m)に行くチャンスが巡ってきたんです。山岳部の生活はヒマラヤへの道だと思っていましたから嬉しかったですよ。70歳の西堀栄三郎さん(注1)
【にしぼり・えいざぶろう】
(1903年−1989年)科学者、技術者、探検家。京大山岳会、日本山岳会。京大教員から民間企業に移り、再び京大に戻り、第一次南極越冬隊の隊長を務めた。
【いまにし・きんじ】
(1902年−1992年)生態学者、動物社会学者、霊長類学者。競争ではなく棲み分けによる進化論を提唱した。京大山岳会、日本山岳会で登山家としても知られる。
【くわばら・たけお】
(1904年−1988年)フランス文学者、評論家。学際的共同研究の先導者として知られる。今西錦司と京都大学の同期であり登山家としても活躍した。
【うめさお・ただお】
(1920年−2010年)生態学者、民俗学者。今西錦司に師事し、登山家、探検家としても知られる。国立民族学博物館の設立に尽力し、初代館長に就任。

京大生時代。時代祭に参加して扮装をした。


1973年京大学士山岳会、ヤルンカン登頂隊に最年少の隊員として参加。隊長は西堀栄三郎、7400mまで登った
人間は世界をどう見ているのか
年に百二十日山行で、百二十日訓練で、山に明け暮れる学生生活でしたが、あとの百二十日しっかり勉強すれば結構いい成績がとれました。三年生になって哲学科に進みましたが、世界を知りたいという興味に近いのは先人の訓詁学ではなく、実験心理学だと知りました。ベル研究所のベラ・ユレシュ(注5)
(1928年−2003年)ハンガリー出身の実験心理学者。学位取得後渡米し、新設されたベル研究所に入所。1959年にランダムドットステレオグラムを発表した。
(1869年−1944年)ドイツの動物学者、哲学者。生きものの環境は、その生きものの知覚によって認識された世界である「環世界」であると考えた。著作に「生物から見た世界」「生命の劇場」がある。
(1913年−1994年)米国の神経心理学者。分離脳の研究によりデイヴィッド・ヒューベル、トルステン・ ウィーセルとともに、1981年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。
(1939年−)米国の神経心理学者。スペリーに師事し、分離脳の研究を続け、大脳の左右半球の連絡と機能分化の理解に貢献した。

ネズミの脳の研究を始めた修士1年の時。研究室にて。

見返り阿弥陀に会いに紅葉の名所永観堂へ。
霊長類研究へ
博士課程一年生の秋に京都大学霊長類研究所の心理学研究部門の助手の公募がありました。ネズミの脳には人間の脳のような皺がなく、左右の半球に違いは見られません。だからそこからは、人間の脳のことはわからない。これが僕にわかったことでした。そこで大学時代の人間の視覚の研究と大学院で身につけた学習行動を大脳生理学の実験手法で解析する方法を合わせ、サルの心理学に挑戦しようと思ったのです。サルが、この世界をどんな風に見ているのか、それを行動や学習を通して検証したいと応募書類に書きました。それを室伏靖子先生がおもしろいと思って採用してくれたのです。当時の助手は学位を取る前の学生が応募するのが普通でしたから、論文数を競うものではありませんでした。でも僕は学部の卒論を学会誌『心理学研究』に投稿し受理されていたのでそれが評価されたのだろうと思います。これは山岳部のおかげです。京大の山岳部は単に頂上を目指すだけではなく、学術調査をすることになっていましたから、先輩が気象や森林や地質やそれぞれの研究をして論文を書くのを見ていました。それで誰に教わらなくても、研究をしたら論文をまとめるものだということが身についていたのです。助手に任期制がない時代ですので、二十六歳になったばかりで終身保証のポストに就けてとても恵まれていたと思いますが、その分プレッシャーも大きかったですね。大学院生の真ん中の年なので学生の中に年上の人がいて、その人達は霊長類のことをよく知っているわけです。僕はサルの学名ひとつ知らないわけですから肩身が狭かったです。最初の二年くらいは暗中模索で、資料委員として標本を作る仕事をしたり冬の志賀高原での野生ニホンザルの調査に同行させてもらったりしていました。ちょうどその時、室伏先生がチンパンジーでの言語学習の研究を始めると決心されたんです。日本はニホンザルの研究では先進的でしたが、類人猿では欧米に十年遅れをとっていました。僕は助手ですから「松沢さん、あなた一緒にやってね」となったわけです。どうやったらいいか全く知らないところからのスタートでしたが、山岳部での初登頂の精神でやりました。今西さんたちからは自由な研究の姿勢は学びましたが、霊長類学については影響を受けていません。チンパンジーの言語習得の研究としては、ガードナー夫妻(注10)


助手に採用された頃。霊長類研究所の窓辺にて。
アイプロジェクトのはじまり
チンパンジーが来るまでの1年間、ニホンザルの赤ん坊を自分で育てる研究をしました。サルがわかったと思い始めていたところに、1977年の秋、チンパンジーのアイがやってきました。その衝撃は大きかった。なんじゃこりゃ、これはサルじゃないぞというものが目の前に現れましたから。最初から目をじっと見てコミュニケーションができたのです。1978年4月15日にチンパンジーに言葉を教える研究、アイプロジェクトが始まりました。アイが初めてコンピュータの画面に触れて言葉の学習を始めたのです。室伏先生の「大型類人猿の人工言語習得とその脳内機構」という研究プロジェクトの一員として、実験を計画してきましたが、言語によるコミュニケーションが可能なことはある程度わかっていたので、もっと科学的な方法でチンパンジーの認識の研究をしようと考えました。言語をメディアとして、チンパンジーが見ている世界を知ろうとしたのです。それまでの研究では、彼らが言語を覚えたり使ったりする行動を言語的に説明していましたが、僕は人間とチンパンジーで同じ装置を使い、同じ測定方法を使って、人間とチンパンジーの知覚や認知の比較研究をすることにしました。比較認知科学というのは、僕がこのアイプロジェクトで初めて使った言葉です。手話研究はすでに行われているので、そうではない方法を考えるべきなのですから。お手本があるわけではないので、日々を積み重ねていく中で、毎日新しいチンパンジーの側面が少しずつわかってきました。まず手がけたのは、色の認識です。チンパンジーがヒトと同じ赤、緑、青の三原色をとらえていることは、生理的なレベルではわかっていましたが、どう見えているのかはチンパンジーに聞いてみるしかないわけでしょ。使ったのは図形文字で、色に相当する文字と色の組み合わせを教えました。赤い色紙を見せて、赤という文字を選べば正解です。こうしてアイは、十一色の色とそれを表す図形文字を選べるようになりました。同じことを大学院生にもやってもらいます。二百種類以上の色を見せて、何色に見えるかを聞く実験では、青緑のような境界の色でヒトもチンパンジーも同じように迷います。その結果を比べるとチンパンジーとヒトと色の認識が、ほぼ同じことがわかりました。これは日本人が日本語で表す色の見え方ですが、バーリン(注13)
世界の言語の色を表す言葉と実際の色の関係を研究し、文化人類学的視点から色彩基本語の進化に関する説を打ち立てた。

色の勉強をするアイ。(2012年1月撮影)

ご褒美のリンゴを用意する。正解すると1片与える。(2012年1月撮影)


1984年日本山岳会のカンチェンジュンガ縦走では主峰隊チームリーダーを務め8350mまで登った。この後ヒマラヤ登山では、2回登頂を果たした。
アフリカで野生チンパンジーに会う
論文が出て間もなく、サバティカル(注15)
毎年十二月から一月の乾期にアフリカに行って、ボッソウの野生チンパンジーの調査をしていますが、ここでは道具の使用に目をつけました。ヒトの特徴は道具を使うことだと言われますが、ここのチンパンジーは台となる石の上に置いたアブラヤシの種をもう一つの石をハンマーに使って割りその中の核を食べます。なんでもないと思われるかもしれませんが、台、ハンマー、種と3つを操る訳ですからこれは石器とも呼べる高度な道具利用です。最初は彼らが石器を使っている場所を探して観察をしていましたが、その場を捉えるのは難しい。そこで、さまざまな予備調査後に、1988年に野外実験を始めました。石器を使うお膳立てをした場所を用意し、見通しのいい離れた所にフェンスを作ってビデオカメラを設定し、観察するのです。「野外実験」と称しています。それが上手くいって道具を使う様子がビデオで撮れたので、以来ずっとその様子を記録し、研究しています。例えば、チンパンジーに利き手があるということは、同じ場所で、同じ個体や同じ親子を何度も観察してようやくわかってきますよね。子どもがいつどうやって道具利用を学習するかも同じです。そこでわかったのがチンパンジーは「教えない教育・見習う学習」だということ。子どもはじっと見ていて大人の真似をするけれども、大人は手を取って教えたり、できたからといって褒めたりはしません。子どもはただ大人のすることを真似しているうちにだんだんできるようになる。個人差はありますが、アブラヤシの種割りはだいたい三、四歳でできるようになり、その頃に学ばないともう学習できない。チンパンジーの場合は、女性が年頃になると生まれた群れを離れて、別な群れに入ってそこで子どもを産みますが、生まれた群れが道具を使わない群れだと、入った群れが道具を使う文化を持っていてももう覚えられないんです。でも、その子どもは母親ができなくても、他の大人を見てちゃんと使えるようになる。「教えない教育・見習う学習」のいいところです。こういうこともたくさんの例を検証することで、正しく解釈できます。たまたま観察したのではなく、観察を繰り返すうちに行動を予測できるようになるので、実験を組み立て、確認することで対象が理解できる。一般的には実験室で実験、野外で観察という方法をとりますが、僕はフィールドでも実験をし、実験室でも観察するんです。この組み合わせで、統合的な理解ができると思っているんです。
Scientist Library:
季刊 生命誌 31号
「サルの森にて 自然の秘密を探り出す」
杉山幸丸

ギニアボッソウで野外観察をはじめた。研究所には各国の研究者がいる。

イタリアで開催された会議で、海外の霊長類研究者とともに。(本人:左端)

チンパンジーと暮らすボッソウ村のマノン人ガイドたち。

2011年ギニアのボッソウで道具を使う野生のチンパンジーたちと。
チンパンジーの本来の知性を探して
アメリカから帰ってきて取り組んだのが、どうやって実験室のチンパンジーをより本来の姿に近い形で研究する環境をつくるかです。アイはまだ日本がワシントン条約(注16)
絶滅のおそれのある動植物の取引規制することで保護を図る。日本は1980年に締結国となった。
アイの子どもアユムは、2歳からコンピュータの前で問題を解くことを覚えました。お母さんがやっているとだいたい子ども達も同じようにコンピュータの前に座って勉強をはじめます。アユムは4歳の時には、同じ歳の子供たちやすでに学習のすんでいるアイ以外のお母さんたちと一緒に数字の学習をしました。チンパンジーの4歳は人間でいうと6歳くらいにあたりますから小学生になる頃です。アユムは数字を小さい順に選べるようになったので、これを利用して記憶能力を調べました。コンピュータ画面に出たいくつかの数字のうち、一番小さい数字を選ぶとそれ以外の数字が白い四角に置き換わります。記憶を頼りに置き換わる前の数字の小さい順に四角に触れたら正解というテストです。アユムは今では1から9までの9つの数字をたった0.5秒見ただけで正しく答えます。人間ではとてもできないし、アイよりも優秀です。これこそ実験研究の白眉ですよね。手話の研究では、人間の使う言葉の能力の一部分がチンパンジーにもあるという二分法の見方しかできませんでした。チンパンジーの記憶研究のすばらしさは、あきらかに人間の大人でもできないことをチンパンジーのそれも子どもができるということを証明したことです。身体能力ではなくて、認知的な課題の瞬時記憶において、チンパンジーの方が人間より優れている。それを万人が認めざるえない形で提供したのです。人間と動物という二分法が間違っていて、人間は動物の一つでしかないのですから、人間に得意な分野がある一方で、チンパンジーの方が得意な分野がある。ゲノム的な人間観が現れているのです。ゲノムは目に見えないけれど、心の研究は実際に見て経験できるところが面白いのです。

中山賞授賞式。伊谷純一郎先生、西田利貞先生、日高敏隆先生など錚々たる顔ぶれが揃った。(本人:前列右から4人目)

アフリカの森により近い環境をつくる試みは現在も続けている。

アイとアユムがコンピュータにむかってそれぞれ自分の課題に取り組む。(2012年1月撮影)

京都大学霊長類研究所で指導する大学院生たちと、アメリカ霊長類学会に参加したホテルで。
見えてきた人間の心
チンパンジーには一瞬でこの世界を読み解くすばらしい記憶力があります。それが分かると我々人間には、そうした記憶力はないけれど、ぱっと見たものの向こう側にあるもの、あるいはぱっと見た景色の中に入ってこないものに思いをはせることができるということに気づきます。チンパンジーは画材を与えるとご褒美がなくても思い思いに絵を描きます。殴り書きのようではあるけれど、タッチや色使いに個性が見られます。でも決して具体的なものは描かないことが分かりました。ただ描かれたものをなぞりはするので、チンパンジーの顔を予め描いておいた紙を与えてみたんです。当時大学院生の齋藤亜矢さんが考えた検査です。輪郭だけとか、片目がない、両目がないなど変化をつけると、チンパンジーはみんなその通りをなぞります。人間の場合、2歳児くらいまではチンパンジーと大差ないのですが、3歳児になるとほぼ全員が描かれていない目を書き足します。「おめめがない」ことに気がついて。これってすごいですよね。人間は時間と空間を超えて目の前にないことを考えられるんです。人間とは何かという問いに、チンパンジーを通じて向き合い、人間には想像するちからがある、という答えを見つけました。個別の研究の答えだけを求めるのでなく、チンパンジーの社会を丸ごと作り上げることを目指してやってきた背景があるからこそ得られた答だと考えています。明らかに今の生命科学、生物科学の還元主義とは逆の方向です。全体主義と言ったらよいかな。若い頃に最初に哲学を志し、世界がどんな風に見えているかと考えたとき、世界がどうであれ見ているのは「私」なのだと思いました。世界の森羅万象は自分の目を通して見えるのであり、全部自分の中に畳み込まれていると考えたのです。つまり世界の理解を個に還元できると思った。そこで最初は一人のチンパンジーの見ている世界から普遍的なチンパンジーの知性が引き出せると考えてアイプロジェクトを始めました。一般的には、人間の心は脳にあると考えて、脳は神経細胞に還元できて、更には遺伝子や神経伝達物質に還元していますね。それで理解できると思っている。でも心は社会の中で働くものだし、文化という背景があって働くのです。心が働く環境が、どのようなものか、それが行動を決めているのであって、脳が決めているわけではないでしょう。だから社会の中でどう心が働くかを見るのが正しいはずだ、という強い自信を持っていまは研究を進めています。

2010年9月、ジェーン・グドール博士と旅の友のミスターHと一緒に。

グドール博士(左)、マルチネス博士と。背景は伊谷純一郎先生のフィールドノートの展示。

チンパンジーと人間の子どもの違い。人間には無いものを想像するちからがある。
未来にむけて
チンパンジーで研究をさせてもらっているからには、日本で飼育されているチンパンジーの福祉と、野生のチンパンジーの保全を考えないわけにはいきません。霊長類研究所でも豊かな環境づくりを進めてきましたが、国内にいる335人のチンパンジーがすべて幸せになるように努力しています。明日からアフリカに調査に行きますが、ボッソウも深刻です。ボッソウの野生チンパンジーの群れには最近外から女性が入ってきていないので、少子高齢化が進んでいます。そこでその東にあるニンバ山にいるチンパンジーとの交流を期待して、サバンナに木を植えてボッソウとニンバ山の間に森をつくる「緑の回廊」プロジェクトを1997年から進めています。三百メートルの幅で四キロにわたる緑地帯を作ろうという計画なのですが、植えても定着するのは四分の1ですし、野火で焼けてしまうこともあるんです。さらにニンバ山は世界自然遺産のはずですが、鉄鉱石の塊なので先進国の巨大資本がよってたかって鉄の露天掘りを始めようとしています。それをどうやって止めるのか、本当に頭を痛めています。僕がやるべきことは、チンパンジーの研究者として認められる研究を続けること、アフリカに出かけては木を植えてくることだと思っています。研究者はカメレオンの目をもつことが必要だと思っているんですよ。それぞれ違う方向をみること、それも近くを凝視する目と広く周辺を見回す目を持つことです。別の言い方をすると、百メートルも速いけどマラソンも得意という人である必要があります。それには健康でいることと、毎日続けること。僕が目指すのは、やはり山岳部で学んだ初登頂の精神、パイオニアワークです。それを実現するにはなんでもできて、完全にできることが大事です。徹底した完全主義でとても現実にはあり得ないけれど、こういう矛盾したものこそ目指すべきだと思っています。チンパンジーと同じ「教えない教育、見習う学習」を目指しています。だから口では言わないけれど、若い研究者にそれを目指してほしいと思っています。すばらしいものを実際に見て自分で自分を直していくこと、そのためには自己管理と自分を客観的に理解することが必要です。僕は十七歳の夏に一念発起して毎日自己点検ノートをつけているんですよ。「お父さん変だよ」と娘に言われますが、人間を知るにはまず自分から、ではないでしょうか。
アイとはもう34年のつきあいになる。

「想像するちから」で毎日出版文化賞を受賞。授賞式で研究所のメンバーと一緒に。(本人:後列左から5番目)

研究所で還暦のお祝い。赤いちゃんちゃんこが本人。

高校生から続けている自己点検ノート。1行が1日の生活を表す。