海へ寄せる夢

「私の机の上には、オウムガイの貝殻がひとつ飾ってある。仕事に疲れたときなど私はそれに耳を当ててみる。すると、太古の海の潮騒がかすかに聞こえてくるような感じがして、不思議に気持ちが安らぐのだ。

山は、その澄んだ大気と深い静寂とによって私たちに休息をあたえてくれるだろう。それはたとえれば、厳しい父のもとに久しぶりに帰った時に感じる、あの魂の安息といったらよいだろうか。これに対して、海のほとりで私たちは、やさしい母のもとでの慈愛に満ちた休息、生の祝祭ともいうべき心身の自由と開放とを見い出す・・・。」(『読売新聞』夕刊 平成元年7~12月連載「潮音風声」より)

振り返れば、私が海の生き物の世界に初めて出会ったのは小学生の頃だった。そのときの印象は今でも強烈に覚えている。東北の内陸の町で生まれた私は、海を知らずに育ち、小学校に上がる頃になって初めて海を見た。浅虫という、青森市の近くにある町に、今も東北大学の臨海実験所があるが、当時はそこに水族館が付置されていた。水槽のガラス越しに初めて見る奇妙な形の海の生き物たちは、幼いこころに強烈な印象を与えたのだった。

その頃、水族館で売っていた絵葉書のなかにひときわ私の興味を引く絵があった。それは、幻想的な色彩の魚で、銀白色の細長い体に大きな金色の目玉、ピンク色の背ビレが長く伸びている。説明にはふだんは海の深くにいる深海魚だと書かれていた。(残念ながら、実家の改築騒ぎでその絵葉書は紛失してしまった)。リュウグウノツカイというまさに竜宮城にいるような美しい魚の絵を見て、海の世界に対する私の夢はますます膨らんだ。

水族館の入口のホールに展示されていたヘルメット式の潜水服のこともはっきりと覚えている。まるで宇宙服のようにものものしく、こんなものを着ないとたどり着けない深海とはどんな世界なのだろうと夢を膨らませたものだった。こうして実験所と水族館を毎年のように訪れるうちに、やがて将来こういうところに勤めて海の研究ができたら、どんなにすばらしいだろうと思い始めたのだった。小学校の3年か4年の頃のことだ。

西村博士が魅せられた海の生き物たち
ハナウミシダ
オオトゲトサカ
エダイボヤギ
タテヒダイボウミウシ

水産庁の調査船に乗っていた頃。1955年

京大4年生の春の臨海実習風景。南紀の海でのこの体験が海洋指向を決定的なものにした。左端が西村博士

日本海の研究へ

私が京都大学を卒業した年は、学生の就職に関して今どころではない、たいへんな年だった。旧制大学の最後の学生と私を含めた新制大学の第1期生とが同時に卒業したからだ。そんななかで仲間たちは皆大学院に進んだが、私はどうしてもすぐに海の研究がしたくて、いろいろ探したあげく、当時教授としておられた市川衛先生の紹介で、新潟の水産研究所に日雇い所員として働き口を見つけた。給料はとてつもなく安かった。でも、とにかく海の仕事ができるようになったことで私はただただ幸せだった。

1年して正式の所員になった。研究所員としての仕事は、イワシの産卵調査などで、学問的な興味からいうとそれほどおもしろいものとは言えなかった。でも、その調査のために船で沖合いに出るのは楽しかった。さまざまな地点でプランクトンネットをひき、水温、塩分、海流の速度を計っていく。一度出航すると1週間から10日間は沖に出たままだ。天気のよい日の昼間に見る広々とした海。世の中のわずらわしいことをすべて忘れて解放感に浸らせてくれる。夜になるとこんどは、夜光虫が私たちの目を喜ばせてくれた。ザー、ザーッと船が起こす波で巻き上げられた何千、何万という夜光虫たちが、まるで世界全体を緑色の炎で包んでしまうように光るのだ。たとえしばしばしけにあって辛い思いをさせられても、私にとって海は何ものにもかえられない親しい存在となった。

日本海の300mよりも深いところには、世界的にもまれな非常に冷たい水がたたえられている。シベリアの沿海あたりで海水が凍り、そのあと残った塩分の濃い水が日本海の深い海底に沈んでいく。私はこの「日本海固有冷水」を飲んでみたことがある。深い海の底から汲み上げられた水は、まさに腹わたにしみわたるような冷たさだった。

やがて、見よう見まねで論文を書くようになった。ほとんどが海の生き物に関するものだったが、若かった私はとにかくなんでもかんでも片っぱしからとりあげて書きまくった。多い年には1年に10篇以上も書いたことがある。今から思うと玉石混淆どころかダメな石ころばかり。でも、本人は大真面目で、まるで海に向かってラブレターを出すような気持ちで論文を書いていた。

そうやっていろいろな海の生き物たちとつきあっているうちに、彼らの住む日本海というものが自分なりに見えてきたように思う。それをまとめて、『日本海の動物地理学的諸様相』(英文)という論文を仕上げ、理学博士の学位を授けられた。

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フリソデウオとサケガシラはいずれもリュウグウノツカイと近縁の深海魚で立ち泳ぎをする。ニギスに近いキュウリエソの卵は海の中層に大量に浮遊しているのが観察されるが、成長した魚はふだん50~300mの深いところにいるため、長い間どの魚の卵なのか不明だった。西村博士は、それがキュウリエソの卵だということを、種々の資料から推理し、確認した(キュウリエソの浮遊卵以外はいずれも西村博士の図。キュウリエソの卵=水戸敏、日本海水深図=木村政司)

ハリセンボンの大量漂着

水産研究所に勤めていた頃、よく海岸に出て「いそこじき」をやった。波に打ち寄せられて浜に上がった生き物たちを海岸を歩きながら拾っていく。1kmも2kmも、ただただ下を見ながら歩く。仕事のうえで必要なわけではない。とにかく海の生き物についてもっと知りたくて、暇があれば浜に出ていた。

そのうち、冬になると決まってたくさんのハリセンボンが浜に上がってくることに気がついた。大学で習った自分の知識からすると熱帯の魚のはずだった。おかしいと思い、漁師たちに尋ねると、ハリセンボンはいつも冬に流れつく、だからハリセンボンは寒流性の魚なのだ、と言う。そのうちオサガメ、ソデイカなど他の熱帯性の生き物たちもやはり夏には見られず、冬になると浜に打ち上げられることを知った。しかも西風が吹き荒れたあとによく上がる。

私はいろいろと考えをめぐらせたあげく、一つの仮説にたどり着いた。対馬暖流は南の海から熱帯性の生き物たちを北の日本海まで運んでくる。でも、やってきた生き物たちは夏の間は沖合いの環流域にとらえられている。それが冬になると、強い北西の季節風に流されて沖から沿岸へとやってくるのだろう。海洋調査で海水の動きをつねづね調べていた私には、これが一番もっともらしい説明だと思われた。

仮説をより詳しく検証するために、日本海の沖合いで、海水の流れを調べるための小さなびん(海流びん)を流すことにした。すると、春から夏にかけて流してもそれは岸のほうには流れてこないが、夏の終わりから秋にかけて流すと、すぐ岸に向かって動き出すことがわかった。

リュウグウノツカイとの出会い

今でもはっきりと覚えているが、あれは1960年の2月24日のことだった。新聞記者から電話があって、見たこともないような巨大な魚が底引き漁船の網にかかって上がったという。なんという魚かだれにも検討がつかないので、私のところに連絡が入ったのだ。記者の話からすると、どうもリュウグウノツカイのような気がする。でもこの珍しい深海魚がそう簡単に漁師の網にかかるはずがない、などと思いを巡らせながら自転車をこいで魚市場に駆けつけた。

人々に取り囲まれている魚をひと目見た瞬間、私にはそれがリュウグウノツカイだとわかった。なんという幸運。子供の頃に絵葉書で夢見たこの美しい魚に自ら出会うことができたのだ。リュウグウノツカイは、今でこそ日本の各地から報告されるようになったが、当時は、魚類の研究者でもめったに実物を見れない珍魚中の珍魚だった。

さっそくタクシーを呼び、いやがる運転手を説き伏せて研究所に魚を持ち帰った。当時は水産の分野では魚の外部の形態を調べるのが慣例だったが、私は持ち帰った標本を解剖して内部の形態まで詳しく調べた。たまたま同じ頃にやはり深海魚であるサケガシラが佐渡島の両津港で上がっていた。両方の魚を詳しく調べるうちに、私のなかに一つの疑問が沸き上がってきた。いったいこれらの魚は実際の海の中でどのように泳ぎ、どのような生活をしているのだろうか。

1911年にドイツのシュレジンガーという動物学者が、リュウグウノツカイの泳ぎ方について大きな論文を書いていた。その中で彼は、リュウグウノツカイはウナギのように体をくねらせながら泳ぐと結論づけていた。それが当時の学界の定説だった。私は、内部の骨格と筋肉、特に胴体の部分の筋肉の性状を詳しく調べて、どうしても体を左右に蛇行させる泳ぎ方はこの魚にとって正常でないと考えるようになった。筋肉の発達具合がそのようになっていないのだ。

ずいぶんと時間をかけて、さまざまなことを考えた。リュウグウノツカイやサケガシラには浮き袋がない。それで体の比重が周りの海水よりも大きい。サケガシラでは実際に本物の魚を使って測定して確かめた。つまり彼らはなにもしないと必ず沈んでしまうのだ。いったいどうなっているのか。そのとき気づいたのが、これらの魚の背びれを動かす筋肉がとてもよく発達しているという事実だった。

結局行き着いた結論は、体を斜めにして立ち泳ぎするという考えだった(図表参照)。背びれをつねに動かすことによって斜め上向きの力が生まれる。それが重力とつりあって、結局魚は水平方向に移動する。これが私がさまざまな情報から到達した彼らの泳ぎ方をめぐる結論だった。私の仮説は、その後、旧ソ連の魚類学者パリ―ン教授が著書の中で紹介してくれた。私にとって一番うれしかったのは、最近になって、たまたま浅い海に上がってきたリュウグウノツカイをダイバーが目撃し、私が考えたとおり、体をやや立てて泳いでいるのが確認されたことだ。

リュウグウノツカイが実際に泳いでいる様子。1990年7月26日、兵庫県浜坂町穴見海岸近くの浅い所で、潜水中のダイバーが写真およびビデオ撮影することに成功した。この映像からも、この魚が西村博士の予想したとおりの泳ぎ方(下図参照)をしていることがわかる。(写真=今井弘之)

1994年3月17日、退官記念講演を終えて。博士の生涯における記念すべき一日であった。

1984年夏、大連外国語学院で日本留学予定の中国人大学院生に日本語(生物分野)を教えた。その時の教え子たちと

蘇州から上海へ向かう急行列車の軟座席にて。1984年

生命の母なる海

水産研究所には前後11年間いた。その後、京都大学の瀬戸臨海実験所を経て、同じ大学の教養部に移ることになった。ずっとそばにいた海を離れることになったのである。大学の講義などというものは、それまで一度も体系的にやったことがなかったので、自分なりにどのようなものにしようかといろいろ悩んだ。その結果、せっかく広い分野の学生たちに講義するのだから、狭い専門的な内容ではなく、より総合的なものをめざすことにした。とくに、自然と人間との両方に関連した内容にすること、それが私の考えた方針だった。

同時に自分自身の研究も、同じような方向に転換することにした。京都のような内陸部の都市に住んでいては、海の生き物を研究するにはどうしても不都合がある。また、「命」について考えさせられる強い個人的な体験も一方にあって、できればなるべく生き物を殺さずにすむ研究をしたいと思うようになったのだ。

私が取り組むことにしたのは、ひとことでいえば「誌」ないし「史」という分野だった。これまで人間は地球の生物界をいろいろと調べてきた。その結果たくさんのことが科学的事実としてわかってきたのだが、私は成果としての事実よりも、事実を明らかにする過程そのもの―それに携わった人間たちのドラマに注目したいと思ったのである。

最初に取り上げたのは、18世紀に現在の生物分類法の基礎を作り上げた、スウェーデンの博物学者リンネとその弟子たちのことだった。私は、新しい分野に入るにあたって、ダーウィンなどの有名な人たちではなく、その人なりにこつこつと努力した無名の人たちの業績を掘り起こしたいと心に決めていた。だからリンネの場合でも、本人よりも、今はあまり名前の知られていない彼の弟子たちに注目したのだった。

最近では、19世紀の中頃に世界で初めて深海の研究を本格的に行ったイギリスの調査研究船チャレンジャー号とその乗組員たちの人間ドラマを調べてまとめた。自分が海に乗り出した青春の頃を思いながら執筆していくのは、本当に楽しかった。歴史という分野に方向を転換したものの、結局、海はいつも私のこころの中にあると痛感せずにいられない。

 

スウェーデンの博物学者リンネの若き頃

リンネの高弟で、江戸期の日本を訪れたチュンベリー

イギリスのチャレンジャー号

チャレンジャー号が、深海の生物を採集するために使ったビームトロール曳き網。13,14、いずれも『チャレンジャー・レポート』航海期篇、第1巻(1885年)より