剣道少年「猛牛」の夢

神経回路形成のメカニズムを知りたい。これが私の年来の夢である。人間の脳には10の10乗個のニューロンがあり、それぞれがつくるシナプス(接点)は10の14乗個といわれる。しかし、1個のニューロンは、どのようにして無数のニューロンのジャングルの中から標的を探し出すのか。脳だけではない。知覚神経は皮膚に隙間なく張りめぐらされ、運動神経は筋繊維の一本一本を支配する。

体の組織にも、それぞれ特殊に分化した細胞群があり、それが集まって心臓、肝臓などの器官となり、器官が集まって個体ができる。この巧妙複雑な仕事は胎生初期にほとんどできあがる。発生学的研究の難しさもおもしろさもここにある。これは次の言葉に表されるように思う。
素速く
正確に
すべて闇の中で

生まれたのが、第一次世界大戦の終わり。中学に入った年が満州事変、出る年に2・26事件、高校で日中戦争、大学1年に第二次世界大戦、卒業、海軍、そして敗戦。60歳まで東京大学に勤め、大学紛争の4年間は医学部長。その後、筑波大学に7年勤めたうち副学長2期半5年、そして浜松医科大学に学長として4年。管理職13年とはずいぶんご奉公したものである。

さて、60年さかのぼる。桜と菜の花に囲まれた中学に入った。田舎の中学だった。4年のとき初めて受験雑誌を見た。高校便りを見て、いちばんよさそうなのを受けようと思った。こんなに毎日剣道ばかりしていてはだめだ。土用稽古が終わったとき、これを最後にやめさせてほしいと、先生に頼んだ。道場に1時間座らされて説教を食らった。「おまえは学校の名誉と個人のことと、どちらが大事と思うとるか」

その剣道は小学、中学、高校とつづけた。一高では剣道といわず撃剣という。無検証と称して審判なし、他流試合一切なし。竹刀は竹刀と思うな、真剣と思えと。さんざん考えて、そんな境地は喧嘩腰以外になし、と、そのつもりでやったら、上級生が「猛牛」とあだ名した。いまもそれで通っている。大学では肋膜炎で休学、以来剣道から離れた。ところが昭和44年医学部長のうえに東大全体の剣道部長をおしつけられ、定年まで10年務めた。

旧制一高時代。犬吠埼にて(1937年)。

中井博士に細胞培養と顕微鏡映画を指導したポメラート教授。教授は培養細胞を位相差顕微鏡で観察する研究で知られていた(1956年)

神経発生研究の大家ハンバーガー博士とともに。このスナップは、1960年、同博士が昭和天皇に講義するため来日した際、中井博士の研究室で撮影したもの

ときに絵筆を握り、俳句もつくる。学生時代(1943年)信州山田温泉に滞在した際に描いた野辺の地蔵

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NIH(米国国立衛生研究所)のストーン・ハウス滞在時代、フィンランド人の神経学者エランコ博士に贈った俳句。「蛍追いて声なき夜を川に佇」。顕微鏡の下の蛍光標識された細胞を暗室で毎日観察していた同博士の様子を、暗やみで蛍を追いかけるような科学者の境地に見立てたもの(エフランコ博士の追悼号として出版された論文集より)

印象に残る研究二つ

その1 神経組織を分離して神経細胞を培養することに成功し、伸びゆく成長端の動態を顕微鏡映画で解析したこと

成長端(または成長円錐)とは、発生・再生のとき、伸びていく神経の先端のことをいう(図8)。

昭和28(1953)年にさかのぼる。友人から話があって、テキサス大学医学部解剖学教室に行けることになった。解剖学のポメラート教授のところで皮膚の組織培養を、ということであった。生きた細胞が見られるというから、ぜひ行って習いたい。戦後最初の貨客船1万トン。乗客6人、10日間の船旅だった。組織培養の方法とそれで培養した細胞を顕微鏡映画に撮る技術を習う。最初はずっと教授に言われた皮膚の仕事をしていた。つまらなかったが、論文を四つ書いたら教授が喜んで、最後の2ヶ月好きなことをやってもよいと言われた。

憧れの神経をやれることになった。ニワトリの胚の知覚神経節を培養した。当時火傷の治療に使われていたプロテイネースAという酵素をたまたま使ってみた。酵素の溶液に神経節の塊を入れ、加温、ピペットでポコポコやるとなんと塊は見えず、白濁した液のみ。顕微鏡で見ると神経細胞もその他の細胞もバラバラに剥がれて浮いている。神経組織の分離培養の始まりである。これを培養したら、その日のうちに丸い神経細胞から神経繊維が伸びはじめている。一発で成功して何か夢のようであった。

早速、位相差顕微鏡映画に撮る。神経の伸びや細胞の動きはのろい。1分1コマで24時間徹夜で撮っても、1秒16コマで映写すると、わずか90秒。その伝で、のろい動きが動きとしてとらえられる。さてフィルムが現像されて戻ってきた。神経の伸び、細胞内の顆粒の動きが、信じられぬようにフィルムに記録されている。教授をはじめ研究室の連中は驚嘆。教授はもう1年留まれ、と言う。2~3週のうちアトランティック・シティで神経病理学会があり、教授が特別講演をする、その時間を20分やるからその映画を見せて話をせよ、と言う。写真技師やら総出で準備して無事終了した。

さてそれから休日も何もない。私には何もかもが発見だった。数百、数千の神経細胞の塊。従来のやり方だと、神経細胞は塊の中に埋没、そこからは繊維はタワシのように放射状に出るが、どの繊維がどの細胞から出ているのかわからぬ(図6)。それが1個の神経細胞から繊維が出る瞬間から追跡できたのだからすばらしい。神経細胞の先端から触角のような糸状偽足が何本も出て、まるで生き物のように伸縮すること、そして何にでも触れ、触れることで相手を識別するらしいことも確認した(図7)。

その2 脊椎と骨格筋を同時培養してハリソン以来成功しなかった神経―筋接合を得たこと

1個の骨格筋は数万~数十万本の横紋筋繊維からなる。この1本の繊維の中央に必ず1本の運動神経がきており、その末端は吸盤をもつカエルの足のように筋にはりついている。神経―筋接合は、組織培養の創始者であるハリソンも、細胞生物学の大家ワイスでも成功しなかった。そうとも知らず、シナプスをつくるメカニズムを知りたい一心で挑戦した。

とにかく、やれどもやれどもうまくいかない。1950年代の終わりから始めて、結局10年かかった。なかなかうまくいかなくて、ハリソンやワイスらの大家が試みて成功しなかったのと変わらないやり方でやっていてできるはずがないと考えた。それならなぜできないのかを証明してやろうと考えた。

骨格筋をただ培養するだけでは腱ができない。腱のない筋に神経は安住の地を見出せないのではないか。そう考えて骨格筋の器官培養に工夫を加えた。要は引っ張ってやればいいのである。秋葉原で1日1回転のモーターを買ってきて、1分1~2ミクロンで引っ張らせる装置をつくった。これで腱の原基と筋を含む細片を、両側から引っ張らせながら培養したら、うまくいって腱らしいものができた。

ところで10年近くかかったが、どうにか神経―筋接合らしいものができた。一度できてみると、何のことはない、脊髄と骨格筋の細片を併置培養することでもそれなりのものができていたことがわかってきた。結局、はじめのころは、生体にあるのとまったく同じ形態ができるのを期待しすぎていたのだ。

1968年、東京のホテルのエレベーターで神経の発生の大家であるハンバーガー教授に出会った。先生は1960年、天皇に講義するため来日されたとき、東大の研究室に訪ねてくださった。その先生が「いま何をやっている?」。私、「じつはしかじか…形態的にはOKだが、電気生理の実験がまだ不十分」。先生曰く、「そりゃたいへんだ、すぐ発表せよ。僕がよく知っている雑誌(ハリソンが創始)に紹介するから」と。その後すぐ、あのワイスから「君のところで神経―筋接合ができたそうではないか。自分のところの若いのを送るから、それで生理実験をやらせてくれないか」と手書きの手紙がきた。ハンバーガー教授が電話で知らせたらしい。東大は全国を風靡した大学紛争の真っ最中である。研究室のある医学部本館は学生に封鎖されている。実験を続けることはできない。でも論文は先生が出せというからよいのだろう、と思ってとにかくまとめた。

ハンバーガー先生のおかげで論文は2~3ヶ月で次の年(1969年)の1月号にでた(図9)。大学紛争でこちらは研究どころではなかったが、その間に、アメリカでは生理実験も電子顕微鏡的研究も立派に進んでいた。私にとっての唯一の慰めは、アメリカの主だった連中は私の仕事を十分に評価してくれているらしいことだった。

学部長の4年間が終わったとき、NIH(米国国立衛生研究所)からの招待で、ストーン・ハウスという御殿のようなゲストハウスに滞在することになった。そのとき、遺伝暗号の解読でノーベル賞をもらったニーレンバーグ博士が思いがけない歓迎ぶりで、研究のあらゆる便宜をはかってくれた。じつはこのとき、彼は遺伝から大転換して、神経と筋の接合の問題に取り組みはじめていて、私の仕事をずいぶん評価していてくれたのである。

こうして神経―筋接合の成功は意外なほどの反響を呼んだ。生理実験や電子顕微鏡の証明がなくとも、これだけの専門家に十分に評価してもらえたことは、私としては大満足であった。

培養された神経細胞の塊から網の目のように伸びる神経繊維。中井博士は、神経細胞を単離培養し、一つの細胞から伸びていく神経繊維の振る舞いを撮影することに成功した。

(7)-1・2 皮膚の抽出物を塗った流動パラフィンの塊(右上)に向け成長端(中央左下)から伸びていく糸状偽足。

(7)-3 糸状偽足部分のアップ(矢印の部分にかすかに偽足が見える)。

(7)-4 標的の流動パラフィンにもぐり込んだ糸状偽足の先端(矢印)

(8)-1 神経繊維の先端の膨らんだ部分(成長端)の拡大写真。

(8)-2・3 成長端内部のさらに詳細な活動を見るために特定の細胞内小器官に目をつけて染めたもの。赤=ライソソーム、緑=ミトコンドリア(写真=本沢克)

神経―筋接合
横紋をもった骨格筋細胞に伸びて接合している神経の末端(矢印)。(中井博士の論文、Nakai,J.,1969. The Development of Neuromuscular Junctions in Cultures of Chick Embryo Tissues, Jounal of Experimental Zoology, 第170巻、85~106ページより)

いつも一人でやってきた

神経―筋接合に10年、その間いろいろのことをやった。もっともっと成長端一本でやるべきだった、とも思う。しかし、私にはプライオリティーを争う気が薄いというべきか。これは学者として悪いことである。アメリカなどでは、これでは生きていけない。

恩師はクジラ博士として知られた小川鼎三博士である。先生が助教授時代に、組織学の講義を聞き、顕微鏡実習の指導を受けた。強烈な印象を受け、その人柄に強く惹かれて、昭和20年の敗戦後、海軍病院から復員すると迷うことなく先生の門をたたいた。

しかし、研究はいつも一人でやってきたし、教授になっても、教室員に研究テーマを与えたことはなかった。誰をも教授に推薦したことがないのに、みんな自分で偉くなった。

一人で研究しているから、予期していなかったおもしろい事実に遭遇すると、論文がすみ次第、方向転換をする。研究室の誰かと共同していたら、こういうわがままは許されない。助手のころ私など話もできないような京大の小川睦之助先生(我が国実験発生学の開拓者)から学会発表の仕事を褒めていただいて、京都の研究室を訪ねさせていただいたことがあった。古風な、磨き上げたような研究室。出窓にきれいな2~3個のシャーレ、オタマジャクシが数匹泳いでいる。当時、名誉教授になっておられた先生の話は、いまでも強い印象として残っている。「現役のころは学会ごとに何か発表しなければと、締め切りに追われる。研究生にテーマを与えると、その方向でしか研究を進めない。いま、暇になって顕微鏡で眺めていると、予期しなかったおもしろい事実に出会う。そのほうがずっとすばらしいので、そのままそちらに進む。研究とはこういうときに本物に出会う」。