本質的なものへの憧憬

私は、いままで自分の研究生活を振り返ったことがほとんどなかった。しかし、最近になって、残された時間の中でこれから何ができるだろうか、と思うにつれ、自分のサイエンスのもつスタイルが客観的に見えるようになってきた。それを表現するのは難しいが、少なくともそのスタイルでこれまで貫いてきたと感じるようになった。

どんな研究者でも、長い研究生活の中にはいくつかの重要な分岐点がある。私の場合もそうだった。その時点ではいろいろな状況をすべて考慮して判断をしてきた、と思っていたが、いま振り返ると、じつは「より本質的なものに近づこうという本性」に導かれて決断をしてきたのではないかと思う。

地質学を学んだ兄の影響で、高校時代からなんとなくアカデミズムに対するあこがれをもっていた。寺田寅彦のエッセイを読んだりすると、地球物理学者である彼の感覚がとてもおもしろい。ちょうど湯川秀樹先生がノーベル賞をとったところで、京都大学の理学部に行けばノーベル賞をとれるかもしれないなどと思ったりした。ただ、自分には生物学が合っているのではないかということをなんとなく感じていたようだ。そのころ、私のような田舎の少年でも知っているぐらいの、とても有名な遺伝学の先生が京都大学農学部にいた。それが、小麦の研究で世界的に知られていた木原均先生だった。木原先生の門下に入りたくて、京都大学の農学部に入った。

学校を休んで受験勉強をしていたころ。裏には「京大へ!京大へ!」と書かれている。

京都大学助教授時代の精悍な面構え。小関治男教授とともに研究室で

来日したラトガース大学のボーゲル教授夫妻と(1981年)

岡田節人生命誌研究館館長(当時京都大学教授)と。京都大学助教授時代

ラトガース大学時代、アメリカ西部に旅行したときのスナップ。グランドキャニオンにて

京都大学での講義風景(黒板にDNAの二重らせん構造を発見したワトソンとクリックの名が見える)

木原先生との出会い

いまから考えると、まことに赤面のいたりだが、教養部時代のある日、アポイントメントもなしに、木原先生の研究室のドアを突然たたいた。秘書が呆気にとられている間に、どんどん中に入り、自己紹介して、「私は遺伝学にたいへん興味をもっているが、率直な感想を申し上げますと、私は遺伝学はもうすることがないんじゃないかと思います」と一席ぶったのだ。当時私は、蚕研究の第一人者で『基礎遺伝学』など有名な教科書を書いていた田中義麿さんの著書を愛読していた。彼の著書はいわばメンデル以後の古典遺伝学を集大成したもので、それを読むかぎり、確かに遺伝学の分野ではこれ以上することがないように私には見えたのだった。

木原先生は机に向いたまま、黙って私の言葉に耳を傾けていたように見えた。ややあって、ふっと顔を上げると、「君、なんていったっけ?志村くんか。そんなことはないよ。遺伝学は終わりじゃないんだ。むしろこれから出発するんだよ」と答えてくれたのだ。

訳のわからないことをほざいた私のような学生に向かって、木原先生のような高名な先生がよくまともに応対してくれたものだと思う。先生はさらにこう付け加えてくれた。「これからの遺伝学は、物質のレベルで遺伝子の正体とか働き方というものを解いていくことになっていくと思う。そういう遺伝学はまだ全然なされていないから、君はその方向に進んでみたらどうかね」

現在では化学物質であるDNAが遺伝子の正体であることは常識になっているが、当時の遺伝子はあくまで概念的な存在で、実体として存在するかどうかも明確ではなかった。日本の生物学者もおおいに惑わされたルイセンコのように、環境によって形質は変わるとして、遺伝子そのものの存在を否定する考え方もあったのだ。その中で木原先生は、遺伝子が物質として現実に存在することを信じて疑わなかった。1950年代前半の時点で、これほどの見通しをたてておられた木原先生の卓見には、いまでも感服させられる。

先生の話を聞いて私は、「あ、そうか、そういう世界があったのか」と、非常に爽やかな、強烈な印象を受けた。結局私は、先生の言葉に従って理学部に転部し、植物学教室の芦田譲治先生の研究室に入った。修士課程を終えると、今度はその芦田先生の紹介でアメリカに留学することになり、遺伝子の働きを酵素レベルで研究していたラトガース大学の遺伝学者ボーゲル先生についた。それから35年が過ぎたが、私はずっとそのときの木原先生が開いてくれた世界の中で生きてきたような気がしている。

正常な野生型の花

がく片がめしべ(心皮)になって、花びらがなくなった変異体

心皮が大きく、多数のめしべをもつ変異体

おしべの特徴を合わせもった突然変異体の花びら。外側二つは正常な花びらとおしべ。内側二つが突然変異体の花びら。本来はおしべにあるはずの花粉袋ができている。

正常な花のめしべの組織切片(顕微鏡写真)

(7)-2の花のがく片の組織切片(顕微鏡写真)

ジャック・モノーを蹴る

そのころ遺伝学の世界は、名著『偶然と必然』で有名になったジャック・モノーが一世を風靡していた。遺伝子の情報をもとにタンパク質が合成されるときには、それを調節する遺伝子の存在が不可欠になる。彼はそれを理論的に予言したオペロン説の提唱によって、のちにノーベル賞をもらっている。まだ、その説のもとになった論文を発表していたころだったが、私はその鋭い洞察力にひかれ、日本でもアメリカ留学時代でもモノーのことばかり言っていた。

ボーゲル先生のもとでは、ウキクサや原生生物の中でアミノ酸の合成にかかわる酵素の研究をしていたが、いつかモノーの研究室に行きたいと思っていた。ボーゲル先生もそんな私の気持ちを察してくれたのか、学位をとるころになって、「お前がいつも尊敬しているモノーの研究室にポジションをとってやったから、行きなさい」と言う。ところが、私は「行かない、嫌です」と言い張り、ジョンズ・ホプキンス大学の助教授になったばかりのネイサンズのところに行かせて欲しい、と言った。ボーゲル先生はあきれて、「彼はまだほんの若造だ。モノーを蹴って彼のところに行きたいなど、頭がおかしくなったのではないか。いったいなぜだ」と言う。私は一言答えた。
「モノーはもう古い」

実際ネイサンズは、せいぜい私と5歳ぐらいしか違わないまだ若手の研究者だった。しかし、私はアメリカで研究を進めるうちに、時代の急速な変化を感じていた。モノーは遺伝子の発現のコントロールについてのモデルを、酵素のでき具合を調べることで考え出した。しかし、これからの遺伝学はDNAやRNAなどの物質を遺伝子そのものとして扱う時代が来るだろう、と私は考えるようになっていた。酵素は遺伝子の働きにかかわる重要な物質だが、遺伝子そのものではない。かつて、木原先生が予言したように、遺伝子そのものが物質として研究される時代が来つつあるのではないか―。その意味で、モノーの手法はすでに古くなっていたのだ。

いま振り返ってみると、そのころ、時代は間違いなく核酸の研究の方向に動いていた。DNAがどのように複製され、そこからどのような過程を経てタンパク質が作られるかなど、遺伝子をめぐる数々の基本的な問題が解明されつつあった。ネイサンズは、まさにその時代の流れに乗っていた人物だった。彼は、RNAファージやSV40ウイルスのDNAを使って、遺伝子の物理地図作りを行ない、その一連の業績で1978年にノーベル賞を受賞している。

ノーベル賞受賞者のネイサンズ博士は、研究だけでなく、人生の師でもあった(日本に帰る直前、ジョンズ・ホプキンス大学の研究室で)。裏には、「To Yoshiro, with affection and respect, Dan, May 1967」とある

RNAの秘密を探る

アメリカから日本に帰り、京都大学で研究を進めてきたが、ネイサンズのところで学んだ核酸を扱う技術がおおいに役立った。私はDNAと並ぶ重要な遺伝物質であるRNAをテーマに研究を進めた。

遺伝子が働く際には、DNAの情報がRNAに写しとられ、RNAの情報が読みとられてタンパク質が作られていく。タンパク質を構成している個々のアミノ酸を運んでくるのがtRNA(トランスファーRNA)である。tRNAは、DNAから転写されるとき、まず一群のクラスターとして作られて、その後不用な部分が切り捨てられて一つの機能をもった分子へと成熟していく(図9参照)。

DNAやRNAが必要な場所で切りとられるのは酵素の働きによる。モノー以来、こうした働きをもつのはタンパク質だけだと考えられていた。しかし、大腸菌のtRNAがどのようにして元のクラスターから切り分けられるのかを調べていくうちに、ハサミの役をしているのはタンパク質ではないことがわかってきた。それは、一分子のタンパク質と一分子のRNAからなる複合体で、酵素活性のあるのはRNAのほうだった。この場合、タンパク質は活性を強める役割をしていたのである。私たちは、この酵素活性をもつRNA分子を作る遺伝子を見つけ、その全構造を決定することができた。研究を成功させた裏には、ある温度を超えるとtRNAの成熟が進まない突然変異体の大腸菌を作ったことが大きい。

いまでは、さまざまなRNA分子が、どのように切りとられ、つなぎかえられ、組み立てられていくかがわかってきている。この過程が、分子レベルで現実にどのような機構で制御されているのかを、私たちはキイロショウジョウバエの性決定メカニズムで明らかにした。こういったRNAに関する一連の研究が評価され、先般、学士院賞をいただくことができた。

クリックして拡大する

トランスファーRNA(tRNA)ができる様子。まず、いくつものtRNA(クローバーの形をしている部分)がつながった長いRNAが作られ、それが酵素によって切断され、不要な部分が捨てらて、最終的な長さになる。この切断する酵素が、タンパク質とRNAの複合体であることを志村博士は明らかにした。

生化学的化石の探求へ向けて

木原先生のところに押しかけて「遺伝学にはすることがない」と言ってしまったときも、「モノーはもう古い」とネイサンズに走ったときも、確たる信念があったわけではない。強いていえば、直感である。より本質的な本性へ近づこうとする内面の動き、と言っていいかもしれぬ。研究のスタイルも、物事を直感で大まかにつかんで、そのあと少しずつ論理的に埋めていくほうだ。細かいことをやるのが嫌いだし、何より勉強が好きではなかった。ただし、高校のときには、田舎の学校では受験勉強ができないと思って、担任の先生に「自分で勉強するから休ませてほしい」という手紙を書いて、実際に3年の2学期から休んだことがあったが―。

劇を見たり詩を読んだりしたときに、感動すると、突然それを全部覚えてしまう変な特技がある。土井晩翠の「星落秋風五丈原」というとても長い詩があるが、学生時代に1回読んですべて覚えてしまった。木下順二のオペラ『夕鶴』の台詞と音楽は、1回観劇しただけでほとんど頭に入ってしまった。こうした能力は、科学的な直感力とどこかでつながっているのだろうか。私にはわからない。

これから遺伝学はどのような方向に進むだろうか。遺伝子は細胞の中で、単独で働くのではなく、一つのネットワークを構成して働くことがわかってきている。愛知県岡崎の基礎生物学研究所で、岡田清孝君(同所助教授)と始めたシロイヌナズナの研究は、こうした遺伝子のネットワーク性に注目した成果である。シロイヌナズナの花や葉ができるときや、根が伸びるときには、いくつかの遺伝子が働いたり、働かなかったりの組み合わせによって、その後の運命が決まってくる。こうした遺伝子のネットワークの解明が、これからどんどん進んでいくことだろう。

私自身は、もし何にも煩わされずに実験ができるようになったら、アメリカ留学時代にやっていた原生生物をもう一度取り上げたいと思っている。この原生生物には、亜鈴状の構造体があり、私の調べで、細胞内小器官のミトコンドリアや葉緑体のような、ある種の共生体であることがわかっている。この構造体は細胞の外では生きられない。細胞に生かされている代わりに、細胞の必要なアミノ酸を製造、供給している。

この原生動物をテーマとした1963年の学位論文をひっくり返してみると、私自身がこんなことを言っている。「進化の研究は化石によって進められてきたが、生物器官の生化学的なメカニズムはそれよりももっと古い時代に誕生している。その名残は現存の生き物の中に存在しており、それは生化学的な化石とでもいえるものではないだろうか」

うまいことを言ったと思う。生命の歴史は化石生物よりはるかに古い。この原生生物は、太古の昔に生まれた生化学的なメカニズムを現在に体現している「進化の化石」なのではないだろうか。そこには、生命の歴史の秘密を解く重要な鍵がある、そう私は直感しているのだ。

ラトガース大学大学院で研究に用いていた原生生物クリシジア・オンコペルティの細胞小器官”バイポーラー・ボディ”の電子顕微鏡写真。この小器官は、”宿主”である原生生物の細胞の中にいて、バクテリアそっくりの分裂のしかたをする。ラトガース大学での博士論文より