工作と化学合成

子どもの頃は病弱で、始終倒れては学校を数週間休んでいました。気も小さく、くよくよしがちでしたね。富山の田舎の小学校は、第二次大戦後で教材も満足になく、文化的なものに触れる機会は少なかったのです。そんな状況でまず興味を持ったのは工作です。模型飛行機を作る課題があって、それを飛ばす競争が学校中で盛んになったんです。僕の作った飛行機がダントツに長い時間飛んで、すごく嬉しかったですね。

もう一つは、家中の時計を壊したこと。たまたま壊れたのを自分で直してみようとしたんです。ところがゼンマイの仕掛けがよくわからないので、動いている時計で確認しようと壊れていないのを開けちゃった。どうして規則正しく時を刻むのかと、時計の中身をじっと見ていたことをおぼえています。結局次々にいじって全部壊しちゃった。これからは絶対にダメだぞと、親父にものすごく怒られました。

中学では体を鍛えようとバレーボールをやったのですが、背が小さかったので高校では化学クラブに入りました。顧問の先生が生徒の相談事をよく聞いてくれる頼もしい方で、教科書には出てこない化学合成の実験も教えてくれました。特に気に入ったのは錯体化合物錯体化合物主に鉄や銅の金属イオンなどを中心に、別種のイオン分子が結合した集合体。色を示すことが多く、絵の具の原料にも使用される。の反応。一生懸命勉強して、金属原子と化合物をどう組み合わせるとどう発色するかを夢中で実験しました。

僕の村では、子ども会から青年団、婦人会、老人会まで集まる演芸会があって、ある年お前も何かやれと頼まれたんです。化学反応でコントをやろうと思い、無色の液体で紙に字を書き、別の液を吹きかけてぱっと字を出して受けを狙う筋書きを作ったのです。みんな楽しんでくれましたよ。他にも、親父が愛用していたキセルに銀メッキをしたりと、学問としての化学とのつき合い方としてはあまり高尚ではなかったなあと思うけれど、人が知らないことを自分が知っていて、それを人にも喜んでもらうのがとても嬉しかったんです。

兄と。

工学部を落ちる

化学に熱中した高校生活でしたが、進路はそもそもの興味である機械工学を選ぼうとしました。同じ高校から東京工業大学を六人受験したんですが、その年はなんとみな不合格。残念でしたが、一人だけだめだった訳ではないからと自分を慰めました。本当は浪人して再挑戦したかったのですが、家庭の事情はそれを許しません。仕方なく、試験日が後にある富山大学を受けました。ただし選んだのは、工学部ではなく薬学部。薬学専門学校の伝統を持つ大学ですから、第一志望ではないけれどそこで学べる一番いいものを選ぼうと考えたのです。

薬学の専門課程での化学合成実験は、工作や機械いじりと同じように、自分で計画を立てて思い通りのものを作れるのが面白かったですね。量子化学や有機合成反応論の講義で、理屈から考える面白さも知りました。将来、薬を作る研究者になりたいと本気で思うようになりました。受験に失敗したことで、人生が見事に軌道修正されたのです。大学院に行かずに製薬会社に就職したのは、片思いの子にプロポーズするには早く社会人にならなければという軟派な理由からですが(残念ながら振られました)、入った会社でまた人生を変える事件を起こすことになりました。

大学卒業後に上京。両親と箱根旅行。

辞表を出して核酸へ

新入社員としては破格の中央研究所配属の希望が通り、アメリカ留学から戻って最新テーマを立ち上げようとしていた上司につきました。研究環境としては申し分ないはずなのに、僕の顔はだんだん暗くなりました。ほとんどの研究員が、定時に始まって定時に終わる生活に満足し、遅くなりそうなら今日できる実験を明日にのばして当然という雰囲気が、根っからの実験好きの僕には全く理解できなかったのです。心は会社から離れていき、たまたま手に取った科学誌でDNAやRNAなどの核酸核酸リン酸、糖、および塩基からなるヌクレオチドが重合した細長い構造を持つ分子。糖としてリボースをもつものをリボ核酸(RNA)、デオキシリボースをもつものをデオキシリボ核酸(DNA)とよぶ。が生命現象の鍵を握っているという話題に興味を持ちました。

ついに入社三ヶ月目、辞める決心をして上司に相談したら、猛烈に反対されました。当たり前ですよね。しかし自分の気持ちを懸命に説明したら、「そこまで言うのなら、自分の思うことをやりなさい。それが一番大事だ」とわかってくれて、所長に掛け合う時も味方になってくれたのです。もちろん所長だって素直にそうかと言うわけありません。さんざん怒られて、ついに「俺の目の前で辞表を書け」と硯と紙を渡されました。「辞表はどうやって書けばいいんでしょうか」と聞くと、「そんなことも知らんで辞めたいと言うのか」とまた怒られる。墨をすってなんとか書き上げると、受け取った所長の顔が急に穏やかになりました。

「お前は核酸を研究したいそうだが、行くあてはあるのか。同級生で薬学部の教授がいるから、俺の名刺を持って会いに行ってこい」となんとその場で電話をかけてくれたのです。紹介されたのは東京大学薬学部の浮田忠之進先生という糖とリン酸の有機化学の専門家でした。これが、研究者への転機となりました。会社勤めが嫌だと言って辞めた後、この出会いがなければ今の僕はなかった。つくづく、人との出会いに恵まれていたと思います。

薬学部では当時はまだDNAの分子生物学をやっていませんでした。糖とリン酸に塩基がつけば核酸になりますから、有機合成でDNAに似た分子を作って抗がん剤となるものを探るのが大学院での最初のテーマになりました。核酸を通して生命現象を知るのとはちょっと違うテーマですが、有機化学はもともと好きでしたし、覚悟して大学院に来たのですから、必死で実験しました。

研究室では、お前は何で大学院に来たのかと話し合う機会がありますよね。内部から進学した連中は、「就職か進学かで迷っているうちになんとなく大学院に来た」なんていうわけですよ。無性に腹が立ってね、酒飲んでですが、まじめにケンカしましたよ。「そんないいかげんなことで大学の研究者がどうすんだ」って。みんなびっくりして、吉田はキレるって有名になっちゃった。

自分は一度就職して、失敗して好きなことをやるためにここに来ている。毎日がむしゃらに実験したのは、好きなことができてうれしいという純粋な気持ちもありましたが、同期生には絶対負けたくないという意地の方が強かったと思います。

大学院の時に結婚。長女が生まれた。

東京大学薬学部で。前列左から4人目が浮田先生。(後列右から2人目:本人)

自然に起きていることをやれ

薬学部の有機化学は、薬になりそうな化合物を考え、それを効率よく合成する方法を工夫するのが仕事です。僕のテーマは、薬の候補物質が「核酸成分」となっただけであり、一生懸命作ってもがんに効かなければ意味はない。新薬の開発なんてほとんどが失敗するのですから、次から次へと新しい試みをしなければなりません。

大学院に入ってしばらくした後、教室旅行がありました。たまたま浮田先生と一緒に温泉につかっていたら、「人間が考えることには限界があるが、自然に起きていることには終わりがない。お前は薬を作るよりも、自然に起きていることを研究した方がいいのかもしれない」と言われたのです。ひょっとしたらこいつは頭が良くないから、すぐに限界が来ると思われていたのかもしれません。でもこれがきっかけで、生体内での核酸のはたらきを知る生化学に興味が移りました。「自然に起きていることを調べろ」という言葉は、その後も自分の研究に迷いが出たときには必ず思い出し、軌道修正されてきました。

そのころ注目されていた核酸はtRNAtRNA細胞に存在するRNAの一種。運搬RNAとも呼び、アミノ酸をタンパク質合成の場へ運搬する役割を持つ。tRNAはmRNA上のアミノ酸配列情報を認識して、適切なアミノ酸をタンパク質合成酵素に渡す。これにより正しい配列でアミノ酸がつなぎあわされ、タンパク質が合成される。です。mRNAの配列からアミノ酸の情報を読み取って、試験管内でタンパク質を合成することにニーレンバーグニーレンバーグ【Marshall Warren Nirenberg】
アメリカの生化学者。遺伝暗号の解読とタンパク質合成の仕組みを解明した功 績により、1968年ノーベル生理医学賞受賞。
が成功し、そこに細胞から抽出したtRNAが必要だということがわかったのです。この論文を教室のセミナーで取り上げ、mRNAがDNAから受けとった遺伝情報をタンパク質の合成につなげる橋渡し役の核酸であるtRNAにとても興味を持ちました。有機化学から入った僕は、生きものらしい機能がある分子に取り組むのが向いていると思ったのです。

浮田先生が、博士課程でも有機合成に関わるテーマを出されたので、「先生は自然に起きていることを研究しろと言ったじゃないですか。僕はtRNAの構造と機能をやりたいんです」と拒否しました。怒られましたね。「今日のお前は頭がおかしい。出直してこい」と言われたので、「はいっ」と引き下がって三日後にまた同じことの繰り返し。ついに三回目、「わかりました。先生のテーマもやりますが、自分が思っていることもやっていいですか」と尋ねると、「知らんっ」とまた怒られたので、「ありがとうございます」と言って戻りました。このやりとり以来、結局、教授のテーマには手を付けませんでした。

ブレナーに敗れる

tRNAはもちろんRNA分子の一種ですが、普通の核酸とは異なり、アデニン、ウラシル、グアニン、シトシンの4つの塩基だけではなく、微量塩基を持っています。当時、全構造が決められたアラニンtRNAアラニンtRNAアラニンを運搬するtRNA。アラニンを指定するmRNAの塩基配列(GCC)と結合する部分に、IGC(I:イノシン)の配列を持つ。がイノシンイノシンRNAに含まれる微量塩基の一種。通常の塩基対形成では、アデニンとウラシル、グアニンとシトシンが結合するが、イノシンは複数の塩基と結合できる性質を持ち、tRNAがmRNAと結合する際にしばしば用いられる。を持っており、mRNAのコドンを読むのに必要らしいという説が出されていました。ここで、有機化学の発想をしました。他の塩基には影響を与えずイノシンだけを化学変化させる条件を見つけてtRNAを処理し、そのtRNAが翻訳活性を持つかどうかを調べれば、イノシンがtRNAの機能に大事なのかどうかがわかります。

浮田先生は週に一度突然学生の部屋に来て、「あれはどうなった」と研究の進捗を尋ね回ります。みんな連携して、最初のやつが捕まっている間に「空襲警報」って耳打ちして、回答を慌てて準備したり、こっそり部屋から出て行ったりしていました。僕も時々捕まります。その時は、「一生懸命やってます。ちゃんと合成できたかどうか、結晶で確認していますがなかなかできません」と適当なことを言ってごまかしていました。三回目くらいで先生も怪しいと思ったのか、「君は結晶の作り方を知っているのか。教えてやるから持ってこい」と言われたんです。焦りましたね。しかたがないので冷蔵庫から適当に出した溶液を渡し、先生の操作をヒヤヒヤしながら見ていたのを今もおぼえていますね。

そうこうしているうちに、イノシンを変化させる反応条件がわかり、「私のアイデアの方は、こうなりました」と、ぼつぼつ報告できるようになりました。最初は取り合ってもらえませんでしたが、だんだん先生も面白くなってきたようで、名古屋大学の三浦謹一郎先生(現東京大学名誉教授)にtRNAの取り方を習いに行かせてくれたり、僕しか使わない機材を買ってくれたり、支援をしてもらえるようになりました。そんな時、tRNAの構造解析をしているアメリカの研究室に留学していた先輩から、精製したアラニンtRNAをもらうことができたのです。このtRNAのイノシンだけを化学変化させると、アラニンtRNAはもはやアラニンのコドンを認識できなくなりました。コドンの三番目に対応するのがイノシンの位置だとわかり、tRNAがはたらく仕組みを世界で初めて俺が見つけたと有頂天になりました。

ところがこの論文が出る直前、イギリスのシドニー・ブレナーシドニー・ブレナー(1927-)【Sydney Brenner】
イギリスの分子生物学者。1960年、フランスのF.ジャコブらと mRNAを発見。セントラルドグマの実体解明。線虫の分子生物学を始め、器官の発生と細胞死の遺伝学的研究によりノーベル生理医学賞受賞。
が遺伝学的な手法でtRNAの機能を調べていたことがわかりました。大腸菌のtRNA遺伝子に変異を与え、コドンを読み取る部分の配列を変えると、別のアミノ酸のコドンを認識する変異tRNAになるという実に見事な証明です。僕の結果もtRNAの分野では注目されましたが、サイエンスの内容としては完敗でしたね。でも自分一人で考えたことが世界の最先端の研究と肩を並べていたことが実感できたし、浮田先生も「吉田は世界で高く評価されている」と、助手の身分で留学をさせてくれました。

吉田さん、大変ですね

二年間の留学を終え三月末に帰国すると、教室は大変なことになっていました。浮田先生ががんで入院されていたのです。結局、四月末に亡くなられ、これからのことを考えました。自分の得意なRNAで解きたいことは、発生や分化などいろいろあるけれど、薬学に身を置く者としては病気としてのがんを意識したい。その頃のがんは遺伝子の関わりも全く不明で、細胞の性質がとにかく異常になるという現象の記述だけでした。

ここでまた、人生の転機となる出会いがありました。教室の後任の教授が、アメリカから戻って大阪大学の助教授になった豊島久真男先生(現東京大学名誉教授)との共同研究を提案してきたのです。豊島先生はニワトリ肉腫の原因であるラウス肉腫ウイルスラウス肉腫ウイルスアメリカの病理学者ラウスによって一九一一年に報告されたニワトリのがんウイルス。srcとよばれるがん遺伝子をもつ。このがん遺伝子は、もともと宿主細胞のゲノムで細胞増殖に関わる遺伝子だったものが、ウイルスゲノムに取りこまれたものである。を研究し、細胞の培養温度を変えることでウイルス感染細胞のがん化をコントロールできることを発見していました。ウイルスの運ぶ遺伝子の一つに変異が入ると、高温条件ではがんを起こせなくなるという事実から、ここで変異が入った遺伝子がウイルスのもつがん遺伝子に違いありません。それをつきとめる実験です。ラウス肉腫ウイルスはRNAをゲノムに持つレトロウイルスレトロウイルスRNAウイルスの一種。ウイルス粒子内に逆転写酵素をもち、ウイルスゲノムをDNAに変換して宿主細胞のゲノムに組み込まれることで増殖する。であり、がんの遺伝子にたどり着くにはRNAを扱う洗練された技術が必要です。そこで、tRNAで実績のある僕に白羽の矢がたったという訳です。

さっそく阪大を訪れると、豊島先生自らがんウイルスや細胞の扱い方を教えてくれました。ところが僕はそれまで、細胞を培養するとか動物実験をするとか、本当に生きているものをいじったことがない。シャーレを顕微鏡で覗かせてもらって、「細胞が見えるでしょ。細胞がもりあがっているところががん化しています。容器の裏に印をつけてください」とペンを渡されましたが、「先生、細胞が見えるっておっしゃるけど、どれが細胞で、どこが細胞と細胞の間なのかわからないんです」と正直に言いました。先生はしばらく黙っていた後、「吉田さん、これから大変ですね」と言われました。ともかくここから、僕のがん研究がはじまったのです。

千載一遇のチャンス

がんウイルスに本格的に取り組もうと、癌研究所でマウスの白血病ウイルスを研究しておられた井川洋二先生(現東京医科歯科大学名誉教授)の研究室に移りました。ラウス肉腫ウイルスのがん遺伝子発見競争では残念ながらとても及びませんでしたが、未知のニワトリがんウイルスが日本で見つかったという知らせを聞き、気を取り直して取り組むことにしました。

山口大学の学生実習で、ニワトリを用いたがんの移植実験をしたところ、個体間の移植ではがん細胞といえども免疫反応で拒絶されるはずなのに、がんがそのまま定着したのです。そのがん細胞が豊島先生のもとに持ち込まれ、ウイルスが関係しているとわかりました。山口で一九七三年に見つかったのでy73と名付けられたウイルスから、本邦初のがん遺伝子の発見をめざしました。

がんの原因と思われるウイルス遺伝子の配列を決める作業は、アメリカでポリオウイルスの全配列を決定した経験を持つ喜多村直美さん(現東京工業大学教授)にお願いしました。ところがy73に取り組もうという時、彼が京都大学から引き抜きを受けました。y73の仕事は君がいないとできないから終わるまで待って欲しいと頼みましたが、京大も早く移って欲しいと待っているし、待遇だって良くなるんですから無理に引き留めるわけにはいかない。所長の菅野晴夫先生(現名誉所長)に相談しても、「本人がそうしたいというならその通りにさせてあげるのがいちばんいいんだよ」と一般論を返されただけで、頼りにならない所長だなと思ったものです。

ところが翌日、喜多村さんの方から「y73の配列を決めてから移ろうと思うので、先生から京大に連絡を取って欲しい」と言い出したのです。びっくりして訳を聞くと、菅野先生から呼び出されて「新しいがんウイルスのDNA配列を決めるとは、千載一遇のチャンスである。これを逃すと生涯そういうチャンスはないと思え」と発破をかけられたというのです。ちゃんと考えてくださっていたんですね。彼はその後一ヶ月必死に頑張り、全配列を決めました。

ところで、このウイルスが持つがん遺伝子のつくるタンパク質のアミノ酸配列は、驚いたことにラウス肉腫ウイルスのがん遺伝子のものとほぼ同じだったのです。場所も時代も異なるニワトリウイルスから共通のがん遺伝子が見つかったことは、遺伝子には構造と機能が似ている「ファミリー」というまとまりが存在するという新しい概念が生まれるきっかけとなりました。これらのがん遺伝子はそもそもニワトリゲノムに由来するものであり、その正常なはたらきは細胞増殖の制御であるということもわかってくるなど、ニワトリウイルスの研究ががん遺伝子の理解を大きく進展させたのです。

癌研究所では井川洋二先生(後列右端:現東京医科歯科大学教授)の研究室に所属した。(前列左端:本人)

培養細胞でがん化を観察できるのがウイルス研究の利点。

菅野先生(後列右端)の自宅で。前列右端はウイルス研究の先輩花房秀三郎先生(現大阪バイオサイエンス研究所名誉所長)。(後列中央:本人)

失うものを持っているんですか

ニワトリのウイルスがいよいよ面白くなってきたと思っていた頃、菅野所長が「ヒトのがんウィルスに興味はないか」と声をかけてきました。九州で見つかった成人T細胞白血病(ATL)成人T細胞白血病Aduit T-cell Leukemia
長い潜伏期間の後に成人で発症する、日本で発見された白血病。九州地方に多くみられる。
の原因がレトロウイルスではないかと疑われ始めているというのです。トリやサルには存在するレトロウイルスがヒトでは見つかっておらず、エイズの原因がHIVHIV
Human Immunodeficiency Virus
ヒト免疫不全ウイルス。
というレトロウイルスの感染と判明する以前のことですから、本当だとすれば大発見。もちろん二つ返事で引き受けましたが、ニワトリの研究もいまや世界から注目されていますので、こっちもできれば続けたい。そう言うと菅野先生が、「ふーん、吉田さんは失ってもったいないものを持ってるんだね」とひと言。その瞬間にこれまでの仕事を捨てる決心をしましたよ。喜多村さんを引き留めた時もそうでしたが、人を動かす言葉を知っている菅野先生は人生の達人だと思いますね。

ニワトリの研究データはすべて共同研究者に託し、ATLだけにテーマを絞りました。ATL患者の細胞をもらってすぐに、感染ウイルスがレトロウイルスである証拠を見つけることができたのは、ニワトリでさんざん苦労した経験がそのまま活かせたからです。ATLウイルス(ATLV)と名付けたこのウイルスのゲノムを調べ、がんの原因遺伝子をつきとめるのが目標ですが、喜多村さんが京大に移り、僕と技官の2人だけで大きな仕事はできません。ここでまた、人との出会いに救われました。

井川先生が山中湖で開催するシンポジウムを手伝いに行った時、満員の朝食席で、金沢大学から来た清木元治さん(現東京大学医科学研究所所長)という若い研究者とたまたま同席したのです。「金沢から来たのか。俺は富山出身なんだよ」と話かけると、なかなか会話の歯切れがよく、しかも分子生物学が専門とのこと。そこで、「大きな声では言えないけど、ヒトのがんウイルスを発見したと思っている。やる気があれば来ませんか」と誘ってみたのです。普通こういう話はそれっきりで終わるものですが、数日後本当に研究所に現れ、一ヶ月後には研究室の一員になっていました。今度は僕が清木さんの人生を変えてしまったのです。その後、生化学に強い服部成介さん(現北里大学教授)が加わり、菅野先生が研究の進展に応じて必要な支援をして下さるという体制ができました。新しい仲間が一丸となって、一年足らずのうちにATLVの全配列を決定できました。ヒトレトロウイルスの正体を明らかにしたのです。

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1982年、ATLウイルスの全構造を決定。短い配列の解読を繰り返し、ATGCを鉛筆書きした方眼紙をつなぎ合わせた「まきもの」。左から、当時手作業だったDNA配列決定の達人平山榕子さん(現癌研究所主任研究助手)、配列の共通部分を見つけてつなぐのが得意な服部成介さん(現東京大学医科学研究所客員教授)、医学部助手の内定を辞退して参加した清木元治さん(現東京大学医科学研究所所長)、本人。

おてんとさまは見てござるぞ

ニワトリからヒトに対象を移して、世界を相手にしてサイエンスを進めるとはどういうことか、身をもって知りましたよ。それまでは、研究は楽しんでやるものだとか、いい仕事をしていれば必ず理解を得られると素朴に考えていたんです。海外の研究仲間も、非常に友好的に接してくれていました。ところがヒトの病気の研究は、直接役に立つ可能性がありますから、名誉と経済的な利害が関わります。こんな場面でもおおらかになれるのは日本人くらいじゃないですか。ヨーロッパの研究者もおおらかなところはありますが、アメリカ人はものすごいですよ。

僕らの仕事が発表されると、アメリカのウイルス学者ロバート・ギャロ博士から猛烈な抗議を受けました。ヒト白血病ウイルス(HTLV)はすでに自分が発表しているのに、お前はなぜATLVという別名をつけたのかと言うのです。確かに彼は白血病ウイルスの存在を発表していましたが、ウイルスの正体を確認しておらず、しかもそれ以前の論文でサルとヒトのウイルスを取り違えるミスをしていたためあまり信用されていませんでした。ところが皮肉なことに、僕らがウイルスの構造を解明したおかげで、ギャロ博士の見つけていたウイルスが今度は本物だったことが判明したのです。世界のウイルス研究者が協議し、先行発表を尊重する科学上の慣例から、ヒト白血病ウイルスの名称はHTLVで統一されることになりました。

ギャロ博士はその後エイズの研究に向かいましたが、HTLVの仕事を続けていく中では他にもいろいろな目に遭いましたよ。これもアメリカのある研究者ですが、お互いの実験を追試したいから試料を交換しようと言ってきて、こちらが快く出したのに向こうは送ってこない。しばらくたって、その試料を使ったとしか思えない論文を勝手に発表したので抗議したら、「冷凍庫が故障してこちらの試料が送れなかった」で終わりです。残念ながら、お金と名誉がかかると人が変わったようになる研究者もいるのです。

こういうことがあったとき、決まって思い出すおふくろの言葉があります。親の財布から小金を抜いたのがばれた時、「光昭、おてんとさまは見てござるぞ。お前が何を言ってその時ごまかしても、おてんとさまはちゃんと見てて、穴埋めはかならずやってくるのだぞ」としみじみ言われたのです。おふくろは正しかったですね。人に言えないようなことをした連中はいつのまにか他の分野に移りましたが、僕たちはHTLVの研究で結果を出し続けたのですから。

東京大学医科学研究所の研究室仲間。(前列右端:本人)

がんウィルス研究ではタフな競争相手だったロバート・ギャロ博士(米国メリーランド大学教授)。

Believing is not science

ATL患者からレトロウイルスが見つかったからといって、ウイルス感染がATLの原因であると断定できたわけではありません。ATLは感染から発症まで何十年もかかり、経過観察が難しいのです。さらにヒト以外の動物には感染しないため、動物実験もできません。ウイルス感染と白血病の因果関係をはっきりさせないと、対処法を考えることは困難です。

清木さんと議論を重ね、ある方法を思いつきました。レトロウイルスが感染細胞で増殖するには、RNAゲノムが逆転写されてDNAとなり、宿主細胞の染色体のどこかに組み込まれる必要があります。がん細胞が一つの感染細胞から発生するのであれば、一人の患者さんのどのがん細胞を調べても、ウイルスゲノムは染色体の同じ場所に組み込まれているはずです。しかしがんになってからウイルスが感染したのならば、細胞によって組み込み場所はまちまちでしょう。多くの医師の協力を得て百人以上の患者さんを調べた結果、例外なくがん細胞は一つの感染細胞から生じていることが示せました。HTLVこそが、謎の白血病といわれたATLの原因だったのです。

この結果をアメリカのシンポジウムで話したら、質疑応答で、「感染症の原因と言うからには、病気の場所から微生物を単離し、その微生物を増やすことができ、その微生物を投与したら同じ病気が起こるという「コッホの三原則」コッホの三原則ドイツの細菌学者コッホ(1843〜1910)が、結核と結核菌感染の因果関係をつきとめる中で提唱した。を満たさなければだめだ。お前の研究では三番目が証明されていないから、証拠にはならない」と指摘されたのです。答えに窮して、「それでもこれが原因だと信じている…」と言いかけると「Dr. Yoshida, Believing is not science(信じることは科学ではない)」と言われて、聴衆に笑われてしまいました。ヒトの病気についてこれしか証明がないことはみんなわかっているし、事実僕たちが考えた方法論はその後さまざまな研究で応用されています。しかし、サイエンスとしての客観性を厳しく問う姿勢は科学の発展にとって大事であり、オープンな場所で遠慮無く議論することは日本人が見習わなければならないことの一つですね。

朝日賞の受賞式。

ウイルス感染の予防に成功

HTLVががんを起こすことがはっきりわかり、その分子メカニズムの解明が次の課題となりました。動物のレトロウイルスは細胞に由来するがん遺伝子の発現を変化させていましたが、HTLVはウイルス特有の遺伝子からつくられるタンパク質が細胞をがん化させていました。TaxTaxHTLVは、ウイルス増殖に必要な基本の遺伝子であるgag、pol、envの他に未知の配列pXをもつ。ここからつくられるタンパク質Taxと Rexが細胞をがん化させる。
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と名付けられたこのウイルスタンパク質が細胞内ではたらくと、がん遺伝子が活性化され、がん抑制遺伝子のはたらきが抑えられ、DNAの傷が修復できなくなり、アポトーシスが起こらなくなるなど、がん化の引き金となる現象が全て現れたのです。

一つのタンパク質がこれほどさまざまな作用をするのは意外なことで、HTLVの発がんの仕組みがわかったのではと思いました。また、ウイルスがどうしてこんなタンパク質を持つようになったのか、腑に落ちないところがありました。ひょっとしたら細胞には僕らの知らないTaxのようなマルチプレーヤーのタンパク質があって、ウイルスはその仕組みを横取りしているだけではないかと想像しているんですけどね。

ATLの原因がウイルスである以上、その予防の第一はウイルス感染を遮断することです。母乳・性行為・輸血の感染経路のうち、不思議なことに人生の初期で母乳経由の感染を受けた人だけが、数%の発症率で数十年後にATLに罹っていました。長い潜伏期間や一部の人だけが発症する理由は今もよくわかっていないのですが、ウイルス保有が疑われる妊婦さんに人工栄養への転換をすすめるという予防策が浮かび上がります。幸い日本の科学研究費には、さまざまな分野のがん研究者を総合的に支援する枠組みがあり、必要とあらば基礎研究者から臨床医までが速やかに連携できます。産婦人科医、小児科医との協力はもちろんのこと、一般の人の理解も欠かせません。これをいち早く実行したのが長崎大学の研究者でした。地元の医師会や行政といった責任の有る立場の方々と問題意識を共有することができ、母子感染の頻度を十分の一以下に抑えることに成功したのです。研究が基盤になって一つの課題が解決されたことはとても嬉しいですね。

好きなだけではだめ

有機化学から生化学へ、そして分子生物学へと進んだ僕の研究史は、好きで面白いからこそ続けられたことです。今は、好きな研究を続けるのが大学でも難しくなってきています。ただ僕は、研究者の側にも問題があると思っています。好きなことをやるといいながら、実はその時々の流行を追っているだけという場合も多いのではないでしょうか。ヒトのがんウイルスについて言えば、初めはDNAウイルスが注目されて、その後RNAウイルスに移りましたが、今や国内でDNAウイルスを研究するのは一握りになり、彼らが引退すれば終わりでしょう。しかし海外では、成果主義の権化といわれるアメリカでさえ、未だにこれらの研究が途絶えず続いています。そういう中から重要な発見が飛び出してくることがあるのです。

がんウイルス研究の大先輩、花房秀三郎先生からこういう話を聞いたことがあります。ラウス肉腫ウイルスが20世紀初めにアメリカで発見されたのと同時期に、京都大学の藤浪鑑博士がもう一つのニワトリがんウイルスを報告していました。後にフジナミ肉腫ウイルスフジナミ肉腫ウイルス1914年に京都大学の病理学者、藤浪鑑博士が発表した。花房博士はこのウイルスを調べ、ネコのレトロウイルスがもつがん遺伝子と似た配列を発見した。ニワトリとネコが共通にもつ細胞増殖に関わる遺伝子が、それぞれのウイルスに取りこまれた結果である。として知られることになる世界の最先端の発見です。しかし半世紀後に花房先生が研究しようと思ったとき、日本の研究者は誰もウイルスを引き継いでいなかった。ついに地球上からなくなったかと思ったら、なんとチェコスロバキアのがん研究所の地下に保存されていたのだそうです。「日本人は、戦争などいろいろな歴史の変革を経験したために保存できなかったと言い訳するが、チェコはそれとは比べものにならない長い長い蹂躙を受けてきた。それにも関わらず、フジナミウイルスをきちんと守ってきた。ここに科学を支える文化の違いがある。」とずいぶん嘆いておられましたね。これは極端な例ですが、自分たちが学問を守らずして誰が守るのでしょうか。

僕は、研究は趣味と同じであってはならないと思っています。社会の中で果たすべき仕事なのです。好きなことをやりながら、誰かの役に立ちたいと思い、時には自分の栄誉に結びつけたいという気持ちもやはり大事です。自分一人だけで社会に役立つのが難しいと感じたら、そういう時こそ分野を越えた連携が必要です。これは「趣味」ではできないでしょう。

好きなことをやるのは研究者の必要条件だと若い人には話しますが、研究者として経験を積んできた人には「好きなだけではだめですよ」と言うことにしています。その意識を持つことが、結局は好きな研究を続けていくために大事なことなのですから。

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かつて所長を務めた東京大学医科学研究所。ATLウイルスの構造決定を一緒に進めた清木元治さん(左)は昨年から所長になった。

(文責 山岸敦)